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名札は所有物ではない

 三枚目の名札に浮かび上がった文字は、最初は小さな染みだった。


 点が跳ね、線が伸び、古代文字の癖を持った丸い名になる。


 ピピ。


 本人、いや本文字は俺の焦げた指にしがみついたまま、ぽかんと自分の名札を見ていた。


「ピピ、棺守りになるのら?」


「ならない」


 俺は即答した。こういう時だけは迷わない。迷ったら負けだ。人生の大半で迷っている男にも、たまには立派な瞬間がある。だいたい指が焦げている時だが。


 名札の棚が鳴り続けている。木でも鉄でもない、乾いた骨を擦るような音。部屋の中央に編まれた文は、黒い糸でぴんと張られていた。


 ――未校正室への侵入者を、次の棺守りに指定する。


 指定する。


 嫌な言葉だ。人間を荷札扱いする奴は、たいてい机だけは立派だ。王宮写本所にもいた。俺に茶を持ってこさせる時だけ、やたら発音が正確になる上司が。


 リゼが俺の前に出た。銀の髪の奥で、獣化の気配が低く唸る。血と鉄、それに雨で濡れた獣毛みたいな匂いがした。安心する匂いと言うと本人に怒られそうだが、今の俺にとっては城壁より頼れる。


「来るぞ」


 名札の棚から、黒い糸がほどけた。


 糸ではない。細い命令文だ。一字一字が節のように連なり、床を這い、俺たちの足首へ巻きつこうとする。


 リゼの爪が伸びた。半歩で踏み込み、黒い文を斬る。だが切られた文字は紙屑みたいに散らず、また繋がった。


「物理で無理か」


「物理で大半は解決できる。これは性格が悪いだけだ」


「術式に性格を求めるな」


「作った奴の性格は出る」


 俺は名札を三枚拾い集めた。リゼ、俺、ピピ。並べると、ちょっとした旅の記録みたいだった。女騎士、無能な写本係、食いしん坊の文字。王都に提出したら、担当官が頭を抱える編成だ。


 ピピの名札だけ、まだ文字が薄い。


 完全に定着していない。


 つまり、今なら間に合う。


「ピピ、俺の鞄からインク瓶を出せ」


「のら!」


 ピピは俺の肩から跳ね、鞄へ潜った。小さな文字の体が布の隙間でばたばたする。すぐに瓶を抱えて戻ってきたが、栓の縁に口をつけていた。


「飲むな」


「ちょっとだけ充電のら」


「命がけの時に間食するな」


「ノエルも焦げながら喋ってるのら」


 反論が正しいと、人は黙るしかない。俺は黙って瓶を受け取った。


 黒い命令文が、今度は壁を伝って伸びてくる。リゼが片腕を獣のそれへ変え、棚ごと薙ぎ払った。名札が雨のように落ちる。どれも裏に焦げ跡がある。ここへ放り込まれた名は、みんな何かから切り離されたのだろう。


 死者。行方不明者。読める者。邪魔な者。


 王都の地下は便利な穴だ。見たくないものを入れて蓋をすれば、地上では清潔な顔ができる。俺も一度、王宮写本所から似たように追い出された。違いは、俺の場合は蓋が雑だったことだ。おかげで今ここにいる。雑な人事に感謝する日が来るとは思わなかった。


「ノエル、読めるか」


「読める。腹が立つくらい整ってる」


 この術式は壊れていない。


 だから厄介だ。


 焼けた欠落を直すのではない。正しく動く悪意の命令を、正しく曲げる必要がある。俺は魔法を撃てない。派手な光も出せない。できるのはいつも通り、一語だけ相手の文章を嫌がらせのように直すこと。


 地味だ。


 だが、地味な仕事を雑に扱う国は、だいたい床下から腐る。


 俺は黒い文へ手を伸ばした。


 リゼの尾が俺の腰に巻きつき、後ろへ引いた。尾という単語を本人の前で言うと眉間に皺が寄るので心の中に留める。俺にはまだ生きていたいという、かすかな向上心がある。


「届かない」


「届かせる」


「どうやって」


「投げる」


「俺をか」


「必要なら」


「騎士団の訓練はだいぶ野性的だな」


 リゼは返事をせず、俺の襟首を掴んだ。


 冗談であってほしかった。


 次の瞬間、俺の体は部屋の中央へ放られていた。人は空中で意外と多くのことを考えられる。まず、俺は軽いのか。次に、リゼは俺を荷物として認識していないか。最後に、床に落ちたら痛いな、という平凡で切実な結論だ。


 黒い文が俺を迎えに伸びる。


 俺は左手を伸ばした。焦げた右手は役に立たない。左の指先が、文の一語に触れる。


 指定する。


 これを書き換えればいい。


 だが「返却する」に変えれば、俺たちだけでなく、ここに吊られた名すべてが一斉に動く可能性がある。返す先が体ならいい。墓なら悪夢だ。空の棺ならもっと悪い。術式という奴は、こちらの善意を読んではくれない。書いた通りにしか動かない。融通が利かない役人と同じだが、少なくとも術式は賄賂を取らない。


 なら、変えるべきは一語ではない。


 一語で、対象を変える。


 侵入者。


 俺は文の前半を読んだ。


 ――未校正室への侵入者を、次の棺守りに指定する。


 侵入者。


 勝手に入った者。


 俺たちは確かに入った。だから術式は正しい。腹立たしいことに。


 だが、ピピは違う。


 ピピは名札を持たない。扉を開けたわけでも、禁を破ったわけでもない。俺の修正からこぼれて生まれた文字だ。同行者ですらない。ひどい言い方をすれば、俺の仕事のこぼれ滓である。本人に言ったら泣くので、墓まで持っていく表現だ。


 術式がピピを巻き込むには、「侵入者」の定義を広げているはずだ。


 俺は指先で古代文字の縁を撫でた。


 あった。


 小さな補助語。主文の下に隠れるように書かれている。


 ――同行する名なき残響を含む。


 名なき。


 俺は喉の奥が熱くなった。


 名がないから、何にでも使える。


 名がないから、棺守りにもできる。


 モルグもそうだったのかもしれない。朽ちよという命令に似せて書かれ、道具として歩かされた残響。ピピと同じ、文字から生まれた何か。違うのは、誰に呼ばれ、どう扱われたかだ。


 ピピは俺の指に抱きついて震えていた。


「ノエル、ピピの名前、薄いのら」


「薄くない」


 俺は言った。


「まだ乾いてないだけだ」


 嘘ではない。たぶん。俺の慰めはだいたい校正前の文みたいに怪しいが、今は通す。


 左手の爪で、補助語に触れる。


 名なき。


 ここだ。


 俺はインクを一滴、指先に落とした。魔力はない。だから新しい術式は書けない。ただ、そこにある語の上へ、意味をかぶせる。


 名なき。


 名ある。


 たった一画、向きを変える。古代語では、それだけで「ない」が「ある」へ裏返る。世界を救うには足りないが、小さな友達一人を盗まれないようにするには十分であってほしい。


 黒い文が暴れた。


 俺の左手首に巻きつき、骨の奥へ冷たさを押し込んでくる。棺守りの命令が、俺の名札へ流れ込もうとした。


 リゼが飛び込んだ。俺の襟を掴み直し、床へ叩き落とす勢いで引き戻す。優しさはあった。たぶん。床と俺の間にリゼの腕が入ったので、俺は潰れずに済んだ。腕の筋肉が硬く、温かい。


「書けたか!」


「途中!」


「いつも途中で死にかける!」


「完成してから死にかけたら意味ないだろ!」


「死にかけるなと言っている!」


 もっともな要求だった。


 俺は最後の線を押し込んだ。


 補助語が反転する。


 ――同行する名ある残響を含む。


 黒い糸の動きが止まった。


 術式は判断に迷っている。古代の巨大命令が、小さなピピ一匹をどう分類するかで詰まっている。ざまあみろ。千年動く大仕掛けも、名簿の例外処理には弱い。写本係をなめるな。俺たちは余白の小さな注記で何度も胃を壊してきた種族だ。


 ピピの名札に、文字が濃く浮かんだ。


 ピピ。


 ただし棺守りの札ではない。


 返却対象。


「のら?」


 ピピが瞬いた。文字の体にまぶたがあるのかは知らない。気分として瞬いた。


 続いて、リゼの名札が震えた。


 リゼ・フォグレス。


 棺守り候補の黒い印が薄くなり、代わりに別の文が現れる。


 ――護衛権限、契約者側へ返却。


「契約者?」


 リゼが眉をひそめる。


「お前の守護術式だ。獣化を呪いとして奪うのではなく、護衛の権限として戻した」


「完全に直ったのか」


「そこまで都合のいい男に見えるか」


「見えない」


「即答するな。傷つく」


 リゼの銀の爪が、人の指へ戻っていく。完全ではない。腕にはまだ薄い獣毛が残り、息も荒い。けれど、棺守りとして持っていかれる流れは切れた。


 最後に、俺の名札が残った。


 ノエル・アルクム。


 そこだけ、黒い印が消えない。


 まあ、そうだろうな。


 世の中は俺にだけ少し厳しい。いや、かなり厳しい。俺が何か悪いことをしたかというと、王宮的にはたくさんした。読んだ。黙らなかった。直した。どれも出世には向かない行為だ。


「ノエル」


 リゼの声が低い。


 名札の裏を読む。


 ――読解権限保持者は、名を失っても機能する。


 俺は笑いそうになった。


 笑えなかった。


 この術式は、俺を人間として扱っていない。名がなくても読めるなら使える。指が焦げても触れるなら使える。息をしていれば道具として十分。王宮写本所の人事評価よりひどい。いや、似ているな。思い出して腹が立ってきた。


 ピピが俺の袖を引っ張った。


「ノエルの名前、返すのら。ピピのインク、全部使っていいのら」


「お前の食費を削る話になるぞ」


「いいのら」


 小さな声だった。


 俺は息を吐いた。


「ありがとな。でも、これはインクの量じゃない」


 俺の名札には別の補助語がある。


 ――機能する。


 名を失っても機能する。


 なら変える語はそこだ。


 機能する。


 拒絶する。


 読解権限保持者は、名を失えば拒絶する。名のない読み手は、建国術式の命令を読まない。そう書けば、術式は俺の名を奪えない。奪った瞬間、必要な機能を自分で潰すことになる。


 卑怯な文には、卑怯な校正で返す。


 俺は名札を床に押しつけた。左手の指先は震えている。右手は焦げて役立たず。歯でインク瓶の栓を抜いた。味は最悪だ。ピピがこれを好む理由が分からない。世の中には互いに分かり合えない嗜好がある。


「押さえてくれ」


 リゼが名札の端を押さえた。獣の力を残した指が、板を割りそうなほど強い。


「割るなよ」


「努力する」


「努力目標が低い」


 俺は「機能する」の語に触れた。


 その瞬間、棚の奥から声がした。


 声というより、擦れた紙の束が一斉に息をしたような音。


 ――校正者は、名より先に職務を選んだ。


 知らない声だ。


 だが、祖父の声ではない。


 俺は歯を食いしばる。


「勝手に俺の職務倫理を盛るな。俺は給金分しか働かない主義だ」


 線を引く。


 黒い火が吹いた。今度は左手を焼く。公平な痛みだ。両手に仕事を配るな。


 リゼが俺の肩を抱き、ピピが名札の上へ飛び乗った。


「ピピも押すのら!」


「熱いぞ!」


「名前、返すのら!」


 小さな文字の体が、黒い火に照らされる。ピピの輪郭が少しほどけた。俺は胃が冷えるのを感じた。


「離れろ!」


「いやのら!」


 最後の一画が入った。


 ――読解権限保持者は、名を失っても拒絶する。


 文が成立した。


 俺の名札から黒い印が剥がれ、床に落ちた。落ちた印は小さな虫のように這い、棚の隙間へ逃げ込もうとしたが、リゼが靴で踏み潰した。


 静寂が来た。


 長くは続かないと分かっていても、今だけはありがたかった。俺は名札三枚を胸に抱え、床に座り込んだ。情けない座り方だが、命があるだけ上等だ。英雄は立ったまま勝つのだろう。俺は座って息切れする。職業差別反対。


 ピピは俺の膝の上でぐったりしていた。輪郭が少し薄い。


「ピピ」


「おなか、すいたのら」


「よし、生きてる」


 俺はインク瓶を渡した。ピピは両手で抱え、ちびちび舐める。食い意地で生存確認ができる相棒は便利だ。医者いらずとは言わない。医者には来てほしい。かなり来てほしい。


 リゼが俺の名札を見た。


「取り返したな」


「ああ。俺たちの名は、まだ俺たちのものだ」


 言ってから、少し照れた。格好つけた台詞は口に合わない。安いスープに高級香辛料を入れたみたいな違和感がある。


 だが、リゼは笑わなかった。


 ただ、俺の焦げた両手に布を巻いた。手つきは不器用だが、痛みを増やさないように気をつけているのが分かる。


「北塔へ行けるか」


「行く」


 俺は立ち上がった。膝が笑った。俺より愛想がいい。


「祖父がいるかもしれない。未校正室に、読める者を閉じ込めているなら、建国術式はまだ人間を必要としている。そこに穴がある」


「穴なら壊せる」


「俺は読める」


「ピピは食べるのら」


「役割分担が雑だな」


 それでも、悪くなかった。


 廃棄書庫の出口へ向かう。返却路の銀糸は、もう俺たちを捕まえようとはしない。名札の棚も沈黙している。だが、部屋の奥に吊られた無数の札は、まだ戻る先を待っていた。


 全部を今すぐ救うことはできない。


 その事実は、喉に刺さる骨みたいに残った。


 俺は振り返り、棚へ向けて小さく言った。


「後で来る。順番に読んでやる」


 約束は怖い。守れなければ呪いになる。けれど、何も言わずに背を向けるほど、俺は器用に腐れなかった。


 階段を上がると、廊下の冷気が変わっていた。


 北から風が吹いている。


 王宮地下に、風などあるはずがない。


 石壁の継ぎ目が縦に割れ、細い階段が現れた。地図にない北塔への道。未校正室へ続く隠し階段だ。


 俺たちが一歩近づいた時、階段の上から何かが転がり落ちてきた。


 古い革の手袋だった。


 手首の内側に、見覚えのある筆跡で一行だけ書かれている。


 ――ノエル、来るな。私を読めば、お前の名が王の文に綴じられる。


 俺は手袋を拾い上げた。


 革の中には、まだ温かい人の指が一本、入っていた。


(第33話へ続く)

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