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第二校正者

 椅子の口が、リゼの腰へ噛みついた。


 石と石がぶつかる、歯に響く音がした。


 石の肘掛けが左右から閉じ、銀毛に覆われた腕を固定する。背もたれから伸びた黒い文字が首筋へ回り、彼女の名を探すように皮膚の上を這った。


 さっきまで椅子だったものが、いまはどう見ても捕食者だ。座る者を休ませる家具に牙を生やした人間は、よほど労働者に恨みがあったらしい。


「リゼ!」


「近づくな!」


 怒鳴った声の半分は獣だった。


 低い唸りが校正室の壁を震わせる。耳の奥まで押されるような声だったが、その中にはまだ彼女自身の響きが残っていた。それが消える前に、どうにかしなければならない。


 彼女の爪が肘掛けを削る。石片が飛び、血と焦げた毛の臭いが校正室に広がった。椅子を壊せる力はあるはずなのに、リゼの腕は途中で止まる。


 黒い文字が銀毛へ食い込み、その力まで椅子へ流している。


 床の古代文字が一つ脈打つたび、リゼの肩が引きつった。まるで見えない糸で筋肉を一本ずつ引かれているようだった。


『第二校正者、登録開始』


 文字列が肩まで上がった。


 中央石板のくぼみからも同じ文が伸び、床と椅子をつないでいる。国はリゼの獣化を拘束しているのではない。読んで、使っている。


 人間の苦痛を役に立つかどうかで分類する。千年も残る仕組みを造れるほど賢かった連中が、やっていることは質の悪い役人と変わらない。


「この椅子、君の呪いと同じ術式だ」


「嬉しくない再会だな」


「俺も椅子と親戚になる趣味はない」


 冗談を返したつもりだったが、声が裏返った。こういうときだけ十九歳らしさを取り戻しても、一文の得にもならない。


 俺は床を這って椅子へ近づいた。


 膝の下で砕けた石片が鳴る。掌には、床を走る術式の熱がじかに伝わってきた。魔力のない俺には力そのものは扱えない。ただ、そこに書かれた命令だけが、耳元で囁かれるより鮮明に読める。


 直せる文字は、リゼの腕にある。


 触れなければ読めない。読めなければ直せない。俺の能力はいつも、危険なものほど親しく触れ合えと要求してくる。ずいぶん社交的な才能である。


 銀の爪が目の前を薙いだ。


 風圧が鼻先を叩く。


 身を伏せる。爪先が髪を数本持っていき、背後の石床へ深い筋を刻んだ。切られた髪が遅れて頬へ落ちる。散髪代が浮いたと考えるには、左右の釣り合いが悪すぎた。


「悪い」


 リゼが歯を食いしばる。


「私が動かしたんじゃない」


「わかってる。君なら髪だけで済ませない」


「よくわかっている」


 次の一撃は石板ごと俺を割る勢いで来た。


 横へ転がって避ける。肩が床にぶつかり、さっきから働き詰めの骨が辞表を出した。受理してやりたいが、俺まで退職すると全員が国に就職させられる。


「ピピ、文字のつなぎ目を探せ!」


「もう探してるのら!」


 ピピは椅子の脚にしがみつき、鼻をひくつかせた。黒い文字が近づくたびに輪郭が乱れ、くしゃみと一緒に小さな古代文字が飛び散る。


 ピピ自身も文字でできている。あの黒い命令に触れれば、小さな身体まで文章の一部にされかねない。それでも逃げろとは言えなかった。いま、この部屋で術式の流れを追えるのは俺とピピだけだ。


「へくちっ、なのら! 下なのら! お尻の下から、いっぱい来てるのら!」


「もう少し威厳のある報告はできないか」


「椅子のお腹から来てるのら!」


「悪化したな」


 だが、場所はわかった。


 椅子の座面の下。そこに登録術式の本体がある。リゼの腕に出ているのは実行中の文章だ。数秒で戻されるとしても、いまなら触れて一語を変えられる。


 問題は、その腕が俺の頭を果物くらい簡単に割れることだった。


「リゼ。三秒だけ止められるか」


「二秒にしろ」


「値切るところじゃない」


「三秒もあれば、おまえを二度殺せる」


「一度で十分だ」


 リゼは目を閉じた。


 息を吸い、ゆっくり吐く。だが吐息の最後は唸りへ変わった。


 首筋まで銀毛が広がる。筋肉が膨れ、肘掛けに亀裂が走った。椅子は彼女の力を引き出し、そのまま命令へ従わせようとしている。


 膨れ上がった爪が床を向く。次には俺へ向けられる。そのことを、本人がいちばんよく知っている顔だった。


 それでも、振り上げられた右腕が止まった。


「今だ」


 声は短かった。苦痛も恐怖も、その二文字の後ろへ押し込めていた。


 俺は飛び込んだ。


 一秒。


 銀毛を掴む。硬い毛の下で、焼けた皮膚が震えていた。鉄臭い血が指につく。熱い。火に触れたような熱ではない。術式が皮膚の内側から煮立たせている熱だ。


 二秒。


 黒い文字へ触れる。


 意味が流れ込んできた。


『第一校正者に随行する守護個体を、第二校正者として登録する』


 守護個体。


 人でも、騎士でもない。


 リゼの獣化術式を、国はそう読んだ。彼女が俺を守ってここまで来た事実まで、役職を埋めるための材料にしている。


 彼女が選んだ道も、負った傷も、この仕組みにとっては条件欄の印にすぎない。


 腹が立った。


 人を文字としてしか扱わない仕組みに怒っているのか、自分も時々同じように彼女を頼ってしまうことに怒っているのかは、わからない。


 俺は剣を振れない。盾にもなれない。だから彼女が前に立つことを、必要という言葉で片づけてきた。それがこの椅子の判断とどこまで違うのか。考えるには三秒は短すぎ、考えないふりをするには長すぎた。


 どちらにせよ、俺にできることは一語だけだ。


 三秒。


 リゼの爪が動き出す。


 俺は彼女の血を指先につけ、腕に焼きついた古代文字をなぞった。


「『登録』を――『申請』へ」


 爪が頬に触れた。


 冷たい爪先の後から、焼けるような痛みが追いついてくる。


 薄く皮膚が裂ける。


 同時に、椅子の動きが止まった。


 黒い文字が腕の上で組み替わる。


『第一校正者に随行する守護個体を、第二校正者として申請する』


 登録は命令だ。


 申請は、相手の承認がなければ成立しない。


 俺は力を消せない。術式そのものも壊せない。できるのは、文章の向きをほんの少しだけ変えることだ。だが、人を縛る命令と、人に答えを求める問いの間には、たった一語では埋めきれないほど大きな溝がある。


 椅子の背もたれが震えた。理解できない変更を何度も読み返すように、同じ文字が明滅する。


 校正室の床から低い音が響いた。怒っているのか、困っているのか。どちらでもいい。困る仕組みには、存分に困ってもらおう。


 やがてリゼの正面に、一行の問いが浮かんだ。


『第二校正者への就任を承認するか』


 リゼが目を開けた。


 銀色に染まった瞳で問いを読み――いや、彼女には意味までは読めない。だから俺が声にした。


「国が、第二校正者になるかと聞いている」


「断る」


 即答だった。


 爪がまだ俺の頬に触れている状態での返事なので、説得力には不足がない。


「少しは待遇を確認しなくていいのか」


「椅子が人を食う職場だぞ」


「写本室より悪いな」


「おまえはどうしてそんな場所で長年働けたんだ」


「椅子に座らせてもらえなかったからだ」


 リゼは息を整え、正面の文字へはっきり告げた。


「私は校正者ではない。リゼ・フォグレスだ。騎士として、私の意志でノエルを守っている。国に決められる筋合いはない」


 その声には、もう獣の響きはなかった。


 俺は黙って聞いた。彼女が俺を守ると言ったことよりも、その前に自分の名を告げたことが嬉しかった。誰かとの関係より先に、彼女は彼女自身だ。その当然を、この部屋では言葉にしなければ守れない。


 問いの文字が砕けた。


『申請、却下』


 石の肘掛けが開く。


 締めつけられていた腕へ一気に血が戻り、リゼの身体が大きく揺れた。


 リゼは椅子から転がり落ち、俺を巻き込んで床へ倒れた。鎧の重さで息が潰れる。国に名前を奪われかけた男の最期が、相棒に押し潰されて終了では、写本にするにも締まりが悪い。


「重い」


「生きている証拠だ」


「俺が死ぬ証拠にもなりそうだ」


 彼女はすぐに身を起こし、俺の頬の傷を見た。銀毛はまだ残っている。血と汗と焼けた毛の臭いもする。それでも爪の震えは止まっていた。


「傷は」


「浅い。君の手よりずっとましだ」


 俺は上着の裾を裂き、彼女の掌へ巻いた。布はすぐ赤く滲んだ。リゼは何か言いかけたが、結局、手を引かなかった。


 椅子が再び震える。


 俺たちは同時に身構えたが、今度は口を開かなかった。十二脚目の椅子は背もたれを中央から割り、内部に収めていた薄い石板を吐き出した。


 床に落ちた石板が、湿ったような音を立てる。


「げろげろなのら」


「食事前なら叱っていたところだ」


「食事はいつなのら?」


「ここを出たらインクを舐めていい」


「生きて帰るのら!」


 急に士気が上がった。俺より扱いやすくて羨ましい。


 吐き出された石板には、細かな古代語が刻まれていた。


 申請を却下したことで、仕組みは空席の理由を確認し始めたらしい。登録記録が一行ずつ浮かび、消えていく。


 文字が現れるたび、古い紙をめくるような乾いた音がした。部屋の空気まで埃っぽく感じる。この国が忘れた記録を、椅子だけが腹の中で抱えていたのだ。


『第二校正者席――空席』


『補充条件――第一校正者の守護術式を保有する者』


『候補者――リゼ・フォグレス』


 その下に、さらに古い記録が現れた。


 文字の縁が焼けている。


 自然に欠けたのではない。トルク村の井戸や、眠る石碑や、リゼの身体に刻まれた術式と同じ、故意に焼かれた跡だった。


 誰かが読ませまいとした痕跡だ。だが、完全には消していない。消せなかったのか、消さなかったのか。その違いだけでも、多くの人間が血を流しそうな予感がした。


 消されかけた名を、俺は指でなぞる。


 炭のような欠片が指先へ付着し、その下から残った文字の形が伝わってきた。


 リゼが隣で息を止めた。


「知っている名か」


「父だ」


 短い答えだった。


 だが、包帯を巻いた手が俺の腕を掴む。痛むはずの指に力が入り、爪が服越しに食い込んだ。俺は振りほどかなかった。


 答えと同時に最後の焼け跡が剥がれ、記録の全文が露出した。


『前任第二校正者――アルノー・フォグレス』


『肉体死亡。退室処理、未完了』


『現在位置――王墓最下層』


 死んだはずのリゼの父は、まだこの国から退室していなかった。


(第53話へ続く)

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