第五章 其の十
後ろでごくりと息を飲む音が聞こえた。
以前、鈴音から聞いてずっと心の片隅に引っかかってはいたのだが、結局どうすることもできないまま静観するしかなかった。だが、今の状況であればもう遠慮もいらないだろうとその名を口にする。
「蔵山、ですか...?聞いたことはありませんね。その人をお探しになっているのですか?」
「まあ、そうだな。ここにいるという話を聞いたから気になっただけだ。わからないのであればいい。」
やはりこの件について知っているのは大名だけのようだなと捨て置くことにする。このような状況で、あれもこれもと欲をかくほど愚かではない。なにかを取れと言われたのならば、間違いなく私怨は後回しにできる。
「周りの者にも聞いてみましょう。探し人の特徴を教えていただけますか?」
「いや、忘れてくれ。」
善意なのだろうそれに、即座に首を横に振れば不満そうに口を尖らせる。
その仕草に、無邪気な子どものようなそれが元来のものであることを知る。しかし、今となってはそれだけではなく、きちんと物事を見据えて冷静に判断ができるのだということも知った。現に、なにかを反論することはなく大人しく引き下がってくれた。
「また来ます。」
不満さはまだ残っていたものの、もう話すことがないとこちらが口を閉ざしたのを察したらしく、娘殿は来たときと同じく静かに立ち去った。
そうして、また夜が訪れる。
がちゃがちゃと遠くから耳障りな音がして目を薄く開く。
少し前に、身体を休めようと横になったばかりだというのになんなんだと不機嫌になりながら仕方なく身を起こした。他ふたりも先ほどとは呼吸が異なり、起きていることが察せられた。
音のする方を警戒していれば、少しして数人の男が牢の前へと現れて掲げられた灯りに下卑た笑みが浮かびあがる。
「喜べ。お前たちの処遇が決まったぞ、ついて来い。」
このような状況で、ついて来いと言われて素直についていく馬鹿がどこにいる...とふいと視線を外した。
すると、いきなりがつりと頭を棒で殴られる。
「旦那様!!」
即座に身を起こしたふたりを手で制す。
「ずいぶんと乱暴だな。」
「お前たちが自分の立場をわかっていないからだろう。」
げらげらと笑い合う男たちに呆れてなにも言えないでいれば、次はがしゃんっと足で柵を蹴る。一応は大名の屋敷内を歩くことができるほどの者たちだというのに、なぜこれほどまでに粗野なのかと呆れずにはいられない。
「おら、さっさとしろ。みんなが待ちくたびれてるんだ。」
「旦那様...」
怒りを漂わせ始めたふたりに苦笑し、俺は頷いた。
「仕方ない。いくぞ。」
ここから出られるというのであればむしろ都合がいい、と渋ったふたりをなだめて俺たちは牢を出た。
そうして連れてこられた先は、屋敷の外れだろうか?庭というには異様に広い開けた場所で、そこには何十、何百人...どれくらいかわからないほどの兵らしき人たちで溢れかえっていた。
「遅いぞ。」
その一番前の高台にて、大名が不機嫌そうにこちらを睨みつける。その隣には鈴音と、なぜか縛られた状態の大名の娘殿の姿もあった。
「...なぜ?」
思わず疑問が口をついて出れば、視線に気づいた大名が「あぁ」と言葉を漏らす。
「ずいぶんとうちの娘を誑かしてくれたようで。外にいた将軍様のお仲間と通じていたみたいですので、仕方なくこうしているのですよ。」
「なにが仕方ないというのでしょうか。父上が仰ったのですよ?将軍様を我が物とせよ、と。」
俺がなにかを言うより早く、娘殿が嚙みつく。すいぶんとご立腹のようで、ぎっと睨みつける娘殿にやれやれと大名は首を振った。しかし、そんな親子のやり取りよりも俺は他のことに気を取られていた。まさか、と内心で焦っていれば鈴音がなにやら大名へと耳打ちをする。
「そうだったな。ほれ、そちらの者たちも連れて来い。」
嘲笑するように笑いながら、大名が人垣の向こうへと命ずればさっと両脇へと人波が割れる。その合間から現れたのは、まぎれもなく甚たちだった。
俺たちと同じように、縛られながら後ろの男たちに押されて前へと近づいてくる。見たところ、怪我などはしていないようでほっとするも、こうなってしまっては手段を選んでいられないと覚悟を決めた。
どうすればこの状況を打開できるだろうかと頭の中で計画を組み立てていれば、徐に大名が立ち上がって声を張り上げる。
「さあ、お前たち。時はきた。まずは、我らの大志を邪魔する松を攻めるのだ。...なに、心配はいらない。松にて最大の脅威である将軍はすでに私の手中にある!」
ぐい、と腕を引かれて大名の前へとよろめき出れば、周囲から「うおぉぉぉ!」と地響きがするかのような叫び声が轟く。
周囲の盛り上がりとは逆に、俺の頭は冷え切っていた。大名へと皆が気を取られている今が好機だ。
さっと甚たちに目配せをすれば、即座に気づいて微かに頷いてくれる。隣のふたりも言わずもがな。
優秀すぎる者たちに、場違いながらもふっと笑ってしまう。
そして、心の中で動き出すまでの拍子を数える。
(三...二...一...)
いざっと腕を振り上げようとした瞬間。
「げぼっ...!」
「!?」
俺を掴んでいた大名が、口から血を吐きだした。
驚きで俺たちは目を見開いて思考が止まる。その間にも、目の前の兵たちが次々に同じように血を吐いて、地面へと崩れ落ち始めた。




