指一本分の道
温かい指を持つ趣味はない。
王宮地下には礼儀作法の教師がいないらしい。いたとしても、革手袋の中に人の指を詰めて階段から転がす作法は、どこの教本にも載っていないはずだ。載っていたら、その教本ごと燃やしていい。俺が許す。
俺は手袋を床に置いた。指はまだかすかに動いている。切り口から血は出ていない。代わりに、細い黒文字が筋のように絡んでいた。
「ノエル」
リゼの声が低い。獣化の気配が、湿った鉄と獣毛の匂いを連れて近づいた。彼女自身が嫌がる匂いだが、今はありがたい。恐怖より現実に戻してくれる。
「分かってる。罠だ」
「捨てるか」
「捨てたい。ものすごく捨てたい。だが、祖父の筆跡だ」
俺は焦げた左手を布の上から押さえた。右手も左手も役立たずに近い。写本係が両手を焼くと、残るのは口の悪さだけだ。世間的には最初から大した財産ではない。
ピピが手袋の周りを飛び、鼻のあたりの文字をひくつかせた。
「くしゃみ、出るのら……へぷっ。これ、汚い文字なのら」
「指に清潔感を求めるな」
「ちがうのら。指じゃなくて、言葉が腐ってるのら」
俺は身を乗り出し、手首の内側に書かれた一行を読んだ。
――ノエル、来るな。私を読めば、お前の名が王の文に綴じられる。
読めば、綴じられる。
つまり、読ませたい文だ。脅し文句で遠ざける顔をして、こちらの目を文字に釘づけにする。悪質な広告文みたいなものだ。買うなと書かれると確認したくなる人間の弱さを、古代術式まで利用するな。
「これは祖父の警告だけじゃない。上に別の文がかぶさってる」
「どこだ」
「『私』のところだ」
その一字だけ、筆跡の圧が違う。祖父の字は細く、紙を傷つけない。俺が昔、余白に落書きして怒られた時も、祖父は文字を叩くなと言った。言葉は人を叩くための棒ではない、と。
今、この『私』は棒だ。
読んだ者に、祖父そのものを読ませるための釘だ。
階段の上から、石が擦れる音がした。
北塔への階段が狭まっている。壁がゆっくり内側へ寄り、入口を閉じようとしていた。王宮地下は本当に客に厳しい。茶の一杯も出さず、指を出し、最後に圧死だ。貴族の接待よりひどい。
「時間がない」
リゼが手袋を踏まないように膝をつき、階段の壁へ肩を当てた。骨が軋む音がする。銀の毛が頬から首筋へ走り、爪が石に食い込んだ。
「長くは保たない」
「いつも長く保ってもらって悪いな」
「後で高く請求する」
「分割払いで頼む」
俺は手袋の文字へ指を伸ばした。触れなければ直せない。世の中の厄介事はだいたい、触れずに済めば楽なのに、触れた瞬間から責任になる。まったく、文字も人間も手がかかる。
触れた。
冷たいはずの革が熱かった。
視界が白くひらける。
書庫ではない。北塔でもない。石の部屋。痩せた老人の手が、卓に縛られている。俺の知っている手だ。節くれ立って、爪の脇にいつもインクが残っていた手。幼い俺の頭を乱暴に撫で、写し間違いを見つけると容赦なく赤を入れた手。
祖父、エラム・アルクム。
その右手の人差し指だけが、黒い糸で切り離されていた。切り離された指は、王宮地下を通るための鍵にされた。鍵穴に人間を使うな。せめて金属でやれ。金属なら文句を言わない。たぶん。
老人の声が、紙越しに響いた。
――読むな、ノエル。
俺は歯を食いしばった。
「遅いよ、爺さん。孫は警告を聞くほど利口に育たなかった」
白い視界の奥で、別の文字列が浮く。
読解対象を私に固定する。
読解者名を王文へ接続する。
接続完了後、鍵を開く。
なるほど。北塔の扉は開く。代金は俺の名前だ。王宮は商売がうまい。値札を見せずに会計へ連れていくあたり、王都の高級店と同じだ。
だが、文には綻びがある。
鍵を開くために必要なのは、祖父という人間全体ではない。指一本に刻まれた通行権だけだ。術式は欲張っている。欲張りは校正される。写本係のささやかな娯楽だ。
「リゼ、壁は?」
「まだ保つ。だが、私の肩は石ではない」
「知ってる。石より頼りになる」
「口だけは元気だな」
「ここを取られたら終わりだからな」
俺は『私』の一字へ爪を立てた。
書き換えるなら一語だけ。
『私』を『指』へ。
人を読むな。指に刻まれた権限だけ読め。
そんな都合のいい理屈が通るかは分からない。だが、術式とは結局、理屈の顔をした命令文だ。命令文なら、主語と目的語を間違えれば転ぶ。人間の会議と同じである。偉い人ほど目的語を曖昧にして周囲を殺す。
黒い火が噴いた。
手袋の中の指が跳ねた。俺の焦げた指先にも火が移る。痛い。痛いが、もう驚かない。驚きにも予算がある。今日の分は使い切った。
「ピピ、インク!」
「はいのら!」
ピピが瓶を抱えて飛ぶ。途中でふらついた。さっき名札で輪郭を削られたばかりだ。小さな体から墨の光がこぼれる。
「無理するな」
「ノエルも無理してるのら」
「俺は大人だからいい」
「大人はそう言って倒れるのら!」
正論が小さい。小さい正論ほど刺さる。俺は黙ってインクを受け取り、革に一画を足した。
私。
その字の内側を裂き、形を縮め、意味を削る。
指。
文字が変わった瞬間、白い視界の中で祖父の右手を縛っていた黒糸が一本だけ切れた。全部ではない。解呪はできない。都合よく救い切る力など俺にはない。できるのは、今食い込んでいる刃の角度を少し変えることだけだ。
それでも、老人の息がわずかに楽になった気がした。
――相変わらず、字が荒い。
「再会の第一声がそれかよ」
白が消えた。
手袋の文は変わっていた。
――ノエル、来るな。指を読めば、お前の名が王の文に綴じられる。
「いや、後半も直したいんだが」
文句を言った直後、手袋の中の指がぴんと伸びた。革の縫い目から黒い文字が流れ出し、階段の壁へ吸い込まれる。
壁の動きが止まった。
リゼが息を吐き、肩を壁から外す。服の肩口が裂れ、獣毛に石粉が白くついていた。彼女の匂いに、血と埃が混じる。
「開いたぞ」
階段の上で、鉄の閂が落ちる音がした。
俺は手袋を拾った。中の指は冷えていた。さっきまでの温かさは消えている。役目を終えた道具みたいに。
道具みたいに、と思った自分に腹が立った。
「悪い」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。祖父か。指か。ここまで来るために置いてきた名札の持ち主たちか。
ピピが俺の肩に乗り、いつもより小さな声で言った。
「ノエル、指、いたかったのら?」
「たぶんな」
「文字も、いたいのら?」
俺は返事に困った。
ピピは文字でできている。痛いと聞くと、俺の中の写本係が「定義が必要です」と言い出す。こいつは本当に使えない。人が聞いているのは定義ではない。
「痛い扱いでいい。少なくとも、乱暴に使っていい理由にはならない」
「じゃあ、ピピも乱暴に使われたら怒るのら」
「怒れ。俺も一緒に怒る」
ピピは少しだけ胸を張った。文字の輪郭が戻る。インクの力か、気分の力かは知らない。どちらでもいい。生きているものには、理由が一つでなくてもいい。
リゼが階段を見上げた。
「祖父君は生きているのか」
「分からない。さっきの声が本人か、指に残った記録かも判断できない」
「なら、確かめに行く」
「ああ」
俺は手袋を懐に入れた。弔いにも証拠にもならない。だが、置いていく気にはなれなかった。俺は立派な校正者ではない。持ち物が増えるたび腰が重くなる凡人だ。だからこそ、捨てたものの数だけ忘れる人間にはなりたくない。
階段を上がる。
北塔への道は狭く、湿っていた。壁には古代語がびっしり刻まれている。内容は歓迎文ではない。
未処理名を保管する。
読解者を分類する。
欠落者を補材とする。
「補材、だと」
俺の声が低くなる。
リゼが立ち止まった。
「どうした」
「この塔は牢じゃない。修理場でもない。足りない文に、人の名前を継ぎ足す場所だ」
王宮地下で奪われた名札。南門の棺守り。返すべき名。全部がここへ集まる。建国術式は、国を保つために名を食う。食われた名は、役職や家柄や罪状ではない。ただ、その人がその人であるための最小の文字だ。
吐き気がした。
弱い胃でよかった。強い胃なら、この怒りを飲み込んでしまうところだった。
「ノエル」
リゼが俺の前に出た。上から風が吹く。今度は確かに血の匂いを含んでいた。
階段の終わりに、扉がある。
扉は半分開いていた。内側から、羽根ペンが紙を走る音がする。誰かが書いている。速い。迷いがない。人間の筆ではない速度だ。
俺たちは扉の隙間から中を見た。
未校正室は、塔の名に反して広かった。天井から無数の名札が垂れ、中央に巨大な書見台がある。その上に、開かれた一冊の本。王宮地下で見たどの書物より古く、どの棺より静かだった。
そして書見台の前に、一人の老人が座っていた。
背は曲がり、右手には人差し指がない。左手だけで羽根ペンを握っている。頬はこけ、髪は白い。それでも俺は見間違えなかった。
「爺さん」
老人は振り向かなかった。
代わりに、書見台の本が自分でページをめくった。
白い紙面に、新しい行が走る。
――次行補材、リゼ・フォグレス。
リゼの首元で、獣化の紋が黒く鳴った。
(第34話へ続く)




