落ちる名を受け止めるな
塔というものは、上から何かが落ちてくる場所として設計されているのだろうか。
石くず、雨漏り、権威、老人の説教。最後の二つは特によく落ちる。今、俺たちの頭上から降ってきたのは、人の名だった。
薄い札のくせに、落ちる音は刃物だった。
無数の名札が、空気を切って書見台へ殺到する。ひとつひとつに古代語の細い尾が伸び、黒い糸みたいに揺れていた。あれに触れたら、肉ではなく名前を切られる。最近の王都は、治安だけでなく比喩まで物騒だ。
「伏せろ!」
リゼが俺の首根っこをつかんで床へ叩きつけた。騎士の救助は優しい抱擁ではない。石床と熱烈に口づけさせられ、俺の鼻は自分の立場を思い出した。
次の瞬間、リゼの剣が唸った。
落ちてきた名札が三枚、銀の軌跡で弾かれる。彼女の腕には獣毛が逆立ち、首元の紋が黒く脈打っていた。血と毛皮と汗の匂いが、焦げた紙の臭いに混じる。ひどい空気だ。だが、生きている者の匂いがあるだけで、俺はまだ床から起き上がれる。
「ノエル、読むなら早くしろ」
「分かってる。俺の仕事はいつも、締切が刃物で催促してくる」
書見台の中央には、祖父の人差し指が差し込まれている。指を鍵にするなど、まともな家族ならやらない。うちは昔からまともではなかった。字の汚さで孫を評価する家だ。指くらい使う。
穴の縁から、青白い文字列が立ち上がった。
王の文が開く。
読めた瞬間、胃が重くなった。
『欠落名を回収し、王文の余白へ充填せよ』
なるほど。塔から落ちる名札は、ただの攻撃ではない。国中でこぼれた名、失われた名、焼かれて半端になった名を、ここへ集めて詰め物にするための手順だ。
人を補材にするなと言ったばかりだぞ、王よ。聞き分けのない古文書は、だいたい王か上司に似る。
リゼがさらに一歩前へ出た。肩に名札がかすり、鎧の継ぎ目から血が散る。
「くっ……浅い」
「浅いなら痛くない、とは言わないぞ」
「言ったら噛むところだった」
「言わなくてよかった。俺は賢い」
実際には賢いのではなく、怖いだけである。命を守る知恵の大半は臆病から出てくる。俺の場合、泉のように湧く。
ピピが俺の襟元に潜り込んだ。小さな文字の体が震えている。
「の、のら、名札が泣いてるのら。落ちたいんじゃないのら」
「泣いてる?」
「呼ばれてるのら。でも帰る場所がないのら」
ピピの声は細かった。食いしん坊で、インクを見ると目を輝かせる小さな残響が、今は俺の服をぎゅっとつかんでいる。
俺は落ちてきた一枚を見る。そこには、半分焦げた農夫の名があった。別の一枚には、王都で門番をしていた男の名。さらに別の札には、子どもみたいな拙い字で刻まれた名。
建国術式は壊れている。壊れたまま、国を保とうとしている。足りない石を人の骨で埋める大工のように。
祖父が紙の擦れる声で言った。
「ノエル。鍵が開いている間に一行だけだ」
「どこを書き換える」
「自分で読め」
「助言料を払った覚えはないが、祖父の態度としてどうなんだ」
「甘やかす歳ではない」
「俺は今でも甘やかされたい」
「諦めろ」
ひどい。十九歳の孫に夢を持たせない老人である。
だが、言う通りだった。俺が読まなければならない。俺は魔力を持たない。呪文も撃てない。剣を振れば自分の足に当てる自信がある。できることは、文字に触れて、一語だけ間違いをずらすことだ。
それで足りないなら、足りないままやるしかない。
俺は書見台へ手を伸ばした。
落ちた名札の一枚が、俺の手首を狙って滑り込む。リゼの尾のように伸びた獣毛がそれを払った。毛先が切れ、銀の毛が舞う。
「リゼ!」
「進め」
「痛いなら痛いと言え」
「痛い」
「素直でよろしい」
「だから進め!」
怒鳴られた。俺は進んだ。人は優しい言葉より、怒鳴り声で動くこともある。情けないが事実だ。
書見台の文字に指を置く。
熱い。
王の文が俺の指先から名を読もうとしてくる。ノエル・アルクム。元写本係。魔力なし。役立たず。追放者。余白。
勝手に履歴を開くな。個人情報という言葉を知らないのか、古代の王は。
俺は奥歯を噛み、文を読み進めた。
『欠落名を回収し、王文の余白へ充填せよ』
消せない。解けない。止めれば国中の古い術式がほどける。ならば、動作は残す。
問題は一語だ。
回収。充填。
どちらもひどい。だが本当に悪いのは、名を物として扱う最後の語だった。
充填せよ。
詰めろ。埋めろ。足りないところへ押し込め。
俺は息を吸った。焦げた紙と血の臭いが肺に入る。美味くもないし、健康にも悪い。だが今は、これが現場の空気だ。
「ピピ、インクをくれ」
「のらっ」
ピピが震えながらも、懐から小さなインク瓶を押し出した。いつの間に持っていたのかは聞かない。ピピの体のどこに食べ物とインクが入っているのか、考えると眠れなくなる。
俺は瓶の口を噛んで開け、祖父の指の爪先へ一滴落とした。
爪に刻まれた『返却』の文字が、青く光る。
祖父が低く言った。
「指を筆にするな。癖になる」
「ならない。普通はならない」
「お前は普通ではない」
「それを今言うな」
俺は祖父の指をつかんだまま、王の文の『充填』へ触れた。
王の文が抵抗する。黒い文字が指先へ絡みつき、皮膚の下に入ろうとした。俺自身を余白として数えている。失礼な話だ。余白にも予定がある。
リゼの剣が折れそうな音を立てた。
「まだか!」
「字は急ぐと汚くなる!」
「今さらだ!」
祖父までうなずくな。親族ぐるみで俺の筆跡をいじめるな。
俺は『充填』の一語を削らない。消せないからだ。線を足す。意味の向きを変える。詰めるための語を、立たせるための語へ。
『証言せよ』
完全な置換ではない。王の文の構造を残したまま、欠落名の扱いだけを変える。
欠けた名は王文の穴埋めではない。欠けた理由を語る証人だ。
最後の線を引いた瞬間、塔全体が大きく鳴った。
落ちていた名札が、空中で止まる。
一枚、また一枚と、刃の角度を失い、ただの薄い札へ戻っていく。床に触れる寸前でふわりと浮き、書見台の周囲に円を描いた。泣き声のような軋みが、少しずつ言葉になる。
名が、自分の欠落を語り始めた。
『焼かれた』
『井戸の底で』
『南門の下で』
『眠る石碑のそばで』
『青白い男が来た』
声はばらばらだった。老人、子ども、女、男。生きている者の名も、死んだ者の名も混じっている。だが全員が、同じ一点を指していた。
焼いた者がいる。
自然に壊れたのではない。
祈りではなく、刃物のような手で。
リゼが剣を下げた。肩で息をしている。獣化の紋はまだ黒いが、暴れるような鳴りは収まっていた。
「止まった、のか」
「止めてない。うるさくした」
「それは得意だな」
「俺の数少ない才能を認めるな」
ピピが襟元から顔を出した。
「名札さんたち、痛くないのら?」
近くの小さな札が、かすかに震えた。文字が一行だけ浮かぶ。
『まだ痛い。だが、物ではない』
ピピは目を丸くし、それから深く頭を下げた。
「よかったのら」
その一言で、俺の膝から力が抜けた。床に座り込む。格好は悪い。だが、俺が格好よかったことなど人生で三回くらいしかないので、今さら記録は汚れない。
祖父の指から光が消えた。
俺は慌てて書見台の穴を見る。祖父の体はまだ縛られている。左手は王の文の中に沈み、血管の代わりの文字も消えていない。
「爺さん」
「死んではおらん」
「見れば分かる。憎まれ口が多い」
「なら安心しろ」
「安心できる状態じゃないだろ」
祖父は薄く息を吐いた。笑った、というには弱い。ただ、目の濁りが少しだけ晴れていた。
「一行、王より先に書けた。上出来だ」
「助けに来たんだ。採点されに来たんじゃない」
「助けるなら、次はこの文を直せ。わし一人を引き抜けば、王文の均衡が崩れる」
「またそれか」
「お前は何度でも聞かねば分からん」
腹が立つ。だが、言っていることは分かる。
俺は祖父を今すぐ引きずり出したい。人差し指を鍵にして、左手を縛る文字を切り、背負って帰り、ハンナの飯を食わせたい。たぶん祖父は味付けに文句を言う。ハンナに鍋で殴られる。いい光景だ。
だが、王の文はまだ国の古い術式を支えている。雑に外せば、被害は祖父一人では済まない。
弱い者を材料にするな。
その言葉を、自分の都合のいい時だけ使うわけにはいかなかった。
「分かった」
俺は立ち上がった。足が震えている。勇ましさとは無縁の震えだ。だが立っているなら、まあ合格にしておく。
「爺さんを助ける。王の文も直す。どっちか選べと言われたら、問題を出した奴の顔にインク瓶を投げる」
「雑な解答だ」
「俺の専門は校正であって、上品な返答じゃない」
リゼが俺の横に並んだ。近づくと、血と獣毛の匂いが濃くなる。彼女は痛みをこらえた顔で、それでもまっすぐ書見台を見た。
「次に必要なものは何だ」
「時間と、安全と、まともな照明と、俺の字を笑わない空気」
「最後は無理だ」
「即答するな」
ピピが俺の肩に登り、周囲を飛ぶ名札を見回した。
「ピピも手伝うのら。文字の子は、文字の痛いところがちょっと分かるのら」
「頼む。くしゃみ以外でな」
「失礼なのら。くしゃみも立派なお知らせなのら」
その時、円を描いていた名札の一枚が、ふいに俺の前へ滑ってきた。
他の札より黒い。焦げ跡が深く、名の半分は読めない。だが残った文字を見た瞬間、喉がひゅっと鳴った。
そこには、俺の名があった。
ノエル・アルクム。
まだ生きている俺の名札が、焼けた欠落を抱えて、王の文の内側から差し出されていた。
札の裏に、短い命令文が浮かぶ。
『読み手を、次の筆にせよ』
(第36話へ続く)




