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筆にされるくらいなら、余白に逃げる

 俺の名札が、王の文の内側から差し出されている。


 嫌な贈り物にもほどがある。せめて菓子折りなら礼の一つも言った。中身が干し肉ならリゼが喜ぶ。インク瓶なら俺が泣いて喜ぶ。だが、焦げた自分の名札に『読み手を、次の筆にせよ』などと書かれて渡された場合、正しい作法はたぶん失神だ。


 残念ながら俺は失神しなかった。昔から、そういう気の利いた逃げ方だけは才能がない。


「ノエル、触るな」


 リゼの声が低く飛んだ。


 彼女の腕が俺の前に出る。血と獣毛と鉄の匂いが鼻を刺した。無臭の守護者など物語の中にしかいない。現実の相棒は傷だらけで、汗をかき、獣化の熱を帯び、それでも俺より先に危険へ手を伸ばす。


「触らないと読めない」


「読めなくていい」


「俺の仕事を根元から否定するな」


「命を根元から削られるよりましだ」


 もっともな意見だった。俺は反論を探したが、見つかったのは喉の渇きだけだ。口の中が紙みたいに乾いている。写本係が紙になるとは、職業への忠誠心が過剰すぎる。


 ピピが肩の上で震えた。


「の、のら……その札、ノエルの匂いがしないのら」


「俺の名なのに?」


「名前だけ借りてるのら。中は、古い墨の味なのら。苦いのら。まずいのら」


「舐めたのか」


「舐めてないのら! 文字の鼻で分かるのら!」


 文字の鼻とは何だ。今日の疑問一覧に入れておく。もっとも、今日の疑問一覧はすでに塔一つ分あるので、俺の寿命では整理できない。


 祖父が書見台の中で呻いた。


「それは、名ではない。釣り針だ」


「釣り針?」


「王文は読み手を失うたび、次の読み手を筆として取り込む。文を保つためだ。お前の名札は、餌に似せた針じゃ」


「祖父さん、それをもっと早く言え」


「今、思い出した」


「便利な記憶だな。危機が来るまで寝てるのか」


「年寄りの記憶は節約型だ」


 腹が立つのに、声が震えた。


 祖父は笑っていない。血管の代わりに走る文字が、左腕で暗く脈を打っている。王の文は祖父を筆として使っている。俺を次にするため、俺の名を焼いた札を作った。


 弱い者を材料にするな、と俺は何度も言ってきた。


 だが今、材料にされる弱い者が俺になっただけで、足がすくむ。立派な信念というものは、自分の膝が笑う音でだいたい安くなる。俺の膝は今、特売の鐘みたいに鳴っていた。


 黒い名札が一寸、前に進んだ。


 札の縁から細い文字糸が伸びる。虫の足のように床へ降り、俺の影に触れた。影がぴくりと動く。


「リゼ、影だ!」


 リゼが剣を振り下ろした。刃が床を叩き、火花が散る。文字糸は切れたが、すぐにまたつながった。剣で切れるなら苦労はない。世の中、剣で解決する問題は多いが、文法の恨みだけは刃物に強い。


 俺の足首に冷たさが走った。


 影が俺の靴から離れない。名札の文字が、声ではなく圧として頭の奥へ入り込んでくる。


 読み手。

 筆。

 空白を満たせ。


「嫌だね」


 俺は息を吸った。


「俺は空白を埋めるために生まれたわけじゃない。だいたい俺で満たせる空白なんて、領主館の食卓の席一つくらいだ」


「それは大事な席だ」


 リゼが言った。


 短い言葉だった。飾りも説教もない。だから、妙に効いた。


 俺は震える右手を伸ばした。リゼが止めようとする。俺は首を振った。


「触る。けど、全部じゃない」


「どういう意味だ」


「針なら、餌を食う必要はない。針の返しだけ読む」


 名札全体に触れれば、俺の名を足場に王文へ引き込まれる。なら触るのは命令文の一部だけだ。札の裏に浮いた短い文。その中の一語。危ない橋を渡る時は、幅を狭くすると落ちる確率が上がる。俺の作戦は昔からだいたいそうだ。


「ピピ、文字糸が俺の影を食ったら教えろ」


「もう食べてるのら!」


「早い報告ありがとう!」


「ノエル!」


 リゼが俺の腰を片腕でつかんだ。獣化の力で後ろへ引く。骨が悲鳴を上げたが、ありがたい。俺は彼女に命綱を預け、指先だけを札の裏へ近づけた。


 文字が熱い。


 火ではない。読まれることを待ち続けた文の熱だ。千年の埃と、何人もの名を削った焦げの匂いがした。


 『読み手を、次の筆にせよ』


 構造は単純だった。主語を対象にし、役割へ変換する命令。ひどく古いが、文としては美しい。嫌になる。悪意のある文ほど、筆跡が整っている。人間と同じだ。礼儀正しい顔で他人を材料にする。


 欠陥は一つ。


 『筆』という語が、役割ではなく器具として固定されている。


 読み手を人として扱わない。文を書く道具に落とす。その落差に術式が乗っている。


 なら、変える一語は決まった。


 削除はできない。命令ごと消すことは不可能だ。俺にできるのは、一語の向きを変えることだけ。


 俺は爪の先で『筆』の古代文字に触れた。


 頭の中に、白い痛みが走った。


 腕が持っていかれる。肩から先が紙に変わるような感覚。指の腹に自分の名が吸い込まれそうになる。怖い。正直に言う。怖いなんてもんじゃない。小便を漏らさないでいる自分を褒めてやりたい。後で誰も褒めてくれないなら、俺が俺に賞状を書く。


「ノエル、戻れ!」


「まだだ!」


 『筆』。


 器具。所有物。持たれるもの。折られるもの。替えが利くもの。


 そこへ線を一本、横へ逃がす。


 『筆』を『筆者』へ。


 道具ではない。書く者だ。


 完全な拒絶ではない。王文は「読み手を文に関わらせる」構造を保ったまま、対象を器具から行為者へずらす。材料ではなく、責任を持つ者。俺が散々言ってきた屁理屈の、いちばん危ない実演だ。


 最後の線を押し込んだ瞬間、名札が甲高く鳴った。


 俺の影を食っていた文字糸が、ぶつぶつと切れる。床に落ちた糸は黒い虫のようにのたうち、すぐ灰になった。黒い名札は宙で反転し、焦げた俺の名を見せたまま、真ん中から裂けた。


 裂け目から、紙ではなく声が出た。


『筆者は、署名を問う権利を持つ』


 塔の空気が止まった。


 俺は床に膝をついた。右手が痺れている。指先の爪が黒く変色し、皮膚の下に細い文字が一瞬だけ浮かんで消えた。


「……今の、成功か?」


 リゼが俺を支えながら言う。


「たぶん。俺が椅子に加工されてないから成功にしておこう」


「筆の話だ」


「机周りの備品という点では近い」


 ピピが俺の指にしがみついた。


「ノエル、文字が入ってきたのら? 痛いのら?」


「痛い。あと腹が立つ」


「腹が立つなら元気なのら」


「いい診断だ。医者にはなるな」


 祖父が深く息を吐いた。書見台の穴を縛る文字の一部がほどけている。ほんの少しだけ、左手が文の中から浮いた。


「見事じゃ」


「採点はいらないと言った」


「では事実だけ言う。お前は王文の外側に立ったまま、内側へ発言権を作った」


「発言権?」


「筆者は、署名を問える。古い術式の決まりじゃ。文を書いた者の名を、文に答えさせることができる」


 俺は裂けた名札を見た。


 署名。


 千年術式の末尾にいつもある、あの名。建国禁書にも、井戸にも、石碑にも、リゼの呪いにも、焼け跡の奥に同じ影を残していた名。


 王の文が俺を筆にしようとした。その針の返しを変えたせいで、逆にこちらが署名を問う権利を得た。


 人生、たまに敵の罠で食卓が整うことがある。毒入りだが。


「じゃあ、聞けばいいんだな」


 俺は立ち上がろうとして、失敗した。足に力が入らない。リゼが無言で脇を支える。あまりにも自然に支えられたので、礼を言い損ねた。言い損ねるくらいが俺らしい。後で言う。たぶん。忘れなければ。


「待て」祖父が言った。「署名を問えば、向こうもこちらを読む」


「向こう?」


「署名の主じゃ。文の奥に残る名は、ただの印ではない。扉でもある」


 ピピが「ひゃ」と小さく鳴いた。


「扉は開けたら、向こうからも来るのら」


「名言みたいに言うな。怖いだろ」


 リゼの手に力が入った。


「それでも問うのか」


 問わなければ、祖父を助ける道は細いままだ。王文の均衡も分からない。焼かれた名たちは証言を始めたが、犯人の手首までは掴めない。祈祷師、青白い男、残響。影ばかりが増える。


 俺は魔法を撃てない。剣も振れない。偉そうに怒鳴ったところで、肩に乗るピピより戦力として怪しい時がある。


 だが、読める。


 読める者が、読まない理由を恐怖だけにしたら、写本係など名乗る資格はない。元がつこうが、追放されようが、それだけは譲れない。


「問う」


 俺は言った。


「ただし、俺一人の名では問わない」


 周囲を巡る名札たちが、かすかに震えた。焼かれた名。欠けた名。穴埋めにされかけた名。彼らはもう物ではない。証人だ。


「証人全員で聞く。誰が焼いた。誰が材料にした。誰が国を一篇の文にして、人を注釈扱いした」


 リゼが剣を構え直した。


「答えが返るまで、私が守る」


「頼む。返ってきた答えが殴れる形なら、そっちは任せる」


「得意分野だ」


 ピピが胸を張った。


「ピピはまずい文字を見つけるのら!」


「それも大事だ」


 俺は裂けた名札の片割れを手に取った。さっきまで針だったものは、もうただの薄い札だ。だが、焦げた俺の名は残っている。自分の名を道具にするのは不愉快だが、使い道を選ぶのは俺だ。


 書見台の縁に、札を置く。


 祖父の左手を縛る文字列。その末尾近くに、署名へ続く細い余白が見えた。余白と言っても何もない場所ではない。まだ書かれていないのではなく、読まれるのを拒んで黒く沈んでいる場所だ。


 俺は右手の痺れを噛み殺し、札の焦げ跡をその余白へ押し当てた。


「署名を問う」


 声に合わせて、塔中の名札が一斉に鳴った。


 今度は落ちない。刃にもならない。ただ、それぞれの欠けた名で、同じ問いを支える。


 黒い余白に、白い亀裂が走った。


 亀裂の向こうから、風が吹いた。湿った土の匂い。古い石の冷気。王宮地下よりさらに深い場所の匂いだ。灯りが一つずつ消え、書見台の下の床に、円形の穴が開いていく。


 穴の底から、鐘の音がした。


 一回。


 二回。


 そして三回目の鐘と同時に、床下から伸びた黒い鎖が、祖父ではなく俺の右手首に巻きついた。


 鎖は熱くも冷たくもない。ただ、はっきりと重かった。


 俺は逃げる代わりに、左手でリゼの腕をつかんだ。


「下へ行く」


 自分で言ってから、胃が縮んだ。格好つけると内臓に悪い。


 穴の底から、誰かの声が上がってきた。


「では、最初の署名を返してもらおう」


(第37話へ続く)

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