返すべき名
人間が三秒でできることは少ない。
息を吸う。息を吐く。写本机の下に落とした砂糖菓子を拾うか迷い、結局拾って食う。だいたいその程度だ。
だが、俺は写本係である。
人生の大半を、偉い誰かの汚い字と、古い誰かのもっと汚い字に挟まれて生きてきた。三秒あれば、嫌な文を二度読むくらいはできる。嬉しくない特技だ。婚礼の席では披露できない。
「リゼ、左だ!」
俺は右の扉から手を離さなかった。
――王の許可なき返却を禁ず。
封文は冷たかった。触れた指の焼け跡に、塩を塗られたような痛みが走る。王都の地下は親切だ。痛み止めの代わりに痛み増しをくれる。
リゼは返事をしなかった。
返事の代わりに、彼女の足音が石床を蹴った。獣化の残り香が、鉄と血の匂いに混じる。無臭などという便利な生き物ではない。リゼは生きていて、傷ついていて、それでも走る。だから俺は腹が立つ。こういう人間を、術式の材料にしていいと思う連中に。
左の「廃棄」の鉄扉で、祖父の名札が燃えていた。
――アデル・アルクム。
黒い炎は文字だけを焼く。木も布も焦がさない。代わりに、名というものを削る。人が人を呼ぶための、最後の紐を。
「のらああ、熱いのら!」
ピピが俺の肩から飛び出した。小さな文字の体を震わせながら、空中でくしゃみを連発する。
「近づくな、焦げる!」
「でも、名前が泣いてるのら!」
「泣いてる名前を見捨てる趣味はない。俺にも趣味くらい選ばせろ」
右手は返却の封文。左手は届かない。俺に腕がもう一本あればよかったが、残念ながら神様は俺を写本係にする時点で予算を使い切ったらしい。魔力も腕も追加なし。貧しい仕様である。
だから、リゼの剣が要る。
「扉の文字を剥がせるか!」
「斬るのではなく?」
「斬ったら燃える! 剥がせ!」
「注文が繊細だな!」
「俺の人生で繊細だったのは給金袋の中身だけだ!」
リゼの剣先が左扉を撫でた。
普通の剣なら弾かれる。だが彼女の剣には、呪いの残りが絡んでいる。獣化の守護術式。厄介で、痛ましくて、本人の人生を何度も噛んできたもの。だが今だけは、その爪が古い文字の縁に食い込んだ。
廃棄の「棄」の字が、薄い金属片のように浮く。
「取れた!」
「投げろ!」
リゼが剣で跳ね上げた文字片が、空中を回った。
俺は右手を封文に押し当てたまま、焼けた左手を伸ばす。届かない。届くはずがない。俺の腕は昔から短い。棚の上の本にも、人生の上等な席にも届かない。
そこでピピが飛んだ。
「のらっ!」
小さな文字の体が、文字片にぶつかった。ピピは紙屑みたいに弾かれたが、文字片の軌道が変わる。俺の左手の先へ落ちてくる。
掴んだ。
熱い。
痛い。
知っている。こういう時、人は悲鳴を上げる。俺も上げたかった。だが悲鳴は後払いにした。世の中、支払いを先延ばしにできるものは何でも先延ばしにするに限る。
俺は右の封文を読んだ。
王の許可なき返却を禁ず。
この文は嫌なほど古い。権力者の文章は千年前から性格が悪いのかもしれない。返すな。許可を待て。上の者が頷くまで下の者は苦しめ。実に王都らしい。
一語だけ。
許可。
返却を止めているのは「王の許可」だ。なら、そこを変える。
王の許可なき返却を禁ず。
民の帰還なき返却を禁ず。
いや、違う。禁ずが残ると面倒だ。禁じる相手を変えるだけでは、また別の首輪になる。
禁ず。
促せ。
返却を禁じる文を、返却を促す文へ。
俺は右手で封文の末尾を押さえ、左手で掴んだ「棄」の残片を噛ませた。廃棄の字を、そのまま燃え尽きさせるのではない。意味をずらす楔にする。
「棄てるな。返せ」
口に出したところで、俺に魔力はない。格好だけなら誰でもできる。俺は格好だけの男だ。だから、指で文字をなぞる。
――促せ。
封文が震えた。
右の扉の刻印が青白く発光し、閉じ込められていた名札が水路から一斉に浮き上がった。南門の避難者たちの名。門番の名。まだ自分で歩ける人間の名。名札は細い魚の群れのように扉へ流れ、返却路の奥へ吸い込まれていく。
上で、遠い悲鳴が途切れた。
代わりに、ざわめきが聞こえた。生きた人間の声だ。恐怖に潰されかけながらも、まだ喉を使っている声。
ひとつ片付いた。
問題は、俺の人生において「ひとつ片付く」と「別の三つが机から落ちる」がほぼ同じ意味だということだ。
左の廃棄扉が軋んだ。
祖父の名札は燃え続けている。だが炎の勢いが落ちた。返却路に流れ込んだ補修命令が、廃棄の字へも食いついたのだ。俺が投げ込んだ「棄」の欠片が、向こう側で引っかかっている。
「ノエル!」
リゼが扉の隙間へ肩を入れた。
「無茶をするな!」
「今それを言う権利は、お前のほうが少し薄い!」
「なら互いに薄い!」
「薄い者同士で押せ!」
俺は右扉から手を離した。返却は走り始めた。数秒で元へ戻る巡回文とは違い、扉そのものが仕事を受け取った。恒久修正とは言えないが、今この瞬間、人の名を戻すには足りる。
俺は左へ走った。
走る、というほど立派なものではない。焼けた指、笑う膝、胃の底で暴れる吐き気。写本係が戦場で移動する姿は、だいたい古い雑巾の避難である。
リゼの肩が鉄扉を押し開ける。隙間から熱ではなく、乾いた声が漏れた。
書き損じた文を破る音。
名札が千切れる音。
そして、誰かが小さく咳をする音。
「今、咳がしたか」
「ああ」
リゼの顔色が変わった。
廃棄の向こうに、生きた喉がある。
俺たちは同時に押した。ピピも扉に体当たりした。たぶん力にはなっていない。だが本人は真剣なので、あとで褒める。俺はこういう無駄に見える真剣さに弱い。
鉄扉が開いた。
中は焼却炉ではなかった。
細長い書庫だった。
壁一面に、名札が吊られている。黒い糸で、標本みたいに。王都の人間だけではない。辺境の村、騎士団の古い名、教会の僧、墓碑で見た名、まだ幼い字で書かれた名まである。
廃棄とは、燃やす場所ではない。
使わない名を保管し、必要になれば別の命令へ回す場所だ。
俺は吐き気を飲み込んだ。飲み込みすぎて、もう腹の中で吐き気が宿を開けそうだ。
「最低だな」
「同感だ」
リゼの声が低い。
彼女の獣の匂いがまた濃くなる。怒りで術式が皮膚の下から爪を立てている。俺は彼女の腕に触れた。
「戻ってこい。ここで獣になったら、あいつらの文句通りになる」
「分かっている」
「分かっていて怒るのは正常だ。俺も今、かなり正常だ」
「お前の正常は信用しづらい」
「失礼な。俺の異常はもっと分かりやすい」
リゼが短く息を吐いた。獣の爪が少し引っ込む。
ピピが震えながら名札の間を飛ぶ。
「ノエル、ここ、みんな寝てないのら。呼ばれるのを待たされてるのら」
「待たされる側はいつも長い。待たせる側はそれを時間と数えない」
祖父の名札は奥にあった。
アデル・アルクム。
黒い炎は名の端を舐めている。完全に燃えれば、おそらく祖父の名は別の命令へ落ちる。棺守りか、門か、もっとひどい何かか。想像力は不要だ。王都の地下は、想像より悪いものを実物で出してくる。
名札の下には、短い術式があった。
――読解権限保持者を、廃棄名簿へ仮置きする。
仮置き。
俺はその言葉に息を止めた。
死者ではない。
少なくとも、この術式は祖父を死者として扱っていない。読める者。読解権限を持つ者。建国術式が必要な時に引っ張り出すため、名をここへ置いた。
祖父は死んだと聞かされた。
墓もある。
なら、墓に入っているのは何だ。
問いが増える。俺の人生は未整理の書庫か。誰か分類札をくれ。
「直せるか」
リゼが聞いた。
「消せない。燃えている命令を止めるには、燃やす対象を変える」
「危険な言い方だ」
「だろうな。俺も嫌いだ」
術式は「読解権限保持者」を廃棄名簿へ置く。なら一語だけ変える。
保持者。
記録。
人を置くな。権限の記録だけ置け。
祖父本人の名を材料にするのではなく、祖父が持っていた読解権限の記録だけを保管する。そんな逃げ道が、この陰湿な文の中に残っているかどうか。
残っていなければ終わりだ。
俺の指は、もうまともに曲がらない。痛みで視界の端が白い。だが名札に触れた瞬間、祖父の声を思い出した。
読め、ノエル。読めば、相手が何を隠したがっているか分かる。
祖父はよくそう言った。俺はそのたびに、隠してある菓子の場所も読めたらいいのにと思っていた。幼い俺は賢かった。大人の俺より、だいぶ目的が健全だ。
俺は焼けた名札の根に触れた。
――記録。
炎が跳ねた。
黒い火が俺の爪を食った。痛いどころではない。痛みが礼儀を捨てて部屋に土足で上がってきた。
リゼが俺の背を支える。
「離せ、ノエル!」
「まだ一画残ってる!」
「指が持たない!」
「指より名のほうが高い!」
「お前の指も安くはない!」
「写本係の給金表を見せてやりたい!」
最後の一画を押し込んだ。
炎が消えた。
祖父の名札は黒く焦げたが、落ちなかった。代わりに、その下の術式が細くほどけ、銀の糸になって棚へ絡む。
廃棄名簿への仮置きは止まった。
だが、名札そのものは戻らない。
返却路へは流れなかった。
「なぜだ」
リゼが問う。
俺は焦げた名札の裏を読んだ。
そこに、追記があった。
――本人所在、王宮北塔。未校正室。
膝から力が抜けそうになった。リゼに支えられなければ、俺は格好よく崩れるどころか、ただの荷物として床に落ちていた。
祖父は死者として廃棄されていたのではない。
生きていると断言するには、まだ早い。俺は希望という字を信用しすぎるほど若くない。だが、術式は祖父の所在を記していた。
王宮北塔。
未校正室。
王都の地図には載らない場所だ。少なくとも、俺が王宮写本所で雑用をしていた頃には聞いたこともない。聞かせる気がなかったのだろう。王都は隠し部屋を作るのが上手い。人間の良心を置く部屋だけ、どうも作り忘れている。
ピピが俺の焦げた指にしがみついた。
「アデル、いるのら?」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「でも、捨てられてはいなかった」
それだけで、今は十分だった。十分でなければ、俺が壊れる。壊れた写本係は修理がきかない。部品が元から安物だからだ。
その時、廃棄書庫の奥で鐘が鳴った。
南門でも、壁の内側でもない。
名札の棚そのものが鳴っている。
吊られた名札が一斉に裏返った。黒い糸がぴんと張り、部屋の中央に新しい文を編む。
――未校正室への侵入者を、次の棺守りに指定する。
文の下に、空白の名札が二枚落ちた。
一枚目には、リゼ・フォグレス。
二枚目には、ノエル・アルクム。
俺はそれを拾い上げ、リゼに押しつけた。
「予定変更だ。北塔へ行く前に、俺たちの名を取り返す」
直後、空白だった三枚目の名札に、ピピの小さな名が浮かび始めた。
(第32話へ続く)




