王の裏口
石段は、俺を歓迎していなかった。
一段目から湿っている。二段目は欠けている。三段目には、踏んだ者のやる気を吸うような苔が生えていた。王の裏口というからには、もう少し王家らしい絨毯とか、無駄に金のかかった燭台とかを期待してもいいだろう。出てきたのは、靴裏を殺すために生まれたような階段である。
「王族も裏口は質素なんだな」
「文句を言う余裕があるなら足を動かせ」
リゼが後ろから低く言った。血と雨に濡れた鉄の匂い、その奥に獣の熱い匂いが混じっている。呪いで伸びた爪はまだ戻りきっていない。彼女が人で踏みとどまっている証拠のように、息だけが荒かった。
「手当ては」
「地下で王を殴ってからだ」
「王を殴る予定は俺の手帳に無いんだが」
「今書け」
俺は写本係だった。予定表の改竄は得意だ。人生の改竄は下手だが。
ピピが俺の肩に張りついた。小さな文字の体が、湿気で少し滲んでいる。
「ここ、インクが腐った匂いがするのら」
「お前にとっては嫌な匂いか」
「古いごはんみたいで、悲しいのら」
古いごはん。王都の地下にそれが詰まっているなら、建国王は片付けのできない男だったことになる。俺と気が合いそうで嫌だ。
石段の壁には文字が刻まれていた。読める。嫌になるほど読める。
――南門保守路。拒まれた命令を流す余白。
「裏口じゃないな」
「違うのか」
「排水溝だ。水じゃなく、術式の失敗文を捨てるための」
王都は誤字でできている。そう言ったことがある。訂正する。王都は誤字を地下に押し込めて、その上で澄ました顔をしている。人間社会の縮図みたいで、胃が痛い。
階段の下に、丸い広間があった。天井は低く、中央に黒い水路が走っている。水ではない。細かな文字が群れになって流れていた。捨てられた命令。失敗した祈祷。名前になれなかった名。読めば読むほど頭の奥がざらつく。
広間の奥には、三つの鉄扉。
左は「廃棄」。右は「返却」。中央は「王座下部」。
「真ん中だな」
「罠だな」
「罠でも道が一つなら、それは王都では案内板と呼ぶ」
俺が中央の扉に近づいた瞬間、黒い水路が盛り上がった。
文字の塊が、人の形を取る。顔は無い。鎧の輪郭だけがある。手には槍。胸には同じ一文が何度も刻まれていた。
――棺守り、補充。
「予備かよ」
俺の口から、情けない声が出た。正門で一体退けたら、裏口で在庫処分。建国術式は商売がうまい。俺はその商才を嫌悪する。
黒い槍が突き出された。
リゼが前に出た。爪で槍を弾く。音がした。金属ではなく、硬く乾いた紙を裂くような音だ。槍の先が壁に刺さり、そこから文字が走る。
「触れるか!」
「触れたら腕ごと持っていかれるやつだ!」
「なら読め!」
「読んだら気分が悪くなるやつだ!」
「いつものことだ!」
まったくその通りなので腹が立つ。
棺守りの胸にある文は単純だった。
――空いた名を棺へ入れよ。
空いた名。南門でダンから鍵を外した。棺守りの枠が一つ空いた。だから地下の余白が補充を始めた。誰を入れるつもりか。答えは、目の前にいる生き物から選ぶに決まっている。
リゼの首筋に、細い黒文字が浮いた。
俺の喉が冷えた。
「リゼ、下がれ!」
「下がればお前が刺される!」
「俺は刺されるのに慣れてないが、選ばれるのはもっと嫌だ!」
棺守りの槍がリゼの肩をかすめた。血が飛ぶ。黒文字がその血に触れ、獣化の術式へ絡みつこうとする。リゼの体が一瞬だけ震えた。牙が伸び、瞳が縦に割れる。
まずい。建国術式はリゼを「人」ではなく「獣の守り」として読もうとしている。棺に詰めるには、人格より機能のほうが扱いやすい。実に王様らしい。胸が悪い。
「ピピ、くしゃみは?」
「もうずっと出そうなのら!」
「出せ!」
「へぷちっ!」
ピピのくしゃみで、空中の文字が一瞬ばらけた。かわいい音のわりに効く。本人は涙目だ。あとで良いインクを舐めさせよう。安物だと怒るので、俺の財布が泣く。
ばらけた文字の隙間に、棺守りの核が見えた。
胸の文ではない。足元だ。
黒い水路から立ち上がる文字の根。そこに短い命令があった。
――補充せよ。
単純で強い言葉だ。こういうものほど厄介である。余計な飾りが無いので、説得の余地も無い。
俺は床に膝をついた。冷たい。汚い。写本係の膝は職業柄よく汚れるが、これは別料金を請求したい。
「ノエル!」
「一呼吸くれ!」
リゼが棺守りに組みついた。槍が彼女の脇腹を浅く裂く。血の匂いが濃くなる。獣の力で押し返しているが、首筋の文字は増えていた。
俺は床の根文字に指を押しつけた。
焼けた指に痛みが走る。古代語が頭へ流れ込んだ。拒まれた命令、捨てられた名前、誰かが誰かを道具にした文の残りかす。吐き気がする。だが吐いている暇は無い。俺の胃袋は今日も職務放棄を許されない。
消せない。
補充という命令そのものは、建国術式の保守機能だ。これを丸ごと壊せば、たぶん王都の別の場所で何かが詰まる。王都は昔から面倒だ。下水も政治も、詰まると弱い者から溢れる。
一語だけ。
補充せよ。
補修せよ。
たった一字ではない。一語の意味をずらす。空いた棺守りを埋めるのではなく、空いた接続を直す。命を入れるな。欠けた文を縫え。
「リゼ、離れろ!」
俺は根文字へ爪を立て、書き換えた。
――補修せよ。
棺守りの体が崩れた。
槍も鎧も黒い文字へ戻り、水路へ落ちる。だが消えない。命令は別の仕事を見つけた。水路の底で、破れた文字同士を繋ぎ始める。
リゼの首筋に浮いていた黒文字がほどけた。彼女は片膝をつき、荒く息をした。獣の匂いが少しずつ薄れ、鉄と汗と生きている体の匂いが残る。
「大丈夫か」
「大丈夫ではないが、返事はできる」
「立派だ。俺は大丈夫な時でも返事をしたくない」
俺は彼女の肩の傷に布を当てた。応急にもならない雑な手当てだが、何もしないよりはましだ。何もしないよりまし、という言葉は俺の人生の大部分を支えている。
リゼは俺の手首を掴んだ。
「お前の指も焼けている」
「読者に見せられない写本係の手になってきたな」
「誰に見せるつもりだ」
「帳簿係とか」
「やめておけ。泣くぞ」
ピピが水路の縁へ降りた。黒い文字の流れを覗き込み、小さく震える。
「直してるのら」
「ああ。俺が珍しくまともな仕事をした」
「でも、泣いてる文字があるのら」
俺は水路を見た。
補修に回った文字の中に、細い名札のようなものが混じっている。人の名前だ。南門の避難者、門番、古い王宮の役人、もう死んだはずの誰か。棺守りに補充されかけた名の控え。
その一つに、見覚えがあった。
――アデル・アルクム。
祖父の名だ。
喉が詰まった。
祖父は死んだ。俺はそう聞いた。墓もある。古い写本道具も残っている。だが、この地下の名簿に祖父の名があるということは、少なくとも建国術式は祖父を「空いた名」として扱っていない。
生きている、とは限らない。
死者の名を材料にする術式もある。俺はこの数日で、そういう最低の事実に詳しくなった。嫌な成長だ。履歴書に書けない。
リゼが俺の顔を見た。
「知っている名か」
「祖父だ」
言葉にした瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。俺は弱い。皮肉は鎧になるが、家族の名札までは防げない。
「追うか」
リゼの問いは短かった。止める声ではない。急かす声でもない。選ばせる声だ。
俺は息を吐いた。
「追う。だが先に、この保守路を開ける」
「なぜだ」
「上の三百十二人が、また門に呑まれたら困る。祖父の名を追っている間に生きている人間を減らしたら、あの人に殴られる」
祖父は優しい人だった。優しい人は、怒る時に一番怖い。写本机の角に小指をぶつけた時より怖い。
俺は中央扉ではなく、右の「返却」と刻まれた扉へ向かった。書き換えた補修命令が水路の中で働き、詰まっていた文字を繋ぎ直している。返却路を開けば、奪われかけた名前は地上へ戻る。たぶん、南門の人々は自分の足で逃げ続けられる。
扉には封文があった。
――王の許可なき返却を禁ず。
「王の許可が要るそうだ」
「頼むのか」
「嫌だね。俺は王様にお願いするために地下まで来たんじゃない」
俺は封文に触れた。さっき一語を書き換えたばかりで、指が震える。流れが戻るまで少し待つ必要がある。待つ間に、天井から砂が落ちた。
上で鐘が鳴った。
南門ではない。もっと近い。足元からでも頭上からでもない。壁の内側だ。
ピピが叫んだ。
「ノエル、壁の中に階段が増えてるのら!」
広間の壁に、新しい文字が焼きついた。
――校正者が返却を選ぶなら、祖父の名を廃棄へ送る。
左の鉄扉、「廃棄」の向こうで、祖父の名札が黒く燃え始めた。
俺は右の扉から手を離さず、リゼに言った。
「三秒だけ、俺を信じろ。両方やる」
(第31話へ続く)




