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名は読まずに文を直せ

 扉の内側から聞こえた声は、若くも老いてもいなかった。


 乾いた紙が人の喉を真似たら、たぶんああなる。ありがたいことに俺の人生には、紙に話しかけられる経験が増えてきた。履歴書に書ける職歴ではない。書いたら採用担当が教会を呼ぶ。


「ノエル・アルクム。私の名を、まだ読むな」


 リゼが扉と俺の間に立った。獣化しかけた耳が髪の間からのぞき、低い唸りが喉で鳴る。雨と鉄と、獣の熱い匂いが狭い紙の裂け目に満ちた。


「名乗る気はないが、名を読むなと言う。ずいぶん勝手な客だ」


「ここ、向こうの家だからな。勝手なのは俺たちのほうかもしれない」


「なら、礼儀として帰るか」


「帰れる扉なら、俺はもう土下座している」


 ピピが肩の上でくしゃみをこらえた。文字の体がぷるぷる震え、尾の先から小さな点がこぼれる。


「の、のら……くすぐったいのら。古い字が、鼻の奥にいるのら」


「鼻、あるのか」


「気持ちの鼻なのら」


 便利な器官だ。俺にも欲しい。危険な上司の気配を嗅ぎ分けて、早退できる。


 紙の扉がひとりでに開いた。


 中は倉庫ではなかった。礼拝堂でも、地下牢でもない。もっと嫌な場所だ。


 細い棚が、天井の見えない高さまで続いている。棚には巻物も本もなく、薄い名札だけが立てられていた。人ひとりの名を収めるには小さすぎる白い札。だが、そこに刻まれた文字の密度は人の骨より重い。


 俺は見た瞬間、目を伏せた。


 危ない。


 読めるというのは、時々、呪いそのものだ。見れば意味が入ってくる。腹を空かせた犬に肉を見せるようなものだ。いや、犬に失礼か。あいつらはたぶん、王名保管庫で目を皿にしたりしない。


「ノエル」


「名札を直視するな。特に中央の黒いやつ」


 リゼは即座に剣を下げ、視線を床に落とした。命令したのが俺みたいな紙くず男でも、彼女は必要なら従う。こういうところで、俺はこの人を信用してしまう。


 床には古代語の案内文が走っていた。名ではない。機能の説明だ。読む。


『王名保管庫』

『切除王名を保管する』

『返還命令を受けた場合、正当な後継名へ接続する』

『後継名が不在の場合、最も近い血名へ接続する』


 俺は舌打ちした。


「最悪だ」


「分かりやすく言え」


「この部屋は、王の名を誰かに返す仕組みだ。正しい後継ぎがいなければ、血が近い者に押しつける」


 リゼの足が止まった。


 フォグレスは王家ではない。そう教わってきた。だが、地下の術式は人の帳簿より古い。貴族の系図が上品な羊皮紙で飾られていても、ここでは血の線が裸で走る。


「私に来るのか」


「まだ分からない。分かりたくもない」


 俺は床文字の流れを追った。中央の黒い名札から、細い赤い線が伸びている。線は部屋の奥で分岐し、また戻り、俺たちの足元まで来ていた。筆跡が新しい。千年物の埃をかぶった施設に、今しがた書かれた命令だけが混じっている。


『返還、開始』


「誰かが外から押したな」


「モルグか」


「同類だろうな。人の迷惑を機能として生まれた連中は、たいがい仕事熱心だ」


 ピピが俺の耳の横で小さくなった。


「ピピも、機能から生まれたのら」


 その声があんまり薄くて、俺はすぐに首を横へ振った。


「お前はインクを盗み舐めする小さい同居人だ。機能だけなら、俺の安い靴下を寝床に選ばない」


「ノエルの靴下、あったかいのら」


「それは今、味方の証言としては弱い」


 リゼの口元がわずかに緩んだ。すぐ剣の音で消えた。棚の間から、黒い紙片がほどけて現れたからだ。


 人型ではない。文字の束だ。モルグより薄く、古く、癖がない。命令だけでできた影。そいつらが何体も、名札の棚をすり抜けてくる。


 古代語が床に刺さる。


『読め』

『呼べ』

『返せ』


「三つもお願いされると、断る順番に困るな」


 リゼが踏み込んだ。銀の剣が紙影を裂く。切れた文字は霧のように散るが、すぐ別の字に集まる。剣で倒せない相手だ。リゼも分かっている。それでも、俺の前に来るまでの時間を削ってくれる。


「触れられるか」


「近ければな。俺の腕があと三本あれば便利だった」


「二本で足りるようにする」


 言うなり、リゼの左腕に銀の毛が走った。呪いが彼女の輪郭を食う。だが飲まれてはいない。獣ではなく騎士。何度見ても、その綱渡りは胸に悪い。


 俺は床に膝をついた。赤い線が中央の黒い名札からリゼの足元へ伸びている。目的語は『最近血名』。主語は『返還命令』。ここを書き換えれば止まるかもしれない。


 だが、赤い線は巡回している。数秒で戻る。恒久修正には中央の欠落部を直す必要がある。つまり、今は応急処置。俺の人生みたいだ。根本解決の前に毎回、目の前の火を足で踏む。


 紙影が一体、リゼの脇を抜けた。


 ピピが飛んだ。


「のらぁっ!」


 小さな体が影の顔にへばりつき、文字同士がばちばち弾けた。ピピの輪郭が乱れる。


「ピピ!」


「読むなって、言われたのら! 読ませないのら!」


 俺は床文字に指を押しつけた。


『最近血名』


 一語だけ。


 削除はできない。消して無かったことにはできない。だったら、意味をずらす。


 最近を、保管へ。


 『保管血名』。


 変な語だ。古代語としても苦しい。だが術式は馬鹿正直に意味を拾う。最も近い血へ返す命令は、保管されている血名の中をぐるぐる探し始めた。


 赤い線が足元で止まり、棚の内側へ戻っていく。


「止まった!」


「数秒だけだ!」


 俺の叫びと同時に、中央の黒い名札が震えた。読んでいないのに、そこから圧が来る。名の重さ。王という字が、人を材料へ戻す重さ。


 そして、また声がした。


「読むな。読めば、私は戻る」


 今度ははっきり分かった。声は黒い名札からではない。名札を縛っている白い封紙からだ。王名を隠している紙片。自分を切って、名を閉じ込めたほうの声。


「お前は、王じゃないのか」


「読めば、王になる」


 嫌な答え方だ。だが、意味は通る。


 名は役割を呼ぶ。名前を正しく読めば、術式が人物を復元する。俺が読めるからこそ、王を呼んでしまう。世界一つぶしの読書会だ。参加費は民名全員。ぼったくりにもほどがある。


「じゃあ、どうしろってんだ。読まずに直せと?」


「そうだ」


「無茶を言うな。俺は写本係であって、目隠し曲芸師じゃない」


「名ではなく、文を読め」


 白い封紙の端がほどけた。そこに短い補助文が浮かぶ。名ではない。命令文だ。


『返還命令を受けた場合、封紙は開く』


 単純で、ひどい。返せと言われたら開く。開けば名が読める。読めば王が戻る。


 俺は息を吐いた。


「リゼ、あと十秒くれ」


「八秒なら確実だ」


「交渉が渋い」


「九秒」


「愛を感じる」


「黙って書け」


 紙影が一斉に押し寄せた。リゼが吠えた。剣と爪が同時に走り、銀の弧が棚の影を削る。彼女の肩から血が散った。獣の毛に赤が混じる。俺は見ない。見たら手が止まる。


 ピピが俺の指にまとわりついた。小さな体からインクの匂いがした。怖いのに、逃げない匂いだ。


「ノエル、ここなのら。『開く』が鼻に痛いのら」


「ありがたい鼻だな、本当に」


 俺は封紙の端へ手を伸ばした。紙影の一つが俺の手首に食いつく。冷たい。文字が皮膚の下へ潜ろうとする。


『読め』


「悪いな」


 俺は歯を食いしばり、封紙の補助文に触れた。


『開く』。


 一語だけ変える。


 開く、では駄目だ。閉じる、では返還命令に押し負ける。保つ。命令を受けても、封紙の役割を変えない言葉。


『開く』を、『保つ』へ。


 指先が焼けたように熱くなった。文字が抵抗する。既存の命令が戻ろうとする。俺には魔力がない。押し勝つ力はない。だから力比べはしない。意味だけを、少し横にずらす。


 封紙は開かなかった。


 黒い名札が、内側から強く震えた。棚全体が鳴る。紙影たちが糸を切られたように崩れ、床に散った文字片へ戻っていく。


 赤い線が消えた。


 リゼが膝をつきかけ、剣を床に突いて耐えた。俺は慌てて駆け寄る。肩の傷は浅くない。だが、彼女の目はまだ澄んでいた。


「無事か」


「鎧の修理代以外はな」


「俺の収入で払えると思うか」


「では、出世しろ」


「今この瞬間、死ぬより難しい課題を出された」


 ピピがリゼの肩口にふわりと降り、傷を見て泣きそうな形になった。


「リゼ、痛いのら?」


「痛い。だから生きている」


「なら、よかったのら……よくないのら?」


「よくはないが、悪くもない」


 リゼらしい返事だった。俺ならもっと情けなく叫ぶ。実績がある。


 白い封紙の声が、また落ちてきた。


「校正者。名を読まずに文を直したか」


「読めと言ったり読むなと言ったり、注文の多い保管庫だな」


「礼を言う」


「礼より出口が欲しい」


 床の奥に、細い階段が現れた。上へ向かっている。罠かもしれない。というか罠でない可能性が低い。だが、今の部屋に長居して王名とにらめっこするよりはましだ。


 俺は立ち上がった。指先がまだ震える。黒い名札は封じた。返還命令も一時的に鈍らせた。事件としては区切りがついた、と思いたい。思いたいだけで現実が優しくなるなら、俺はとっくに宮廷魔術師長だ。


 階段へ向かう前、白い封紙が最後の一片をほどいた。


 そこに名ではない記録が出た。


『王名返還の外部命令、発信源』

『王都大聖堂、地下祈祷室』

『発信者名、ペトル司祭』


 俺は一度だけ目を閉じた。


 領都の嫌な司祭。布施と権威の匂いをまとった男。あいつの名が、王名保管庫の床に刻まれている。


「リゼ」


「聞いた」


「上に出たら、大聖堂へ行く」


「傷の手当ては」


「その後だと怒られるから、先にする」


「賢明だ」


 その時、床に散っていた紙影の文字片が一枚だけ跳ねた。


 薄い黒札となって、俺の掌に貼りつく。


 剥がす前に、文字が浮かんだ。


『次の返還先、リゼ・フォグレス』


(第46話へ続く)

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