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死者の退室

 死んだ人間が退室していない。


 王宮なら珍しくない話かもしれない。権力者というものは、墓に入ってからも肖像画や法律や借金の形で居座る。だが古代術式がそれをやると、比喩では済まない。


 湿った地下の空気が喉に張りついていた。十二脚の椅子が囲む部屋には土の匂いと、焦げた石の苦い臭いがこもっている。誰も座っていないはずなのに、空席の一つだけがこちらを見ているようだった。


「現在位置は王墓最下層、とある」


 俺が読み上げると、リゼの指が腕から離れた。


「遺体は王都へ運ばれていない」


「では、ここに残っているのは身体じゃない」


「名か」


「ああ。役目ごと縛られた記録だ」


 口にしてから、自分の声がずいぶん冷たく聞こえた。


 死者を記録と呼ぶのは写本係の悪い癖だ。紙に残った一行と、人が生きた年月を同じ棚へ並べてしまう。俺は本を相手にする仕事が長すぎて、人への礼儀を本から習う羽目になっていた。


「すまない」


「謝るな。父は死んだ」


 リゼは石板を見下ろしたまま言った。


「そこを曖昧にされるほうが嫌だ」


 強い言葉だった。強いから、傷ついていないわけではない。鎧は刃を通さないが、悲しみまで弾く便利な道具ではないらしい。


 彼女の右手は固く握られていた。爪が掌の傷へ食い込んでいる。止めたほうがいいのだろうが、俺の手を重ねるには、この部屋はあまりに死者の気配が濃かった。


 石板の文字がまた動いた。


『前任者の残留を確認』


『第二校正者席への接続を再開』


「再開するな」


 俺の抗議は、国にとって羽虫の羽音ほどの価値もなかった。


 十二脚目の椅子から黒い文字列が噴き出した。床を這い、石板を囲み、焼け残った名へ食い込んでいく。文字が石を擦る音は、無数の羽ペンが乾いた紙を引っかく音に似ていた。写本室なら全員まとめて叱りつけるところだが、ここでは叱るべき相手が千年前に死んでいる。


 ピピが盛大にくしゃみをした。


「へくちっ、へくちっ! 腐った命令なのら!」


「同感だ。しかも千年ものだ」


「熟成してるのら?」


「腐敗と熟成を間違えると腹を壊す」


「国のおなかはもう壊れてるのら!」


 反論の余地がなかった。


 石板の上から人の形が立ち上がった。


 最初は輪郭だけだった。肩、腕、長い外套。やがて古代文字が鎧の継ぎ目を作り、焦げた線が顔を形作る。


 背丈はリゼより少し高い。頬は痩せ、鼻筋はまっすぐで、右の眉に古い傷がある。顔を構成する一字一字は命令文の断片だった。忠誠、警護、着席、完了。人ひとりの顔を作るには、あまりに人間味のない言葉ばかりだ。


 リゼが息を呑んだ。


「父上」


 その二文字だけ、十五年前へ戻った子供の声に聞こえた。


 文字の人影は答えなかった。


 代わりに腰の剣を抜いた。


 刃まで文字でできていた。斬られれば血より先に名前を持っていかれそうな、ひどく王宮らしい武器だ。


 リゼが俺の前へ出る。革と鉄、それに彼女自身の汗の匂いが鼻をかすめた。いつもなら安心する背中が、今はわずかに強張っている。


「下がれ」


「君は手を怪我している」


「もう片方がある」


「騎士は腕の数え方まで乱暴だな」


 人影が踏み込んだ。


 速い。


 リゼは左手だけで剣を抜き、斬撃を受けた。金属ではなく、硬い紙を束ごと引き裂くような音が響く。衝撃で彼女の靴が床を滑り、石に二本の跡を刻んだ。


 俺の頬を黒い文字の欠片がかすめる。触れた場所が冷え、名前の一画だけを削られたような気味の悪さが残った。


 人影の胸に文字が走る。


『空席を守護する』


『適格者を着席させる』


『命令完了まで残留する』


「父じゃない」


 リゼが剣を押し返した。


「これは父の戦い方を使っているだけだ」


 声に怒りが混じっていた。


 死者の姿を借り、遺された娘へ剣を向けさせる。仕組みに悪意がなくても、作った者にはたっぷりあったらしい。人の尊厳を部品として扱う技術だけは、どの時代も妙に完成度が高い。


「読めた!」


 俺は叫んだ。


「胸の三行目が核だ。あれが石板の残留記録と繋がっている!」


「何秒必要だ」


「十秒」


「長い」


「では九秒半」


「努力の方向が小さい!」


 リゼの首筋から銀毛が広がった。


 獣化の呪いが左腕を覆い、指先が爪へ変わる。骨が軋む鈍い音がした。彼女は剣を捨て、その手で文字の刃を掴んだ。


 焼けた毛の臭いが立つ。


 掌から血が落ちた。それでもリゼは離さない。銀毛の間を伝った赤が爪の先から床へ落ち、やけに大きな音を立てた。


「行け、ノエル!」


 命を預ける、という言葉は美しい。


 実際に預けられる側は、たいてい格好悪く走る。俺も例外ではなく、床の段差につまずき、石板へほとんど這うように飛びついた。肘を打ち、舌を噛んだ。英雄譚の書き手が省く部分には、だいたい正当な理由がある。


 人影がこちらを向く。


 顔に表情はない。父親の姿をしているのに、娘を見ても何も変わらない。


 その事実が一番残酷だった。


「見るな!」


 リゼが人影を引き戻す。


「そこに父はいない!」


 俺は石板へ手を伸ばした。


 だが文字が逃げる。


『命令完了まで残留する』


 その一行は石板と人影の胸を往復していた。巡回中の術式だ。触れても、数秒で元へ戻る。


 しかも欠落部そのものが焼かれている。恒久的に直すには、落ち着いて補修する時間が要る。今の俺たちにあるのは、片手で怪物を押さえる女騎士と、床を這っている元写本係だけだった。


 人材配置としては末期である。


「ピピ、文字が石板へ戻る瞬間を教えてくれ!」


「今なのら! 違うのら! また今なのら!」


「どれだ!」


「文字は忙しいのら!」


 役に立っているのか、元気なだけなのか判断が難しい。


 俺は目を閉じた。


 視界を捨てると、剣と爪の軋む音も、リゼの荒い息も、急に近くなる。怖さまで鮮明になった。目を閉じれば恐怖も見えなくなる、などと言った者は、たぶん安全な寝台で試したのだろう。


 見るのをやめ、指先へ伝わる刻みだけを追う。巡る文字が石板へ沈むたび、焦げた溝の奥で小さく震える。


 残留。


 命令が終わるまで、死者を役目に留め置く言葉。


 削除はできない。空白にもできない。なら、行き先を変える。


 残ることの反対は、消えることではない。ここは会議のための部屋で、席に繋ぐ仕組みだ。ならば、この術式が理解できる終わり方は一つしかない。


「リゼ!」


「なんだ!」


「君の父上を退室させる!」


 一瞬の沈黙があった。


 剣を掴む銀の爪に、さらに力が入る。


「頼む」


 それだけだった。


 文字が戻る。


 俺はインク壺へ指を突っ込み、石板の溝へ押しつけた。冷えたインクが爪の間へ入り込む。震えるなと命じても、俺の指は国より物分かりが悪かった。


『残留する』


 その一語を――


『退室する』


 へ書き換える。


 魔力はない。


 だから国を従わせる力も、死者を呼び戻す奇跡もない。ただ、書かれていた命令の意味を正し、間違った動詞を別の動詞へ直す。


 それが俺にできる全部だった。


 石板が激しく震えた。


 人影の剣が砕ける。


 古代文字の鎧が一枚ずつ剥がれ、紙片のように舞った。黒い文字は床へ落ちる前に淡い光へ変わり、部屋の冷気まで少しずつほどいていく。


 リゼは倒れかけた人影を反射的に支えようと腕を伸ばし――途中で止めた。


 触れれば崩れると分かったのだろう。


 伸ばした指が宙で震えた。剣を受けたときにも震えなかった手だった。


 人影は娘の前に立ったまま、右手を胸へ当てた。


 騎士が任務を終えるときの礼だった。


「父はいつも左手だった」


 リゼが呟く。


「右肩を昔、壊していたからな。だから、これは父ではない」


「ああ」


「だが、その礼だけは合っている」


 人影は何も言わなかった。


 言わないまま頭を下げ、文字へほどけた。


 最後に残ったのは、アルノー・フォグレスという名だった。


 名は一度だけ淡く光り、石板から剥がれる。鎖も、命令もついていない。ひとつの名前として宙を漂い、やがて消えた。


『退室処理――完了』


 その表示を、俺は声に出して読んだ。


 読み終えた声は、広い部屋に一度だけ反響した。今度こそ十二脚目の椅子は空だった。空席がただの空席であることが、こんなにも静かなものだとは知らなかった。


 リゼは返事をしなかった。


 銀毛に覆われた横顔を俯け、傷ついた右手を左手で包んでいる。泣いてはいなかった。泣かないことが強さだとも、俺は思わない。


 だから黙って隣に座った。


 人を慰める言葉は、古代語より難しい。意味が分かっても、正しく届くとは限らない。下手に一語を書き換えれば、悲しみまで別の何かにしてしまいそうだった。


 しばらくして、リゼが肩を寄せてきた。鎧は冷たかったが、その奥の体温は分かった。


「子供の頃、父は任務から帰るたび、私の頭を撫でた」


「うん」


「手が石みたいに硬くて、痛かった」


「騎士の愛情表現は改善の余地があるな」


「今なら、もう一度くらい我慢してやれた」


 俺は何も直そうとしなかった。


 直せないものまで直せるふりをするのは、教会だけで十分だ。


 ピピがリゼの膝へ乗り、小さな文字の身体を丸めた。


「ここにいていいのら」


「ああ」


 リゼは指一本でピピの頭を撫でた。


「ありがとう」


「お礼はインクがいいのら」


「感動を長持ちさせる気はないのか」


「おなかは待たないのら」


 リゼが小さく笑った。


 それで十分だった。


 その直後、十二脚すべての椅子が一斉に床へ沈んだ。


 余韻というものを古代術式は理解しないらしい。


 中央の石板が割れ、下から冷たい風が吹き上がる。土と古い金属、それに閉じ込められていた時間まで混ぜたような臭いだった。王墓へ続く縦穴が口を開け、足元の円盤が下降を始めた。


『前任者退室に伴い、王墓最下層を封鎖する』


『封鎖まで、三十秒』


 リゼが立ち上がり、剣を拾った。


「行くのか」


「父を十五年も縛った者が、下に記録を残している」


「同意見だ。だが先に言っておく。俺は高い所と暗い所と墓が嫌いだ」


「ほかに得意な場所はあるのか」


「机の下」


 円盤が縦穴の底へ沈んでいく。


 俺は閉じ始めた石床へ背を向け、リゼとともに王墓最下層への円盤へ飛び乗った。


(第54話へ続く)

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