第四章 其の一
あの夜から早くもひと月ほどが過ぎた。
あの日、鈴音から発された言葉にもやつく心を抱えながら、心配するほどなにかが起きることもなく以外にも平穏な日々が流れていた。
そして、鈴音と出会ってから一年が過ぎようかという今日に、俺はとある山を登っていた。
将軍になるよりもずっと前。幼き頃になにもかもが嫌になり、当てもなく彷徨って行き着いたこの山でお気に入りの場所を見つけた。
そこは、ただただ広い海が目の前に広がるだけの少し開けた場所。
日の光を受けて煌めく水面と、ときに荒く、ときに穏やかに飛沫立つ波の音。葉の擦れゆく軽やかな音に紛れた、名もわからぬ動物の鳴き声。そのどれもが、ここではないどこか切り離された空間のように思えるひとりだけの心地よい場所だった。なにもかもを忘れられるこの場所へ、悩んだり煮詰まったり...どうしようもなく苦しくなったときに訪れてはただ目を閉じた。
歳を重ねた今もそれは変わらず......いや、どれだけ俺をとりまくものたちが変わりゆこうとも、この景色だけは変わらないことにどこか安心を覚えてしまい、飽きることなく訪れてしまうのだ。
そうしてまた、ひときわ大きな木の根元に腰を下ろし、眼下に広がる青い海を眺める。
「.........一年が、過ぎた。」
ぽつり、と零れ落ちた己の言葉に、ずしりと胸は重くなる。
過ぎゆく日々の中で、確かに鈴音との関係性は変わったと言える。
なにげない話をすることが増えた。
仕事以外にも隣にある時間が増えた。
小さく微笑むだけだったそれが、ふわりと花開く笑顔を向けてくれるようになった。
しかし、それらに気づけば気づくほどこの心は燻ぶり、雁字搦めとなっていく。
あの夜から頻繁に三人で会うことが増えた宗馬ですら、俺の想いに気づくほどで「これは重症だな」と苦笑されるほどだった。じいやなんて言うまでもない。
なにもかもを無視して、この想いを伝えることができたならば、受け入れてもらえたのならば。
どれほどいいだろうか。だがそんなことはありえない、と頭のどこかでわかっている。どれほど近づいたつもりになれたとしても、鈴音には絶対に踏み越えさせない一線が存在していた。
宗馬と呑んでいた夜に堪えきれなくなって漏れ出た本音は、それまでの関係性がなくなってしまうほどに鈴音を遠ざけた。出会ったころと同じ他人よりも遠くなった距離に青褪め、謝罪も、言い訳すらもできずに流れていく時間の中で、掴めた正解は「なにも憶えていない」だった。
不満をだれかに漏らすことはしない。「嫌だった」という拒絶すらしてくれない。鈴音はきっと俺がなにかを間違えた瞬間にいなくなってしまうのだろう、と突き付けられた出来事だった。
それからは、なにを聞くにもするにも躊躇してしまい足踏みをするだけで、なにをしているんだ、とじいやに呆れられる始末。かといってどうしろと?と睨み返す、そんな日々を送り続けて憂鬱となった気持ちを、どうにかしようとこんなところまで来てしまった。
自然と閉じてしまっていた瞼を押し上げて、先ほどより少し穏やかになった海を眺める。ふわりと頬を撫でる風が温かく、心を落ち着けてくれた。
そう。今日はすべてを忘れるためにここへ来たのだ。だというのに、いつまでもぐだぐだ悩んでいても仕方がない。今は...今だけは、すべてを忘れよう。そう思い、波の音に耳を澄ませているうちに、ゆらりゆらりと眠りの淵へと落ちていった。
そして次に目を覚ましたときには、すでに日もかなり低い位置にある夕暮れどきで慌てて山を下りることになった。
「旦那様、本日は昼から出かけると言ったきりこのような時間になるまでお帰りにならないとは、どういうおつもりでしょうか?せめて事前にどこにお行きになるのかくらい知らせていただくことはできないものでしょうか。」
屋敷にたどり着いて早々、待ち構えていたじいやが青筋を立てながら俺に牙をむく。俺がどこにいくのかを今まで気にされたことなどなかったように思うが、なぜか今回はとても不機嫌そうだ。
「いや、すまない。もっと早くに戻るつもりだったんだが、途中で眠ってしまって...。」
「外で?」
強く放たれたその質問に、うっと言葉に詰まる。
あのような山奥にだれか来るとは思えないが、なにも知らされていない側からすると心配になるだろうかと反省する。
「......次からは気をつける。」
「ぜひ、そうしてくださいませ。私の心臓を心配のし過ぎで止めたくないのであれば、よろしくお願いいたしますね?」
にこり、とまったく笑っていない顔でくるりと踵を返したじいやの後を追う。無言でついていった先の部屋ではすでに食事たちが用意されていて、もしや作りなおしてくれたのかと申し訳なくなる。そして、それとは別の違和感。
「鈴音は?」
近頃は一緒に食事をすることが当たり前となっていたため、そこに居ないことに首を傾げた。
先に済ませたのかと振り返って聞けば、ぶっきらぼうに予想外の答えが告げられた。
「鈴音殿でしたら、しばらく暇が欲しいとお願いされましたので、三日ほどおりませんよ。」
「...は?」
「旦那様とは違って、どこになにをしに行くのかをきちんと報告なされてから行かれましたので、ご心配は無用です。」
「どこになにをしにいったんだ?」
さっきからなんなんだと睨みつけつつ問えば、じいやはやれやれと首を振った。
「それを聞いてどうするのですか?まさか後を追ったり...だなんてされるわけがありませんよね?」
それはもうにっこりとした笑顔で言われ、かなり怒っていることが窺える。なにがそんなに気に障ったのだろうか...?帰りが遅くなったことに腹を立てるようなひとではないし、帰ってきたときのやり取りでも特段そういった雰囲気はなかった。
だとすれば、鈴音のことについて聞いたことがそれほどまでによくなかったのだろうか。




