勘定は鐘に回せ
王都の階段は、どうしてこうも人を急がせる造りをしているのか。
上へ行くほど狭い。曲がる。濡れている。ついでに俺の掌は焼けている。設計者が「写本係を転ばせよう」と会議で決めたとしか思えない。議事録が残っていたら赤で直してやる。
鐘が四つ目を鳴らした。
音のたびに、地上から悲鳴が増える。
「名前が、落ちてるのら!」
ピピが俺の肩で震えた。体を作る文字が、風に吹かれた紙片みたいに乱れている。
「落ちてるって何だ」
「子供の名前が、音に引っぱられてるのら。糸みたいに、鐘の方へ!」
最悪だ。
王都には金持ちも貧乏人もいる。偉い奴も、偉い顔だけ練習してきた奴もいる。だが子供の名に値段をつける資格を持つ奴はいない。そんな資格があるなら、俺の魔力も今ごろ王宮御用達の高級空瓶として展示されている。
階段を抜けると、大聖堂の側廊に出た。
石の床に人が倒れている。親が子を抱えて叫び、兵が扉を押さえ、修道士が祈りの言葉を噛み間違えている。祈りで噛むな。舌を噛むだけにしておけ。
中央の広間では、十数人の子供が膝をついていた。
額の上に、薄い文字列が浮いている。名だ。親が呼び、友が呼び、自分で胸の中に持っているはずのもの。それが黒い糸になって、天井の鐘楼へ引かれていく。
「ミナ! ミナ、返事をして!」
女が泣きながら娘の頬を叩いていた。少女は目を開けているのに、焦点が合っていない。
「……わたし、だれ?」
その一言で、俺の足が止まりかけた。
リゼが俺の背を押した。優しくはない。騎士の手加減はだいたい凶器に近い。
「止まるな、ノエル」
「ああ」
弱い者に誠実でいるには、涙ぐむ暇を削る必要があるらしい。実に嫌な世の中だ。だが、紙面の余白で泣くのは後でいい。
「鐘楼は?」
「北側の螺旋階段だ。だが兵がいる」
「教会の?」
「おそらく」
おそらく、という言い方をリゼがする時は、だいたい剣で確認済みという意味だ。
俺たちが側廊を走ると、白衣の兵が三人、階段前に立ちふさがった。胸に教会印。手には短杖。顔には「上から言われたので罪は半額です」と書いてある。もちろん、そんな割引はない。
「止まれ! 大聖堂は封鎖中だ!」
「知ってる。中で子供の名前を盗んでるからな」
「神罰を鎮めるための一時徴収だ!」
「一時的に腕をもいで後で返すと言われたら、普通は怒るんだよ」
兵が短杖を上げた。詠唱が走る。現代語ではない。意味も知らずに使っている、古代語の音写だ。
空中に文字列が露出した瞬間、リゼが前へ出た。
銀の紋が首筋に走る。獣化の呪いはまだ完全に静まっていない。血の匂いと、彼女の汗の匂いが混じった。生きている匂いだ。無臭の英雄なんて、たぶん棚に飾る人形だけで足りる。
リゼの剣が短杖を叩き落とす。
一人、二人。
三人目の杖先から、拘束の文字が俺へ伸びた。
『縛る』。
大変読みやすい。嫌がらせにも作法というものがある。俺は身を低くして、伸びてきた文字の端に焼けた指を押しつけた。
『縛る』を、『滑る』へ。
黒い帯が床でつるりと曲がり、兵本人の足をすくった。
「うわっ!」
「いい詠唱だった。用途は最悪だが」
兵が転がる隙に、俺たちは螺旋階段へ飛び込んだ。
鐘が五つ目を鳴らす。
ピピが悲鳴を上げた。
「半分、取られた子がいるのら!」
「どれくらいで戻せなくなる」
「鐘が七つ鳴ったら、仮名が王名の穴に縫われるのら。ほどくの、すごく痛いのら」
「痛いで済むのか」
「済まない子もいるのら」
俺は舌打ちした。舌打ちで術式が止まるなら、俺は今ごろ宮廷魔導師長だ。残念ながら俺の舌にあるのは性格の悪さだけである。
鐘楼の扉は内側から封じられていた。
扉一面に文字が走っている。封鎖術式だ。文面は雑ではない。むしろ腹が立つほど丁寧だった。
『許可名なき者、入室不可』
「許可名って誰だ」
ピピが扉を嗅いで、くしゃみをした。
「ペトルの臭いがするのら! あと、焦げた名前の臭い!」
「またあいつか。顔を見る前から胃もたれする司祭だな」
リゼが扉に剣を当てた。
「斬れるか」
「斬ったら中の鐘が六つ目を鳴らす方が早い」
「なら、任せる。ノエル」
「分かってる」
問題は、ここで『不可』を『可』にするほど単純ではないことだ。入室条件を消すのは解呪に近い。俺にできるのは、一語を直すだけ。
許可名なき者。
俺たちは許可名を持たない。なら、名ではないものにすればいい。
俺は扉の文字に触れた。
『許可名』を、『負傷者』へ。
扉が一瞬ためらった。
リゼが血のついた腕を押しつける。俺も焼けた掌を見せる。ピピは「お腹が減ったのら」と主張した。たぶん術式はそれを負傷に数えなかった。厳密で結構。
扉が開いた。
「負傷者入室可。いい制度だ」
「悪用している自覚はあるか」
「今日は相手が先に悪用している」
鐘楼の中は、音で満ちていた。
巨大な青銅鐘が三つ。中央の一番大きな鐘の内側に、黒い紙片が貼りついている。鐘が揺れるたび、紙片から命令文が剥がれ、音に乗って王都へ散っていく。
『王名補材として、王都内の子供名を仮徴収する』
あった。
読める。吐き気がするほど、読める。
リゼが鐘の下へ走った。だが足がもつれる。喉元の銀紋が脈打ち、彼女の息が荒くなった。
「リゼ!」
「構うな。届く位置まで行け」
鐘が揺れる。六つ目が来る。
黒紙は鐘の内側だ。俺の背では届かない。写本係は高所作業に向いていない。脚立を持ってくる人生設計をしていなかった自分を殴りたい。
「ピピ、飛べるか」
「ちょっとだけなのら。でも、書き換えはノエルじゃないと無理なのら」
「分かってる」
俺は周囲を見た。鐘を吊るす太い縄。保守用の足場。そこへ登れば届く。普通なら職人が使う道だ。つまり不器用な写本係が落ちるための道でもある。
登り始めると、下から短杖の光が飛んだ。
封鎖を破った兵が追いついたのだ。
リゼが受けた。剣で弾き、肩で押し返し、獣のような低い唸りを漏らす。だが彼女は獣ではない。何度でも言う。本人が忘れそうな時ほど、周りが覚えていなければならない。
「ノエル、早く!」
「俺の運動能力に期待するな!」
「期待していない。命令している!」
「それなら少し効く!」
足場へ転がり込んだ瞬間、六つ目の鐘が鳴った。
広間の方から、親たちの叫びが突き上がる。
黒い糸が太くなった。鐘の内側で、命令文が赤く熱を持つ。
あと一つ。
俺は身を乗り出した。黒紙まで指一本分足りない。世の中はだいたい指一本分足りない。金も、身長も、勇気も。だが今日は、足りないままで終わらせるわけにいかない。
「ピピ!」
「はいなのら!」
ピピが俺の袖口に飛び込み、文字の体を紐のように伸ばした。俺の手首に絡みつき、もう一方の端で足場の釘を掴む。
「落ちたら一緒なのら!」
「縁起でもない励ましをするな!」
俺は体を投げ出し、鐘の内側へ焼けた指を突っ込んだ。
触れた。
命令文が一斉に俺を読みに来た。王名の穴。補材。仮徴収。子供名。小さく、柔らかく、抵抗しにくい名を選ぶ悪辣さ。術式に感情はない。だが作った奴にはある。俺はその性根を読んだ気がした。
どの一語を変える。
『仮徴収』を変えれば遅れる。だが七つ目までに戻るかもしれない。
『王名補材』を変えれば対象をずらせる。だが補材は必要だと術式が別の名を探す。
『子供名』。
ここだ。
奪われているのは、子供の名だ。なら、子供ではない名を差し出す。すでにここにあり、鳴るたび自分の名を王都へ撒いているもの。
鐘には銘がある。
建造年、鋳造師、奉納者。そして鐘自身の名。物の名だ。人の名ではない。痛みはない。もし痛みがあったら、あとで謝る。俺の人生は謝罪の予約でだいぶ埋まっている。
俺は指先に力を込めた。
『子供名』を、『鐘銘』へ。
黒紙が破裂するように震えた。
七つ目の鐘は、鳴らなかった。
代わりに、中央の鐘の表面から古い銘文が剥がれ、青白い光となって黒紙へ吸い込まれていく。広間から、泣き声が変わった。
「ミナ! ミナ!」
「おかあさん……?」
その声が聞こえた瞬間、俺は足場から落ちた。
格好よく着地する予定は、生まれてから一度も成功していない。今回ももちろん失敗した。リゼが剣を投げ捨てて受け止めてくれなければ、俺は大聖堂の床に校正不能な染みを増やしていた。
「重い」
「命の恩人に第一声がそれか」
「事実だ」
「俺の心は軽いぞ」
「それは知っている」
下では兵たちが呆然としていた。命令の鐘が止まり、短杖の術式も力を失っている。
ピピが俺の胸に落ちてきた。文字がさらに薄い。
「子供、戻ったのら?」
「ああ。戻った」
「よかったのら……ピピ、名前を取られるの、きらいなのら」
「俺もだ」
俺はピピを袖の中に入れた。後でインクを飲ませる。瓶ごとではない。たぶん。
リゼが兵を縛り上げ、俺は黒紙の残骸を拾った。命令は止めた。だが、これで終わりではない。鐘銘を補材に変えた以上、王名の穴へ流れ込んだものがある。急場しのぎだ。胸を張れるほど上等な仕事ではない。
黒紙の裏に、焼け残った小さな行があった。
『第一鐘銘、受理』
『王名仮補完、三十息』
三十息。
つまり、子供たちの名を救う代わりに、俺は王名の穴へ鐘の銘を詰めた。三十息だけ、建国術式は動く。
そして、その下にもう一行。
『仮補完完了後、王名保管庫の封印を開放する』
床の下から、重い石扉の動く音がした。
俺はリゼの腕から身を起こし、焼けた掌を握り直した。
「休憩なしだ。今ので、下の扉を開けちまった」
鐘楼の床板の隙間から、王名保管庫へ続く黒い階段がせり上がってきた。
(第48話へ続く)




