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穴を名前で埋めるな

 石の巻物が割れる音は、紙を破る音に似ていた。


 もちろん、紙は普通、人間を挟んで閉じたりしない。少なくとも俺のいた写本室ではそうだった。王都の地下では紙も石も礼儀を忘れているらしい。上司が悪い。建国王まで遡るなら、ずいぶん長い職場環境の問題である。


 縦に走った裂け目から、白い光が漏れた。


 リゼが俺を背後へ押しやる。押し方が優しい。優しいが、肋骨に相談してからにしてほしい強さだった。


「下がれ」


「今の俺は、下がる以外の移動手段を持っていない」


「なら黙っていろ」


「それは難しい。怖い時ほど口が働くんだ。安物の戸車みたいに」


 ピピが俺の肩にしがみついた。文字の小さな体が震えている。インクと紙埃の匂いがした。こいつは無臭のありがたい神秘ではない。ちゃんと生き物じみていて、心配になるほど頼りない。


「中、からっぽじゃないのら」


「嬉しくない報告だな」


 裂け目が完全に開いた。


 中に、人は入っていなかった。


 代わりに、石の内側一面へびっしりと文字が刻まれていた。血管のように細い文、骨のように太い文、何重にも折り返された注釈。中心には、小さな書見台があった。台の上に置かれているのは、黒く焦げた一枚の名札。


 いや、名札ではない。


 署名だ。


 末尾に付くはずの製作者の名だけが、札に切り出され、鎖で書見台へ縫い留められている。


 俺は喉の奥が冷えた。


「署名を、閉じ込めてある」


 リゼが剣を構えたまま問う。


「署名とは、術式の作者名ではなかったのか」


「普通はそうだ。普通ならな。普通という言葉は、この地下に入ってからずっと休暇中だけど」


 署名は作者の証明だ。末尾に誰が書いたかを示す。俺たちが各地で見てきた同じ印。フォグレスの井戸にも、リゼの守護術式にも、眠る石碑にもあった、あの筆跡。


 それが今、札として切り出されている。


 名前を縛れば、書いた者を縛れる。そんな理屈が成り立つなら、名札を奪われた民が棺に引かれた理由も分かる。分かりたくないが、分かってしまう。俺の仕事はいつもそうだ。最悪の文ほど、読みやすい。


 内壁の文字が赤く灯った。


『アルクム血統確認』

『内側拘束解除、校正権を継承』

『署名片を初期名へ接続せよ』


 書見台の鎖が鳴った。


 焦げた署名札が、こちらへ少し浮く。


 俺の左手首の傷が熱を持った。縛った布に血が滲む。さっき税金のように取られたばかりなのに、王都地下は追加徴収が好きらしい。徴税吏ならせめて領収書を出せ。


「ノエル、手を見せろ」


 リゼが振り返った瞬間、床から文字の輪が跳ねた。


『継承者保護』


 保護という言葉は、たいてい相手を縛る時に便利に使われる。今回も例外ではなかった。透明な文が俺の足首と腰に巻きつき、書見台の方へ引いた。


「保護って言葉を禁止しろ!」


 俺は石床を爪で掻いた。情けない。だが情けなさで摩擦は増えない。


 リゼが飛び込む。銀の毛が首筋に広がり、獣化の気配が濃くなる。鋼と獣の匂いが混じった。怖いはずの匂いなのに、今は生きている証拠としてありがたい。


「伏せろ!」


「もうほとんど伏せている!」


 剣が文字の輪を断った。だが切れた端から文が再接続する。巡回文だ。俺が一語いじっても数秒で戻る種類のやつだ。まったく、仕事熱心な文章は嫌いだ。俺を見習ってもっと給料分だけ働け。


 ピピがくしゃみを連発した。


「へくしゅ、へくしゅん! これ、モルグの文じゃないのら! でも、モルグが真似してた文なのら!」


「本家か」


 俺は引きずられながら内壁を読む。


『保護』。

『継承』。

『接続』。


 問題はどれだ。


 保護を壊しても戻る。継承を拒めば、おそらく俺の血をもっと取る。接続は署名片を初期名へ繋ぐ命令。これを通せば、王名欠落が埋まるかもしれない。だが、何で埋まる?


 アルクムの血で。


 俺はぞっとした。


 王の名が欠けるとき、民の名を借りて輪郭を保て。


 第二基文の答えが、今さら首をもたげる。民だけではない。校正者の家名も借りる。いや、借りるなんて上品なものではない。持っていくのだ。


「リゼ、俺が書見台に触る前に止めろ!」


「分かった」


「できれば俺を二つにせず!」


「努力する」


「そこは断言してくれ!」


 リゼが俺の腕を掴み、踏みとどまる。床石が軋んだ。彼女の指が痛い。ありがたい痛みだ。今日だけで痛みの種類に詳しくなりすぎている。写本係の職務範囲に入れてほしくない。


 俺は右手を伸ばし、足首に巻いた文へ触れた。


 読め。


 怖がるな。いや、怖がっていい。怖がりながら読め。俺はいつだってそうしてきた。魔力ゼロの男にできる勇敢さなんて、震える指を一文字分だけ進める程度だ。


『継承者保護』


 保護。


 守る。


 だが守る対象は誰だ。俺ではない。術式自身だ。継承者を壊さず、書見台に運ぶための文。なら、保護を別の向きに変える。


 削除はできない。


 否定も危険だ。


 一語だけ。


 俺は『保』の人偏に爪を立てた。石の文字が熱い。血がにじむ。人を守る字から、人を外す。代わりに手を添える。守るのではなく、留める。


『継承者保留』


 輪が止まった。


 俺の体は書見台の一歩手前で固定された。引かれもしない。解放もされない。実に俺らしい立場だ。採用も不採用もされず、廊下で待たされる元写本係。


 リゼが俺を後ろへ引こうとして、動かないことに気づく。


「保留か」


「俺の人生を一語で表すとこうなる」


「悪くない。生きている」


「基準が低くて助かる」


 だが保留は時間稼ぎだ。数秒で戻る。俺は内壁の奥、署名札に続く主文を読んだ。


『初期名を参照せよ』

『初期名欠落時、血統名で代替せよ』

『代替名、王体中枢へ送付』


 これだ。


 初期名が焼かれているから、アルクムの名で代替する。俺が触れれば、王の欠けた名に俺の家名が流し込まれる。王都を保つために、今度は俺の名が使われる。


 祖父はこれを知っていたのか。


 最後の読み手だった祖父は、だから俺に言ったのか。名を雑に扱うな、と。誤字は人を殺す、と。


 胸の奥が熱くなった。


 怒りではない。いや、怒りもある。だがそれより、悔しさだった。俺は祖父のことを、少し口うるさい古い写本係だと思っていた。パンの硬さと筆の寝かせ方に同じくらい厳しい老人だと。


 その人が、こんな場所を見ていた。


 こんな文から俺を遠ざけようとしていた。


 俺は歯を食いしばった。


「ピピ。黒い札の端、読めるか」


 ピピが涙目で首を振る。涙目と言っても文字の揺らぎだが、見れば分かる。


「焦げすぎなのら。でも、終わりだけ残ってるのら」


「何て書いてある」


「……『繰り返せ』のら」


 書見台の署名札から、細い黒文が伸びた。


 ピピの体がびくりと跳ねる。


 俺の腹の底に冷たいものが落ちた。


 ピピを生んだ言葉。眠る石碑の底でトマスが聞いた声。各地の壊れた術式にこびりついていた孤独な命令。


 署名の主は、ただ書いたのではない。


 自分の署名を、繰り返し続けさせている。


 内壁の主文が戻り始めた。『保留』の留が震え、『保護』へ巻き戻ろうとする。


「時間切れだ」


 俺は息を吸った。


 直せる場所は一つしかない。


『血統名で代替せよ』。


 代替。ここを変える。


 初期名がないから別の名を入れる。それが間違いだ。欠けているなら、欠けていると記録しろ。穴を人間で埋めるな。分からない箇所に勝手な字を足す写本係は、写本係ではなく偽造屋だ。


 俺は書見台の縁に指を伸ばした。触れれば接続が走る危険がある。だが触れなければ書けない。俺の能力はいつも、親切なくらい不便だ。


 リゼが俺の背に手を添えた。


「行け。戻す」


「簡単に言う」


「命を預けると言った」


「あれ、俺の命も含まれてたのか」


「当然だ」


 俺は笑い損ねた。胸が詰まって、皮肉が少し遅れた。


「高価なものを預けるなよ。管理が下手なんだ」


 指先が主文に触れた。


 熱が走る。


 俺は『代替』の『替』を削った。上の二つの夫を崩し、日を開く。入れ替えるための字を、見つめ直すための字へ。


『血統名で代読せよ』


 違う。


 読むだけでは、また利用される。


 俺はさらに一画を曲げる。読みに手を入れる。読む者を証人にする。


『血統名で代証せよ』


 文が止まった。


 赤い光が青へ変わる。


『代替名、送付中止』

『欠落初期名、欠落として記録』

『証人名ノエル・アルクム、参照権限を保持』


 足首の輪がほどけた。俺は後ろへ倒れ、リゼに受け止められた。今度こそ格好のつけようがない。英雄ならここで片膝をつくのだろうが、俺は両膝と尻をまとめて石床に納品した。


「成功、か」


 リゼの声が近い。


「少なくとも、俺の姓は王様の替え芯にならずに済んだ」


「替え芯とは何だ」


「写本係の悪夢だ」


 ピピがふらふら飛んできて、俺の頬にくっついた。


「ピピ、吸われなかったのら」


「ああ。よく耐えた」


「こわかったのら」


「俺もだ」


 そう言うと、ピピは少しだけ落ち着いた。小さな文字の体が、俺の頬で温かく揺れる。弱いものに嘘をつくのは簡単だ。大丈夫だ、怖くない、と言えば、その場はきれいに見える。だが怖いものは怖い。だから一緒に怖がって、それでも字を読む方がましだ。


 書見台の鎖が外れた。


 焦げた署名札は消えず、白い灰を落としながら浮いている。そこに新しい一行が浮かび上がった。


『証人登録完了』

『第四基文、開示』


 内壁が反転した。


 今まで石だと思っていた面の奥に、薄い紙層が何百枚も重なっている。国の基文。王の保存容器。民の名札。子供を鐘にする仕掛け。すべてを束ねる、さらに奥の文。


 第四基文は短かった。


『王名欠落の原因は、王自身による署名切除である』


 リゼが息を呑む。


 俺も声が出なかった。


 建国王の名が誰かに焼かれたのではない。


 王が、自分で自分の署名を切った。


 その瞬間、書見台の下から金属音がした。床が四角く沈み、黒い筆が一本、せり上がってくる。筆先は乾いていない。赤い。さっきの俺の血より、もっと古い赤だ。


 筆の軸には、古代語で命令が刻まれていた。


『証人は、切除理由を追記せよ』


 俺の右手が、筆に向かって勝手に持ち上がった。


(第44話へ続く)

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