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南門の棺守り

 南門へ走る、と口にした直後に気づいた。


 俺は走るのが得意ではない。


 写本係の足は、机と棚のあいだを往復するためにできている。王都の石畳を、獣化しかけた女騎士と並んで駆けるような設計ではない。設計者がいるなら、今すぐ呼び出して返品したい。


 当然、返品先などないので、俺はリゼに襟首を掴まれた。


「乗れ」


「荷物扱いに戻ったな」


「荷物は南門を救わない」


「なら俺は高級荷物だ」


 リゼは返事をせず、俺を肩に担いだ。視界が上下逆さになる。胃の中に残っていた聖堂の埃が、自分の人生を悔やみ始めた。


 大聖堂の外は、鐘のせいで昼なのに葬列みたいだった。逃げ出した人々が広場を埋め、聖堂兵が担架を運び、ペトル司祭が声を枯らして指示を出している。あの男が善人になったわけではない。だが人を運んでいる間だけは、役に立つ悪人でいられる。世の中、修正できる誤字ばかりではないが、使える余白くらいはある。


 リゼが屋根へ飛び移った。獣の匂いが風に散る。汗、鉄、焦げた毛皮。俺の焦げた指の匂いも混ざって、なかなかひどい。詩人なら戦場の香りと呼ぶかもしれない。俺なら洗濯物の敗北と呼ぶ。


「ノエル、指は」


「痛い」


「動くか」


「痛いから動く。痛くなくなったら、たぶん医者を呼べ」


 襟元からピピが顔を出した。文字でできた小さな体が、風圧でぺらぺらめくれている。


「南のほう、くしゃみが出るのら。焦げた字の味がするのら」


「お前、味で方角が分かるのか」


「おいしくないほうが南なのら」


「便利で嫌な案内だな」


 南門が見えてきた。


 王都の門は立派だ。立派すぎる。税と汗と見栄を積み上げた石の山に、建国の美名を塗ってある。普段なら商人の馬車が列を作り、門番が通行札を確認し、子どもが焼き栗を売っている場所だ。


 今は、誰も商売をしていなかった。


 門扉は閉じていない。むしろ半分開いている。だが人々は出られず、門の内側で円を描くように立たされていた。兵士、荷運び、魚売り、巡礼、泣く子を抱いた母親。全員の足元に青白い文字が絡みついている。


 文字は彼らの影を縫い、名前を拾っていた。


 ――門内人員を棺守りに編入せよ。


 ――呼び名を削り、役目を与えよ。


 ――恐怖を鎖とし、逃走を罪とせよ。


「最悪だ」


 俺は言った。語彙が少ないのではない。最悪なものを見た時、人間の語彙は最悪に戻るのだ。


 円の中心に、一人の門番が立っていた。


 まだ若い。俺より少し上か。鎧の胸に南門の徽章、腰に剣。だが剣は抜かれていない。彼の手には、古びた黒い鍵が握られていた。鍵から伸びた文字が、彼の首筋へ食い込んでいる。


 門番は泣いていた。


 涙を流しながら、口だけが別の声で動く。


「棺を守れ。門を捧げよ。名を捨てよ」


 リゼが屋根の縁で身を低くした。


「斬るか」


「斬るな。あれは使われているだけだ」


「なら、どこを斬ればいい」


「俺の寿命以外で頼む」


 冗談を言ったが、喉は乾いていた。


 術式は門全体に走っている。石材の目地、門扉の鉄帯、上部の鐘、その全部が一つの文章だ。巨大すぎる。俺の手は一本、焦げた指は五本、人生は薄紙一枚。正面から直すには、人数も時間も足りない。


 だが円の中心、門番の鍵だけは違った。


 鍵は術式の取っ手だ。命令を人へ引っかけるための道具。あそこに触れれば、一語は変えられる。


「リゼ、中心まで行けるか」


「行ける。ただし全員が敵になる」


 その言葉通り、円の周囲の人々がこちらを向いた。泣いている子どもまで、青い目で俺たちを見る。自分の意志ではない。だから余計に嫌だった。操られた弱い人間ほど、盾として優秀なものはない。考えた奴は性格が悪い。俺と同業なら赤を入れすぎて紙を破るところだ。


「傷つけずに、だ」


「難しい注文だな」


「俺の仕事はだいたいそうだ。安くて面倒で、あとで誰も覚えていない」


「私は覚えている」


 リゼはそう言って、飛んだ。


 屋根から門前の荷車へ、荷車から兵士の盾へ、盾を蹴って円の内側へ。人々の手が伸びる。リゼは爪で武器だけを弾き、肩で押し、膝で足を払った。斬らない。折らない。だが止める。


 騎士の仕事だ。


 獣の力で、人を傷つけないために戦っている。


「ピピ、右!」


「くしゃみ三つ分、右なのら!」


 俺は担がれたまま、情けなく叫ぶ係だった。情けないが必要な係である。世の中には剣を振るう者と、剣を振るう者の耳元でうるさい者が必要だ。俺は後者の資格だけなら立派にある。


 中心の門番が、ゆっくり剣を抜いた。


 泣きながら。


「逃げてくれ」


 本人の声だった。


「逃げてくれ、頼む。腕が勝手に――」


 次の瞬間、彼の剣がリゼの首へ走った。


 リゼは避けず、籠手で受けた。金属が裂ける音がした。彼女の腕から血が散る。獣化した皮膚でも、建国術式に握られた門番の一撃は重い。


「名前は!」


 俺は叫んだ。


 門番の目が揺れた。


「……ダン。南門番、ダン・ロイ」


「よし、ダン。泣きながら働くな。給料が上がらないぞ」


「何を言って――」


「自分の名前を聞け。お前は棺じゃない。門番だ」


 リゼが俺を地面へ降ろした。足がしびれて、膝が笑う。こんな場面で笑うな。空気を読め、俺の膝。


 ダンの鍵が胸の高さにある。そこまで一歩。だが文字が蛇みたいに跳ね、俺の手を拒んだ。


 ――校正者を中心へ導け。


 また俺だ。どいつもこいつも俺を中心へ呼ぶ。人気者になった気はしない。罠に名前を書かれているだけだ。


 リゼがダンの剣を押さえ込む。


「早くしろ」


「知ってる!」


 俺は焦げた指を鍵へ伸ばした。


 熱い。


 聖堂の鐘よりも、ずっと冷たい熱だった。氷で焼かれるような感覚。文字が皮膚の下へ潜ろうとする。


 読め。


 読めなければ、俺はただの魔力ゼロの元写本係だ。いや、読めてもだいたいそうだが、今日は少しだけ違う。


 鍵の本文が開く。


 ――南門鍵保持者を第一棺守りとし、門内人員を従属棺守りに編入する。棺守りは王の棺を守り、名を返さず、命尽きるまで門を閉じる。


 一語。


 どれだ。


 「棺守り」を「門守り」に変えたい。だが全員にかかる語が多すぎる。二度出てくる。片方だけでは命令が残る。


 「閉じる」を「開ける」に変えたい。けれどそれでは彼らは王の棺を守る役目のまま、開いた門から外へ出ていくかもしれない。歩く呪いを放流する趣味はない。


 「従属」を変えるか。


 俺は息を止めた。


 ――門内人員を従属棺守りに編入する。


 従属。


 人を鎖にする語だ。そこを変えれば、円の三百十二人はダンに引きずられない。第一棺守りだけが残る。ダン一人なら、救える。


 だが彼は残る。


 俺はダンを見た。泣いている門番。自分の腕を止めようとして、歯で唇を切っている若い男。


「悪い。先に周りを外す」


 ダンの顔が歪んだ。


「いい。頼む。子どもがいる」


 弱い人間は、よく自分を後回しにする。そういう奴から順に損をする世の中を、俺は正しいと思わない。


 だから、後で必ず戻る。


 俺は「従属」の語へ指を押し込んだ。


「保護」


 文字が暴れた。俺の爪の下で青い火が跳ねる。


「従属じゃない。保護だ。門内人員を保護棺守りに――いや、違うな。保護対象にしろ!」


 一語の置換は、意味の幅を持つ。古代語は現代の祈り文句より融通が利くが、融通が利くぶん性格が悪い。俺の指先を噛みながら、術式は一番嫌な解釈を探す。


 ピピが鍵へ飛びついた。


「ノエル、ここ、同じ音なのら! 棺の音じゃなくて、囲う音にずらすのら!」


「食うなよ!」


「食べてないのら、舐めてるのら!」


「もっと悪い!」


 だが助かった。ピピの小さな体が触れた場所で、字の跳ね方が見えた。


 棺守り。


 守りの語が、人を棺へ縛っている。従属を保護へ変えるだけでは足りない。だが「従属」の古い語根には、別の読みがあった。


 従える、ではない。


 付き添わせる。


 俺はその一画をずらした。


「避難」


 鍵が鳴った。


 鐘ではなく、錠前が外れるような音だった。


 円の外周に絡んでいた文字がほどけ、人々が崩れ落ちる。青い目の光が消えた。母親が子どもを抱きしめ、荷運びが自分の手を見て震え、兵士が膝をついて吐いた。


「門から離れろ!」


 俺は叫んだ。


「走れる奴は走れ! 走れない奴を運べ! 名前を呼び合え、呼ばれたら返事しろ!」


 返事が広がった。


 マリ。


 トーブ。


 エナ。


 ロイス。


 名前が、門の内側を満たしていく。ひどく泥臭く、泣き声混じりで、ばらばらで、だからこそ生きた声だった。


 俺は少しだけ息を吐いた。


 三百十二人は、棺守りにならなかった。


 だがダンの首筋の文字は消えていない。第一棺守り。鍵保持者。中心の杭。


 ダンが剣を構え直した。涙は止まっていた。止まったのではない。術式が泣く機能を後回しにしたのだ。


「ノエル」


 リゼの腕から血が落ちる。


「一語は」


「使った」


「なら、どうする」


 どうする。


 俺の能力はいつも一語ぶん足りない。世の英雄ならここで二つ目の力に目覚めるのだろう。俺は目覚めない。寝不足になるだけだ。


 だから、力ではなく手順を変える。


「鍵を門から外す」


「壊せるのか」


「壊さない。持ち主ごと、命令の範囲から引きずり出す」


 ダンの足元から、文字の鎖が門の敷居へ伸びている。鍵保持者は門の一部として扱われている。なら、門から離せばいい。


 問題は、ダンが建国術式の腕力で抵抗することだ。


「リゼ、痛い仕事だ」


「いつものことだ」


「俺も少し痛い」


「お前もいつものことだ」


 リゼが笑った。獣の牙が見えたが、声は人だった。


 彼女は正面からダンへ踏み込んだ。剣と爪がぶつかる。火花。リゼが一歩押される。俺は横から鍵の鎖へ飛びついた。飛びつくというより、転んでしがみついた。格好は悪い。効果があれば勝ちだ。


 文字の鎖が腕に絡む。


 読める。


 だが書き換えられない。一語はもう使った。術式の流れが戻るまで数秒か、十数秒か。待てばダンが完全に固定される。


 なら読むだけでいい。


「リゼ、三歩後ろ!」


 リゼは即座に下がった。ダンが追う。鎖が伸びる。門の敷居に刻まれた字が、ぎりぎりと悲鳴を上げた。


「もう二歩!」


「限界だ!」


「俺もだ!」


 俺は鎖を抱え込んだまま、敷居の外へ転がった。


 瞬間、ダンの体が硬直した。


 門は彼を門の内側に置こうとした。リゼは外へ引いた。俺は鎖を敷居の外へ引いた。命令文が、自分の主語を見失う。


 ほんの一呼吸。


 それで十分だった。


 ダンの手から鍵が落ちた。


 リゼがその鍵を蹴り飛ばす。黒い鍵は石畳を滑り、排水溝へ落ちた。水音がした。


 ダンが崩れた。俺は慌てて受け止めようとして、当然のように潰された。若い門番一人分の重みを受けるには、俺の人生経験が足りなかった。


「重い」


「す、すみません」


「謝るな。生きてる人間は重いものだ」


 ダンは震える手で、自分の首を触った。文字は薄れている。消えたわけではない。術式は消せない。だが命令の接続は切れた。


「俺は……棺守りに」


「なりかけた。今は南門番ダン・ロイだ。返事」


「はい。南門番、ダン・ロイです」


「よし。給料分、避難を手伝え」


 ダンは泣きそうな顔で頷き、立ち上がった。足は震えていたが、他の負傷者を抱えに行った。あれでいい。英雄面で気絶されるより、よほど助かる。


 南門の内側から人が消えていく。門そのものはまだ不気味に開いたままだ。王都の外周では、他の門の鐘も鳴り続けている。俺たちは南門の三百十二人を救っただけだ。だけ、という言葉を軽く使う奴は、三百十二人分の名前を一晩中写してみればいい。


 リゼが俺の隣に膝をついた。


「立てるか」


「気持ちだけなら」


「体は」


「地面と親交を深めている」


 リゼは俺の襟首を掴み、引き起こした。腕の傷からまだ血が流れている。


「先に手当てを」


「後だ」


「そう言うと思った。言うだけ言った俺を褒めてくれ」


「後でな」


 ピピが排水溝の縁に降り、黒い鍵が落ちた穴を覗き込んだ。小さな文字の体が、ぶるりと震える。


「ノエル」


「どうした。鍵を食べたいなら駄目だぞ」


「食べたくないのら。下から、字が上がってくるのら」


 排水溝の奥で、水音が止まった。


 代わりに、石畳の隙間から黒い文字が染み出してきた。鍵に刻まれていたものと同じではない。もっと古い。もっと深い。建国初期文の底にあった、あの王の棺に近い筆跡。


 文字は俺たちの足元を避け、南門の外へ向かって一本の線を引いた。


 線の先で、地面が割れた。


 門の外、街道の中央に、地下へ降りる石段が現れた。今までそこに無かったものだ。蓋石には短い一文が刻まれている。


 ――校正者が棺守りを退けた時、王の裏口を開く。


 南門の鐘が、内側からではなく地下から鳴った。


 俺は焦げた指を握り直し、石段へ一歩踏み出した。


(第30話へ続く)

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