不要な名などない
王都の地下は、思ったより律儀だった。
一段降りるたび、靴裏に文字が触れる。
『仮登録者、歩行確認』
『右足、所有名一致』
『左足、所有名一致』
足まで役所に調べられるとは思わなかった。王都の官吏どもが聞いたら泣いて喜ぶだろう。いや、あいつらは自分の足の持ち主を証明する書類を三枚要求してくるので、古代術式のほうがまだ人道的かもしれない。
階段は狭く、壁は黒い石でできていた。石の表面には細い白文字が這い、俺の呼吸に合わせるように明滅している。上からはまだ広場のざわめきが落ちてきた。歓声、泣き声、誰かが役人を怒鳴る声。生きている街の音だ。
下からは何も聞こえない。
読まれなかった文は、黙っている。
「ノエル!」
背後からリゼの声が降ってきた。怒り五割、心配四割、残り一割はたぶん俺を蹴るための助走だ。
「早いな」
「コルムが半泣きで走ってきた。『兄ちゃんがまた一人で死にに行った』と」
「人聞きが悪い。俺はまだ死に方を選んでいる途中だ」
「選ぶな」
リゼが階段へ踏み込んだ瞬間、壁の文字が一斉に赤くなった。
『未登録獣性、進入禁止』
鋭い線が石壁から伸び、リゼの胸元を刺そうとする。俺は反射的に手を伸ばしかけ、焼けた右手の痛みで顔が歪んだ。役立たずの手ほど、こういう時だけ存在感を主張する。普段はもっと謙虚でいてほしい。
リゼは剣で線を払った。白い刃に赤文字が巻きつき、火花の代わりに細かな文字片が散る。
「私は獣ではない」
「知ってる。だがこの階段は礼儀を母の腹に置き忘れて生まれたらしい」
ピピが俺の肩口から顔を出した。インク壺を抱えたままなので、非常時の装備としてはずいぶん食い意地が前面に出ている。
「くしゅん。下、まずいのら。古い文字が腐って煮詰まってるのら」
「味見するなよ」
「しないのら。ちょっとだけ匂うだけのら」
ピピは鼻もないのに鼻を押さえた。文字でできた小さな身体が、赤い明滅に照らされて震えている。無理もない。ここはたぶん、ピピのような残響にとって墓場と食卓と処刑台を混ぜた場所だ。表現がひどい? 俺もそう思う。
階段の文字はリゼを拒み続けていた。
『未登録獣性、削除準備』
「削除はできないくせに、物騒な言い方だけは一人前だな」
俺は左手で壁に触れた。右手はまだ布の中で脈打っている。左手も大事にしたい。俺の商売道具は目と指だ。片方ずつ失う予定など、人生設計に含めていない。
文字列を読む。
『入室者は、王都建国時に登録された民名または王命保有者に限る。獣性混入個体は、基文汚染を防ぐため排除する』
汚染。
その言葉が、壁の中でやけに新しかった。千年前の文の中に、後から焼き足したような焦げがある。リゼの欠落部、トルク村の井戸、眠る石碑。あの嫌な焼け跡と同じ匂いだ。
「リゼ、少し動くな」
「了解した」
「本当に動くなよ。騎士は『少し』を戦術的に拡大解釈する」
「お前ほどではない」
正しい反論をされると腹が立つ。俺は赤く光る『排除』に爪を立てた。
リゼは排除対象ではない。だが、ここで『受入』に変えれば何でも通す穴になる。建国術式の腹の中で、そんな雑な戸締まりをする勇気はない。俺は勇敢ではなく、臆病の熟練者だ。だから生き残っている。
『排除』を、『照合』へ。
線がほどけた。
『未登録獣性、照合準備』
『既存守護術式との署名一致』
『入室を一時許可』
リゼの胸元で、銀の毛がざわりと揺れた。獣化の呪いが、奥から名を呼ばれたように反応する。
「私の術式と、ここがつながっているのか」
「署名が同じだ。嬉しくない親戚がまた増えたな」
「家系図に斬る欄を作っておく」
「頼もしいが、紙が足りなくなる」
リゼが俺の前に立った。狭い階段で前後を入れ替わるのは難しい。彼女は肩で壁を押し、俺を背に庇う形になる。近い。汗と革と血の匂いがした。戦場から来た人間の匂いだ。安心する、と言うと怒られそうなので言わない。俺にも多少の生存本能はある。
さらに降りると、階段は唐突に終わった。
そこには扉があった。
扉、というより、閉じた本の表紙だった。黒石の巨大な板に、銀の留め具。中央には古代語で一文だけ刻まれている。
『第一基文に入る者は、入室料として不要名を納めよ』
俺はしばらく黙った。
嫌な文だ。
金を取られるほうが百倍ましである。金はなくなるだけだ。名前は、なくなった後に自分が何だったか分からなくなる。
「不要名とは何だ」
リゼが低く問う。
「所有者が不要と判定した名前、または術式が不要と判定した名前だろうな」
「後者なら危険だ」
「前者でも十分嫌だ。俺が『寝不足』という名を捨てられるなら喜んで納めるが、術式はそういう冗談を理解しない」
扉の前の床に、薄い影がいくつも重なっていた。人影ではない。文字の抜け殻だ。かつてここまで来た何者かが、名の一部を置いていった跡。
その中に、見覚えのある筆画が混じっていた。
オズワルド。
全部ではない。『ワル』の辺りだけが床に薄く残っている。たいへん正直な抜け殻だと思った自分を叱りたい。だが、あの元上司がここへ来た可能性がある。あるいは王宮の誰かが、あいつの名札か文書を使って扉を開けようとしたのかもしれない。
「ノエル、顔が悪い」
「元からだ」
「そういう意味ではない」
「分かってる。ここは入室料を名で取る。王都で起きていた名札の騒ぎと同じ根だ」
ピピが俺の耳元で小さく震えた。
「名を食べる扉、きらいのら。ピピ、食べ物はインクがいいのら」
「健全でよろしい」
俺は扉の文字に触れようとして、少し迷った。
右手は使えない。左手で足りるか。扉は巨大で、文字は深く刻まれている。巡回中の術式ではない。基文そのものに近い。書き換えを弾かれれば、俺の指から名前を取られるかもしれない。
俺が黙っていると、リゼが剣を下げた。
「私の名を使え」
「却下」
「早いな」
「馬鹿な提案を丁寧に検討するほど、俺の礼儀は豊かじゃない」
「騎士として命を預けると言った」
「命と名前は別料金だ」
リゼが息を呑んだ。
俺は扉を見たまま続ける。
「君はもう何度も、自分が獣ではなく騎士だと証明してきた。ここでその名を払ったら、俺は何を直してきたんだ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。真面目なことを言うと背中がむずむずする。俺は本来、もっと机の隅で埃と仲良くしている人間だ。誰かの名前を守るなど、荷が重いにもほどがある。
だが荷が重いからといって、床に落としていいものでもない。
俺は扉の文をもう一度読んだ。
『不要名を納めよ』
問題は、入室料だ。
この扉は「代価」を求めている。代価なしで開ければ、防衛機構が別の形で噛みつく。なら、代価の意味を変える。
不要名ではなく、不要文。
扉の周囲には、後から焼き足された汚染文がある。『獣性混入』『排除』『不要名』。誰かが建国術式の入口を、名を奪う仕掛けに変えた。その焼けた追加文なら、捨てても扉の本体は困らない。むしろ困ってくれ。俺は困らせたい。
「ピピ、インクを一滴」
「ごはんを出すのら?」
「違う。君の非常食を社会に還元する時間だ」
「社会はいつもピピに厳しいのら」
ピピが渋々、抱えていた小壺からインクを一滴垂らした。俺は左の指先で受け、扉の『名』の字に押し当てる。
深い。
文字の底から、冷たいものが指を舐めた。名を探す舌だ。俺の中の『ノエル・アルクム』を嗅ぎつけ、引っ張ろうとしてくる。
冗談じゃない。俺の名は安物だが、安売りする気はない。
「ノエル!」
リゼの声が遠くなる。扉が俺の記憶をめくり始めた。写本室の埃。オズワルドの怒鳴り声。祖父の手。コルムの泣き声。ハンナの鍋。リゼが初めて「命を預ける」と言った夜。ピピがインクを舐めて腹をふくらませた朝。
全部、俺を作っている文字だ。
不要な名などない。
俺は歯を食いしばり、『名』の一画を押し潰した。
『不要名』を、『不要文』へ。
扉が震えた。
床に散っていた抜け殻が、一斉に浮き上がる。薄い文字片が渦を巻き、扉の周囲に焼き足された赤い文へ食いついた。『獣性混入』が剥がれる。『排除』の残りが砕ける。『名を納めよ』の命令が、黒い煤になって落ちる。
扉は入室料を取った。
ただし、払ったのは俺たちの名前ではない。誰かが後から貼りつけた、ろくでもない追徴税だ。
黒石の表紙が、ゆっくり開いた。
中は広い円形の室だった。
天井は見えない。壁一面に古代語が走り、中央には一本の柱が立っている。柱ではない。巻かれた紙だ。石でできた巨大な巻物が、床から天井まで伸びている。
その最下段に、第一基文が刻まれていた。
『この国は、王を保存する器である』
俺は息を止めた。
建国王の墓。棺。鐘。名札。民を材料にしようとした術式。ばらばらだった嫌なものが、一本の糸で縫われていく。
リゼが隣で剣を構える。
「保存、だと」
「王都は国じゃない。保存容器だ。最悪だな。役所の保管庫でもここまで性格は悪くない」
その時、室内の文字が青白く点いた。
『入室確認』
『校正者権限、仮登録から本登録へ移行』
『不足項目、血液署名』
床から細い針のような文字が伸び、俺の左手首に巻きついた。
逃げる間もなかった。
焼けた右手ではなく、まだ無事だった左手の皮膚が裂ける。赤い血が、第一基文の下へ吸い込まれていく。
「ノエル!」
リゼが文字を斬る。だが刃はすり抜けた。これは攻撃ではない。登録手続きだ。たちの悪い役所ほど、暴力より書類で人を縛る。
血が一滴、石の巻物に落ちた。
第一基文の下に、新しい一行が浮かび上がる。
『校正者ノエル・アルクムを、王の補修材として受理した』
俺は左手を押さえ、笑う余裕もなく、その文を読んだ。
「……入室料だけで済ませる気、最初からなかったらしい」
次の瞬間、円形室の入口が閉じた。
(第42話へ続く)




