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補材ではなく証人

 リゼ・フォグレス。


 その名が本の上に書かれた瞬間、塔の空気が噛みついてきた。


 比喩ではない。喉の奥に紙の粉が入り、舌に古い鉄の味が広がる。名札の群れが天井で一斉に震え、紐が鳴った。吊られた人々の名が、乾いた葉みたいに擦れ合う。


 リゼの首筋では、獣化の紋が黒く脈打っていた。


「下がれ、ノエル」


 彼女の声は低い。人の声の底に、獣の唸りが混ざっている。血と埃と濡れた毛皮の匂いが濃くなった。相棒が無臭の高潔な騎士だったらよかった、などとは思わない。匂いがあるから、そこにいると分かる。今ここで消えかけているのが、抽象的な戦力ではなく、俺の隣を歩いてきた一人の女だと分かる。


「下がると俺が役立たずになる。元から半分そうだが、残り半分まで捨てる趣味はない」


「近づけば巻き込む」


「それはいつものことだろ」


 軽口は口から出たが、膝は笑っていた。俺の膝は状況判断が早い。持ち主より賢いのが腹立たしい。


 書見台の老人――俺の祖父は、左手で羽根ペンを握ったまま動かない。いや、動かないのは体だけだ。ペン先だけが勝手に走り続けている。


 次行補材、リゼ・フォグレス。

 獣化を進行。

 名を剥離。

 欠落部へ充填。


 読めてしまうのが憎い。知らなければ怖いだけで済んだ。読めば、どこをどう壊されるかまで分かる。


「補材、か」


 俺は奥歯を噛んだ。


 人間を板切れか糊みたいに扱う言葉だ。建国術式は国を保つために名を食う。南門で見た棺守りも、地下で奪われた名札も、全部ここへ流れ込んでいた。足りない文に人を詰める。穴の空いた桶に、隣人の腕を突っ込んで水漏れを止めるようなものだ。発想が最悪だし、実用性があるぶんもっと最悪だ。


「ピピ」


「いるのら。鼻が、鼻が紙くずまみれなのら」


 肩の上でピピがくしゃみをした。小さな文字がぱらぱら散り、すぐ集まる。汚染術式に近づいたときの反応だ。


「黒いところ、どこが一番濃い」


「本の上と、リゼの首なのら。でも首の字は走ってるのら。追いかけっこ嫌いなのら」


「俺もだ。昔から走ると負ける」


「威張ることじゃないのら」


 正論は小さいほど刺さる。


 リゼが剣を床に突き立てた。爪が伸び、篭手の縁を押し破る。肩が盛り上がり、裂けた服の下で獣毛が広がる。それでも彼女は俺に背を向け、書見台へ行く道を塞ぐように立っていた。


「私を斬れとは言わん」


「言ったら怒る」


「なら、読め。私がまだ私のうちに」


 その言葉で、腹が決まった。


 俺は魔法を撃てない。火も氷も雷も出せない。出せるのは冷や汗くらいで、これは戦闘ではだいたい役に立たない。だが文字なら読める。露出した術式に触れ、一語だけなら書き換えられる。


 一語だけ。


 だから間違えられない。


 俺は床を蹴った。言い方だけなら勇ましいが、実態は半分転倒である。リゼの脇を抜ける瞬間、彼女の腕が獣の速さで跳ねた。爪が俺の鼻先を裂きかける。


「っ、すまない!」


「謝罪は後払いで頼む!」


 リゼは自分の腕をもう片方の手で押さえ込んだ。筋肉が軋み、骨が鳴る。彼女の首筋の紋から黒い文字が噴き、俺の足首に巻きついた。


 名を剥ぐ。


 そう読めた瞬間、背中が冷えた。


 名前は飾りではない。名札を奪われた者がどうなるか、俺たちはもう見ている。呼ばれても振り向けず、自分の輪郭を失っていく。あれをリゼにやらせるわけにはいかない。獣にされるより先に、彼女が彼女でなくなる。


「ノエル、足なのら!」


「見れば分かる!」


「見ても遅いのら!」


「分かってるなら励ませ!」


 俺は転びながら書見台へ手を伸ばした。祖父の左手が、信じられない速度でペンを返す。ペン先が俺の指を狙った。羽根ペンで刺される人生は想像していなかった。もっとも、写本係の末路としては妙に似合っている。嫌すぎる。


 そのとき、祖父の口がかすかに開いた。


「……右へ」


 声は紙の裏から聞こえるように薄かった。


 俺は考えるより先に体を右へ倒した。羽根ペンが左手の甲をかすめ、皮膚に黒い線を引く。熱い。だが指は動く。


「爺さん、起きてるのか!」


「寝ていたかったわ」


 返事が悪態でよかった。泣きそうになった自分をごまかせる。


 本の上では、次の行が完成しかけていた。


 補材を固定。


 違う。ここではない。固定を変えても、また剥がされる。獣化を止めても、名を食う処理は残る。俺が触れるべきなのは、入口の分類だ。


 次行補材、リゼ・フォグレス。


 補材。


 こいつが、リゼを物に落としている。


 俺は書見台に飛びつき、開かれた本の行へ指を押し当てた。紙ではなかった。冷たい皮膚のようで、下で何かが脈打っている。吐き気がしたが、吐いている暇はない。俺の胃は弱いが、仕事の締切には案外従順だ。


 補材。


 古代語の字形は、足すもの、埋めるもの、所有者の意志で切れるもの、という意味をまとめて抱えていた。嫌なほど便利な言葉だ。便利な言葉はだいたい誰かを雑に扱う。


 俺は爪の先で一画を削り、線を曲げた。


 補材を、証人へ。


 証人。


 名を保ち、見たことを保持し、改竄されてはならない者。


 書き換えた瞬間、本が悲鳴を上げた。紙が叫ぶ音なんて聞きたくなかったが、今日の俺の予定表には聞きたくないものばかり並んでいる。


 天井の名札が一斉に回転した。


 リゼの首に巻きついていた黒い文字が、彼女の名を剥がす寸前で止まる。獣毛の広がりも止まった。爪は残っている。瞳も金色に光ったままだ。呪いが消えたわけではない。そんな都合のいい芸当は俺にはできない。


 ただ、術式は彼女を食う対象として扱えなくなった。


 証人を壊せば、記録の信頼性が崩れる。建国術式は国を名で縫っている。なら、その名の証言を自分で傷つけることはできない。


「リゼ!」


 彼女は片膝をつき、荒い息を吐いた。牙の覗く口元で、どうにか笑おうとして失敗している。


「……私は、まだ騎士か」


「証人だ。騎士より面倒な立場になった」


「なら、職務を果たす」


 リゼは剣を引き抜き、ふらつきながらも書見台と俺の間に立った。背中が広い。獣毛と血の匂いがする。その匂いに、俺はやっと息を吸えた。


 ピピが俺の肩から跳び、リゼの頭の上に落ちた。


「リゼ、ふかふかなのら」


「今それを言うか」


「今じゃないと怖いのら」


「正直でよろしい」


 リゼが小さく息を漏らした。笑ったのだと思う。笑い声というより、壊れた鞴みたいな音だったが、生きている音なら十分だ。


 書見台の向こうで、祖父の左手が止まっていた。


 羽根ペンはまだ握られている。指先は黒く染まり、血管の代わりに文字が走っていた。右手の人差し指がないせいで、体の均衡が奇妙に崩れて見える。俺の懐には、その失われた一本がある。


「爺さん」


「字が汚くなったな」


「二度目だぞ、それ」


「大事なことは二度言う。お前は一度では聞かん」


 その通りなので反論できない。昔から、正論を言う老人は嫌いだ。身内だとさらに腹が立つ。


 俺は書見台の端を握った。


「助けに来た」


「見れば分かる。助け方はなっとらんが」


「注文が多いな。こっちは魔法も撃てない、剣も振れない、走れば転ぶ。品揃えの悪い店なんだよ」


「だから読み手にした」


 祖父の目が、初めて俺を見た。


 濁っていた。疲れていた。だが、そこにいるのは人形ではなかった。王の文に縛られ、左手を奪われ、それでも悪態を残している俺の祖父だった。


 胸の奥が熱くなる。泣くのは後だ。泣くと文字がにじむ。写本係の基本である。


「この本を止める。どこを直せばいい」


「止めるな」


 祖父は即答した。


 俺は言葉を失った。


「止めれば、国中の古い術式が一斉にほどける。井戸も門も鐘も、眠りの石碑も、守護の紋もだ。壊した者の思うつぼになる」


 壊した者。


 焼かれた欠落部。災いを予言して去る祈祷師。青白い男。モルグ。署名の主。


 全部が一本の糸に近づいていく。


「じゃあ、どうしろって言うんだ」


「止めるのではない。王の文を、読み直せ」


「簡単に言うな。俺が読んだだけで名を綴じられるんだろ」


「だから鍵が要る」


 祖父の視線が、俺の懐へ落ちた。


 手袋の中の指が、急に重くなった気がした。


「爺さんの指か」


「あれは失くしたのではない。切って逃がした。王の文がわしを全部使い切る前に、一本だけ外へ出した」


 なんてことをするんだ、と言いかけてやめた。なんてことをされたんだ、が正しい。


 祖父は息を吸うたびに紙の擦れる音を立てた。


「返せば、わしはまた綴じられる。使えば、一行だけ王より先に書ける」


「一行だけ」


「お前向きだろう。大量の仕事には向かん」


「孫への評価が低い」


「正確だ」


 本が震えた。俺の書き換えた「証人」の字に、黒い上書きが這い寄っている。数秒で戻る。いつものことだ。巡回する術式は、こちらの修正を嫌う。嫌われるのには慣れているが、今回は相手が国の背骨なので少し荷が重い。


 リゼが剣を構え直した。


「ノエル、次が来る」


 天井の名札がほどけ始めた。一本、また一本。吊られた名が紙片ではなく、細い刃のようにこちらを向く。


 ピピが俺の耳元で叫んだ。


「黒い字、ぜんぶ怒ってるのら!」


「俺も怒ってる。お揃いだな」


 懐から手袋を取り出す。革の中の指は冷たい。だが、爪の根元に刻まれた小さな古代語が、まだ消えずに残っていた。


 返却。


 いや、違う。


 祖父は逃がしたと言った。ならこれは、返すための指ではない。


 俺は手袋を裂き、指を直接つかんだ。吐き気はした。怖くもあった。だが、道具みたいに扱いたくないなら、せめて何に使うかを自分で選ぶしかない。


「爺さん」


「何だ」


「字が汚くても読むなよ」


 俺は書見台の中央、王の文の綴じ目に空いた細い穴へ、祖父の人差し指を差し込んだ。


 塔全体の名札が同時に落下した。


(第35話へ続く)

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