十五年越しの校正
死んだ覚えはない。
だが王墓というものは、本人の記憶より帳簿を信用するらしい。
黒い文字の手が両足首を掴み、割れた床の中へ俺を引きずり込んだ。石の縁が脛を削り、膝まで沈んだところで、下から湿った冷気が吹き上がる。古い土と錆びた金属、それに長く閉ざされていた石室の臭いが鼻を刺した。
穴の底には、開いた石棺が待っていた。
ご丁寧に俺一人ぶんの空きを用意して、蓋まで脇に立てかけてある。寝台にしては硬く、棺にしては歓迎が熱烈すぎた。
「ずいぶん準備がいいな!」
「感心している場合か!」
リゼの剣が風を裂いて振り下ろされる。
銀の刃は黒い手首を捉えたが、硬い音とともに弾かれた。火花だけが散り、刃を受けたはずの腕には傷一つない。
文字は石でも肉でもない。意味を持った命令だ。腕の形を斬ったところで、『掴む』が残っている限り、何度でも指を生やす。
実に嫌な相手である。
俺も書類仕事をしていた頃、誤字を直すたび別の頁から同じ誤字が湧いたものだ。あれに腕が生え、人を墓穴へ放り込む権限まで与えれば、だいたいこいつになる。
「ノエル、文字はどこだ!」
「今、俺の脚を食べてる!」
「もっと役に立つ説明をしろ!」
黒い帯が脛を這い上がる。ぬめりはないのに、皮膚の上を冷たい虫の群れが進むような感触がした。帯を形作る一字一字が明滅し、そのたび足先の感覚が薄れていく。
俺は歯を食いしばり、触れている文字列を読んだ。
『登録名に対応する生体を照合』
『不一致の場合、死亡と判定』
『死亡者を最寄りの空棺へ収納』
簡潔で、無駄がなく、反論欄もない。人を埋める文章としては満点だ。埋められる側の評価は聞かない仕組みなのだろう。
俺の名は王名保管庫に登録されたままだ。使用者こそ俺自身へ変えたが、名そのものは返されていない。
つまり王墓にとって、ノエル・アルクムという名は存在する。だが、その名に結びついた身体がない。
目の前に本人がいても、帳簿と合わなければ死者。
「役所の完成形みたいな墓だな!」
「どういう意味だ!」
「正しい書類がなければ人間を埋める!」
「最低だな!」
「だから完成形なんだ!」
腰まで沈んだ。
石棺の底が近づいてくる。暗がりの中、灰色の内壁に刻まれた細い溝まで見えた。身体を正しい位置へ収めるための印らしい。余計な親切である。
リゼが俺の両腕を掴み、全身を後ろへ傾ける。甲冑の踵が石床を削り、耳障りな音が通路へ響いた。獣化した指が俺の上着へ食い込み、布が悲鳴を上げる。彼女の息は荒く、濡れた獣毛と革帯、汗の混じった臭いが冷えた空気の中でもはっきり分かった。
「離すなよ!」
「誰に言っている!」
「お前だ! 俺は俺を信用してない!」
「そこは少し信用しろ!」
もっともな意見だったが、十九年付き合ってきた実績からすると難しい。危機に陥った回数だけなら、俺は俺の最大の敵として十分な経歴を積んでいる。
ピピが黒い手の上を駆け回った。小さな足が文字を踏むたび、青白い光の粒が散る。文字でできた身体は闇の中で明滅し、今にも腕の文章へ混ざってしまいそうだった。
「こいつ、ノエルを読めてないのら!」
「ああ。名前と身体の組が外されてる」
「なら、身体を確かめるのをやめさせるのら!」
簡単に言う。
だが、間違ってはいない。
名を返す処置には時間がかかる。王名保管庫へ戻る道も閉じた。恒久修正の材料もない。そもそも下半身を棺に突っ込まれた姿で、落ち着いて大仕事をするのは難しい。俺には威厳がないが、威厳以前の問題である。
俺にできるのは、露出している術式を読み、一語だけ書き換えること。
魔力はない。炎も雷も出せない。こんなとき、指先から都合よく光を放てる者なら話は早いのだろう。俺の指から出るのは冷や汗くらいだ。
だから、読んで、選ぶ。
なら、照合するものを変える。
「ピピ、インク!」
「さっき舐めたぶんなら、まだあるのら!」
「出せ!」
「言い方が乱暴なのら!」
ピピが頬を膨らませ、俺の指先へ青いインクを吐き出した。冷たく粘る雫が爪の間へ入り込む。
食事中の方には申し訳ない光景だが、俺はいま埋葬中なので勘弁してほしい。礼儀を整えるなら、まず棺から出してもらいたい。
黒い手の甲を流れる文字へ指を伸ばす。だが、あと少し届かない。爪先まで伸ばしても空を掻くだけだ。引きずる力が強まり、リゼの籠手が床へぶつかった。金属が鳴り、彼女の腕がわずかに沈む。
「右へ!」
俺が叫ぶと、リゼは理由も聞かず、俺の身体を右へ振った。
肩が床に激突する。骨の内側まで響く鈍い痛みに、視界が白く弾けた。
「痛い!」
「注文が多い!」
「助かった!」
伸ばした指が文字へ触れた。
冷たい。だが冷たさの奥に、命令が動く微かな脈を感じる。失敗すれば次の一語を書く前に棺の底だ。成功しても肩の痛みは消えない。世の中はよくできている。
『生体』
その一語を――
『筆跡』
へ書き換える。
青いインクが黒い文字へ染み込み、古い線を押し退けた。
文字の手が震えた。
『登録名に対応する筆跡を照合』
壁一面の記録が高速でめくれ始めた。石壁を埋める文字が奔流となり、乾いた紙を何千枚も同時に繰るような音が響く。
鐘銘の修正。
王名保管庫の返却命令。
下部校正室の停止命令。
俺が触れ、書き換えた文字が、青白い残像となって次々に浮かぶ。どれも線の終わりがわずかに右へ跳ねていた。祖父から何度も直せと言われ、最後まで直らなかった癖だ。
背後に立たれ、手首を押さえられ、紙を何枚も無駄にした。それでも直らず、最後には祖父も深いため息をついた。あの頃の俺は、ため息の意味を半分も理解していなかった。
こんなところで役に立つとは思わなかった。
悪筆も長く育てれば身分証になるらしい。祖父が聞けば褒める前に、まず字を直せと言うだろうが。
『筆跡――一致』
『第一校正者ノエル・アルクム』
『生存を確認』
黒い指が一本ずつほどけた。
締めつけが消えた瞬間、俺の身体が穴から抜ける。勢い余ったリゼと二人で床を転がり、鎧と石が派手な音を立てた。上になったのは俺だったが、勝った気はまるでしない。下には甲冑、横には穴、胸元には怒った騎士である。
「いつまで乗っている」
「生存を味わってる」
「降りて味わえ」
首根っこを掴まれ、荷物より少し丁寧な扱いで床へ置かれた。
ピピが俺の鼻先へ飛びつく。インクと光の匂いが微かにした。
「ノエルなのら!」
「今さら確認するな」
「名前がなくても、字がノエルだったのら!」
その言葉に、少しだけ返事が遅れた。
名はまだ保管庫の鎖につながれている。祖父が登録し、誰かが用途を書き換え、国が俺を代替の筆にしようとした。俺の名なのに、俺より大きな仕組みの持ち物として扱われている。
だが、俺がこれまで書いたものまでは奪えない。震えた線も、間違えて引き直した跡も、直らなかった跳ねも、全部俺が残したものだ。
「そうだな」
俺はピピを手のひらへ乗せた。
「俺の字は、残念ながら俺にしか書けない」
「そんなに下手なのか?」
リゼが真顔で訊いた。
「今はもう少し優しい言葉が必要な場面だと思う」
「生きているなら平気だろう」
「生存確認が雑だな」
書き換えた『筆跡』が薄れ始める。青い線の縁から黒が滲み出し、元の命令が傷口を塞ぐように戻ってくる。
俺たちは急いで穴から離れた。元の『生体』が戻ると、黒い手は床の割れ目へ沈み、次の命令を待つように動きを止めた。指先だけが最後までこちらを向いていたのが、妙に未練がましい。
そのとき、壁の入退室記録に新しい文字が浮かんだ。
『誤埋葬を一件訂正』
「誤」で済ませるあたり、反省は期待できそうにない。
続いて、アルノー・フォグレスの記録が開く。
リゼの呼吸が止まった。
獣の耳が伏せられ、鎧の隙間から覗く肩が固まる。俺は声をかけなかった。慰めの言葉で埋めるには、十五年は長すぎる。
文字は父親の最期を、感情のない短い文で並べた。
『第二校正者、照合不一致』
『埋葬処理を開始』
『対象、処理機構へ抵抗』
『対象、遅延歯車へ異物を挿入』
壁の一部が重い音を立てて開いた。積もった埃が崩れ、青錆の匂いが流れ出す。
中には大きな青銅の歯車があり、その歯と歯の間に、潰れた銀の塊が挟まっていた。歯車は動こうとするたび、ごく小さく震えていた。十五年間ずっと、次の一刻を刻もうとしていたのだ。
リゼが手を差し入れ、それを引き抜く。
半分ほど削られていたが、表面にはフォグレス家の狼紋が残っていた。指輪だ。十五年前、彼女の父が身につけていたものなのだろう。
『埋葬処理、遅延』
『遅延予定時間、十五年』
父親は術式を読めなかった。
一語を書き換えることもできなかった。
だから歯車へ指輪を噛ませた。
自分を掴んだ王墓を止めるためではない。その後に来る者が同じように埋められないよう、処理そのものを十五年遅らせたのだ。
俺たちが通ってきた葬送室の石箱が、長く空のままだった理由をようやく理解した。誰にも知られず、褒められもせず、たった一つの指輪が墓の命令を食い止め続けていた。
「父は、十五年も持たせたのか」
「ああ」
「読めなかったのに」
「読めなかったから、自分にできる方法を選んだ」
リゼは潰れた指輪を握った。
獣化した爪なら、銀など簡単に折れる。それでも指輪は壊れなかった。彼女が力を入れなかったからだ。握る手は震えていたが、爪の先だけは銀を傷つけぬよう、わずかに浮いていた。
「父は負けたのではなかったのだな」
「俺たちがここに立ってる」
俺は壁の記録を指した。
「十五年かけて、今ようやく勝った」
リゼは何も言わず、指輪を首から下げた。鎧の内側へ収める手つきは、剣を鞘へ戻すときより静かだった。
それで十分だった。
直後、青銅の歯車が動いた。
指輪を抜いた隙間へ歯が落ち、腹の底へ響く轟音とともに、十五年ぶんの遅れを取り戻すように回転を始める。
通路全体が大きく沈んだ。
俺は壁へ手をつき、リゼは反射的に俺の襟を掴んだ。助け方が相変わらず首に優しくない。石の継ぎ目から埃が噴き出し、頭上の暗闇へ吸い込まれていく。
壁の記録が一斉に消え、代わりに王墓最下層の断面図が浮かぶ。俺たちのいる場所より、さらに下。
国の根へ向かって伸びる一本の縦穴が赤く染まっていた。
父親が止めていたのは、埋葬処理だけではない。
同じ歯車が、最下層への起動命令まで遅らせていたのだ。
十五年の猶予は、いま終わった。
足元が割れ、石同士が擦れ合う低い音とともに、下へ続く螺旋階段が現れる。冷気とは違う、生ぬるい風が底から吹き上がった。長く止まっていた空気が、こちらの臭いを確かめるように頬を撫でる。
底から響いてきたのは機械音ではなかった。
巨大な何かが、初めて息を吸う音だった。
ピピが俺の肩へしがみつく。リゼが一歩前へ出て、剣を抜いた。銀の切っ先が赤い光を受け、細く燃える。
「止めるか?」
「いや」
止まっている命令は読めない。隠された術式は触れない。
ならば起こして、露出させる。
怖くないと言えば嘘になる。俺には剣も、魔法も、墓の底で目覚める何かを押し返す腕力もない。あるのは悪筆と、余計な一語を見つける性分だけだ。
だが、それでここまで来た。
俺は生きている証拠を残した指で、最下層へ続く最初の石段に触れた。石はかすかに脈打ち、指先の青いインクを暗がりへ誘うようだった。
「建国王を起こす。起きたところを、俺が校正する」
(第56話へ続く)




