名前は部品じゃない
手のひらに貼りついた黒札は、紙のくせに妙に生温かかった。
紙に体温がある時点で、俺の人生はだいぶ損をしている。紙は冷たく、薄く、上司の嫌味を書き留める程度の存在であってほしい。少なくとも、人の掌に吸いついて『次の返還先』などと宣告する生き物めいた何かであってはならない。
「ノエル、離せ」
リゼが剣を構え直した。肩の傷から血が落ち、銀毛に混じって赤黒く光っている。獣化した体から、血と濡れた革と、少し焦げた毛の匂いがした。無事ではない。だが、立っている。あの女は倒れるという選択肢を、財布に入れ忘れて生まれてきたらしい。
「離したいんだが、向こうが熱烈でな。俺の手相でも占っているのかもしれん」
「冗談を言う余裕は」
「ない。だから言っている」
黒札の文字が震えた。
『返還先、リゼ・フォグレス』
その瞬間、リゼの首筋に浮かんでいた呪いの銀紋が、ぐっと濃くなった。鎧の隙間から、古代語の細い線が走る。獣化の呪い。守護術式。俺たちがずっと直しきれず、ただ暴走しないように扱ってきたもの。
黒札はそこへ糸を伸ばした。
紙から紙へではない。俺の掌から、空気を伝って、リゼの名へ。
「くそ」
俺は黒札を引き剥がそうとした。皮膚ごと持っていかれそうな痛みが走る。写本係の柔らかな手にこの仕打ち。労働災害として申請したい。受付が生きていればだが。
ピピが俺の袖から顔を出した。文字でできた小さな体が震え、くしゃみを一つした。
「へちゅん! ノエル、これ、名前を食べる匂いなのら。インクが腐ったみたいなのら」
「的確で嫌な報告をありがとう」
リゼが一歩近づいた。
「私に触れさせろ。受ける」
「却下」
「命令ではない。判断だ」
「なおさら却下だ。騎士の自己犠牲は便利すぎて嫌いなんだよ。使う側が癖になる」
リゼの目が一瞬だけ揺れた。獣の瞳ではなく、人の目だった。
「では、どうする」
「読む。名じゃなく、文を」
俺は黒札の表面を見た。そこに出ているのは返還先の表示だけだ。リゼの名を読まされている時点で気分は最悪だが、これは名札ではない。命令の宛先だ。まだ、ぎりぎり文の側にいる。
問題は、肝心の命令文が裏側に回っていることだった。
俺の掌に、ぴったり貼りついた裏側に。
「ひっくり返せない本は嫌いだ」
「本なのか、それは」
「俺が読まされているものは全部本だ。腹の立つ種類のな」
黒札から伸びた糸がリゼの胸元に触れた。銀紋が脈打つ。リゼが歯を食いしばった。獣の耳が伏せられ、肩の傷から血がまた流れた。
俺は息を吸った。
読めないなら、触るしかない。触れば読める。理屈は単純だ。実行する人間の手の数と皮膚の厚さを考慮していないだけで。
「ピピ、手伝え」
「何をするのら?」
「俺の掌と札の間に入れ。裏の文字をなぞって、俺に教えろ」
ピピの体が、ぴんと固まった。
「ピピ、はさまれるのら?」
「少しだ。嫌ならやらなくていい」
言ってから、自分で嫌になった。少し、などと軽く言うな。痛いものは痛い。怖いものは怖い。文字でできていようが、小さかろうが、ピピは道具じゃない。
俺は言い直した。
「怖いなら、やめろ。これは俺の手だ。俺がどうにかする」
ピピは俺の指先を見上げた。インクの匂いがふわっと濃くなる。泣く前の子供みたいな匂い、という表現が正しいかは知らない。俺は情緒の採点員ではなく、元写本係だ。
「ピピは、ノエルの文字なのら」
「違う。お前はお前だ」
「でも、ノエルが読まないと、ピピもここにいないのら」
「なら、なおさら命令で使わない」
ピピは小さく首を振った。
「命令じゃないのら。ピピが、やるのら」
文字の小さな体が、俺の掌と黒札の隙間へ滑り込んだ。
黒札が食いつく。ピピの輪郭が歪んだ。
「の、のららら……!」
「無理なら出ろ!」
「読めるのら! 『接触せし返還先より、欠けた王名を補うため、対象名を徴収する』なのら!」
最悪だ。
リゼを返還先にするのではない。リゼの名を材料にするつもりだ。王名の欠落を、彼女の名で埋める。名札は所有物ではないと、あれほどやったばかりなのに、今度は名前を部品扱いだ。王都の連中は、どうして人間を見るたび資材置き場だと思うのか。
リゼの銀紋が胸から喉へ上がっていく。声を奪う位置だ。
「ノエル」
彼女の声は低かった。痛みを押し込めた声だ。
「もし私が獣だけになったら、止めろ」
「嫌だね」
「頼む」
「頼まれても嫌だ。俺はお前を止めるために隣にいるんじゃない。戻ってくる道に、悪態を立てておくためにいる」
銀紋がリゼの顎に触れた。彼女の爪が床石を削る。
ピピが叫んだ。
「ノエル、動詞は『徴収する』なのら!」
徴収。取り立てる。権利のある者が、当然のように奪う言葉。
俺は笑った。笑うしかなかった。
「教会向きの単語だな。よく似合っている」
変えるなら、何にする。
返す、では駄目だ。向こうの命令は返還だ。意味の川に飲まれる。拒む、も弱い。王名の穴は埋めろと命じられている。穴を見せつけられた術式は、別の名を探す。
徴収する、を。
証明する、へ。
名を奪って補うのではなく、対象名が別人であることを証明させる。王名の材料ではない。リゼ・フォグレスは、リゼ・フォグレスだ。獣でも、部品でも、空欄の詰め物でもない。
問題は一つ。俺の指が、裏面の文字に届かないことだ。
「ピピ、そこを押さえろ。『徴収』の頭だ」
「はいなのら!」
「リゼ、三秒だけ耐えろ」
「二秒で済ませろ」
「お前ら交渉が渋いんだよ!」
俺は黒札ごと、掌を床に叩きつけた。
痛みで視界が白くなった。札が少しずれる。ピピが隙間から文字を押し出す。俺は反対の手の指先を突っ込み、裏面の一語に触れた。
『徴収する』。
その言葉は、ひどく硬かった。布施箱の鍵みたいに硬い。善意の顔をして、人の懐に手を入れる言葉だ。
「返す名を間違えるな」
俺は指先に力を入れた。魔力はない。いつも通り、ない。腹立たしいほど清潔に空っぽだ。だからこそ、余計な力で術式を殴らない。意味の継ぎ目へ爪を入れる。
『徴収する』を、『証明する』へ。
黒札が悲鳴を上げた。
紙の悲鳴なんて聞きたくなかったが、今日は聞きたくないものの見本市だ。黒い糸がリゼの喉元で弾けた。銀紋が一気に引き、胸元へ戻る。彼女は大きく息を吸い、膝をついた。
俺の掌から黒札が剥がれ落ちた。
床に落ちた札には、短い文が浮かんでいた。
『対象名、王名と不一致。補材不適』
「当たり前だ、馬鹿」
俺はその場に座り込んだ。掌の皮が少し持っていかれている。写本係の商売道具に対する敬意が足りない。訴える相手が黒札なのが惜しい。
リゼが息を整えながら、俺を見た。
「補材不適、か」
「いい響きだろ。人間としては満点だ」
「騎士としては?」
「かなり面倒くさい」
「それは褒め言葉か」
「俺にとってはな」
リゼは小さく笑った。すぐに傷が痛んだのか、顔をしかめる。俺は慌てて立ち上がりかけ、ふらついた。格好がつかない。だが格好をつけている暇もない。
ピピが黒札の上にへたり込んでいた。体の文字が少し薄い。
「ピピ!」
「だいじょうぶなのら……でも、お腹がからっぽなのら……」
「インクだな。帰ったら瓶ごとやる」
「瓶は飲めないのら」
「中身だ。瓶まで食うな」
ピピは弱々しく、でも得意げに胸を張った。
「ピピ、リゼを部品にさせなかったのら」
「ああ。お前の手柄だ」
俺はピピを指先でそっとすくった。小さな体はいつもより軽い。文字でできているくせに、疲れるとちゃんと重さまで寂しくなる。面倒な存在だ。大事にするしかない。
リゼが剣を杖にして立った。
「ノエル。私の名を守った礼を言う」
「やめろ。礼を言われると背中がかゆい」
「では命令にする。次も守れ」
「急に楽になったな。命令違反が得意な部下でよければ」
黒札が床で灰になり始めた。完全に消える前に、俺はその端を押さえた。まだ文字が残っている。発信元の痕跡があるはずだ。さっきはペトル司祭の名が出た。今回は、命令の経路が見えるかもしれない。
灰の中に、細い行が浮かぶ。
『返還試行、第一失敗』
『代替補材候補、複数』
俺の胃が冷えた。
「複数って何だ」
返事の代わりに、保管庫の上へ続く階段から鐘の音が落ちてきた。
一つ、二つ、三つ。
大聖堂の鐘だ。地下にいるのに、骨の内側へ響く。普通の鐘じゃない。術式に乗った召集音。王都全域へ命令を流すための音。
ピピが俺の指の上で跳ね起きた。
「ノエル、上が臭いのら。いっぱい名前が起きたのら!」
リゼが剣を握り直す。傷口が開いた。俺は止めようとして、やめた。止めても聞かない顔だった。なら、せめて隣で悪態をつく。
俺は黒札の灰を払い、焼けた掌を握った。
「手当ては走りながらだ。大聖堂へ行く」
「了解した」
階段を駆け上がる直前、上から人の悲鳴が降ってきた。
続いて、鐘の音に混じって、はっきりした命令文が響いた。
『王名補材として、王都内の子供名を仮徴収する』
俺は階段を蹴った。
「ピピ、道案内しろ。今度は一秒もやらない」
(第47話へ続く)




