最初の署名は誰のものか
落ちる、というより、行間に挟まれた。
床下の穴へ引きずり込まれた俺たちは、石でも空気でもないものの中を滑っていた。目の前を黒い文字が流れる。王の名、領の名、門の名、誰かの生まれた名。どれも薄く削られ、端が焦げ、まるで長年使われた食卓の縁みたいに傷だらけだった。
「ノエル!」
リゼの声が近い。俺は左手で彼女の腕を掴んだままだった。革手袋の匂いと、鉄と汗と、少し獣の毛皮めいた匂いが鼻に来る。生きている匂いだ。安心するには状況が悪すぎるが、まあ、石棺の冷気よりはずっといい。
「手を離すな!」
「離したら俺だけ返品されそうだからな!」
「返品先はどこだ!」
「たぶん書庫の隅だ。嫌すぎる」
ピピが俺の襟元にしがみつき、文字の体を震わせていた。
「ここ、くしゃみが止まらない場所のら……は、はくしゅんのら!」
小さなくしゃみと同時に、周囲の黒文字が一瞬だけ白く浮いた。
読めた。
『第一署名保管函』
函。箱だ。
俺たちは穴の底に落ちているのではない。王文が、自分の中に隠した箱へ運ばれている。
嫌な予感は便利だ。だいたい当たる。占い師に向いているかもしれない。客は二度と来ないだろうが。
足裏に硬い感触が来た。次の瞬間、膝が曲がり、俺は見事に尻を打った。格好よく地下へ降りる才能も魔力と一緒に母の腹に置いてきたらしい。
リゼは音もなく着地した。ずるい。騎士は尻を打たないのか。
「無事か」
「尻以外はな」
「歩けるなら無事だ」
「騎士団の診断基準は雑だな」
冗談を言いながら、俺は右手首を見た。黒い鎖が巻きついている。鉄ではない。文字で編まれた鎖だ。一つ一つが同じ語を繰り返していた。
『返せ』
うん、しつこい。借金取りでももう少し語彙がある。
周囲は円形の地下室だった。壁は灰色の石。天井は見えないほど高く、そこから無数の名札が吊られている。塔で落ちた名札とは違う。こちらは古い。薄く、硬く、表面に小さな署名欄がある。
中央には石の箱があった。棺ほど大きくない。だが、棺よりよほど人を嫌な気分にさせる形をしている。蓋には古代語でこう刻まれていた。
『最初に文へ名を貸した者を、ここに留める』
俺は息を止めた。
名を貸した者。
材料ではなく証人へ戻した名札たち。その逆だ。自分から名を貸した者がいる。建国術式の最初の署名者。国という巨大な文へ、最初に筆圧を与えた誰か。
「ノエル」リゼが低く言った。「箱の周りに、文字が巡っている」
「見えるのか」
「黒い蛇みたいに動いている。読めはしないが、嫌なものだとは分かる」
「その感性は正しい。俺の職場評価より信用できる」
箱の周囲を巡る文字列は、封印ではなかった。封印なら『閉じよ』や『守れ』が中心になる。これは違う。何度読んでも腹の底が冷える。
『署名を借り、筆を起こし、文が続く限り返さない』
返さない。
では、さっきの声は何だった。
「最初の署名を返してもらおう、か」
俺は鎖を軽く引いた。鎖は石箱へ繋がっている。いや、正確には箱の蓋にある空白の署名欄へ繋がっていた。
王文は俺の名を奪い、ここに埋めるつもりだ。最初の署名を返すのではない。失われた最初の署名の代わりを要求している。
言葉の詐欺だ。教会の祈祷より悪質で、王宮の申請書より腹が立つ。
「これは返却じゃない。補充だ」
「どうする」
「まず怒る。次に読む。最後に、できれば生きて文句を言う」
ピピが俺の肩で震えながら、石箱を見つめた。
「あの中、声が小さいのら。泣いてる文字があるのら」
俺は蓋に手を置いた。冷たい。古い石の冷たさではなく、長く忘れられた名前の冷たさだった。
文字が皮膚に入ってくる。
『我、ヴェルバ最後の王、国を一篇と定める』
建国王ヴェルバ。何度も見た署名の主。その名が、蓋の外周に堂々と刻まれている。だが、中央の署名欄だけが焼かれていた。焼かれた跡の底に、かすかに別の筆跡が残っている。
王の字ではない。
もっと細い。迷いながらも、最後だけ強く押した字。
俺は目を凝らした。
『アル……』
喉が詰まった。
アルクム。
俺の家名だ。
祖父の手を縛っていた理由が、ようやく腑に落ちた。祖父はただの読み手ではない。俺の家は、最初に文へ名を貸した一族の末だった。
「冗談だろ」
自分の声が乾いていた。
冗談なら下手すぎる。笑いどころに刃物を置くな。
鎖が締まった。右手首の皮膚に、俺の名が浮かぶ。ノエル・アルクム。その字が細い墨になって、石箱の空白へ流れようとしている。
「ノエル!」
リゼが鎖を剣で叩いた。火花は出ない。代わりに、剣の刃へ文字が這い上がる。
『獣を番人とせよ』
リゼの首元で、黒い紋が低く唸った。彼女の指が一瞬だけ獣の爪へ寄る。目の奥に銀が走る。
「離れろ!」
「嫌だ!」
「命令だ!」
「私は騎士だ。守る相手の命令を全部聞くほど暇ではない!」
正論が乱暴な形で飛んできた。ありがたい。だが、この文字列はリゼの呪いにも繋がっている。彼女を番人に戻す気だ。俺を署名にし、リゼを鎖の番にする。なんとも豪華な地下収納である。家具にされる側の感想としては最悪だ。
俺は鎖を読む。
『返せ、返せ、返せ』
単純な語ほど強い。水が低いところへ流れるように、命令が目的へ落ちていく。ここで『返せ』を削ることはできない。削除はできない。俺にできるのは、一語だけ書き換えること。
なら、返す先を変えろ。
返せ、誰へ。
王文へではなく、署名者へ。
俺は右手首の鎖に爪を立てた。文字が熱くないのに、痛みだけは律儀にある。まったく、痛覚まで古代語で保存しなくていい。
「ピピ、まずい文字は?」
「『番人』が増えてるのら! リゼを縛る文字なのら!」
「了解。リゼ、三息だけ抑えてくれ」
「二息で済ませろ」
「騎士団は納期も厳しいのか」
リゼが前に出た。獣化しかけた腕で、這い上がる文字を押し返す。爪が石床を削り、黒い紋が首から頬へ伸びる。彼女の息は荒い。だが、剣先は揺れない。
俺は鎖の一語へ指を押し込んだ。
『王文へ返せ』
この『王文』を変える。
焼け跡の奥に残る、細い筆跡。アルクムの名。その元へ。
書ける魔力はない。だが、ここにはもう文字がある。俺はその一語を、既存の筆画に沿ってずらすだけだ。
『本人へ返せ』
たったそれだけ。
拍子抜けするほど短い。俺の人生の偉業はだいたい地味だ。拍手より胃痛が先に来る。
鎖が震えた。
石箱の空白へ流れかけていた俺の名が、逆流した。右手首に焼けるような感覚が走る。痛い。ものすごく痛い。だが、名が抜けていく痛みではない。奪われかけたものが戻る痛みだ。
同時に、石箱の蓋が内側から叩かれた。
一度。
二度。
三度目で、蓋の焼け跡が割れた。
そこから溢れたのは骨でも王冠でもなかった。薄い紙片の束だった。数えきれない署名の控え。その一番上に、焦げ残った名がある。
『エルナ・アルクム』
女の名だった。
俺の知らない祖先。たぶん、最初の読み手。建国王に名を貸し、国の文を読めるようにした者。
その署名が、千年ぶりに箱から戻ってきた。
地下室全体が軋む。吊られた名札たちが一斉に回り、黒い文字が白へ裏返った。
『返却完了』
冷たい言葉だ。だが、箱の奥から聞こえた小さな息だけは、妙に人間くさかった。
ピピがぽろぽろと文字の欠片をこぼした。
「泣いてた文字、少し楽になったのら」
「そうか」
俺はそれ以上うまく言えなかった。知らない祖先の名だ。感動しろと言われても困る。だが、奪われた名が本人へ返ったなら、それは正しい。俺ができる正しさなど、いつもその程度の小修正だ。
リゼの紋が引いていく。彼女は膝をつき、深く息をした。俺は慌てて支えようとして、逆にふらついた。二人まとめて床に座り込む。締まらない。だが生きている。
「助かった」
俺が言うと、リゼは少しだけ息を吐いた。
「三息だった」
「数えてたのか」
「当然だ」
「次から請求書につけてくれ」
そこで、祖父の声が頭上から響いた。
「ノエル、聞こえるか」
見上げると、天井の暗がりに細い裂け目がある。塔の書見台へ繋がる文の穴だ。
「聞こえる。最初の署名は返した。たぶん、俺の先祖のものだった」
「エルナか」
祖父の声が揺れた。
「知っていたのか」
「名だけはな。だが、箱の場所までは読めなかった」
「家族会議で先に言ってほしかった」
「言えば、お前は来なかったか?」
「来た。文句を言いながら」
「なら同じじゃ」
年寄りの理屈はたまに石より硬い。腹が立つが、否定しきれないのがさらに腹立たしい。
俺はエルナの紙片を拾った。触れた瞬間、短い文が指先に流れた。
『王は文を作った。私は読み手を作った。後の者よ、王の名だけを信じるな』
背筋が冷えた。
王の名だけを信じるな。
つまり、建国術式はヴェルバ一人の文ではない。最初の読み手が、何かを仕込んでいる。王の暴走を止めるための別文。余白。逃げ道。
俺は紙片を握った。
「祖父さん。戻る。これを読ませたい」
「急げ。上も長くはもたん」
その言葉と同時に、地下室の奥で別の音がした。
鐘ではない。
木が割れる音。いや、扉が開く音だ。
壁一面の石が縦に裂け、暗い通路が現れた。通路の床には、新しい焦げ跡が続いている。千年前のものではない。つい最近、誰かがここを通った跡だ。
リゼが立ち上がり、剣を構えた。
「追うか、戻るか」
選択肢が二つある時、だいたい正解は三つ目だ。だが今回は、足元の文字が許してくれなかった。
焦げ跡の先から、黒い封筒が滑ってきた。封蝋には教会の印。表には俺の名が、正しい綴りで書かれている。
俺はそれを拾わなかった。
拾う前に、封筒が勝手に裂けた。
中の紙には一行だけあった。
『南鐘楼にて、コルム・トルクを証人として預かる』
俺の喉から、冗談が一つも出てこなかった。
(第38話へ続く)




