王名は貸すな、返させろ
黒い階段は、下りるためにできていなかった。
段の一枚一枚に古代語が彫ってあり、踏むたびに文字が沈んで、別の文字がせり上がる。要するに、俺の体重で術式を朗読させられているわけだ。石の冷たさが靴底越しに脛まで這い上がってきて、一歩ごとに膝が古代語の重みを覚える。写本係として言わせてもらえば、人を活字にする校正機は最低の設計思想だ。羊皮紙は文句を言わないが、こっちは息が上がる。
「ノエル、床が変わる」
「知ってる。俺が読まされてるからな」
「読まされて、何が書いてある」
「『王の名を待つ』。ずっとそれだけだ。千年、同じ一行を」
段がひとつ沈むたび、足裏で文字がざらりと巡って、また同じ一語が浮かぶ。待つ。待つ。待つ。写字生が居眠りしながら同じ行を書き写し続けたような、正気を疑う反復だった。誰も来ない扉の前で、千年、行儀よく手を挙げ続けている術式。健気だと思う前に、背筋が寒くなる。
リゼが剣を鞘に半分収めたまま、背中を俺に寄せた。彼女の体温は、獣の呪いのぶんだけ人より高い。冷えた石段の上で、それはやたらありがたい。剣を握る手の甲に、うっすらと獣毛が浮いては消えるのが、暗がりでも分かる。ありがたいと思ってしまう自分が、少しだけ悔しい。守られているのではなく、暖を取っているだけだと言い訳したくなる。
袖の中でピピがくしゃみをした。文字でできた小さな体が、くしゃみのたびに一画ほどけて、また元へ戻る。
「のらっ……ここ、いやなにおいなのら。焼けたにおいと、待ってるにおいなのら」
「待ってる、匂い」
「腹をすかせて、ずっと同じものを待ってる、においなのら」
その言い方が、やけに胸に刺さった。匂いを言葉にされると、逃げ場がなくなる。飢えは、待つことの別名だ。俺は口の中で塩気の混じった唾を飲んで、次の段を踏んだ。
階段を下りきると、広間だった。
闇に慣れた目に、まず飛び込んできたのは棚だ。天井まで、壁という壁に、木札が吊るされている。何千、何万。ひとつひとつに名が焼かれ、鎖で繋がれている。風もないのに、札はかすかに揺れて、鈴のように鳴っていた。触れてもいないのに鳴るというのは、つまり、こいつら自身が身じろぎしているということだ。名前が、寝返りを打っている。
王名保管庫。名を、物として仕舞う場所。木の焦げた匂いと、古い鎖の錆の匂いが、鼻の奥で混ざる。
「墓だな」とリゼが言った。
「墓は死んだ者のものだ。ここは違う」
「どう違う」
「まだ使う気でいる。名を、貸し出す気でいる」
俺は一番手近な札に指を伸ばして、すぐに引っ込めた。読めば、その名が俺の口を借りて目を覚ましそうな気がしたからだ。墓なら、そっとしておける。だがここは倉庫だ。倉庫の品は、いつか出荷される前提で並んでいる。
広間の中央に、石の台がある。台の上で、赤い光が脈を打っていた。あの鐘楼で俺が突っ込んだ、王名の穴——その本体だ。三十息の急場しのぎに詰めた『鐘銘』が、いままさに焼き切れかけて、細く煙を上げている。煙は羊皮紙が焦げるのと同じ匂いで、写本係の職業病か、それを嗅ぐと反射的に胃が縮む。
台の縁に、行が浮かんだ。
『仮補完、残り九息』
『恒久王名を選定する』
『選定範囲——王血に連なる者』
俺は台に駆け寄って、光の中の文字列を睨んだ。術式は補材を探している。鐘の銘では足りない。物の名では、王の穴は埋まらない。だから次に、血の通った名を探しに行く。生きた名は、死んだ名より養分が多い。倉庫の論理としては、実に正しい。正しさが、こんなに気色悪いこともない。
王血に連なる者。
この広間に、生きた名はふたつしかない。
俺の名は、平民の写本係だ。王血ではない。範囲外。ありがたく除外される。無価値の御利益だ。
もうひとりは——
「リゼ」
彼女の胸の紋章が、勝手に熱を持ち始めていた。フォグレス。辺境伯家。建国のころ、王家から分かれた血。千年前の術式にとって、彼女は立派な「王に連なる者」だ。血統書つきの、上等な材料。
「下がれ」と俺は言った。「今すぐ」
「何が来る」
「お前の名を、王の穴が読みに来る」
リゼの足元から、鎖が這い上がった。石の目地を縫って、蛇のように彼女の踵へ巻きつこうとする。棚の札が一斉に鳴って、彼女ひとりへ向いた。何千という名が、同じ方角へ首を振る音は、拍手にも、歯ぎしりにも似ていた。名を差し出せ、と広間じゅうが囁いている。獣の呪いで武器になった血が、今度は逆に、彼女を材料にしようとしていた。呪いは、いつだって使い道の多いやつから狙ってくる。
リゼは動かなかった。剣を抜き、鎖を斬り、また抜き、斬る。鋼が鎖を噛むたびに火花が散って、その一瞬だけ彼女の横顔が白く照らされる。歯を食いしばった、いい顔だった。だが名は物理じゃない。斬っても減らない。斬られた鎖はほどけた文字に戻り、すぐ別の一本になって伸びてくる。
「ノエル、これは斬れない」
「知ってる。斬るのは俺の仕事じゃない。読むのが俺の仕事だ」
「なら早く読め。命令する」
「その言い方、本当に効くからやめろ」
効く、というのは冗談半分で、半分は本当だった。彼女に命じられると、指の震えが不思議と止まる。頼られているのか、追い立てられているのか、この期に及んでも判断がつかない。
残り六息。
俺は光の中の『選定範囲——王血に連なる者』へ、焼けた指を突っ込んだ。触れた瞬間、術式が俺を読み返してくる。まるで検品だ。平民、写本係、魔力ゼロ。ご丁寧に俺の無価値を一項目ずつ確認していく。魔力の欄は空白のまま、赤い光が二度点滅して、はい次、と流れた。結構だ。無価値なやつには、無価値なりの逃げ道がある。値札のつかない品は、棚から降ろされずに済む。
どの一語を変える。
『範囲』を消せない。術式は消せない。写本係の鉄則だ——原文を削るな、書き換えろ。『王血』を別の血に書き換える——駄目だ、それは誰か他人にリゼの役を押し付けるだけだ。名も知らない誰かの胸に、同じ鎖を這わせるだけだ。人を材料にするな。何度でも言う。それだけは、この旅で俺が絶対に譲らないと決めた一行だ。譲った瞬間、俺はこの倉庫の管理人と同じ顔になる。
なら、変えるのは範囲でも血でもない。
『連なる者』。
この術式は、名を「連なる所有物」として引き寄せる。血の下流にいる者を、王の持ち物として数えている。台帳に書かれた在庫として。だが名は所有物じゃない。第32話で、俺はそう書いた。名札は誰かの持ち物じゃない。あのとき震える手で書いた一語を、今ここで通す。
俺は指に力を込めた。焼けた皮膚が光にあぶられて、じりっと痛む。かまうものか。
『連なる者』を、『名を返す者』へ。
台の赤が、ぐらりと傾いた。
王の穴が、リゼの名を「引き寄せる」のをやめた。一拍、広間が息を呑んだような静けさが落ちる。代わりに、棚じゅうの木札が鎖を鳴らして——差し出すのではなく、返し始めた。千年、貸し出しを待っていた名たちが、いっせいに持ち主の方角へ向き直る。何千の首が、ひとつ残らず外を向く。保管庫が、貸金庫から返却口に変わった音だった。錆びた蝶番が、千年ぶりに逆へ回る、軋みと解放の音。
残り一息のところで、赤い光が凪いだ。脈打っていた台が、ふっと呼吸を止めるように鎮まる。
リゼが膝をついて、荒く息をした。紋章の熱が引いていく。手の甲の獣毛が、波が退くようにゆっくり肌へ沈んだ。
「……名を、取られかけた」
「取らせない。お前は騎士で、フォグレスの娘で、俺の相棒だ。誰かの補材じゃない」
「相棒、の順番が最後か」
「重要なものは最後に書くんだ。校正の常識だ」
リゼが、初めてこの広間で、少しだけ笑った。息の下で、ほとんど音にならない笑い方だった。それでも、鎖の鳴る倉庫の中で、その一音だけが人間の側にあった。
ピピが袖から這い出て、返っていく名の川を見上げた。文字の粒が、頭上を流れていく光の帯に映って、小さな体がきらきらと縁取られる。
「ノエル、名前、みんな帰るのら」
「ああ。千年ぶりの帰り道だ」
「……でも、一枚だけ、帰らないのら」
ピピが、震える文字の指で、広間のいちばん奥を差した。指先の一画が、緊張でほどけかけている。
返却の流れに逆らって、たった一枚の木札だけが、鎖を張ったまま、まだ「貸し出し」の側に留まっている。他の何千という名が持ち主へ帰るなか、その一枚だけが、頑として動かない。流れに逆らう小枝のように、鎖をぴんと張って、こちらへ首を向けている。まるで、呼ばれるのを待っていたように。
俺は台を離れ、闇の奥へ歩いた。一歩ごとに、他の札の鳴る音が遠ざかり、その一枚の沈黙だけが濃くなる。リゼが剣を提げてついてくる。足音がふたつ、揃わないまま近づいていく。ピピのくしゃみが、近づくほど激しくなった。焼けた匂い。汚染。鼻の奥を刺す、あの飢えた匂いの源が、ここにある。
木札の前に立って、俺は焼き付けられた名を読んだ。読むのが俺の仕事だ。逃げられない。
そして、読んだことを、少しだけ後悔した。
札には、こう焼いてあった。
『ノエル・アルクム』
俺の、名だった。
(第49話へ続く)




