第三章 其の三
宴から帰ってきた翌日、書斎でじいやが鈴音へといつものように話しかける。
「昨日の大名とのお話で気になったのですが、文のやり取りなどは行っていないのですか?」
「はい。とくに必要性も感じませんでしたので。」
「ですが、向こうからはたしか文が届いておりませんでしたか?」
「いくつか受け取っております。」
なんてことないように肯定された言葉に、まさか向こうから文が届いていたとは思わなかった俺は手元からがばりと顔を上げた。
「待て、ならば昨日の大名は...」
「おそらく返事がないことに痺れを切らして直接いらしたのだと思います。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。」
今こうして理由を知れば、昨日のやり取りも意味が違ってくる。
つまりは「返事がないのはなぜか」「間者としての役割を果たせ」という問いに対して、「もはやこちら側の人間なのだから言うわけがないだろう」という反逆の意志と取られる態度を、大名に対してとったということか。
だからあれほどまでに怒っていたのかと今さらながらに頭を抱える。
鈴音が困ったようにしていたのは、あそこで俺が口を挟んだために俺がそうさせていると勘違いさせたことに対してだったのだろう。しかし、俺としてはそれで構わないため結果として良かったのだと思っておくことにする。
「それにしても良かったのですか?あのように言ってしまわれては、なにかしらの手段に及ぶ可能性があるのでは?」
「あの大名になにかできるとは思えません。それに、なにかしら動きがあればすぐにこちらに報せが届くようにはしておりますので、すぐに対処することは可能かと思います。」
どういうことだろうかと、じいやとふたりで顔を見合わせれば、それに気づいた鈴音は手を止めて説明してくれた。
「今、あちらには将軍様が手配してくださった兵がおります。皆様には事前に説明をしておりますので、なにか不審な動きがあれば即座に報せてくださるでしょう。」
そういえば、帰ってきてから大名との取引の件で柊へと向かわせる人を見繕っているときに、ひとりひとりと会って話をしていたような気がする。まさかそのときからこのことに対して危惧していたとは。いや、そもそも大名にあのような取引をするように指示したのも鈴音なのだから、最初からこうなるように動いていたのだろうか......いやいや、まさかな。
などと困惑のまま自問自答していれば、ぱちりと鈴音と目が合い、ばつの悪そうな顔をされる。
「その、あのときは柊も...将軍様の管理下に置かれたほうが都合が良い、と思っておりましたので...」
しどろもどろに言われたそれに、ようやくあのとき大名の娘との婚姻について打診された理由を知る。
口を開けて放心した俺を、じいやが憐みの目で見てくるが胸中はそれどころではなかった。柊の大名も、俺も、ずっと鈴音の掌の上だったわけだ。
肺が空になるまで深く息を吐いて落ち着かせてから、鈴音に聞いてみる。
「今も、そう思っているのか?」
「......どうでしょうか。あの地を離れた今、あの場に対する気持ちも、思い出も、すべて遠のいてしまいましたので。」
鈴音が窓の外を、かつては彼女がいた地の方向を眺める。たしかにその横顔にはなんの感情も浮かんではいないように見える。しかし、なぜかたまらない気持ちになってその横顔に問いかけた。
「取り戻したいか?」
じいやも俺も、なにも言わずにただ静かに返事が返されるのを待つ。そうすれば、鈴音はこちらを振り向いてふっと笑みを浮かべながら首を横に振った。
「いいえ。あの地はたしかに父が治めていましたが、私からすればそれだけなのです。...非情だと思われるかもしれませんが、あの地に対する執着はありません。」
否定の返答にほっとする。
鈴音からすれば、憎しみの感情のほうが強いのだろうか。二度も父をあの地で失っているのであれば当然のことでもあるだろう。そのことに対して非情だとは思わない。
「今の私にとってはこの地がとても愛おしく、大切に思えるようになったからなのかもしれません。」
どこか茶化すようにも言われた言葉に、ぐっとこみ上げるものがあった。
最初はそんなつもりで連れてきたわけではなかった。ただ、あのようなところにいるよりはいいかと思い連れてきただけで、これほど領地のことに携わってもらうことになるなど到底思わず、ましてや大切だと思ってもらえるほどに、ともに時を過ごすことができたのだという事実に気づかされる。
「......それは、嬉しいことだな。」
なんとか絞り出した声は、みっともなく震えてしまった。あのとき、目を離せば消えてしまいそうだった彼女が今こうしてその瞳に俺を写し、微笑んでいる姿を見て泣きたいような嬉しいような相反する感情が渦巻いた。
「ええ、本当に嬉しいことですね旦那様。ですが、そんな鈴音殿に甘えて任せすぎているのではありませんか?」
かみしめている俺を、じいやはここぞとばかりに刺してくる。だが、身に覚えのあることでもあるので反論はできずに、反射で言い返そうとした言葉をぐっと飲みこむ。
「そこは...改善できるように努力、しよう。」
「私は構いません。むしろこのようにお手伝いができて嬉しく思います。」
このところ、気がつけば机の上は整理され、喉が渇いたなと顔をあげれば目の前に茶が置かれ、挙句の果てにはたまの宴会やらで身に着ける衣服まで鈴音が見繕っているという。どうしてこうなったのか...と反省すれば、鈴音が擁護するように許してくれるのだから敵わない。
そんな俺たちふたりに、じいやは眉をさげながらもとんでもないことをいう。
「まったく......鈴音殿はお優しくて困ります。このような方が旦那様の奥方であられたらどれほど良いことでしょうか。」




