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王都を保留にするな

 赤い文字は、鐘の内側で脈を打っていた。


『照合一致。建国術式、起動準備を開始』


 実に嫌な文章だ。


 「夕飯の準備を開始」なら俺も拍手した。ハンナの鍋なら命を懸けてもいい。いや、鍋に命を懸ける十九歳というのも将来性が暗いが、少なくとも国は揺れない。


 だが建国術式は違う。


 国を建てた文だ。城壁、街路、井戸、戸籍、鐘、門、王宮地下の棺。王都のあちこちに埋まった古代の文章が、一本の背骨でつながっている。


 その背骨が、今、寝返りを打とうとしている。


 床が二度目に震えた。


 鐘楼の外で悲鳴が上がる。広場の石畳に白い線が走り、まるで巨大な筆でなぞられたように文字列が浮かび上がった。古代語だ。俺には読める。読めてしまう。目がいいのも考えものだ。見なければ胃に穴も空かない。


『市民名簿、再照合』

『門番術式、初期位置へ復帰』

『徴税記録、基文へ同期』


「兄ちゃん、何て書いてあるの」


 コルムが震えた声で聞いた。


「役所が徹夜する文章だ」


「それ、怖いの?」


「ものすごく怖い。役所が徹夜すると、だいたい民が泣く」


 冗談にしたのに、喉の奥が乾いていた。


 再照合。復帰。同期。


 どれも一見まともな言葉だ。だから余計に悪い。壊す、焼く、殺すと書いてあれば誰でも止める。だが、整える、戻す、合わせると書かれた刃物は、笑顔で首に当たる。


 ピピが俺の襟元から顔を出した。いつもより文字の輪郭が薄い。


「くしゃみ、出るのら……っくしゅ、のら!」


 小さなくしゃみと同時に、ピピの身体から墨の粉が飛んだ。


「汚染か」


「汚染というより、古すぎるのら。乾いたインクが一斉に起きて、喉に入る感じのら」


「その喉、どこにあるんだ」


「気分の問題のら」


 気分でくしゃみができるなら、気分で俺の火傷も治してほしい。まあ、世の中そんなに親切ではない。


 リゼが窓際へ走った。外を見下ろした彼女の肩が強張る。獣化の呪いで銀に濡れた髪が、逆立つように揺れた。彼女は無臭の英雄ではない。血と汗と、焦げた革の匂いがする。今はその匂いが、俺を現実に縫い止めていた。


「ノエル、門が動いている」


「門?」


「南門だけではない。王都全体の門だ。開閉の鎖が勝手に巻き戻っている」


 初期位置へ復帰。


 なるほど。建国当時の初期位置が、今の市民にとって便利とは限らない。というか千年前の便利は、現代の迷惑である。祖父の古い靴を履いて全力疾走しろと言われるようなものだ。たぶん転ぶ。国ごと。


 下の広場では、人々が逃げようとしていた。だが石畳に浮かんだ線が足首へ絡む。名前を確認している。名簿と照合し、所属と居住区を合わせようとしている。


 コルムが窓に駆け寄り、顔を青くした。


「あの人、倒れた!」


 露店の女が膝をついていた。足首に白い文字が巻きつき、別の通りへ引きずろうとしている。住所が違うのだろう。王都の術式は親切心で人を家へ戻す。親切な縄ほど質の悪いものはない。


「リゼ、広場へ」


「君は」


「俺は鐘を読む」


「一人でか」


「一人だと落ちる。だからコルム、俺の腰帯を掴め。ピピは文字が跳ねたら噛め」


「のら! 噛む口はないけど噛むのら!」


「勢いだけは採用する」


 リゼは一瞬だけ迷った。


 その迷いがありがたかった。騎士としては広場を助けるべきで、相棒としては俺を置いていきたくない。その両方を抱えてくれる人間を、俺は知っている。だからこそ頼める。


「行け。弱い方からほどけ」


 俺が言うと、リゼは短く頷いた。


「死ぬな」


「死ぬ予定は写本係の給金表より後ろに回してある」


「それはすぐ来そうだな」


「否定できないのが悲しい」


 リゼが窓から飛び出した。銀の影が壁を蹴り、広場へ落ちる。下で悲鳴が一つ、安堵の声に変わった。彼女の剣が白い文字の縄を断ち切る音が、鐘楼まで届いた。


 俺は鐘の内側へ向き直る。


 赤い文章は増えていた。


『基文照合、一致』

『王都全域、建国時状態へ復帰』

『不一致名、補正対象』


 不一致名。


 俺の右手首が熱くなった。そこには、さっき書き換わった『校正者』の薄い筆画が残っている。俺はこの国の名簿にいない。追放された写本係で、教会からは盗人扱いされ、鐘には今しがた校正者として再登録された。役所に出したら窓口で三回ため息をつかれる身分だ。


 不一致名に入る可能性が高い。


 つまり、今の建国術式から見ると、俺は修正対象である。


「兄ちゃん、どうするの」


「どうしたい?」


「え、僕?」


「弟子志願なら考えろ。読めない時でも、何を守るかは考えられる」


 コルムは唇を噛んだ。窓の外、広場で引きずられる人々を見て、鐘の赤い文字を見て、それから俺の手首を見た。


「みんなを、勝手に戻させない」


「いい答えだ」


「でも、どうやって」


「そこが問題だ。いい答えだけで飯が出るなら、俺は今ごろ太っている」


 鐘の文章に触れる。熱い。指先の皮が焦げる匂いがした。自分の肉が焦げる匂いはいつまでも慣れない。慣れたら人として終わりだし、俺の場合はその前に手が終わる。


 読め。


 全部を読むな。全部読めば飲まれる。鐘は王宮地下第一基文への端末だ。端末という言葉は便利だが、要するに巨大な怪物の爪の先である。爪の模様を見て怪物の胃袋まで理解しようとするな。俺は学者ではない。薄給の元写本係だ。


 一語だけ。


 どの一語を変えれば、今この場の被害を止められる。


『復帰』を変えるか。


 復帰を停止に。いや、停止は消去に近い。建国術式が拒む。強い語は弾かれる。


『補正対象』を保護対象へ。広場の人々は助かるかもしれない。だが門や名簿は動き続ける。


『建国時状態』を現在状態へ。魅力的だ。だが現在という語は相対語だ。古代術式は相対語が嫌いだ。嫌いな相手に説教するほど俺は暇ではない。


 指先が赤い文をなぞる。


『王都全域、建国時状態へ復帰』


 王都全域。


 全域が駄目だ。国の文が起きても、一度に全員を掴ませなければいい。範囲を狭める。巨大な鍋の吹きこぼれを止めるには、火を消せないなら蓋をずらす。料理をしない俺の比喩としてはかなり危険だが、たぶん合っている。


 全域を、鐘楼へ。


 いや、鐘楼だけを建国時に戻されたら俺たちが石の中に埋まる可能性がある。自分を犠牲にする美談は、だいたい本人以外が気持ちよくなるだけだ。却下。


 全域を、広場へ。


 広場だけならリゼがいる。だが広場の人々に負担が集中する。


 全域を、掲示へ。


 掲示術式なら情報だけが戻る。物理的に人や門を動かす力を、文字の表示に閉じ込められるかもしれない。


 俺は息を吸った。


「コルム、三百まで数えろ」


「また?」


「今度は途中で俺が倒れたら、リゼを呼べ」


「倒れないでよ」


「努力目標として掲げる」


 赤い文字が指に絡む。鐘は俺の手首の『校正者』を見つけたらしい。熱が骨まで入ってくる。


『不一致名、補正対象』


 違う。俺を見るな。俺は後で役所に並ぶ。今は民を掴むな。


 俺は『全域』の二字に爪を立てた。


 古代語の全域は、円を閉じる筆画で表される。どこにも逃げ場を残さない言葉だ。俺はその閉じた輪の一か所を裂き、別の意味へ押し込む。


『全域』を、『掲示』へ。


 赤い文が暴れた。


 鐘楼全体が鳴る。音ではなく、文字が鳴った。頭蓋の内側に筆で線を引かれるような痛みが走る。こういう時に限って俺の頭は空っぽではない。残念ながら痛む中身がある。


「一、二、三、四……兄ちゃん、血!」


「数を優先しろ!」


「五、六、七!」


 指先が滑る。皮膚が裂けた。赤い文字が傷口へ入り込もうとする。


 ピピが飛びついた。


「入るなのら! そこは家賃が高いのら!」


「誰の家だ!」


「ピピの仮住まいのら!」


 頼もしいのか図々しいのか分からない叫びとともに、ピピが赤い文字を身体で押し返した。小さな文字の残響が、建国術式の端末に体当たりしている。蟻が城門を押すようなものだ。普通なら笑う。今は笑えない。


 俺は最後の線を押し込んだ。


『王都掲示、建国時状態へ復帰』


 文が切り替わった。


 広場の石畳から白い縄がほどける。門の鎖が止まる。代わりに王都中の掲示板が一斉に光った。古い住所、古い税率、古い王命、千年前の迷子札まで、使い物にならない情報が滝のように流れ出す。


 被害は情報に閉じ込めた。


 完璧ではない。役人は泣く。史家は喜ぶ。民はとりあえず潰されない。今の俺に出せる最上等の妥協だ。


 俺は鐘の内側から手を離し、膝をついた。


「兄ちゃん!」


「数は」


「百九十!」


「遅いな」


「泣きながら数えるの難しいんだよ!」


「それは悪かった」


 本当に悪かった。子供に泣きながら数を数えさせる師匠など、まともな物語なら退場処分である。だが俺はまともな師匠になる前に、まず生き残らなければならない。


 下から歓声が上がった。


 リゼが広場の中央で、倒れた女を抱き起こしている。銀の毛に汗が光り、剣の刃には白い文字の切れ端が絡んでいた。彼女は上を見た。俺と目が合う。今度は意味深でも何でもない。ただ、怒っている。たぶん俺がまた無茶をしたからだ。分かりやすくて助かる。後で叱られる未来だけが確定した。


 だが、その歓声を裂いて、別の音がした。


 王宮の方角から、重い石扉が開く音。


 鐘の内側に新しい文字が浮かぶ。


『端末変更を受理』

『校正者権限、仮登録』

『第一基文への出頭を要求』


「出頭」


 俺は声に出して読んだ。


 コルムが顔をしかめる。


「それ、行かなきゃ駄目なの」


「行かなかったら?」


 答えはすぐ来た。


 床の真ん中に、黒い縦線が入った。石が割れたのではない。文字の行間が開いたのだ。鐘楼の床に、王宮地下へ続く細い階段が、文章のように現れた。


 冷たい風が下から吹き上がる。


 インクと古い石と、長いあいだ誰にも読まれなかった文の匂いがした。


 俺は焼けた右手を布で縛った。痛みで指が震える。震える指で、腰の小さな筆入れを確かめる。魔力はない。武器もない。あるのは読める目と、触れば焼ける手だけだ。


 十分ではない。


 だが、いつも十分だったことなど一度もない。


「コルム、リゼに伝えろ。俺は地下へ行く」


「一人で?」


「先に降りるだけだ。置いていくとは言ってない」


「兄ちゃん!」


 コルムの声を背中で受けながら、俺は開いた行間へ足をかけた。


 第一段に触れた瞬間、階段そのものが俺の靴裏に文字を刻んだ。


『仮登録者ノエル・アルクム、入室を記録』


 記録されたなら、もう逃げられない。


 俺は息を吐き、王都の下へ一段降りた。


(第41話へ続く)

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