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月鬼桜 ~薄明の願い~  作者: 釉亜


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第三章 其の四

突然のじいやの発言に、俺は飲んでいた茶を喉に詰まらせて、ごほごほと咳き込む。

「じいや、いきなりなにを...」

「いかがですかな?鈴音殿」

未だ咳でうまく話せない俺を無視して、これ幸いとばかりに今度は鈴音へと矛先を向けた。

「実様、将軍様をあまり揶揄(からか)うのはどうかと思います。」

鈴音は咳の止まらない俺を、心配そうな顔をしてさっと手拭いを差し出しながら咎めるように言う。動揺すらしない様子に、じいやはにこりと笑いながらさらにとんでもないことを言い放つ。

「冗談ではありません。老い先短いこの老いぼれは、息子のように可愛い旦那様が鈴音殿を迎え入れてくださり、娘のように可愛がれる日を今か今かと心待ちにしております。」

今度こそ俺の手から茶器が転がり落ちて、鈴音もぱかりと口を開けて動きを止める。

「おやおや旦那様、お怪我をしてしまいますよ?」

なにをしているんだと言いたげな呆れた表情をしながら転がった茶器を拾い上げるが、そもそもの原因はじいやだろう!と思わずにいられない。しかし、いつまでもなにも言えない俺とは違い、鈴音はさっと俺から距離をとった。拒絶ととれるそれを見て、俺は目を見開く。

「実様のお言葉はとても嬉しく思います。ですが、そこに将軍様を巻き込まなくてもよろしいのではないでしょうか。私は今もすでに実様のことを父のように尊敬しております。」

「おや?まさかそのように思っていてくださったとは、初めて知りました。そのことには私も嬉しく思いますが、旦那様はそれでよろしいのですか?」

置いてけぼりだった俺は、じいやの問いかけにようやくはっと我に返り、鈴音へと向き直った。しかし、目が合った瞬間に鈴音が俺が口を開くより早く、頭を下げた。

「申し訳ありません。火急の用を思い出しましたので、私はこれにて失礼いたします。」

言うが早いか、そのままこちらの返事も聞かずに逃げるようにして鈴音が出て行ってしまうのを見送ることしかできない。


じいやとふたり、ぽつりと取り残された場で沈黙が続いた。

「.........じいや、嫌われたらどうしてくれる。」

「失礼。いつまで経っても旦那様が動きませんでしたので。」

「俺は、鈴音とどうこうなるつもりはない。」

「それはなぜでしょうか?」

「今のままでいい。ただそばにいられれば...」

「旦那様。鈴音殿が今ここにいることが不思議なほどで、そばにいることは当たり前ではありません。」

咎めるように強く言われ、ぐっと言葉に詰まる。

頭のどこかでわかっていたことでも、気づきたくなくて見て見ぬふりをしていたそれを、容赦なく突きつけてくる。

「以前も申し上げたように、鈴音殿はひとりでも生きていけるのです。それでも今こうして留まってくれているのはなぜか。旦那様が一番よくお分かりでしょう。」

なぜここにいてくれているのか。

それは柊との取引を気にしているに他ならないからだろう。己がここに留まることで向こうの大名は強行な手段に出ることはない、もしくはそのようなことになっても被害が及ぶことがないように、動きやすいようにと考えているからだろう。そのために、ずっと手を尽くしてくれているということにはさすがに気づいている。

ならば、それらがなくなれば鈴音はここを去るのだろうか?

いや、鈴音の優しさを思えば、そんなことはないのでないだろうか?

そこまで考えて、先ほどの甘えという言葉がこのことに対してか、と気づく。

正直、鈴音の件については俺が勝手に柊と取引をしたのであって、それは鈴音個人になにも責などない。あくまで大名と俺...柊と松での取引なのだから。なにかあっても、こちらとしては武力でもって黙らせることだって不可能ではないのだ。それでも自分のせいでと罪悪感を感じている鈴音をそのままにして、ここで過ごしていることに安堵を覚えていた。


自分の中にあった醜い考えを認めて、初めて己がどれほど低俗な人間なのかを思い知らされる。

ははっと乾いた笑いを漏らした俺に、じいやが静かに告げる。

「旦那様、そばにいて欲しいのであれば言わなければ伝わりません。失ってからでは遅いのです。」

痛みを堪えるように俯きながら言われた言葉には、ひどく重みがある。

なにせ、じいやは突然の病で奥方を亡くされた後に、娘殿も事件に巻き込まれて亡くしているのだ。これはきっと、大事にしているつもりでもすれ違うことが多かったじいや自身の後悔ゆえの言葉でもあるのだろう。

「そうだな...」

それでも、俺は素直に頷くことができずに曖昧な相槌を打つことしかできなかった。それ以降はじいやもなにも言わずにもとの作業へと戻ってゆく。

昔に戻ったかのような静かな空間に、今日はもうなにも手につかなそうだな、などと考えていれば外からぱたぱたと忙しない足音が聞こえた。

「旦那様、急ぎお伝えしたいことが...」

息を切らすようにして外から投げられたそれに、ため息を吐きつつも俺は立ち上がるしかなかった。

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