盗人の手で鐘を止めろ
三つ目の槌が振り上がった。
あれが落ちれば、告発文は王都全域へ写る。南鐘楼の公示は、王都の掲示板という掲示板に根を張っている。市場の壁、役所の門、教会前の石柱、王宮外郭の告知板。つまり俺は、町内会どころか国営で泥棒呼ばわりされる。
人生で一度くらい名が売れたいと思ったことはある。だが、売り出し文句が『建国王の署名を盗んだ男』なのは、さすがに広告担当を呼び出したい。
右手首に巻きついた黒い鎖が、皮膚を焼いた。
『盗人』
文字は肉の上に食い込んでいる。痛い。とても痛い。痛さの種類としては、紙で指を切った時に世界を呪う程度では済まない。世界のほうが先に俺を呪ってきた感じだ。
「ノエル!」
リゼの声が下から飛ぶ。
「登れ! 俺を引っ張ってる!」
「承知した!」
返事が短い女は信用できる。長い返事をする人間は、大体その間に逃げ道を探している。俺もよくやる。
鎖は俺を鐘楼の上へ引きずり上げようとしていた。親切な昇降機ではない。手首から皮を一枚ずつ剥がす仕様だ。古代文明は便利なものを作る前に、利用者の感想欄を設けるべきだった。
俺は石段を蹴った。足が滑る。黒い文字鎖がぎちぎちと鳴り、腕が抜けそうになる。
その瞬間、リゼが背後から跳んだ。
銀の爪が石壁に突き刺さる。彼女は片腕で俺の腰帯を掴み、もう片方の手で迫ってきた教会兵の槍を叩き落とした。獣の紋が首筋で脈打ち、髪の間から熱い獣臭がふっと混じる。戦場の匂いだ。俺の冷や汗よりは、ずっと頼もしい。
「体を預けろ」
「俺の体は軽いぞ。主に栄養事情で」
「今は冗談より重心だ」
「重心に謝れ。俺は昔から軽薄だ」
リゼは答えず、俺を抱えたまま壁を蹴った。
人間は普通、垂直の壁を走らない。だがリゼは普通の人間でいるために、普通でない呪いと毎日殴り合っている。そういう人間の背中に乗っている俺は何かというと、読み書きが得意な荷物である。価値のある荷物だと信じたい。
ピピが俺の肩口にしがみついた。
「の、のらっ、焦げ文が鐘のおなかでぐるぐるしてるのら!」
「読むぞ。目に入ったら教えろ」
「ピピは目が文字なのら!」
「便利だな。俺より上等だ」
鐘楼の中へ飛び込んだ瞬間、槌が落ちた。
リゼが俺を横へ投げた。俺は床を転がり、肩を石にぶつけた。痛い。今日の俺は痛みの収集家だ。展示会でも開ける。
槌は鐘の縁をかすめた。
ごん、と音になり損ねた震えが塔を満たす。
それだけで、下の広場から悲鳴が上がった。完全に鳴っていないのに、白い告発文が宙に散り、王都の方角へ飛びかける。鐘の内側に古代語がびっしり浮かんでいた。
『三打により告発を確定する』
『告発者不在のとき鐘を告発者とする』
『否認者の名を盗人として固定する』
綺麗だ。嫌になるほど筋が通っている。
師弟の証言が崩れた場合の予備。証人が否認した場合の代理告発。さらに否認者の名を『盗人』へ固定する補助文。何重にも逃げ道を塞いでいる。嫌な仕事をする奴ほど、仕事が丁寧だ。俺の元上司にも少し見習わせたい。いや、見習われたら困る。
槌がまた持ち上がる。
二打目は済んだ。今のかすり音も数えられたらしい。残り一打。
「止める!」
リゼが槌へ剣を叩きつけた。火花が散る。だが槌は止まらない。木でも金属でもない。鐘の文字が束になって形を取っている。
物を斬っても、文が残る。
「リゼ、槌じゃない! 鐘の腹だ!」
「道を開く!」
教会兵が階段から駆け上がってくる。司祭たちの怒号も混じる。だがリゼは振り向きもしなかった。剣の柄で一人の喉元を打ち、膝で二人目の胴を止める。殺さない。倒すだけ。獣になりかけているのに、彼女はまだ騎士でいようとしている。
俺は鐘へ走った。
右手首の『盗人』が脈打つ。鎖が俺を引き戻そうとした。いや、引き寄せているのは鐘だ。鐘は俺を材料にしようとしている。盗人の手で盗人の告発を完成させる。趣味が悪い。ここまでくると芸術だ。絶対に褒めないが。
鐘の内側に手を伸ばす。
届かない。
「のらっ!」
ピピが肩から飛び、鐘の縁に貼りついた。小さな文字の体が震えながら伸びる。ピピは紐ではない。梯子でもない。だが古代文字でできた残響は、文字列に触れると少しだけ形を合わせられる。
「ピピを踏むのら!」
「馬鹿、潰れる!」
「ピピは文字なのら! ちょっと平べったくなるだけのら!」
頼もしいのか、心配していいのか分からない。だが迷っている時間はない。
「悪い!」
「あとで濃いインクなのら!」
「二杯つける!」
俺はピピの作った文字の帯を足場にした。靴底の下で、ピピが「ひゃう」と変な声を上げる。すまん。あとで本当にいいインクをやる。領主館の安物ではなく、王都写本院の高い奴だ。盗人呼ばわりされている男が高級インクを盗むわけではない。たぶん買う。財布が生きていれば。
指が鐘の内側に触れた。
世界が反転するような衝撃が来た。
文字が流れ込む。
『盗人』『盗人』『盗人』
同じ語が何度も俺の視界を叩く。言葉は刃物だ。しかもこれは、国が研いだ刃物だった。広場の人々の視線、教会の告発、建国王の名。全部を束ねて、俺一人の手首に押しつけてくる。
俺は歯を食いしばった。
盗んだか。
俺は署名を盗んだのか。
違う。俺は署名を返そうとしている。少なくとも、誰かの名前を所有物にする文から、人を逃がそうとしている。立派なことを言うとむず痒いが、痛すぎてむず痒さは後回しだ。
核は『盗人』ではない。
鐘の術式は、否認者を盗人に変える。ならば、その前にある語を探せ。
『否認者』
あった。
俺は息を吸った。
俺は告発を否認しているのではない。鐘が勝手に告発者になったことを、認めていないだけだ。ややこしい。役所の窓口なら札を三枚取らされるやつだ。
だが術式は意味で動く。
否認者を盗人にするなら、否認者でなければいい。
俺は指先を押し込んだ。
『否認者』を、『校正者』へ。
鐘が絶叫した。
音ではない。意味の悲鳴だ。鐘の腹で文字列が暴れ、黒い鎖が俺の手首から火花を散らす。皮膚に刻まれた『盗人』の筆画がほどけた。
盗む者ではない。
直す者だ。
俺は偉そうに胸を張れる身分ではない。追放された写本係で、魔力はゼロで、階段を三段駆け上がると息が切れる。だが、誤字を見つけたら直す。そこだけは譲れない。そこを譲ったら、俺には本当に薄い財布しか残らない。
槌が落ちる。
リゼが叫ぶ。
俺は鐘の内側に爪を立てた。
『三打により告発を確定する』
一語だけ。全部は無理だ。新しく書けない。壊せない。俺にできるのは、一語をずらすことだけ。
確定。
これを変える。
告発を確定してはいけない。だが無かったことにもできない。なら、告発を何にする。
公示は民へ向けた文だ。鐘は告げるための道具だ。ならば、確定ではなく――。
『確定』を、『照合』へ。
三打により告発を照合する。
鐘の理屈が折れた。
槌が鐘を打った。
今度は澄んだ音が出た。
高く、硬く、広場へ落ちていく音。だが飛び散った文字は『盗人』ではなかった。黒い告発文は空中で止まり、白い行間へほどけていく。
『告発を照合中』
それだけが王都の掲示術式へ写った。
下の広場が、ざわめきに変わる。
告発は確定しない。照合中なら、すぐに罪人にはならない。時間が稼げた。実に地味な勝利だ。拍手も花もない。あるのは出血と、腕の焼ける匂いと、俺の膝の震えだけ。現実的でよろしい。
黒い鎖が千切れた。
俺は鐘の縁から落ちかけた。リゼが飛び込み、俺の襟を掴む。
「掴んだ!」
「首も持っていかれる!」
「文句を言えるなら無事だ」
「その判定、騎士団で見直せ」
床に引き戻された俺は、しばらく石の上で伸びた。ピピがぺらぺらに薄くなって俺の胸に落ちてくる。
「インク、三杯のら……」
「二杯じゃなかったか」
「踏まれ代が増えたのら」
「正当な請求だ」
コルムが階段を駆け上がってきた。目を閉じていろと言ったのに、まあ当然守らない。弟子未満は命令違反だけ一人前だ。
「兄ちゃん!」
「見たな」
「数は数えた! 三百まで!」
「俺が落ちてこない程度にしては長いな」
コルムは俺の右手首を見て、息を呑んだ。
そこにはもう『盗人』の文字はなかった。ただ、火傷の上に薄い筆画が残っている。完全には消えない。術式は消せない。書き換えるだけだ。人の傷とよく似ている。消えたふりをして、形を変えて残る。
残った文字は『校正者』だった。
俺は笑おうとして、失敗した。
「格好悪くは落ちなかっただろ」
コルムは泣きながら頷いた。
「うん。でも、格好よくもなかった」
「正直でよろしい」
下から怒号が上がる。教会兵の一部は逃げ、一部はまだ階段を塞ごうとしている。だが広場の民はもう同じ顔をしていなかった。告発が確定しなかったことで、疑いは一方向に流れなくなった。鐘が間違うなら、教会も間違う。そう思った目が増えている。
ペトル司祭が広場の端で喚いていた。
「照合など不要だ! 鐘は建国王の権威で鳴った! 読み手を捕らえろ!」
俺は鐘の腹に背を預けたまま、息を吐いた。
「元気だな。羨ましい」
「捕らえるぞ」リゼが低く言った。
「今?」
「今だ。告発が照合中なら、彼の命令も照合中だ」
「騎士団長代理、性格が悪くなってきたな」
「君の隣にいるからだ」
「責任の所在が明確でつらい」
俺は立ち上がろうとして、膝が笑った。笑うなら口でやれ。体の部位が勝手に芸をするな。
その時、鐘の内側で小さな音がした。
かり、と爪で石を引っかくような音。
俺は振り返った。
鐘の腹に、新しい行が浮かんでいた。俺が書いたものではない。今の書き換えで、隠れていた下層文がめくれたのだ。
『照合先、王宮地下第一基文』
嫌な汗が背中を流れた。
照合という言葉に変えたせいで、鐘は告発を確定する代わりに、もっと古い文へ問い合わせ始めている。俺のせいだ。いつものことながら、俺の解決はだいたい次の問題の扉を開ける。便利な鍵だ。捨てたい。
床が震えた。
王都の中心、王宮の方角から、低い鐘の返事が一つ返ってきた。
鐘の腹に、赤い文字が刻まれる。
『照合一致。建国術式、起動準備を開始』
(第40話へ続く)




