理由は書かずに追え
右手が、俺の意思と相談もなく伸びていく。
人の手というのは、持ち主を裏切るとき妙に礼儀正しい。震えもせず、迷いもせず、まるで昔からそう決まっていたみたいに筆へ向かう。持ち主である俺だけが、床に尻をつけたまま「いや、決まってないが」と内心で抗議していた。
抗議は、もちろん採用されない。世の中には弱者の意見を聞くふりだけして踏みにじる連中がいるが、古代文明の遺物はその点だけ潔い。最初から聞く気がない。
黒い筆は書見台の下からせり上がったまま、赤い穂先をしっとり濡らしている。
乾いていない。
千年前の血が乾いていない筆など、日用品の棚には置かないでほしい。少なくとも値札に注意書きを付けろ。『使用者の意思を奪います。返品不可』と。ついでに小さく『精神への苦情は製造元まで』と書いておけ。製造元はもう滅びているので、苦情窓口としては満点だ。誰も責任を取らない。
「ノエル!」
リゼが俺の手首を掴んだ。
ぎり、と骨が鳴る。痛い。痛いが、ありがたい。騎士団長代理の握力は、時々、人間の規格から休暇を取る。
獣の匂いが近づいた。雨に濡れた革鎧、鉄、血、そしてリゼ自身の熱い獣臭さ。宮廷の香油よりよほど信用できる匂いだ。少なくとも、俺を筆入れにしようとはしない。
彼女の息が耳元で荒い。怒っているのではなく、獣化を押さえつけながら俺を押さえつけているせいだ。面倒な男で申し訳ない。俺だって好きで古代の筆に口説かれているわけではない。
「止められるか」
「止めている」
「俺の手首が先に止まりそうだ」
「折るか?」
「相談の段階を一つ飛ばすな」
冗談を言っている余裕など、もちろんない。だから言う。余裕がないときに黙ると、俺はだいたい悪い文字を読む。
筆の軸に刻まれた命令が赤く脈打つ。
『証人は、切除理由を追記せよ』
証人。
それが今の俺の登録名だ。さっき俺自身が、替え芯扱いを逃れるために引き受けた役目でもある。世の中、逃げ道の先に別の落とし穴が用意されている。親切設計だ。製作者を呼べ。いや、呼ばなくていい。たぶん呼ぶと筆を持っている。
命令文は短い。短いくせに、首輪みたいに重い。古代語の嫌なところはそこだ。余計な修飾を省いて、骨だけで人を縛る。
ピピが俺の肩の横でぶるぶる震えていた。
「の、のら……その筆、ピピの中まで引っ張るのら」
「お前もか」
「文字が、勝手に並ぼうとするのら。『繰り返せ』が、また来るのら」
小さな体を作る文字が、ほどけかけている。丸い目の輪郭が崩れ、耳のように跳ねていた記号が細い線になって震えた。俺は歯を食いしばった。
ピピは言葉から生まれた。だから命令に弱い。無垢な残響を、また誰かの署名の道具に戻す気か。
ふざけるな。
俺の手だけならまだいい。いや、よくはないが、俺の手は俺のものだ。筆にされるのも腹が立つ。だがピピは違う。あいつはインクを舐めて喜び、くしゃみで汚染を知らせ、時々どうでもいいところで偉そうにする、ただの小さな仲間だ。
ただの、という言葉は大事だ。
道具ではない、という意味だから。
「リゼ、筆を遠ざけられるか」
「やっている」
リゼの腕に銀毛が走った。爪が伸び、俺の手首を包むように押さえ込む。彼女の肩越しに、床の文字列が見えた。青くなったはずの主文の端が、赤に戻りかけている。
長くはもたない。
術式は消せない。命令を破るだけでは、すぐ別の命令が来る。古代の仕掛けは、壊れた椅子よりしつこい。座れないのに居座る。なら、俺の仕事は一つだ。
読む。
そして、一語だけ書き換える。
問題は、文字が筆の軸にあることだ。つまり触れる必要がある。触れれば命令が深く入る。いつものことだが、俺の能力は鍵穴の向こうに鍵を置くような設計をしている。祖父なら「文句を言う暇があれば読め」と言うだろう。はいはい、分かっていますよ、じいさん。
俺には魔力がない。光る剣も出ないし、炎の一つも撃てない。できるのは、読んで、見つけて、一語だけ汚く爪を立てることだけだ。地味で、危なくて、報酬欄に書くと雇い主が首を傾げる能力である。
「リゼ。俺の手を筆の軸に触れさせてくれ。ただし、穂先には触れさせるな」
「無茶だ」
「知ってる。俺の職歴はだいたい無茶と低賃金でできている」
「失敗したら?」
「俺が王の切除理由を書く。たぶん、俺の血で」
「たぶんでは済まない」
「だから、済ませる」
リゼは一瞬だけ息を止めた。それから俺の手首を掴む力を変えた。止めるための力から、導くための力へ。
信頼というやつは重い。持ち上げる筋肉がない俺には向かない。だが背中に預けられると、倒れない程度には踏ん張れる。
俺の指先が筆の軸に触れた。
冷たい。
次の瞬間、頭の中に赤い水が流れ込んだ。
いや、水ではない。文だ。血で書かれた、読ませる気のない文。切れ切れの命令、折れた署名、噛み潰された名前。誰かの悲鳴が文字の形をして、目の裏を引っかいてくる。
『王名を残すな』
『初期名を隠せ』
『民を器にするな』
『国を止めるな』
『繰り返せ』
矛盾している。
王は国を作った。だが、民を器にするなとも書いた。国を止めるな。名を残すな。隠せ。残すな。繰り返せ。
頭が割れそうだった。俺の頭はもともと高級品ではない。割れても替えがきかないので困る。
文字の奥に、誰かがいる気配がした。人影ではない。署名の残りかす。名乗ることを禁じられたものが、名乗れないまま命令だけを投げている。そんな気配だ。
筆の命令が俺の指を内側から開かせる。リゼが爪を立てて止める。痛みが走り、その痛みのおかげで俺は戻ってこられた。
「ノエル、今だ!」
読め。
『追記』。
理由を追って、記せ。
ここが罠だ。理由を書くな、と拒否しても命令は残る。拒否は空白を作るだけで、空白にはまた同じ命令が流れ込む。なら、記す行為を変える。
追って、記すのではない。
追って、跡をたどる。
俺は『記』の言葉を掴んだ。糸偏のように絡む記録の線を剥がし、足の形へ落とす。言葉を紙に固定する命令から、痕跡をたどる命令へ。ほんの一語。だが、古代語では一語が刃にも橋にもなる。
『証人は、切除理由を追跡せよ』
筆が跳ねた。
穂先から赤い雫が飛び、床に落ちる前に文字になった。『不可』。すぐに別の文字が重なる。『既定』。さらに『追記せよ』が戻ろうとする。
「戻るのら!」
「分かってる!」
俺は軸から指を離さない。離せば終わる。だが触れ続けるほど、俺の手は筆を握ろうとする。リゼの爪がさらに食い込んだ。
血が出た。
俺の血だ。古い赤の上に、新しい赤が混じる。嫌な音がした。書見台が唸り、壁の紙層が一斉にめくれた。
無数の行が走る。
『追跡命令、証人権限内』
『追記命令、保留』
『切除理由、封印層へ接続』
筆の力がふっと抜けた。
俺の右手が戻ってくる。自分の手が自分のものに戻る感覚は、思ったより感動的だった。普段からもっと大事にしよう。皿洗いとかは別の手に任せたいが。
俺はその場に前のめりに崩れた。リゼが肩を抱えて支える。彼女の体温が鎧越しに伝わってきた。獣の熱と、雨と鉄の匂い。生きているものの匂いだ。ピピが俺の髪にしがみつき、文字の尾を絡めた。
「ノエル、生きてるのら?」
「今、かなり雑に生きてる」
「雑でもいいのら」
「俺もそう思う」
息を整える暇はなかった。
書見台の背後、第四基文のさらに奥で、紙層が一枚だけ剥がれ落ちた。落ちた紙は床に触れず、空中で広がる。そこに絵ではなく、文が現れた。
古代語の記録文。
日付は建国紀元の初日。署名は途中で切られている。切り口は焼けていない。刃物で断ったように、白く鋭い。名を消したというより、自分の首を落としたような断面だった。
俺は喉を鳴らした。
「本当に、自分で切ったんだな」
リゼが低く言う。
「なぜだ」
「今から読む」
読めるところは少ない。だが、少ないからこそ逃げ場がない。
『私は王名を国家基礎より切除する』
『理由一、王名を残せば、後継者は王を呼ぶ』
『理由二、王を呼べば、民名は材料へ戻る』
『理由三、署名の主は死なない』
最後の一行で、俺の背筋が冷えた。
死なない。
比喩か。祈りか。術式上の機能か。
俺は比喩であってくれと心の底から願った。だがこの国は、俺の願いを聞いてくれるほど性格が良くない。
リゼも黙っていた。剣を握る手がわずかに沈む。彼女は戦う相手なら怯まない。だが、死なない署名という相手にどう斬りかかればいいのか、俺だって知りたい。知っていたら今ごろもっと高い宿に泊まっている。
さらに下の文は焼けていた。いや、違う。焼けたのではなく、意図的に塗り潰されている。黒い署名札と同じ色。あの残響の色だ。
ピピがくしゃみをした。
「くしゅん! のらっ、いるのら!」
「何が」
「モルグみたいな、でももっと古い文字の匂いなのら!」
部屋の温度が下がった。
紙層の奥から、かすれた音がした。声ではない。羽ペンが紙を引っかく音だ。何百年、何千年と同じ場所をなぞり続けたような、乾いた音。
黒い塗り潰しの一部がほどける。
文字が一つ、現れた。
『返』
返せ。
何を。
答えはすぐに来た。
床の端、俺たちが入ってきた円形室の入口とは反対側に、細い扉が浮かび上がった。扉というより、紙を縫い合わせた裂け目だ。幾重もの紙片が糸もないのに閉じ合わされ、呼吸するようにかすかに開閉している。その上に古代語が刻まれている。
『王名保管庫』
リゼが剣を抜いた。抜き身の銀が、赤い床文字を冷たく映す。
「行くのか」
俺は自分の右手を見た。血が滲み、指先は震えている。筆を握らずに済んだ手だ。だが、まだ読める。
「行く。王の名を誰かに返す前に、誰が返せと言っているのか確かめる」
「罠なら」
「罠じゃない扉がこの地下にあったら、俺は逆に泣く」
ピピが俺の肩に乗り、震えながらも胸を張った。胸と呼んでいいのかは分からない。文字の集まりにも、見栄を張る場所くらいは必要だ。
「ピピも行くのら。『繰り返せ』に戻らないのら」
「ああ。戻させない」
俺たちは扉へ向かった。
床の文字が足裏で細かく震える。リゼが半歩前、俺がその後ろ、ピピが肩の上。戦力としては偏っている。剣と爪と、読めるだけの貧弱な男と、くしゃみをする残響。王の名を相手にするには、だいぶ心細い。
だが、ここで立ち止まれば、筆はまた誰かに書かせる。ピピの小さな文字も、俺の右手も、まだ名を持っている誰かの命も、まとめて材料に戻されるかもしれない。
それだけは、嫌だった。
三歩目で、扉の向こうから内側を叩く音がした。
一度。
二度。
三度。
そして、古代語ではなく現代の言葉で、誰かがはっきりと言った。
「ノエル・アルクム。私の名を、まだ読むな」
(第45話へ続く)




