国を黙らせる
自分の名前を勝手に使われるのは、王名保管庫でもう慣れたと思っていた。
もちろん、そんなものに慣れるほど俺の人生は寛大ではない。
『第一校正者、ノエル・アルクムの到着を確認』
低い声が円形室を震わせる。
男とも女ともつかない。石壁、水路、鐘楼、城壁――王都を構成するすべての術式が、同じ一文を読んでいた。
声は耳から入るというより、靴底から骨へ染み込んできた。歯の根が細かく震え、胸の奥まで他人の声で満たされる。
俺は自分の名前が嫌いではない。だが、国全体に呼ばれると話は別だ。親しみなど欠片もなく、道具箱から必要な釘を選ぶような呼び方だった。
床に浮かんだ文字列の先頭が白く燃える。
『建国術式、第一節。都市の内側にある名を数え――』
「止めろ!」
俺が怒鳴っても、国は聞かなかった。
大国というものは昔から、十九歳の無職に近い写本係の意見など聞かないらしい。せめて雇用証明を出してから無視してほしい。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
二度。
その余韻に重なるように、壁の向こうから無数の細い光が浮かび上がる。文字だ。王都にいる人間の名前が、術式網を通じてこの部屋へ集まり始めていた。
石壁を透かして流れ込む名は淡い金色をしていた。水路に沿って滑るもの、天井から雨のように降るもの、床の継ぎ目から染み出すもの。どれも一瞬だけ脈打ち、持ち主が今も息をしていることを告げている。
パン屋の親父。南門の衛兵。水路脇で眠る子供。城で働く下女。
知らない名前ばかりだった。
だから軽い、とはならない。
名前の向こうに、粉まみれの手や、眠そうに槍を持つ顔が見える気がした。俺にとって一行でも、その一行を呼ばれて振り返る人間がいる。消されれば困る誰かもいる。
「名を数えた後はどうなる」
リゼが剣を構えたまま問う。声は静かだったが、耳が銀の毛に覆われ始めていた。彼女が平静を装う時ほど、呪いは正直だ。
「まだ読めない。文章が長すぎる」
「なら近づく」
「簡単に言うな。床全部が術式だぞ」
「いつも通りだ」
「いつもより床が広い!」
言い終える前に、最初の文字列が跳ねた。
光の帯が鞭のようにしなり、俺の顔を横薙ぎにする。頬に熱が届く寸前、リゼが割り込み、剣の腹で受けた。耳を刺す金属音。火花が散り、彼女の靴が石床を削って半歩下がる。
砕けた文字の欠片が頬をかすめた。紙で指を切るのも腹立たしいが、文字に首を刎ねられるのは写本係として屈辱の極みだ。
せめて誤字にだけは殺されたくない。墓碑にまで笑われる。
「ピピ、どこが命令の中心かわかるか!」
「くしゃみが多すぎて鼻が迷子なのら!」
ピピは両手で鼻を押さえ、床すれすれを飛んだ。小さな体を形作る文字が、強い光を浴びるたびにばらばらと揺れる。
「くしゅっ! くしゅん! あっちもこっちも焦げてるのら! 国じゅう焼き魚なのら!」
「食べ物にたとえるな!」
「お腹がすいてるのら!」
平常運転だった。
国が人の名を数え始めても、ピピの胃袋だけは動じない。少し羨ましい。俺の胃袋など、とっくに喉まで避難している。
朗読は続く。
『名を数え、その重みを量り、都市の存続に必要な――』
そこで床の一部が黒く焼けた。
鼻を刺す石と油の臭いが立ち上り、文章が飛ぶ。誰かが意図して削ったのか、古い損傷なのかを考える暇もない。
次に光ったのは、三行先だった。
『――余剰を礎へ移す』
喉が冷えた。
意味を理解したくない時ほど、古代語は律儀に頭へ入ってくる。読めるという能力は便利だが、読まなければよかったものまで読める点について、誰からも手当は出ない。
「余剰って、何だ」
リゼが訊いた。
「人だ」
答えた自分の声が、ひどく平らに聞こえた。
「都市の存続に必要と判断されなかった名前を、建国術式の材料へ移す。前に見た『不要名』の仕組みと同じだ。あれは一部じゃない。こっちが本体だ」
鐘楼で名を落とし、保管庫で王名を貸し、棺で人を材料にする。
別々の悪趣味ではなかった。
一つの文章が、役割ごとに枝分かれしていただけだ。
枝先だけ見れば事故に見える。根までたどれば、最初からそう育つよう書かれていた。
王都は誤字でできている。
以前そう思った。
間違いだった。
これは誤字ではない。
正しく書かれた、ろくでもない文章だ。
書いた者は都市を守ろうとしたのだろう。だが、守る人数を決め、残りを石と同じ材料に数えた瞬間、それは救済ではなく勘定になる。
「止められるか」
リゼの問いには迷いがなかった。
俺に魔力がないことも、できるのが一語だけだということも知っている。その上で、できるかと訊く。
「止める」
口にすると、心臓が一拍遅れて抗議した。
弱気は胸の内で飼えばいい。
俺は飼育だけは上手い。十九年も育てたので、今では立派な臆病者になっている。よく食べ、よく騒ぎ、肝心な時に足へ噛みつく。
床を走る文章を読む。
数える。
量る。
選ぶ。
移す。
命令は鎖になっている。どれを変えても遅い。すでに集められた名前が、別の命令で処理される危険がある。『移す』を『戻す』にしたところで、何をどこへ戻すかは焼けた部分次第だ。賭けるには人命が多すぎる。
ならば、最初を潰す。
「朗読そのものを書き換える」
「届くのか?」
「冒頭の命令は中央石板だ。ただし――」
中央まで十二歩。
その間を、王都中から集まった名前が濁流のように流れている。光の奔流は足首ほどの高さしかないのに、見ているだけで体をさらわれそうだった。
「触るには、あそこまで行く必要がある」
「十二歩だな」
リゼが剣を鞘へ戻した。
代わりに手袋を歯で引き抜く。
露出した右手を覆うように、銀の毛が伸びた。骨の形が音を立てて変わり、爪が厚くなり、指が獣の形へ変わる。彼女の呪いが、焦げた臭いを伴って腕を這い上がった。
焼けた獣毛と血の臭い。
何度嗅いでも慣れない。慣れてはいけない気もした。
「十歩にしてやる」
「残り二歩は?」
「働け」
正論は時として刃物より痛い。
リゼが俺の腰を抱えた。鎧越しの腕はびくともしない。荷物扱いには慣れつつあるが、嬉しくはない。
「待て、その運び方は――」
「舌を噛むな」
床を蹴る。
景色が横へ吹き飛んだ。
一歩目で光の帯が迫る。リゼは獣の腕で引き裂いた。文字が砕け、白い火の粉になる。二歩目、三歩目。左右から名前の群れが押し寄せる。
彼女は避けなかった。
肩で受け、爪で払い、俺を抱えた側だけは決して下げない。鎧の表面を文字が削り、細い傷が幾筋も走った。
「リゼ、右!」
「見えている!」
右側から石の柱が突き上がる。彼女はその側面を蹴り、体をひねった。俺の頭が下になり、削れた靴底が宙を向く。
人間は逆さになると、自分の尊厳がどこから落ちていくかよくわかる。
だいたい襟元からだ。
七歩。
八歩。
胃の中身が三歩ほど遅れてついてくる。吐くならせめて中央石板の上は避けたい。古代文明への礼儀ではない。後で俺が読む羽目になるからだ。
朗読が次の節へ移る。
『総数、算定開始』
床に集まった名前が、一斉に赤く変わった。
円形室が血の色に沈み、壁に映った俺たちの影まで赤黒く染まる。
ピピが俺たちの後ろを追いながら叫ぶ。
「ノエル! 名前が減ってるのら!」
赤い文字が端から消えている。
一つ消えるたび、細い糸が切れるような音がした。
算定ではない。すでに選別が始まっていた。
「急げ!」
「急いでいる!」
九歩目で、リゼの膝が沈んだ。
彼女の足首に文字列が巻きついている。『固定』『拘束』『校正者の護送を妨げる者』。意味を読むだけで胸が悪くなる。国の術式は、俺を運ぶ彼女を敵と判断したらしい。
銀の毛が一気に肩まで広がった。
リゼの喉から低い唸りが漏れる。人の声と獣の声が重なり、石壁がかすかに震えた。
それでも彼女は、巻きついた文字を素手で掴んだ。
焦げた臭いが強くなる。
掌で光が肉を焼き、爪の間から血が落ちた。
「十歩だ」
リゼはそう言って、俺を投げた。
「本当に十歩にする奴があるか!」
残り二歩を、俺は空中で進んだ。
中央石板へ肩から落ちる。衝撃で息が潰れ、骨がまとめて悲鳴を上げたが、右手だけは前へ出した。
指先が石板に触れる。
冷たいはずの石が、生き物のように脈打っていた。
古代語が皮膚の下へ流れ込む。視界の裏側に文字が並び、声を持たない意味が頭蓋を内側から叩いた。
『第一校正者の退室後、建国術式を朗読する』
退室後。
その部分はすでに解釈をねじ曲げられている。俺を校正室から追い出すのではなく、名前を肉体から退室させるつもりだ。
ここを直すには時間が足りない。『退室』だけでは、術式がどちらを部屋とみなすか確定できない。曖昧な一語は、古い仕組みに都合よく食われる。
なら、一語。
朗読する。
声に出し、術式網へ命令として流す。
この国は、読んだ文章を王都全体へ伝えることで動いている。なら、読む行為を残したまま、声だけを奪えばいい。
俺は左手の傷を石板へ押しつけた。痛みが遅れて腕を走る。血を墨代わりにして、古代文字の一画をなぞる。
魔力はない。
新しい術式など撃てない。
火花一つ出せず、暗い部屋では普通に壁へぶつかる。
だが、すでに動いている文章なら。
「『朗読』を――『黙読』へ」
最後の一画を書き換えた。
石板が脈打つ。
次の瞬間、王都を揺らしていた声が消えた。
鐘が途中で止まる。
赤く染まった名前も、消える寸前の形で静止した。
あまりに突然の静寂で、自分の荒い呼吸が怒鳴り声のように聞こえた。石板へ落ちた血の雫が、やけに大きな音を立てる。
音がなくなっただけではない。
文章はなお読まれている。だが、その命令は外へ流れない。建国術式自身の内側だけで、誰にも聞かせず、誰の名も動かさず、延々と黙って読んでいる。
国という巨大な老人に、口を閉じて本を読ませた格好だ。
老人が素直に黙っている時間は、たぶん長くない。
「止まったのら?」
ピピが石板の縁へ着地した。鼻の下をこすりながら、静止した名前を不安そうに見回す。
「黙らせただけだ。読むのをやめさせたわけじゃない」
俺の血で直した文字が、もう薄れ始めている。石板の下から元の線が浮き上がり、傷口を押し戻すように一画を修復していた。
「数分で戻る。恒久的に直すなら、焼かれた欠落部を全部補修しなきゃならない」
「数分あれば十分だ」
リゼが足の拘束を引きちぎり、こちらへ歩いてきた。右腕はまだ銀毛に覆われている。爪から血が滴り、床で止まった文字を赤く汚した。
「脱出するぞ」
「いや」
俺は中央石板の脇に残った、二つの指のくぼみを見た。
片方には新しい血が付いている。
乾ききっていない。指の跡も、流れた筋も鮮明だった。
さっきまで誰かがここにいた証拠だ。
朗読が止まったことで、それまで光に埋もれていた細い文字が石板の下から現れていた。
『第一校正者の権限を確認。欠員補充を開始』
「また命令なのら?」
「ああ。そして、俺たちをここへ誘った奴の目的だ」
十二あった椅子は床へ沈んだ。
だが、くぼみは二つ。
一人で国を直すための場所ではない。
俺の名を呼ぶだけなら、もう一つのくぼみは必要ない。誰かは最初から、俺の隣へ別の人間を立たせるつもりだった。
俺が顔を上げた瞬間、石板から伸びた黒い文字がリゼの血に触れた。
濡れた爪先から腕へ、蛇のように文字列が這い上がる。銀毛に覆われた彼女の右腕へ、古代語が焼きついていく。肉の焦げる臭いに、リゼが短く息を呑んだ。
『第二校正者、登録開始』
「リゼ、腕を切り離せ!」
俺の警告より早く、石床の奥で重い歯車が噛み合った。
十二脚目の椅子が床から戻り、彼女の背後で口を開いた。
(第52話へ続く)




