虚ろの口を取り戻す
土曜日の朝、田中家に届いたのはデジタルカメラとスマートホンだった。
略してデジカメとスマホ。
緩衝材が詰められた中に鎮座するそれらは新品に見えた。説明書もあった。
差出人は山下里沙。
同封してあった手紙には……要約すると『機器を多少私用で使ってもいいから、これこれこういう場所のこういうアングルの写真を撮ってこい』との命令だ。
中には印のつけられた地図も同封されていた。
印の場所はどれも霧霞澄学園から遠くない。
かかる交通費は一応部活動費としてあとで払ってくれるらしい。
休日に内職の手伝いと勉強だけというのよりもまし。そう思っておいた方がいいか。
リュックサックを背負い、秀樹は午前中に家を出た。
明日、日曜日は本当に休日にしてやる。内職も勉強も写真も今日中に終わらせて、明日はごろごろしてやる。
ごろごろしてちょっと太ってやる。体重を増やしてやる。それから筋肉を増やしてやる。
電車で揺られ、秀樹は早々に船をこぎ始めた。
ゴーっという電車の遠いような近いような音が頭に響く。
振動もほんわりした日和も心地よい。ウトウトとするのは本当に気持ちが良い。
それに私服だというのがとても気楽だ。新しい制服はまだ出来ていない。新しい教室では一人だけ他校の制服というのが気になって、なんだかそわそわする。
ここ最近のことが全て夢であったように思える。
奇妙な人形。宇宙人。異星人。魔力。宇宙進出。なによりリクという存在。
リクをそのまま信用することはできない。
リク……国木のもう一つの人格が話すことなのだから、それが妄想だという可能性は十分にある。
妄想だと言い切れないのは、実際にいくつかの『異常』を目の当たりにしたからだ。山下の言動だって怪しすぎる。
信じる信じないは関係ない。
大事なのは、それを受け入れて対応できるかどうか。
受け入れられないのであれば、それは目の前の問題から目をそらしたということだ。
いつだって真実が分からないまま全部終わってしまうものだが、事実だけは過去にも未来にも必ずある。
確認できた事実を故意に忘れるということ、それはつまり一寸先の未来を賭けた博打である。
最大の幸福を招くか、それとも最大の不幸を招くか。怠惰とは、静かに始める綱渡りだ。
でも、分からないのだ。自分がどうすればいいのか。
警察に相談するべきか。分かってる。信じやしない。どうせ。
自分が信じていないものをどうして他人に話すことができる。
人々に認知された剣を抜かなければ、信用はしてもらえない。
誰も知らない剣というのは決して抜いてはいけない代物なのだ。
プシュー、と音がして電車が止まり、両開きのドアが開いた。
半分に開けた目で駅を確認する。
まだだ。あと二駅。入ってきた乗客を見て目を見開いた。
黒髪で、華奢なシルエット。……いや、違う。人違いだ。
ガタン、と電車のドアが閉まる。動き出す。
振動で体がガクン、と傾いた。国木に似た少女はさっさと電車の奥へと行ってしまった。
どこにでもいるだろう、ああいう女子は。よくあるシルエットだ。
間違えてしまった恥ずかしさで、秀樹は故意に目を閉じてやりすごした。
やりすごしたのは誰か。自分からだ。何故彼女だと思ったのか。
リクとはあの日以来もう会っていない。
会えないということは現状を話しあえないということで、そのことが秀樹にとっては痛手だった。
自分のせい。といった言葉が浮かんでくる。
転校してからずっと気が晴れない。
自分が小学生のときのことを母に聞いてみた。
特に高学年の、『告白ゲーム』が流行った頃のこと。ただしゲームの名前は出さずに聞いた。
母によれば、その頃の秀樹は今よりももっと冷めていたらしい。
事なかれ主義を極めたような感じで、かつ難しい言葉を使おうとする傾向があって……つまりかなりませた子どもだったのだ。
なのに秀樹は今も昔も国語が得意ではなく、勉強もその科目だけ適当だった。
そんな秀樹が五年生の時、突然やる気を出して国語辞典を引っ張り出し猛勉強をしていたことがあったとか。
やりすぎたからなのか、その後秀樹は熱を出して倒れてしまった。
しかも国語の点数は全く上がらなかったそうだ。
果てしなくどうでもいいエピソードである。そんな情報は求めていない。
一応、何か記憶の手掛かりはないかと昔の自分の持ち物をあさってみた。
何も出てこず、虚しさだけが残った。
自分は、国木を助けたいからこんな行動をしているのだろうか。そんな純粋な動機なのだろうか。
山下の出した条件が頭の隅に引っかかる。
転校初日、山下は秀樹に国木を追いかけさせた。
ということは、山下の言う『変化』とは彼女に関することなのか。
国木と秀樹のことを知っていたから、田中家に経済的支援を持ちかけたのだろうか。
ならば自分は支援を受けていきたいから、彼女に関わっている? 過去を思い出そうとして必死なのも?
頭がごちゃごちゃしすぎて、吐きそうだ。
だけどもう何もしないなんて考えられない。見て見ぬふりはもうできない。
電車を降りるとさっそく地図の通りに写真を撮っていった。
通りすがりの一般人が入らないように、そこがどこなのか分かるように。
何か行動できるというのはとても有り難い。
無力感に押し潰されながらも少しでも前に進んでいる気がして救いがある。
そういえば、転校初日に暗闇の中で見た国木……リクは誰かと戦った風だった。
あの時地面に落ちていた屑から察するに、ショッピングセンターで襲ってきた奴と同じものがフェンスの向こうにいたのかもしれない。
足は自然とあの日の場所へと向かった。
外が明るいうちにもう一度あの場所を見てみたいと思ったのだ。
坂を登りきると、フェンスの鍵は相変わらずぶらさがっていた。
ずっと奥の茂みは昼間であっても薄暗く、よく見えなかった。
周囲に人がいないことを確認して、秀樹はそろそろとフェンスの向こうへと入って行った。
そして最も茂みが高くなったその向こうへと行く前に、足を止めた。
誰かいる。
「ア、ウ」
聞き覚えのあるノイズ音。前、ショッピングセンターで聞いた不気味な声。
それから、少し甲高い男の声が聞こえた。
「ふむ。ふむ。王女はやはりあの黒髪黒目の娘なのだな。国木? そう呼ばれていたのか。ふむ。もうよい。耳障りだ死ね」
バキン、と何かが壊れる音がした。どっと汗があふれだす。後ずさると足下の草がガサリと鳴った。
「なんだ、誰かそこにいるのか」
茂みの向こうから長身の影が現れる。金色の髪。男。外国人。鋭い双眸が秀樹を見た。
「何を見ている。無礼者め」
あげそうになった声を手で押さえた。
すぐにそこから逃げたのは、男の後ろに虚ろで真っ黒な目をした人形が何体も見えたからだった。
では――という山下の言葉で秀樹ははっと我に返った。
「迷路型の展示で決定。組み立ては図面通りに行ってもらうけど、もしも何か提案があればその都度わたしに言うこと。可能であれば許可するわ。実際組み立てるのは学園祭の前々日だから、提案はそれまでに。
当日の動きとしては、一日目午前組、西平と花積。午後組はわたしと国木さん。二日目はこの逆。
それでヘルプ組は藍澤、田中。まあ補欠みたいなものよ。空いた時間は宣伝活動をなさい。
各役割の交代なんかは自由にやってもいいけど、メモを残すとかして報・連・相をしっかりね」
「やっだ部長なんでいきなり野菜の話なんかしてるんですか。ください!」
間髪入れず、シフト表を挟んだボードがバコッと花積の頭を叩いた。
「花積さん……」
ボードの裏をさすりながら、山下が着座する。
「ボケはいつだってボケていい、というわけではないのよ? もしこのボードが陶器で出来ていたらどうしていたの? 飛び散るのはケチャップではないわ。ヘモグロビンよ」
「里沙ちゃ……部長、落ち着いて落ち着いて。智美ちゃんマジでめっちゃ痛がってるから許してあげて」
藍澤があわあわしながら頭を抱えて机に突っ伏す花積を庇う。
ふん、と山下が振り上げたボードをおろした。
「じゃ、あとは各自でやってちょうだい。わたしはここでお茶を飲んでいるから」
そう言うなり、山下は窓の方を向いてティーカップを傾け始めた。
なんとも話しかけづらい雰囲気だ。金曜は早退していたし、もしかしたらまだ体調が悪いのかもしれない。
「あの、田中君」
その控えめな声にドキリとした。
国木がデジカメを手に秀樹を見ていた。先程秀樹が渡したものだ。
その表情はどことなく不安気に見える、気がする。
山下に言われて撮った写真はメディア部の展示品、今回初めてお披露目をするメディア部公式サイトで使うためのものだったらしい。
「写真使えそう。ありがとう。あの、それでね。画像の加工とか、色々と手伝ってほしいんだけど……いいかな?」
土日まるまる写真撮影に使って良かったと、ほんとすごく思う。
「うあ、ああいいよ。うん」
「ありがとう」
にこ、と国木は安心したように微笑んだ。なんでだか、それを見ただけで秀樹は胸の奥がきゅっとした。
なんだ俺。なんなんだ俺。え、何。ちょっと俺恥ずかしい。
てか「いいよ」ってなんか上から目線みたいだったな。気を付けよう。
「田中君」
声と共にトントンと肩を叩かれ振り向いた。
待ちかまえていたやけに滑らかな指が秀樹の頬へとぷにっと刺さった。
「…………」
そこには満面の笑みでサムズアップしたイケメンもとい西平がいた。
秀樹は静かに両手を使ってサムをスローでダウンした。
画像の加工とのことなので、ハサミとノリを持っていこうとしたら国木は数秒ぽかんと口を開けた。
ハサミじゃ駄目だったか。と思ってカッターを持ったら、さらに不審そうな顔をされた。
どうやらアナログではなくデジタルの話だったようだ。
それぐらい分かっていたさ。ちょっとうっかりしていただけだ。
ずっと雑誌記事の切り抜きばかりをやっていたから、勘違いすることだってあるだろう。
コンピュータ室で国木と並んでパソコンの電源を点け、画像加工ソフトについて簡単に説明を受けた。
ネット上でも分かりやすい説明があるから参考にするように、とも。
国木のパソコンから秀樹の使うパソコンへと加工する画像が転送され、それを秀樹が画像加工ソフトで処理をする。
主に画像のサイズや画質、写ってしまった通行人の顔をぼかして誰だか分からなくしたりするのだ。
やることは最低限ではあったが、こんなことは初めてやるもんだから微妙に緊張した。
同じ作業を根気よく丁寧に行わなければならない、というのも緊張した。
自分は同じ動作を繰り返していると段々と雑になってくるきらいがある。
部活初日では花積にネチネチと上から目線で嫌みを言われた。
今回秀樹の隣にいるのは国木だ。失望されたらちょっと立ち直れないかもしれない。
……いや、本当は緊張している理由は他にあるのだ。
チラ、とばれないように隣を見やった。が、すぐにばれた。
「ん、何? 分からないとこあった?」
「あ、ああいや、何でもない。大丈夫。うん。大丈夫」
「そう? 何かあったら言ってね」
不思議そうな顔をしつつも、国木は自分の作業に戻る。
その正面にある画面にはよく分からない文字の羅列がびっしりと並んでいる。
金曜の時とはまた印象が違うのは、気のせいだろうか。
最初は全力で避けられて、次はリクってのになって乱暴になって。
かと思ったら金曜にはすごく穏やかで優しくって……と思ったら、泣いて。
カタカタとキーボードを打つ彼女の手をなんとはなしに見やった。
細い。細くて白い。心なしか、肌が青白く見えた。
取り乱した姿やリクになった姿を見たからだろうか。とても健康そうには見えなかった。
ふいに、忙しなく動いていたその手が止まり、キーボードを叩く音が止んだ。
どうしたのかと思っていると、少しの間黙ってうつむき、それから秀樹の方へと顔を向けた。
にこりと笑っていた。瞳には不安が揺らめいていたけれど。
「あのね、田中君。この間、手紙くれたよね。ありがとう」
「あ、ああ、うん」
「えっとね」
膝の上で拳を作り、視線がわずかに下へと逸れる。
「あの、ね」
一瞬辛そうに眉根を寄せたかと思うと、すぐにまた瞳に秀樹を映した。
「手紙ありがとう。すごく一生懸命書いてくれてたよね」
「え、いやまあ、俺が勝手にやったことだし。余計なことしたような気も」
澄んだ瞳にじっと見つめられ、つい頭を掻いて目線をそらしてしまった。
ベタなことをしてしまったような気がして、またどぎまぎしてしまう。
「――わたし、わたしも」
「え?」
上手く聞きとれず、聞き返すと途端にその顔がわずかに赤く色づいた気がした。
「ごめん……なんでもない」
「?」
「手紙、余計じゃないよ。すごく嬉しかったんだから」
これは、この間渡した手紙の話、であってるよな。
秀樹は首を傾げたが、国木はえへへと照れ臭そうに笑っただけだった。
作業は順調に進んだ。
パソコンに撮りこんだ画像の一つを削除してしまうというハプニングもあったものの、国木が別に保存しておいた画像でなんとか事なきを得た。
「なあ、もしかしてサイトに載せる記事ってさ、最近ニュースになったやつか?」
そろそろといった時分になってきたため、二人して片付けをし始めた頃に秀樹が言うと、ピシッと国木の顔が固まった。
「どうしてそう思うの?」
「不審者が出たって場所の写真が多い気がした」
あ、なるほど。と国木が苦々しい笑みを浮かべた。
「なんかまずいのか」
うーん、と国木が頭を指で掻いた。
「部長に言われてて。同じ部員でも学園祭当日まではなるべくサイトの内容は知られないようにって。信用してないわけじゃないよ?」
「あー……なんかごめん」
「ううん。一緒にやるよう言ったのは部長だし」
国木が参考書と筆記用具類を抱えて言い、鍵を持ってコンピュータ教室を出て行こうとする。
「あ」
思わず声をあげると、国木が不思議そうに振り返った。
慌てて次の言葉を考える。慎重に。的確に。彼女を取り乱させないような言葉を使わなければ。
あの人形と、金髪の男が、お前を狙っていると。
「リクのこと?」
ギクリとし、ぐっとのどが詰まった。
そんな秀樹の様子を見て、何かを察したらしい国木は、ああ、と言った。
「色々ごめんね。お弁当箱買ってもらったりとか色々迷惑かけちゃったよね。お金返すね」
「いやええとそうじゃなくてそうなんだけど、あの、俺写真撮りに行ったときに」
「ごめんね。早く帰らないといけないんだ。また今度話そう」
ニコ、と国木が笑った。
それを見ただけなのに、どうしてか、それ以上はもう口ごもることしかできなかった。
それを後悔したのは、その後一週間経っても『また』が来なかったからだった。
心配だった。ただ心配だった。
以前、彼女が不審者に襲われてたのを目撃した。
怪しい奴が彼女の名前を口にしていた。本人には言ってない。
最近またよそよそしくなっててまともに話ができなかった。
だから気付かれないように様子をうかがっていた。
気持ち悪がられそうで一緒に帰りたいと言えなかった。
下心なんてそんな破廉恥なことは考えていない。
ただ心配だったから行動した。それだけです。本当です。
カチカチに固まったまま、秀樹は出来る限りはっきりゆっくり敬語で説明した。
秀樹の前にはコーヒーが注がれた白い紙コップがあった。その横にはチーズケーキが一皿。
「食べなさい」
真向かいに座った男が言った。滑らかで、かつはっきりした声で。それから無表情で。怖い。
秀樹よりもはるかに大きながたいの男は、クリーム色のジャケットに灰色のシャツ。暗いジーンズ。
それから、何故か薄手の白い手袋を付けていた。
彫刻のように整った容姿は美形だと言ってはばからないほどであるが、それゆえにどこか近寄りがたい冷たさがある。側にいるだけで身が切られるような気さえしてくる。
艶のある金色の髪は後ろでくくられ、前髪が真っすぐ真横に切られている。
男が最初に被っていたキャスケットは今、彼の膝の上にあった。
この間見た怪しい外国人とはまた別だと判断できたのが、不幸中の幸いだろうか。
果たして今の状況は幸いのうちに入るのだろうか。
まばたきするたび動く金色のまつ毛と青く透き通った瞳に気を取られるが、鋭い眼光に気づくたび秀樹はビクリとした。
これが殺気ってやつか。冷や汗が止まらない。
ヤバイ。けれども逃げられない。蛇に睨まれたカエルとはこういう気持ちなのか。
すごく怖い。誰か助けて。
国木から以前にも増して、徹底的に避けられ続けて一週間は過ぎた。
彼女からの弁当箱代は花積を介して秀樹の手に渡った。
あともうちょっと日数が立てば二週間だな。
もうなんだか清々しくさえ思えてきた今日、秀樹は部室に到着した途端に山下から写真を撮ってこい、との指令を受けた。
写真なら前撮ってきたではないか。と返せば「ダムの写真は」と返された。確かに地図に印のあった場所ではあるがそこは立ち入り禁止になっていたのだ。
そんな弁解もむなしく、結局秀樹は外出届を提出して学外に出た。しばらく歩いたところで突然背後から首を掴まれた。「来い」と言われた。
従ってしまうに決まっている。だってありえないほど物騒な雰囲気を漂わせていたんだから。
ケーキ屋に入って男が切り出した言葉が「いつも国木瑞架を尾行しているのは何故ですか」だった。見られていたのだ。
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。あなたと話をしたいだけです」
そんなこと言われても。無理だろ。絶対無理だろ。
包丁向けられて平然としていることぐらいに無理だろ。
せめて名乗れよ。自己紹介ぐらいしろよ。
日本語じゃなかったらきっとパニックになっていたに違いない。
なんとかここから抜け出さなければならない。
この空間から。すごく自然な感じで抜け出すのだ。下手を打てばどうなるか分からない。
たぶんこの男は歴然のなんたらとかなんかそういう何かがあるに違いない。
もう意味が分からなくなってきた。
「田中、i……ひ、でき、で名前は間違いありませんね?」
なんだ俺、一体何を確認されている。そう思いながらも歯切れ悪く「はい」と返した。
「あなたが言ったことに偽りはありませんね?」
これも「はい」と返す。さっきよりも声が出た。なるべく深くうなずいた。
「あなたは国木瑞架に好意を持っていますね?」
これも「はい」と返……
「は?」
言葉の意味を理解した途端、ビシッと固まった秀樹に男はまた言う。
「あなたは彼女のことを女性として好いて」
「いや、あの、意味分かんないんですけど」
「…………」
男は不満そうに眉間にしわを寄せてじとりと秀樹を見ると、ため息を吐いた。
「もういいです。大体分かりました。今から本題に入ります」
いや勝手に自己完結するな、と心の中で突っ込んだ次の瞬間だった。
唐突に、目のすぐ近くで真横に引かれた黒い線が見えた。
その線を舐めるようにぬらりと光が反射して、そこでそれが刃物なのだと気付いた。両刃だった。
秀樹の前髪とわずかに触れると、パラ、と髪が目の前で散った。
鼻をムズとさせたのは散った髪の毛が鼻の頭にかかったせいよりも、特徴的な鉄の臭いと、生臭さを感じたからだった。嫌な予感だけが頭の中を占めてさっと血の気が引いた。
「切れ味も用途も、あなたが想像した通りです」
細く黒い剣をそっと秀樹から遠ざけると男は片手に手の平ほどの小さな茶色の革袋を出し、そこに剣の切っ先を入れ始めた。
墨を流したような黒の刀身は秀樹の片腕より少し長いくらいだったはずなのに、剣は革袋の中へとするすると消えていった。
「言っておきますが、手品ではありません。周りを見なさい」
言われるがままに秀樹は店内を見回した。
レジに立つ店員に、ショーウインドウごしにケーキを選んでいる客。
ドアをくぐろうとしている大学生らしき女性が二人。楽しそうに笑っている。
別段変わった部分はなかった。
いや、何も変わった様子がないのがおかしいのか? 今の剣は明らかに目立つだろう。
「一点集中で見るのではなく全てを見るように目を使いなさい。鈍感な人間でもなんとなく違和感くらいするでしょう」
男が横に伸ばした指先を軽く振ると『何か』がそこを中心に波打った気がしてドキリとした。
「しばらくすればなくなります。生物は本能から死を避けようとします。死にたくないと強く願う者ほどこれを忌避するようになります」
剣、と言われてちらりと男の持っている革袋に目をやった。
どう見たって手品としか思えない。よくあるではないか。
剣を呑みこんだり、いろいろと消してしまったりとか。今の『何か』だってきっと
「『普通』と『異常』。国木瑞架は確実に『異常』の部類に入ります」
はっとして男の目を見る。
少しも笑っていないことなど、最初から分かっている。
「彼女を助けたいと思うのならば『異常』にならなければなりません。あなたは『普通』の見方のままに、違う気の中で『異常』に触れますか?」
ようやくクロードと名乗った男は、自身をリクの従者と言った。
どうやら秀樹がリクと関わったときから自分は監視されていたらしかった。
「あなたが聞いたリク様の話は全て本当です。
付け加えるならば、リク様が国木瑞架の中に入ったのは、リク様のお気に入りだった侍女にそっくりだからで、リク様の国はもう星ごと滅んでいます。
宇宙進出と同時に我々の希有な体質を未知の資源だと言われて狩られたのです。魔力の回復ももうままならない。
私はリク様を先に逃がし、情報収集をしてからこの星へやって来ました」
長くややこしいクロードの話を、秀樹は必死に頭の中で整理した。
リクの本当の名前はアンジェリクというらしかった。
稀代の魔力の持ち主だからこそ、特に注目されて狙われ続けている王女。
リクの星を滅ぼした奴らを調べると、それは国木を管理する組織と同じものだった。
俗に宇宙管理局と呼ばれる、宇宙に出てきた一大勢力。
ただ内部は派閥で大きく別れ、特にリクたちを狙っているのは主に過激派。
その過激派が洗脳し、子飼いにしていた人間が国木瑞架だったのだ。
侵略する星の種族を利用するのは常套手段なのだという。
クロードは、その過激派と対立している同じ組織内の穏健派というものに目を付けた。
リクのような宇宙進出をしたばかりに難民になった人の保護を積極的に行い、それによって勢力を伸ばしつつある派閥だ。
うまく協定を結ぶことができれば現状を覆すことも可能かもしれない。
そうすれば国木瑞架にだって希望も生まれる。それにはリクが万全な状態であることが望ましかった。
リクは魂だけを国木瑞架の中に移し、肉体をどこかへ放置してしまっている。
クロードはリクの肉体を探している間、秀樹に二人の魂が分離しやすくなるよう手伝ってほしいと言った。
今、一つの体に二つの魂がある。
それは異常なことで、魔力で体は持ち直したかもしれないが、このままだと互いに悪影響だという。
「過去に何があったかは知りませんが、国木瑞架にとってあなたは最も気を張る存在のようだ。ならば彼女の緊張状態を持続させることも可能なはず。
彼女と関わり、リク様を『表』にしないようにしてください。
気を張っている間、リク様は『表』になりにくい。
方法としては……そうですね。踏み入った話でもして、彼女の感情をおおいに揺らしてさしあげるといい。
その際、和解などしないでください。それでは気が緩んでしまう。
気を張らせるのです。結果的に彼女を救う方法です。苦しいのは今だけです。言うとおりにしなさい。
私は主にリク様を狙っている者たちを近づけないようにしています。
学園にも一人私の協力者がいますが、あなたは立ち回りが不得手でしょうから、あえて黙っておきます。そのうち分かるでしょう。
さあ、国木瑞架の命を救うため、学園にお帰りなさい」
つまり、俺は国木を傷つけろと言われているのだ。
一日の終わり。
学校から帰って、夕食をとった後、秀樹はまた自分の部屋を探しまわった。
小学生の頃のもの、それも『告白ゲーム』の頃のものを探していた。
押し入れにしまいこんだガラクタを畳の上にあけたり、机の引き出しを全て引き抜いて隅から隅まで探した。
けれど何もなかった。見つからなかった。分かっている。もう何度か探したのだから。
震え始めた手を押さえた。本当に、自分は何をやっているのだろうと思った。
山下の条件のためだろうか。国木への負い目があるからだろうか。
巻き込まれたから、嫌々やっているのだろうか。
クロードが言っていたことは、本当に彼女を助けることになるのだろうか。
動かしていた手が止まり、それは秀樹の顔を覆った。
このままだと本当に国木は死ぬ? そんなまさか。
魂とか、魔力だなんて、そんな、ありえない。宇宙人? それはきっと妄想だ。だからそんな話は嘘なんだ。
『お前がこの話を信じるかどうかで、瑞架の運命は分岐する』
リクの言葉が秀樹の胸の奥をえぐり取る。恐ろしさだけがそこに充満する。
――嫌だ。このままは。傷つけるのも、もう。ただ俺は、あの子に。
はっとして、秀樹は机の引き出しの、その何もなくなった奥の空間を覗いた。
それに手を伸ばし、掴んだ。
透明なフィルムの中に使いかけの便箋があった。
封筒と共にセットで売られていたのを、なけなしの小遣いで買ったものだ。
便箋を全てはぎ取られた厚紙だけが残っていた。
表面の凹凸に気付くと、秀樹はそれを鉛筆でこすった。




