王血を王体へ問え
螺旋階段は、降りても降りても景色が変わらなかった。
右に壁、左に底の見えない穴、足元に脈打つ赤い文字。靴底が石を叩くたび、乾いた足音が何重にも反響し、俺たちの後ろを誰かがついてくるように聞こえる。
三十段目で飽き、五十段目で数えるのをやめ、百段目あたりで自分の判断を疑い始めた。勇敢な決断というものは、たいてい階段を降りる前にしか格好がつかない。降り始めた後に残るのは、足の痛みと引き返すのも面倒だという惰性だけだ。
「疲れたのら」
俺の肩に乗ったまま、ピピが訴えた。
「お前は一段も歩いてないだろ」
「応援で疲れたのら」
「一度も応援されてない」
「がんばるのら」
「今まとめて済ませたな」
ピピは悪びれもせず、俺の襟元へ腰を下ろし直した。文字でできた小さな足が首筋をくすぐる。
ピピからは舐めたばかりの青インクと、少し焦げた紙の匂いがした。前を行くリゼからは革帯の油、金属、獣化した毛に残る汗の匂いがする。
生きた者の匂いだ。
それが下から吹き上がる生ぬるい風に混じり、暗闇へ吸われていった。風には湿った石と、長く閉ざされた部屋特有の、古い血にも似た鉄臭さがあった。
「止まれ」
リゼが腕を上げた。
最後の石段の先に、円形の広間があった。
壁も天井も黒い。灯りはないのに、床を巡る古代語だけが赤く明滅し、広間の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。中央には巨大な石棺が一つ。王の墓にしては飾りがなく、蓋すらなかった。代わりに、人の形をした窪みが石棺の内側へ深く刻まれている。
墓というより、巨大な鋳型だった。
そこに男が横たわっていた。
干からびた遺体ではない。
白い皮膚、閉じた瞼、胸まで伸びた銀髪。古い肖像画で見た建国王ヴェルバと同じ顔だった。千年眠っていたにしては血色がよすぎる。俺より健康そうなのが腹立たしい。こちらは階段を降りただけで膝が笑っているというのに、死体のほうが肌につやがある。
ただし、胸は動いていなかった。
石棺から伸びる無数の銀線が、男の腕、喉、心臓へ入り込んでいる。細いものは髪の毛ほど、太いものは指ほどもあり、その一本一本に古代語が流れていた。銀線ではない。文字を束ね、線の形に固めた術式だ。
『国土を王の肉とする』
『民の名を王の血とする』
『王の欠落を、国より補う』
読めば読むほど、背筋が冷えた。
国を人に見立てているのではない。人と国を本当に同じものとして扱っている。畑が裂ければ皮膚が裂け、民が失われれば血が減る。逆もまた起こりうる。
「これが建国王か」
リゼが剣を向けたまま問う。切っ先は揺れていないが、獣の耳だけが警戒するように伏せられていた。
「正確には、建国王を起こすための入れ物だ」
「違いがあるのか?」
「椅子と、座った人間くらいには」
「ならば、これはどちらだ」
「椅子のほうだ。しかも国民を薪にして暖まる、趣味の悪い椅子だな」
石棺の縁には、もっと小さな文字が刻まれていた。爪で引っかいたように細く、赤い光に目を凝らしてようやく読める。
『王体の保存に欠落あり』
『第二校正者を用い、欠落を補完する』
リゼの耳がぴくりと動く。
「父は、そのためにここへ呼ばれたのか」
「たぶん十五年前、王体のどこかが壊れた。墓は王血を引くフォグレス家から、補修材を選んだ」
自分で口にしておきながら、補修材という言葉の軽さに吐き気がした。壊れた蝶番の代わりを探すように、一人の人間を数えたのだ。
「父を、王の部品にしようとした」
「ああ」
リゼの声に怒りはなかった。
怒りより冷たいものが、剣を握る指へ集まっていた。革巻きの柄が、ぎしりと鳴る。
「斬るか?」
「待て。斬った結果、王都のどこが一緒に裂けるかわからない」
なにしろ『国土を王の肉とする』だ。建国術式は比喩を知らない。詩人なら許される大げさな表現も、術式が書けば災害になる。書いた本人は壮大な気分だったのだろうが、後始末をする側には迷惑以外の何物でもない。
俺は流れる文字を追いながら、石棺へ近づいた。
一歩。
もう一歩。
その瞬間、男の胸が持ち上がった。
ごぼり、と喉の奥で水が鳴る。
銀線が一斉に赤く染まり、広間の床へ文字が走った。眠っていた無数の蛇が目を覚ましたように、赤い文が俺たちの靴の周囲を埋めていく。
『起動命令を受領』
『王体、再構成』
『不足する血統を確認』
床の文字がリゼの足元へ集まり、獲物を見つけた猟犬のように止まった。
『最寄りの王血を補材に指定』
「やっぱりそう来るか!」
黒い床から銀線が跳ね上がる。
リゼは剣を横薙ぎにした。鋭い金属音とともに三本が弾け、二本が壁へ深々と刺さる。だが切断面から文字があふれ、新しい銀線となって彼女の足首へ絡みついた。
「増えたぞ!」
「斬れば文が分かれる! 傷つけるな!」
「先に言え!」
「俺も今読んだ!」
実に頼もしい校正者である。注意書きは事故が起きてから見つける。俺を雇う者が少ない理由が、また一つ明らかになった。
銀線がリゼを石棺へ引いた。
彼女の爪が伸び、腕に銀毛が広がる。獣化の呪いが抵抗に反応したのだ。喉の奥から低い唸りが漏れる。爪を床へ立てて踏みとどまるが、石に白い傷が刻まれ、身体は床石ごとじりじり引きずられていく。
俺は飛びつこうとした。
「来るな!」
リゼが叫ぶ。
遅かった。
別の銀線が俺の胴へ巻きつき、肺から情けない声ごと空気を絞り出した。そのまま軽々と持ち上げられる。魔力ゼロの人間は術式の補材には向かないらしく、俺を掴んだ線には冷淡に『異物』と表示されている。
十九年生きてきて、国からの正式な評価が異物だった。少しだけ納得できるのが悲しい。
「ノエル、ぶらぶらしてるのら!」
「好きで干されてるように見えるか!」
ピピは俺の襟にしがみつき、紙とインクの身体を風にはためかせていた。
石棺の男が、二度目の息を吸った。
閉じた瞼の下で、眼球が動く。
『第二校正者による補完を開始』
リゼを縛る銀線に、古代語が浮かび上がった。
『王血を王体へ移せ』
触れられる。
だが、俺と文字の間には腕一本ぶんの距離がある。銀線に吊られた身体を振っても、指先が空を掻くばかりだ。腹に食い込む線が動くたび、胃の中まで締め上げられる。
「リゼ! 俺を蹴れ!」
「どこをだ!」
「できれば死なないところ!」
「注文が曖昧すぎる!」
リゼが床から爪を抜いた。
抵抗をやめた彼女の身体が、一気に石棺へ引かれる。その途中で身をひねり、俺の腰を蹴った。
世界が横向きに飛んだ。
肋骨が三本ほど抗議したが、銀線に刻まれた文字が目の前へ来る。インクの匂い。赤い文字の熱。あと一瞬遅れれば、リゼの身体が王の欠落へ流し込まれる。
俺はピピの身体から青いインクを指先へ移し、その指を伸ばした。
『移せ』を削ることはできない。
命令そのものを消せば、術式は欠落を別の文で補う。消すのでは足りない。対象も変えられない。ならば、行為を変える。
俺にできるのは、一語だけだ。
その一語を、正しい場所へ置く。
俺は書き換えた。
『王血を王体へ問え』
銀線の動きが止まった。
張り詰めていた力が突然消え、俺たちは揃って床へ落ちた。俺は肩から、リゼは両足で。石の硬さは平等なのに、人間としての性能差が露骨である。
『構文照合』
『補完対象へ意思を照会』
術式が低く震えた。千年続いた命令の中へ、初めて見つけた言葉を恐る恐る差し込んでいるようだった。
リゼの前に、青い文字が浮かぶ。
『汝の血肉、記憶、名を王へ譲渡するか』
短い問いだった。
十五年前、彼女の父には与えられなかった問い。
王墓は血統を調べ、身体を測り、使い道を決めた。だが本人に一度も聞かなかった。国を守るためという言葉さえ掲げれば、誰か一人の返事など不要だと思ったのだろう。
けれど、不要にされた一言のために、人は十五年も帰れなくなる。
リゼは首から銀の指輪を取り出した。
潰れた狼紋を親指でなぞる。父が残した傷と決意を確かめるように。それから石棺の男をまっすぐ見た。
「断る」
迷いのない声が、黒い広間を貫いた。
青い文字が激しく明滅する。
『補完を拒否』
『王体の起動条件を満たさない』
銀線が一本ずつ男の身体から抜けた。抜けるたび、乾いた音が広間へ落ちる。赤い光が消え、白い皮膚に千年分の皺が走っていく。頬が落ち、銀髪が色を失い、指先が枯れ枝のように縮んだ。
男の瞼が開いた。
濁りのない青い目だった。
その目がリゼを見て、次に俺を見る。
「校正……された、か」
乾いた声が石棺の底から漏れた。
俺は身構えた。リゼも剣を上げる。
「お前がヴェルバか」
「その名で、国を縛った」
男の唇がひび割れ、血も出ずに崩れた。
「血を寄越せと言われたら、人は断る。そんな簡単なことも、千年前の俺は文に入れなかったらしい」
「王は忙しいからな。主語と民意を省く」
「耳の痛い校正だ」
男はかすかに笑い、ゆっくり息を吐いた。
銀線が抜けるたび、身体は古びていく。それでも苦しむ様子はなかった。むしろ、長すぎる命令からようやく解放されたように見えた。
「十五年前の男は?」
リゼが問う。剣を握る手より、その声のほうが震えていた。
「ここへ来た。拒む権利を持たぬまま、それでも拒んだ。己の指輪で時を止めた」
「父は、どこにいる」
「王にはならなかった」
建国王の目が、石棺の下を向いた。
「だから、人のまま下へ落ちた」
広間が揺れた。
石棺の底に亀裂が入り、男の身体が灰となって沈む。乾いた灰は風にも舞わず、底へ吸い込まれていった。灰の下から現れたのは墓底ではない。さらに深く続く、銀色の縦穴だった。
その内壁を、一人の男が素手で登っていた。
指は擦り切れ、古びた外套は裂け、顔には十五年分の髭が伸びている。それでも胸元には、指輪の抜けた跡だけが白く残っていた。
男は縁へ手をかけた。
荒い息を一つ吐き、十五年という時間など、少し長い留守だったとでもいうようにリゼを見上げる。
「ずいぶん大きくなったな」
リゼの手から、剣が落ちた。
(第57話へ続く)




