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俺の名を担保にするな

 自分の名を、他人の倉庫で見つける。

 これが墓なら、まだ分かる。俺はよく死にかけるし、周囲もそろそろ慣れてきた頃だ。だが、王名保管庫の奥で、鎖つきの木札に焼き付けられているとなると話が違う。

 俺はいつから王家の備品になった。

 安物の羽根ペンならまだしも、人間一人を棚に置くな。せめて埃を払え。


「ノエル」

 リゼの声が低くなる。剣を構えたまま、俺の半歩後ろに立った。獣化の熱は引きかけているのに、毛の下からまだ鉄と雨の匂いがした。生きている匂いだ。少し安心する。安心した直後に、自分が木札に向かって安心を探していることに気づいて嫌になる。

「触るなと言いたいが」

「言っても触るぞ。俺の名前だ」

「だから言わない。触るなら、私の届く距離で触れ」

「命令が雑になってきたな」

「慣れた」

 慣れられてしまった。俺の命の扱いが、だんだん日用品に近づいている。


 ピピが俺の肩にしがみつき、くしゃみをした。

「くしゅんっ、焼け字なのら。これ、ただの名札じゃないのら」

「見れば分かる。普通の名札は本人に無断で鎖を生やさない」

「ノエルの名、帰りたくても帰れないのら」


 帰れない。

 その一言で、喉の奥が少し乾いた。

 他の名は返却の流れに乗って、王都のどこかへ、領地へ、墓へ、まだ息のある誰かの胸へ戻っていく。なのに俺の木札だけが、鎖を張ったまま棚に残っている。俺は目の前にいる。持ち主はここだ。迷子札なら、とっくに手渡しできている距離だ。

 それでも戻らないなら、戻れない理由が書いてある。


 読むのが俺の仕事だ。

 嫌な仕事ほど、だいたい俺に回ってくる。写本係時代から変わらない。机の脚が折れても俺、窓の隙間風も俺、王都の大結界の誤字も俺。ついに自分の名前まで俺だ。人手不足にもほどがある。


 俺は木札に指を伸ばした。

 触れた瞬間、焼けた文字が指先に噛みついた。痛みではない。確認だ。術式が俺を照合している。

 ノエル・アルクム。

 年齢十九。

 魔力欄、空白。

 所属、抹消済み。

 職能、読解。

 血統、王血該当なし。

 そこまでは、まあ知っている。紙に書かれると腹立たしいだけで、内容は事実だ。

 問題は次の行だった。


『用途——欠落時の代替筆』


 俺は一度、目を閉じた。

 開いても同じ文があった。残念ながら、目の不調ではない。俺の人生はだいたいそうだ。見間違いであってほしいものほど、くっきり読める。


「何と書いてある」

 リゼが問う。

「俺を筆にする気らしい」

「……誰が」

「この倉庫を作った誰かだ。王名を返せなくなったとき、読める人間の名を削って、代替の筆にする。便利だな。泣けるほど最低だ」


 代替筆。

 人を材料にするな、と俺は何度も言ってきた。

 だがこの術式は、俺を人間として見ていなかった。魔力がない。王血もない。だからこそ、他の命令に染まりにくい空白の柄。文字を読むための、空っぽの軸。

 俺の無価値を、価値として使う設計。

 ひどい話だ。ひどいのに、理屈だけは通っている。理屈が通る悪意ほど面倒なものはない。説得では止まらないからだ。


 木札の下に、さらに細い焼き文字がある。ほとんど炭の筋だった。

『登録者——アルクムの読手』


 祖父だ。

 名は書かれていない。だが、この書き癖は知っている。最後の払いをわざと短くする。写本台で何度も見た。俺が子供のころ、間違えた字を直されるたびに、祖父の赤い線はこういう終わり方をした。

 腹の底に、冷たいものが落ちる。

 祖父が俺を売ったのか。

 そう考えた瞬間、ピピが俺の耳元で小さく鳴いた。

「ちがうのら。ここ、二重書きなのら」


 ピピの文字の体が、木札の表面に薄く貼りつく。インクと古紙の匂いがふわりとした。こいつは無臭ではない。腹が減ると古い本棚みたいな匂いになる。今は怯えているせいか、少し焦げたインクの匂いが混じっていた。


「上の字、焼かれてるのら。でも下に、別の字があるのら」

「読めるか」

「むずかしいのら。ノエルが読んで、ピピが隙間を照らすのら」

「助かる。賃金は後でインク一滴だ」

「三滴がいいのら」

「危険手当を覚えるな」


 ピピが光る。小さな文字の粒が、焼け焦げた行間をなぞった。

 黒く潰された下から、別の文が浮いた。


『用途——欠落時の代替筆』

 その下に、掠れた原文。

『用途——欠落時の代替を拒む栓』


 俺は息を止めた。

 売ったのではない。

 祖父は、俺の名をここに置いた。王名の穴が次の誰かを筆にしようとしたとき、それを拒む栓として。

 だが後から誰かが焼いた。

 『拒む栓』を『代替筆』へ。

 一語ではない。二語近い。乱暴な焼き潰しだ。祈祷師の手口と同じ、直りかけた術式を病気にする焼き方。


「じいさん……説明くらい残せよ」

 声が少し掠れた。

 文句は山ほどある。孫の名を勝手に担保にするな。せめて誕生日に言え。いや誕生日に言われても困る。贈り物の箱を開けて「王国を塞ぐ栓です」と出されたら、子供は泣く。

 だが、俺を材料にしたのは祖父ではない。

 祖父は、誰かが材料にされるのを止めようとした。

 その役を、俺の名に押しつけた。

 優しさと身勝手は、同じ手で書ける。身内だと余計に読みにくい。


 木札が震えた。

 返却の流れを失った保管庫の奥で、王の穴がまた脈を打ち始める。先ほど俺が『名を返す者』に書き換えた箇所が、上書きされかけている。巡回する古い術式はしぶとい。俺の修正は応急処置だ。千年の性格を数秒で改心させられるなら、俺は写本係ではなく聖人になっている。残念ながら、性格も収入もそこまで高くない。


 鎖が俺の木札から伸びた。

 先端が、筆先みたいに裂けている。

 リゼが斬る。火花。鎖は二つに割れ、すぐ文字に戻ってまた伸びた。

「また来るぞ」

「だろうな。俺の名を筆にする命令が残ってる」

「直せるか」

「触っている間だけなら」

「恒久には」

「焼けた欠落を補修しないと無理だ。時間がいる。安全もいる。今ここにない二大高級品だ」


 鎖が二本、三本に増える。リゼが前に出た。獣化の残り火が手首を覆い、爪が刃のように伸びる。だが匂いが強くなった。焦げた銀と血の匂い。無理をしている。

 俺は木札を握った。

 読む。

 変える一語を探す。

 『筆』を『栓』へ戻せばいい。だが焼けが深い。『栓』の字は半分ない。今ここで足りない画を補うには、俺の指と時間が足りない。なら、完全修理ではなく、今だけ命令の向きを変える。

 『代替筆』。

 筆は、書くために握られるものだ。

 握られなければ、使えない。

 変えるのは『筆』ではない。使う側だ。


 俺は裂けた鎖の根元に指を突っ込み、命令文の一語を掴んだ。

『使用者——王名保管庫』

 これを変える。

 倉庫が俺を使うから危険なのだ。なら、使用者を倉庫から奪う。

 ただし、誰か他人には渡さない。人を材料にするな。では、誰に使わせる。

 答えは腹立たしいほど単純だった。


『使用者——本人』


 焼けた指で、俺は一語をねじ込んだ。

 鎖の動きが止まった。

 筆先のように裂けた先端が、俺の胸の手前でぴたりと固まる。倉庫は俺を握れない。王の穴も俺を握れない。俺の名を筆として使えるのは、俺本人だけだ。

 もちろん、俺は魔力ゼロなので筆を持っても新しい魔法は撃てない。高級な剣を渡された野菜売りのようなものだ。だが、今だけはそれでいい。使えない筆は、少なくとも他人の手では凶器にならない。


 木札が俺の掌に落ちた。

 鎖が、ばらばらと床へ崩れて文字の砂になる。

 俺は膝をつきそうになったが、リゼの腕が支えた。鎧越しでも体温が分かる。少し獣の匂いが濃い。怖かったのだろう。俺も怖かった。人は、自分の名前が道具棚にあると、なかなか冷静ではいられない。


「戻ったのか」

「いや。借りた」

 俺は掌の木札を見た。

 そこにはまだ『ノエル・アルクム』とある。返却はされていない。俺の胸に戻ったわけではない。ただ、使用権を奪い返しただけだ。

「完全に戻すには、焼かれた『拒む栓』を直す必要がある。祖父が何を塞いだのかも読まないといけない」

「なら読む」

「簡単に言うな。俺は今、自分の名札を拾っただけで足が震えてる」

「震えていても読むだろう」

「読むけどな。そこを当然みたいに言うな。俺が格好つける余地が減る」


 ピピが木札に鼻先を近づけ、またくしゃみをした。

「くしゅっ……まだ奥に、同じ焼け匂いがあるのら」

「同じ?」

「この名札を焼いた字と、同じ手なのら。下、下から来るのら」


 床が鳴った。

 保管庫の最奥、俺の名札が掛かっていた棚の裏で、石の継ぎ目が縦に割れる。黒い階段ではない。今度は扉だ。薄い石板が左右に滑り、冷たい風が吹き上がった。

 その風に、紙の灰が混じっていた。

 灰の一片が俺の頬に貼りつく。指で取ると、そこには小さな古代語が残っていた。


『校正者を回収せよ』


 次の瞬間、扉の奥から白い腕が伸び、俺の手首を掴んだ。


(第50話へ続く)

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