子供を鐘にするな
黒い封筒は、裂けたあとも床の上で嫌なほど行儀よく四角く戻った。
教会の印。正しい綴りの俺の名。そして、コルム・トルク。
人質の文面でさえ礼儀正しいのだから、教会という組織は本当に性格が悪い。せめて字が汚ければ、俺も「読めませんでした」で済ませられたのに。残念ながら俺は字だけは読める。役に立つ時ほど腹が立つ才能だ。
「南鐘楼だと?」
リゼが低く言った。獣化の紋は引きかけていたが、声の奥にまだ獣の唸りが残っている。血の匂いと、湿った石の匂いと、彼女の汗の匂いが混ざった。相棒が無臭でないことを、この状況で再確認したくはなかった。
「王都南門の見張り鐘だ。公示、処刑、戒告、あと偉い人間が自分の威厳を鐘の音で水増ししたい時に鳴らす」
「子供を連れ込む場所ではない」
「教会は場所の使い方が下手なんだ」
軽口は出た。だが、喉の奥で割れていた。
コルムはトルク村の少年だ。俺がほんの少しだけ読み方を教えた。ほんの少しだ。まだ古代語どころか、現代文字の綴りで鼻を鳴らしている段階だった。生意気で、素直で、手紙の余白に練習文字をぎっしり詰める子供。
証人として預かる。
嫌な言い方だ。人質と書けば犯罪になる。証人と書けば儀式になる。教会の得意技は、悪事に白い布をかけて聖なる顔をさせることらしい。洗濯係に謝れ。
天井の裂け目から祖父の声が落ちてきた。
「ノエル、戻れ。王文が揺れておる。エルナの紙片をこちらで読めば、建国術式の折り返しが見えるやもしれん」
「コルムが取られた」
短く答えると、上は一瞬だけ黙った。
「……そうか」
「戻って国を読むか、南鐘楼へ行って子供を取り返すか。ずいぶん立派な選択肢だ。俺みたいな元写本係には荷が重い」
「お前は昔から、荷の重さを測る前に持つ」
「それは褒めてるのか、馬鹿にしてるのか」
「血筋じゃ」
嫌な遺伝を認められた。
リゼが俺の横に立った。銀の髪が頬に貼りつき、瞳は真っ直ぐだった。
「私は南鐘楼へ行く」
「俺が戻ると言ったら?」
「君を抱えて行く」
「騎士団の説得は物理寄りだな」
「急げ」
ピピが俺の肩でくしゃみをした。小さな文字の粒が、ぱらぱらと落ちる。
「くしゅん、焦げた文の匂いが強いのら。南の方から、鐘が怒ってるのら」
「鐘に感情まで付いたら、王都の騒音苦情はどうなる」
俺はエルナの紙片を胸の内ポケットへ押し込んだ。祖父に読ませるべき文だ。国の腹に刺さった棘を抜く手がかりだ。それを持ったまま別方向へ走る俺は、たぶん歴史に向いていない。
だが、子供一人を見捨てて大きな文を救う読み手になれと言うなら、そんな肩書きは燃やして暖を取る。
「祖父さん、上は任せた。俺は南鐘楼へ行く」
「分かった。こちらは持たせる。だが急げ。鐘楼は公示文の中心じゃ。あそこで名を鳴らされれば、王都中の耳が証人になる」
「耳まで利用するのか」
「音も文の一種じゃ」
最悪の豆知識をもらって、俺たちは走った。
地下通路は狭く、焦げ跡がずっと続いていた。新しい焼け跡だ。石の粉に混じって、香油の匂いがした。教会の儀礼用油。清めるためと言いながら、焼くために使われるなら油も浮かばれない。
リゼが先行し、俺はその後ろを必死で追った。魔力ゼロの写本係は、戦闘どころか全力疾走にも向いていない。息が切れる。肺が抗議する。足が労働組合を結成しそうになる。
「遅い」
「俺の脚は騎士団支給じゃない」
「掴まれ」
言うが早いか、リゼは俺の襟首を片手で掴んだ。次の瞬間、体が浮いた。
「待て、俺は荷物じゃない」
「口の利く荷物だ」
「扱いが雑!」
抗議は風にちぎれた。獣化の力を一部だけ使ったリゼは、石段を三段ずつ蹴って上がる。肩のピピが「速いのらああ」と情けない声を出し、俺は襟で首が締まり、尊厳と呼吸を同時に失った。
南鐘楼に出た時、王都の空は灰色だった。
鐘楼は南門の内側、広場に面して立っている。高い石塔の上に青銅の鐘。普段なら役人が布告を読み、鐘を一つ鳴らして終わる。今日は違った。
広場の石畳に、白墨で円が描かれていた。円の外には衛兵と司祭。市民は遠巻きに押しとどめられている。塔の根元には臨時の祭壇が置かれ、その上に小さな椅子。
コルムが座らされていた。
両手を縄で縛られ、膝の上に板を置かれている。板には文字が彫られていた。彼の顔は青い。それでも泣いてはいなかった。泣いていないから大丈夫、などと言う大人がいたら、そいつの椅子を今すぐ鐘楼から落としてやる。
「ノエル兄ちゃん!」
コルムが叫んだ。
俺の胃が縮んだ。呼ぶな、と言いたかった。俺の名を呼べば、術式が拾う。だが、子供にそんな判断を求めるのは無理だ。悪いのは呼んだ子供ではない。呼ばせる場所に置いた大人だ。
祭壇の横に、白衣の司祭が立っていた。ペトル司祭ではない。もっと痩せ、もっと上等な衣を着た男だ。首から吊るした銀の聖印が、やけに新しい。
「ノエル・アルクム。招きに応じたこと、教会は記録する」
「俺は招かれてない。脅されたんだ。文面の校正なら無料でしてやる」
「証人は保護している」
「縄でか」
「逃走を防ぐためだ」
「誘拐犯は言葉を磨く暇があって羨ましい」
司祭の眉がわずかに動いた。怒ったらしい。よかった。人の形をした看板かと思った。
リゼが前へ出ようとした瞬間、広場の白墨円が光った。細い文字列が立ち上がり、見えない壁になって行く手を塞ぐ。
『武装者を退けよ』
リゼの剣先が壁に触れ、青い火花が散った。
「公示結界か」
俺は文字を読んだ。南鐘楼に元々ある布告用術式だ。民衆に危害が及ばないよう、武装者を一定距離から退ける。善良な仕組みを悪用するのは、悪党の基本教養らしい。
「ノエル、通れるか」
「俺は武装者じゃない。せいぜい筆記具だ」
「危険な筆記具だ」
「照れるな」
俺は手を上げ、ゆっくり円へ入った。結界は俺を弾かなかった。魔力ゼロの利点である。こういう時だけ、神に見落とされた人間は便利だ。
だが、祭壇まで十歩のところで足元の文字が絡みついた。
『読み手を証人とせよ』
来た。
俺の名を呼ばせた理由はこれだ。コルムを餌にして俺を円へ入れ、読み手本人を証人にする。証人になった者は、鐘の音で読み上げられる文を否定できない。つまり、俺の口で教会の正しさを保証させる術式。
まったく、俺の人生は勝手に保証人欄へ名前を書かれがちだ。次は酒場のツケ帳かもしれない。
「兄ちゃん、ごめん!」
コルムが叫んだ。
「謝るな。お前のせいじゃない。むしろ大人の悪い見本を間近で見られて、教育としては濃すぎる」
「字、読んじゃった。板の字、少しだけ」
俺は祭壇の板を見た。
そこには古代語の短文が彫られていた。
『この者、読み手の弟子なり。弟子の証言は師の証言に続く』
胃の底が冷えた。
コルムが読めるようになり始めたことを、教会は知っている。だから「弟子」にした。俺が教えた数行が、この子を縛る縄になっている。
怒りは便利ではない。手が震える。視界が狭くなる。読み手に向かない感情だ。だが、今だけは震えを止める気になれなかった。
「コルム、俺を見ろ」
「う、うん」
「お前は俺の弟子か?」
司祭が口を挟む。
「その板が証明している」
「黙れ。今、本人に聞いてる」
俺はコルムだけを見た。
コルムは唇を噛み、涙を溜めて、それでも首を横に振った。
「まだ、違う。おれ、まだ読めない字ばっかりだ。弟子って言われたら嬉しいけど、兄ちゃんにちゃんと認めてもらってない」
いい答えだ。
胸が痛くなるくらい、いい答えだった。
「その通り。俺はまだ認めてない。なぜなら俺は狭量で、面倒くさくて、教えるのが下手で、弟子を取る器ではないからだ」
「そこまで言わなくても」
リゼの声が後ろから飛ぶ。
「事実確認だ」
俺は一歩踏み出し、祭壇の板へ手を伸ばした。司祭が合図をすると、足元の文字が蛇のように跳ね上がる。
『証言を縛れ』
文字列が俺の手首に巻きつく。痛みが走る。だが、露出した。触れられる。
読める。
この術式は、師弟関係を固定して証言を連結するためのものだ。綺麗に作られている。腹立たしいほど綺麗だ。ただし、前提がある。
『弟子』
その一語が核だ。
俺は指を押し込んだ。魔力はない。新しい文は作れない。けれど、既にここにある一語をずらすだけなら、俺の仕事だ。
弟子ではない。
なら何だ。
コルムは、縛られた子供だ。保護でも証人でもない。読み手の所有物でもない。
俺は筆画を曲げた。
『弟子』を、『未了』へ。
まだ終わっていない者。まだ決められていない者。誰の証言にも続かない、余白のままの名。
板が甲高い音を立てた。
コルムの縄が緩む。同時に鐘楼の上で青銅の鐘が震えた。鳴っていないのに、広場中の空気が押された。
司祭の顔色が変わる。
「なぜだ。証人指定は成立している!」
「成立してない。お前たちは子供の未来形を過去形で書いた」
俺は板を掴んだまま言った。
「校正点としては初歩だ。恥じろ」
リゼが結界の外で剣を振るった。俺の書き換えで公示文の対象が揺らいだのだろう。『武装者』の壁が薄くなる。彼女の爪が銀に伸び、壁を引き裂いた。
次の瞬間、リゼが祭壇へ飛び込んだ。
司祭たちが悲鳴を上げる。リゼは剣の腹で一人を吹き飛ばし、もう一人の足を払った。殺してはいない。すごい。俺なら怒りで帳簿の角くらいは使っていた。
俺はコルムの縄を外した。手首に赤い跡が残っている。
「立てるか」
「うん。兄ちゃん、手、血が」
「写本係は紙でよく切る。これは大きめの紙だ」
「嘘だ」
「弟子未満のくせに鋭いな」
コルムが泣きそうに笑った。その顔を見て、俺の中の何かが少し戻った。冗談は戻らなくていい時にも戻る。困った生存機能だ。
ピピがコルムの肩に飛び移り、ふんふんと匂いを嗅いだ。
「焦げ文くさいのら。でもコルムはコルムのままのら」
「そりゃよかった」
俺たちは祭壇から離れようとした。
その時、鐘が鳴った。
一つ。
誰も撞いていない。鐘楼の上で、綱が勝手に揺れていた。青銅の内側に黒い文字が浮かぶ。俺は見上げて読んだ。
『証人が否認した場合、鐘を告発者とせよ』
「予備文かよ」
用意がいい。最悪だ。俺の職場にいた上司も段取りだけはよかったが、ここまで人命に絡めなかった。たぶん。
鐘の音が広場を走った。市民たちが耳を押さえる。石畳の白墨円が砕け、その破片が文字になって空へ上がった。
『読み手ノエル・アルクムは、建国王の署名を盗んだ』
ざわめきが起きる。
なるほど、子供の証言が駄目なら鐘そのものに告発させる。南鐘楼は公示の中心。ここで鳴った告発は、王都の各掲示術式へ写る。
俺は今日、正式に国家規模の泥棒になったらしい。出世にも種類がある。
リゼがコルムを背に庇う。
「ノエル、止められるか」
「鐘に触れればな」
鐘は塔の上。俺は下。間には石段と、教会兵と、暴走し始めた公示文。人生、障害物競走にしても趣味が悪い。
司祭が倒れたまま笑った。
「もう遅い。告発は写る。読み手は民の敵となる。建国王に逆らう者として、王都すべてがお前を拒む」
「そうか」
俺はコルムの頭に手を置いた。
「コルム。今から見る字は、まだ読むな」
「でも」
「いつか読め。今は目を閉じて、数を数えろ」
「いくつまで?」
「俺が格好悪く落ちてこない程度まで」
リゼが俺を見た。
「登るのか」
「俺が触らないと直らない」
「なら、道は作る」
彼女は短く息を吸った。獣の紋が首筋から腕へ走る。人の形を残したまま、力だけを引き出す危うい使い方だ。
「無茶するなよ」
「君に言われたくない」
「正論は今やめろ」
リゼが笑わずに剣を構えた。俺も笑わなかった。たまにはそんな時もある。
二つ目の鐘が鳴る前に、俺は塔の石段へ足をかけた。
その瞬間、上から切れた鐘綱が落ちてきた。
縄ではなかった。黒い文字を編んだ鎖だった。鎖は俺の右手首に巻きつき、焼けるような痛みで皮膚に一語を刻んだ。
『盗人』
広場中が、その文字を見た。
そして鐘楼の奥から、三つ目の鐘を打つ槌が、ひとりでに振り上がった。
(第39話へ続く)




