人を材料にするな
閉じた入口を、リゼが一撃で叩いた。
黒石の扉は鳴りもしない。さすが建国術式の中枢だ。客を閉じ込める性能だけは一流である。王都の役所も見習うだろう。見習わなくていい。
「下がっていろ、ノエル」
「下がりたいのは山々だが、俺の血が床に就職活動を始めている」
左手首から落ちた血は、床の溝を走っていた。赤い線は円形室の中心、石の巻物へ吸い寄せられ、第一基文の下に浮かんだ俺の名をなぞる。
『校正者ノエル・アルクムを、王の補修材として受理した』
俺はその一行を見るたび、胃の底が冷えた。
補修材。
人間に向けて使う言葉ではない。せめて労働者とか、協力者とか、犠牲者とか、もう少し感情の入ったひどい言い方があるだろう。材料扱いは事務的すぎる。殺意に礼儀がない。
壁面の文字が青く巡り始めた。
『損耗箇所、三十二』
『王体保存率、五十一』
『補修材、展開準備』
床から細い文字列が伸びる。縄ではない。文だ。『骨格』『血液』『記憶』『名前』という単語が絡み合い、俺の足首へ這ってきた。
「ピピ、くしゃみは?」
「へっ、へっ、へくしゅんのら! ここ全部が汚いのら! お掃除という概念に謝るのら!」
「概念に謝る余裕があるなら、汚染の濃いところを教えろ」
ピピは俺の肩から飛び、文字の羽をばたつかせた。インクと古紙の匂いが鼻をかすめる。隣ではリゼが剣を構え直した。汗と鉄と、抑え込まれた獣の匂いが混じっている。生きている匂いだ。こういう場所では、それだけで頼りになる。
「中央柱の下、黒い輪っかのところが一番くさいのら!」
「助かる。リゼ、俺をあそこまで運んでくれ」
「歩けないのか」
「歩ける。ただ、足に文章が絡んでいる。人生でこれほど文体に足を引っ張られたことはない」
リゼは返事の代わりに俺を抱えた。
抗議する前に、視界が横に流れる。彼女は文字の縄を踏み砕くように走った。実際には砕けていない。だがリゼの脚力は、術式が俺を引く速度より速い。理屈を腕力で追い越す女騎士。俺の人生に足りなかったものの代表である。
柱の根元には、黒い環状文が刻まれていた。
『補修材を王体欠損へ配分せよ』
なるほど。俺を材料として受理し、足りない部分へ配る。親切な物流だ。荷物が俺でなければ感心していたかもしれない。
俺はリゼの腕から降り、膝をついた。左手の血が環状文に垂れる。途端に、文字が喜んだように赤く光った。
「ノエル、触れればさらに吸われるぞ」
「触らなければ読めない。読めなければ直せない。俺の才能はいつも労働条件が悪い」
右手は焼け跡で痛む。左手首は裂けている。まともな指が何本残っているか数えると気が滅入るので、数えないことにした。写本係時代に学んだ大切な知恵だ。締切と傷口は、見つめるほど悪化する。
俺は血のついた左指を、環状文の『材』に押し当てた。
瞬間、頭の中に冷たい声が流れ込む。
『材料は形を問わない』
『王の保存を最優先とする』
『校正者は欠損を知る者である』
『欠損を知る者は、欠損へ充当可能である』
ひどい三段論法だ。俺が穴を見つけられるから、俺を穴に詰めてよい。だったら井戸の位置を知っている者は全員井戸蓋にされる。国中が平らになるぞ。
だが、術式の理屈は見えた。
俺は登録されたから襲われているのではない。
登録名の分類が悪い。
校正者でありながら、補修材として受理された。だから術式は俺を道具ではなく物資として扱っている。ならば分類を変える。消せない。解けない。俺ができるのは一語だけだ。
『補修材』を何にする。
協力者。違う。王の保存に協力する者として縛られる。
校正者。すでに登録されている。重複した肩書きは古代術式が嫌う。たぶん俺も嫌う。役職が二つある職場は大抵、給料が一つだ。
証人。第三区画で使った。だがここは中枢だ。証人は見届ける者で、手を出す権限が弱い。
俺は第一基文を見上げた。
『この国は、王を保存する器である』
王を保存する器。なら、器に必要なのは材料ではない。壊れた器を直すとき、最初に必要なのは何だ。
欠けを埋める土ではない。
割れ目を読む目だ。
「……参照者」
口に出した瞬間、ピピが耳元で震えた。
「読みに行く人のことのら?」
「そうだ。参照者は、材料じゃない。原文を見るために必要な外部の目だ」
「外部ってなにのら」
「この石巻物の腹の中に入っていない、かわいそうで貧乏な目だ」
「ノエルのら」
「正解だ。もう少し言い方を飾ってくれ」
リゼが文字の縄を剣で押さえつける。斬れはしないが、剣身で俺への道を塞ぐことはできた。刃の上を青い文字が滑り、彼女の手袋を焦がす。
「長くは持たん」
「俺の人生で長く持ったものなんて貧乏くらいだ」
俺は『補修材』の『材』を睨んだ。
材。材料。物。切られ、削られ、混ぜられるもの。
ここを『照』に変えるのは無理がある。字形が離れすぎている。俺は魔法使いではない。文字の骨格を折って別人にするほど器用な詐欺師でもない。
だが『材』の木偏を崩し、旁を焼けた血で結び直せば、『考』に寄せられる。
補修材ではなく、補修考。
いや、それでは不格好すぎる。古代語の用法なら『考』は検討する者、参照する者にも伸びる。現代語に綺麗に直せば、補修考者。俺の肩書きとしては最悪に格好悪いが、材料よりはましだ。格好悪さで命が助かるなら、俺は喜んで看板を背負う。
指先を押し込む。
血が吸われる。視界の端が白む。環状文の底から、王の欠損が俺を呼んだ。空洞。冷えた棺。鐘の残響。名札の山。どれもこれも、誰かの人生を切り貼りして作った保存箱だ。
俺は吐き気を噛み殺した。
「人を材料にするな」
声が震えた。怒りか、失血か、単に俺の根性が薄いからかは分からない。全部だろう。俺は万能の英雄ではない。血が減れば寒いし、怖ければ足が震えるし、書き損じれば死ぬ。
だからこそ、間違った文をそのままにしたくない。
『材』の木偏を潰す。
右払いを引き戻し、下へ曲げる。
文字が悲鳴を上げた。
『補修材』が崩れ、『補修考』へ変わる。
環状文の赤い光が止まった。
俺の足首に絡んでいた『骨格』の文がほどける。『血液』が床へ落ち、『記憶』が薄い紙片になって散る。リゼの剣を這っていた文字も力を失い、煤のように剥がれた。
『分類矛盾』
『補修材、該当なし』
『補修考、参照権限を付与』
俺は膝から崩れた。
リゼが背中を支える。彼女の腕は熱く、鎧は硬く、獣の匂いは少し濃かった。安心とは、案外こういう不格好な形をしている。
「成功か」
「俺がまだ床材になっていないので、成功に分類していい」
「血が多い」
「王都は何でも税にするな」
リゼは布を裂いて俺の左手首を縛った。力が強い。痛い。だがありがたい。痛いありがたさというものが世の中にはある。写本室では学べなかった種類の知識だ。
ピピが俺の鼻先に降りて、心配そうに揺れた。
「ノエル、薄くなってないのら?」
「君と違って俺は文字でできていない。たぶん薄くなる前に倒れる」
「倒れたら運ぶのら」
「君の大きさで?」
「気持ちで運ぶのら」
「重傷者に一番向かない運搬方法だな」
少し笑えた。笑ったら傷が痛んだ。人間の身体は本当に融通が利かない。
だが、危機は一つ越えた。
俺は改めて石の巻物を見上げる。環状文の分類が変わったことで、第一基文の下に新しい案内が浮かんでいた。
『補修考ノエル・アルクム』
『参照可能範囲、第一基文から第三基文まで』
『未承認範囲、王体中枢』
「第三まで読めるらしい」
「読むべきか」
リゼの声は低い。止める気ではない。だが、選ばせてくれている。
こういう時、彼女は命令しない。俺が自分の足で泥に入る余地を残す。騎士としては甘いのかもしれないが、俺にはその甘さがありがたい。
「読む」
俺は立ち上がった。少しふらついたが、リゼが肩を貸してくれた。情けない姿だ。だが情けないまま進むのが、俺の専門である。
第二基文が青く浮かぶ。
『王の名が欠けるとき、民の名を借りて輪郭を保て』
胃が重くなった。
名札。棺守り。子供を鐘にしようとした仕掛け。すべてここにつながる。王の名が欠けているから、民の名で輪郭を保つ。保存容器は、王を守るために国を削っていた。
リゼが歯を食いしばる音がした。
「民は、王の包帯ではない」
「ああ」
俺は短く答えた。怒りに長文はいらない。長文が必要なのは、怒りを仕組みに直すときだ。
第三基文が現れる。
『校正者は、王名欠落を発見次第、初期名を参照せよ』
初期名。
王の最初の名。建国王ヴェルバ。最後の王。いや、俺たちがそう呼ばされてきた名の前に、別の名があるのか。
第三基文の下に、小さな余白が開いた。そこだけ石が削られ、紙のように白い。余白には焼け跡があった。故意に焼かれた痕だ。フォグレスの井戸、リゼの呪い、眠る石碑と同じ、あの嫌な焦げ方。
ピピが大きなくしゃみをした。
「へくしゅん! ここ、モルグのにおいじゃないのら。もっと古くて、もっと深いのら」
「署名の主か」
俺は余白に指を近づけた。触れた瞬間、白い部分に残っていた灰が動く。消された文字が、灰の下から戻ろうとしている。
読める。
完全ではない。だが、一部なら。
『初期名――アル……』
俺の呼吸が止まった。
アル。
アルクム。
祖父の姓。俺の姓。偶然だと言うには、ここまでの術式は性格が悪すぎる。
その時、閉じたはずの入口ではなく、石の巻物の内側から音がした。
こつん。
内側から、誰かが叩いた音だった。
続いて、石の表面に新しい文が一行、爪で刻むように浮かび上がった。
『アルクムの血を確認。内側拘束を解除する』
石の巻物が、縦に割れ始めた。
(第43話へ続く)




