第9話 好きなのに、好きだと言えない
四月、火曜日。
新入生歓迎公演の出演者募集が始まってから、数日が過ぎた。
演劇サークルの部室には、いつも以上に活気が満ちていた。机の上には印刷された台本が何冊も積まれ、壁には公演の告知ポスターが貼られている。
その中央に、大きく書かれたタイトルがあった。
『言えなかった言葉』
昨日まで、ただの文字だったはずなのに。
今朝はなぜか、その題名が胸の奥に引っかかっていた。
「――というわけで、今日から主演候補者の読み合わせを始める!」
代表の声が部室に響いた。
「今回の物語は、幼なじみの男女が主人公だ。ずっと一緒に過ごしてきた二人が、卒業を前にして初めて自分の気持ちと向き合う。だが、男のほうには、どうしても言えない秘密がある」
「秘密って何ですか?」
部員の一人が尋ねる。
「それは最後まで読んでからのお楽しみだ」
代表は意味ありげに笑った。
「今日は候補者に実際に演じてもらう。技術だけじゃなく、役への理解や相手との掛け合いも見て決めるからな。自分なりに役の気持ちを考えて臨んでくれ」
隣に座っていた黒神蓮が、俺――西園寺美雪の身体に入った黒瀬春馬の肩を、軽くたたいた。
「緊張してる?」
「別に」
「本当か? さっきから台本を逆さまに持ってるぞ」
「……は?」
慌てて手元を確認すると、本当に逆さまだった。
「うわっ!」
「はははっ! お前、今日も面白いな!」
「笑うな!」
思わず声を張り上げてしまった。
周囲の部員たちが、一斉にこちらを振り向く。
俺は慌てて咳払いをし、台本を正しい向きに持ち直した。
「……今のは忘れてくれ」
「無理だろ。しばらく思い出して笑える自信がある」
「最低だな、お前」
「褒め言葉として受け取っておく!」
こいつは本当に、何を言っても前向きに解釈する。
俺が男だったころから、ずっとそうだった。
……いや、今は美雪の身体なのだから、こういうやり取りも少しは控えるべきなのだろうか。
そんなことを考えていると、代表が手をたたいた。
「それじゃあ、まずは黒神と西園寺。前に出てくれ」
「はい!」
蓮は元気よく立ち上がった。
俺も台本を手に取り、その隣に並ぶ。
心臓が、嫌なほど大きな音を立てていた。
◇
最初の場面は、卒業式の前日。
主人公の少女は、ずっと好きだった幼なじみに別れを告げようとしている。
しかし、彼には遠くへ行く予定があり、少女は自分の気持ちを伝えられずにいた。
俺は台本の一ページ目を開いた。
『ねえ。もし、明日から私がいなくなったら、あなたは寂しい?』
その台詞を目にした瞬間、指先が止まった。
――もし、明日から美雪がいなくなったら。
俺は、寂しいだろうか。
考えるまでもなかった。
美雪の身体から元に戻ったあと、俺たちは今のように話せるのだろうか。
彼女は元の生活に戻り、俺も自分の生活に戻る。
そして、俺たちは再び、少し離れた場所からそれぞれの人生を歩いていく。
それが普通だ。
それが、本来あるべき姿なのだ。
「美雪?」
蓮の声に、俺ははっと顔を上げた。
「あ……ごめん」
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
俺は台本に目を落とした。
「じゃあ、続けよう」
蓮がうなずく。
読み合わせが再開された。
「ねえ。もし、明日から私がいなくなったら、あなたは寂しい?」
少女の台詞を口にした瞬間、不思議なほど自然に声が出た。
「……寂しいに決まってるだろ」
蓮が答える。
「だったら、どうして何も言ってくれないの?」
「何を?」
「私が、あなたのことをどう思っているのか。気づいているんでしょう?」
蓮の表情が、わずかに変わった。
普段の明るさが消え、声が少しだけ低くなる。
「……気づいてるよ」
思わず、顔を上げた。
「ずっと前から、気づいてた」
蓮の目が、まっすぐ俺を見つめていた。
「だけど、俺は……お前の隣にいる資格なんてないんだ」
台本の文字が、急にぼやけた気がした。
どうしてだろう。
ただの演技なのに。
ただの台詞なのに。
まるで、自分の心の奥に隠していたものを、誰かに無理やり引っ張り出されたようだった。
「……どうして?」
俺は、少女の台詞を続けた。
「どうして、そんなことを言うの?」
蓮は一瞬だけ目を伏せた。
そして、最後の台詞を口にした。
「お前を好きだからだよ。……好きだからこそ、言えなかったんだ」
部室が静まり返った。
誰も笑わなかった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
俺は台本を持つ手に、ぎゅっと力を込めた。
好きだからこそ、言えなかった。
俺も、そうだった。
高校時代、好きだと伝えるまでに、どれほど時間がかかっただろう。
何度も言葉を考え、何度も告白する場面を想像した。
そして、いざ伝えたあとには、何度も後悔した。
告白なんてしなければよかった。
そう思ったことさえある。
気持ちを伝えなければ、今も普通に美雪と話せていたかもしれない。
けれど、何も伝えないまま時間が過ぎていたら、それはそれで、一生後悔していたのだろう。
好きだから、伝えたかった。
好きだから、失うのが怖かった。
そして、好きだったからこそ、傷ついた。
「――カット!」
代表の声が響き、俺ははっと我に返った。
「いやあ、いいね! 二人とも、思っていた以上にいい!」
部員たちから拍手が起きた。
蓮はいつもの笑顔に戻ると、俺の肩をたたいた。
「やったな、美雪!」
「……うん」
俺は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
胸の奥には、昔の傷がまだ残っている。
ただ、その傷は今、以前とは少し違う痛みを帯び始めていた。
美雪に振られた日のことを思い出しても、以前ほど彼女を責めたいとは思わなかった。
それどころか、彼女が何を考え、どんな気持ちで俺の告白を受け止めたのか、知りたいと思うようになっていた。
好きだった人のことを、俺は本当に理解していたのだろうか。
その答えを探すように、俺は台本を閉じた。
◇
読み合わせが終わり、部員たちが片づけを始めたころだった。
「西園寺さん、ちょっといいかな?」
代表に呼び止められ、俺は足を止めた。
蓮は、先に帰ろうとする部員たちに囲まれている。
「はい。何でしょう?」
「君の演技について、少し聞きたいことがあってね」
……やっぱり、何か問題があったのだろうか。
美雪のふりをしている俺が、彼女らしくない演技をしてしまったのかもしれない。
「君は、あの少女の気持ちをどう理解した?」
「え?」
「好きな人がいるのに、なぜ気持ちを伝えられないのか。君はどう考えて演じた?」
俺は口を開いた。
けれど、すぐには言葉が出てこなかった。
本当のことを話すわけにはいかない。
自分の失恋を打ち明けるわけにもいかない。
少しだけ考えてから、俺は答えた。
「……相手に嫌われるのが、怖いんだと思います」
「嫌われるのが?」
「はい。今まで普通に話せていた相手でも、気持ちを伝えたら、もう同じ関係ではいられなくなるかもしれない。そう考えると、何も言えなくなるんじゃないでしょうか」
代表は黙って俺を見つめた。
「なるほど。君はそう考えるんだね」
「……はい」
「その解釈は悪くない。ただ、もう一つ考えてみてほしい」
代表は台本を指先で軽くたたいた。
「相手を失うのが怖いから言えないのか。それとも、自分が傷つくのが怖いから言えないのか。似ているようで、少し違うだろう?」
俺は息をのんだ。
相手を失うのが怖い。
自分が傷つくのが怖い。
どちらも、俺の中にあった感情だった。
「次の読み合わせまでに、もう一度考えてみてくれ。君なら、もっと深く演じられると思う」
「……わかりました」
代表が去ったあと、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
自分が傷つくのが怖かった。
だから、告白したあと、美雪と距離を置いた。
振られたことそのものより、彼女の前で今までどおりに振る舞えない自分が嫌だった。
美雪がどんな気持ちで断ったのかを考えるより、自分の傷を守ることばかり考えていたのかもしれない。
……俺って、本当に面倒くさい男だな。
「誰が?」
「うわっ!」
突然、背後から声をかけられ、俺は飛び上がった。
振り返ると、蓮が立っていた。
「お前、まだいたのかよ!」
「忘れ物を取りに戻ったら、お前が一人で反省会してたんだよ」
「反省会じゃない」
「じゃあ、自分の人生について悩んでた?」
「……お前、時々うるさいな」
「時々? いつもだろ!」
蓮は笑いながら、机の上に置き忘れていたペンを拾った。
それから、ふと表情を和らげた。
「なあ、美雪。さっきの演技、何か思い出した?」
「……どうして?」
「いや。途中から、すごく悲しそうな顔をしてたから」
俺は答えられなかった。
蓮は、それ以上追及しなかった。
「まあ、言いたくないならいいけどさ」
彼は拾ったペンをポケットにしまった。
「でも、演技って不思議だよな。自分じゃない誰かを演じてるのに、気づいたら自分の本音が出てたりする」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「……蓮も、そういうことあるの?」
「あるよ。しょっちゅう」
「意外だな」
「おい! 俺だって悩むときくらいあるぞ!」
蓮は大げさに胸を押さえた。
「俺の繊細な心が傷ついた!」
「はいはい」
「雑だな!」
俺たちは笑った。
けれど、蓮が最後に口にした言葉は、なぜか俺の心に残った。
自分ではない誰かを演じているのに、自分の本音が出る。
今の俺にとって、それは冗談では済まされないことだった。
俺は美雪の身体で生活している。
美雪として振る舞い、美雪の友人たちと話し、美雪の人生を少しずつ知ろうとしている。
その中で、俺自身の気持ちまで変わり始めているのだとしたら。
いつか俺は、本当の自分の気持ちを、彼女に伝えられるのだろうか。
それとも――。
また、言えないまま終わってしまうのだろうか。
◇
同じ日の午後。
大学の食堂で、私は黒瀬春馬の身体のまま、多代永翔也と向かい合っていた。
「春馬、今日の授業どうだった?」
「……普通だった」
「その顔は普通じゃないだろ」
翔也は箸を止めた。
「どうした? 何かあったのか?」
「別に」
「お前の『別に』は、だいたい何かあるときの『別に』なんだよ」
思わず、私は春馬の顔を見つめた。
翔也は春馬の親友だ。
長い時間を一緒に過ごしてきたからこそ、彼の小さな変化にも気づくのだろう。
私は、春馬のことを少しずつ知り始めている。
けれど、翔也は私よりずっと前から、彼を知っている。
「……ねえ、翔也」
「ん?」
「春馬って、昔からあんな感じなの?」
「あんな感じって?」
「……何でも一人で抱え込むところ」
翔也の表情が変わった。
彼は少し考えてから、水を一口飲んだ。
「昔から、そういうところはあるな」
「どうして?」
「さあ。本人に聞いてみれば?」
「聞いても、ちゃんと答えてくれない気がする」
「まあ、それはそうかもな」
翔也は苦笑した。
「春馬って、困ってる人を見つけると、放っておけないんだよ。自分が困ってても、他人を優先する。だから、気づいたら一人で無理してることがある」
私は何も言えなかった。
春馬のノートに書かれていた、たくさんのメモを思い出す。
彼は、わからないことを何度も書き直していた。
うまくいかなくても、諦めずに続けていた。
そして、誰にも見せないところで、自分なりに努力していた。
「……もっと、頼ればいいのに」
気づけば、そう口にしていた。
翔也は、少しだけ笑った。
「それ、本人にも言ってやってくれよ」
「……うん」
私はうなずいた。
そのとき、翔也のスマートフォンが鳴った。
画面を確認した彼の表情が、ふっと柔らかくなる。
「誰から?」
「さくら」
「……さくら?」
「彼女」
翔也は照れくさそうに頭をかいた。
「西園寺桜。美雪の姉だよ」
私は、思わず飲んでいた水を吹き出しそうになった。
「えっ!?」
「おい、大丈夫か!?」
「い、いや……そうなんだ」
知っている。
もちろん、知っている。
桜は私の双子の姉だ。
そして、翔也が彼女だったなんて。
いや、違う。
翔也が彼氏だったなんて、まったく聞いていなかった。
姉と翔也が付き合っている。
その事実が、頭の中で何度も繰り返される。
「……いつから?」
「去年の冬くらいかな」
「そんなに前から!?」
「声でかいって!」
翔也が慌てて周囲を見回した。
私は咳払いをして、何とか落ち着いたふりをした。
「……おめでとう」
「お、おう。ありがとな」
翔也は照れくさそうに笑った。
その顔を見ていると、私まで少しうれしくなった。
大切な姉が幸せそうにしている。
それは、素直にうれしいことだった。
でも、同時に思った。
春馬は、こんなふうに笑える友人に囲まれている。
それなのに、どうしていつも、自分だけが不幸だと思っているのだろう。
もちろん、彼の苦しみをすべて知っているわけではない。
誰かに囲まれているからといって、寂しさが消えるわけでもない。
それでも今の私は、彼が一人で抱え込んでいるものを、少しずつ理解したいと思っていた。
「……翔也」
「ん?」
「春馬のこと、これからもよろしくね」
翔也は、きょとんとした。
「何だよ、急に。お前、春馬の母親か?」
「違う!」
「はははっ! 冗談だって!」
私は顔をそむけた。
けれど、胸の中では、別の言葉を繰り返していた。
春馬。
あなたは、私が思っていたよりもずっと不器用で、ずっと優しい人だったんだね。
そして私は、そんなあなたのことを、まだ何も知らない。
◇
その夜。
俺は自宅のベッドに腰を下ろし、スマートフォンの画面を見つめていた。
そこには、正志から届いたメッセージが残っている。
『今夜、少し会えないか?』
エピソード7の夜から、ずっと気になっていた連絡だった。
あのときは、美雪に相談してから返事をしようと思った。
けれど、結局、まだ話せていない。
何を話せばいいのか、自分でも整理できていなかったからだ。
「……何の用なんだろうな」
独り言をこぼし、画面を閉じかける。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美雪からのメッセージだった。
『春馬。今度、ちゃんと話したいことがある』
俺は眉をひそめた。
『何だよ。怖いんだけど』
すぐに返信が届く。
『別に、怖い話じゃない』
『お前の「別に」は信用できない』
『それ、私の台詞じゃない?』
『俺の身体を使ってるんだから、俺の口癖まで取るなよ』
画面を見ながら、思わず笑ってしまった。
こんなふうに、美雪と何気ないやり取りをする日が来るなんて、少し前までは想像もできなかった。
高校時代の俺たちは、こんなふうに笑い合えていただろうか。
いや、違う。
俺が告白する前は、もっと普通に話せていた。
何でもない話をして、くだらないことで笑って。
あの時間が、ずっと続けばいいと思っていた。
けれど、告白したことで、俺は彼女との関係が変わることを恐れるようになった。
彼女も、きっと同じだったのかもしれない。
俺は、スマートフォンを見つめながら考えた。
もし、美雪が本当に俺と話したいと思っているのなら。
今度こそ、逃げずに向き合うべきなのだろうか。
正志のメッセージも気になっていた。
けれど、まずは美雪と話をすることから始めよう。
俺は短く返信した。
『わかった。明日、話そう』
数秒後、返事が届いた。
『うん。ありがとう』
その言葉を見て、俺は小さく息を吐いた。
ありがとう。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
俺は、もう一度正志のメッセージを開いた。
そして、返信欄に文字を打ち込む。
『明日なら少し時間がある。何かあったのか?』
送信ボタンを押す直前、指が止まった。
何か、嫌な予感がした。
けれど、何も聞かないまま放っておくわけにもいかない。
俺は意を決して、メッセージを送信した。
画面には、送信済みの表示が出ている。
返事は、まだ来なかった。
◇
同じ夜。
私は姉の桜と電話をしていた。
「美雪? 最近、元気にしてる?」
「うん。まあね」
「本当に? 何かあったら、ちゃんと話してよ」
姉の声は、いつもどおり優しかった。
私は一瞬、すべてを話したくなった。
自分が春馬の身体に入ってしまったこと。
春馬が私の身体で生活していること。
そして、春馬のことを少しずつ理解し始めていること。
けれど、話せるはずがなかった。
私たちは、この秘密を守ると約束したのだから。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「好きな人に、ひどいことをしちゃったら、どうすればいいと思う?」
電話の向こうで、姉が黙った。
「……美雪?」
「何でもない。ちょっと聞いてみただけ」
「そう」
姉は、少しだけ声を柔らかくした。
「まずは、自分が何をしたのか、ちゃんと考えることじゃないかな」
「……うん」
「それから、相手がどう感じたのかも考える。でもね、美雪」
「何?」
「謝ることと、許してもらうことは別だよ」
その言葉が、胸に刺さった。
「謝ったからって、相手がすぐに許してくれるとは限らない。前みたいな関係に戻れるとも限らない」
姉は、静かに続けた。
「それでも、自分が本当に悪かったと思うなら、ちゃんと伝えることは大切だと思う」
私は目を閉じた。
春馬に謝りたい。
でも、何について謝ればいいのだろう。
告白を断ったこと?
彼の気持ちに応えられなかったこと?
それとも、彼のことを何も知らないまま、わかったつもりになっていたこと?
好きになってくれた人を、好きになれなかった。
それは、謝るべきことなのだろうか。
誰かの気持ちに応えられないことは、罪なのだろうか。
……違う。
きっと、そうじゃない。
私が後悔しているのは、彼の気持ちに応えられなかったことではない。
彼の気持ちを知ったあとも、彼がどんな思いを抱えていたのか、知ろうとしなかったことだ。
私は、彼がいつもどおりに話しかけてくれることに甘えていた。
彼が笑っているから、もう傷ついていないのだと思い込んでいた。
でも、本当は違ったのかもしれない。
彼は、傷ついていないふりをしていただけなのかもしれない。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして。今度、ちゃんと顔を見せに帰ってきなさいよ」
「うん」
電話を切ったあと、私はスマートフォンを握りしめた。
画面には、春馬とのメッセージ履歴が表示されている。
私は、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
『春馬。今度、ちゃんと話したいことがある』
送信。
しばらくして、返事が届いた。
『何だよ。怖いんだけど』
思わず笑ってしまった。
『別に、怖い話じゃない』
『お前の「別に」は信用できない』
『それ、私の台詞じゃない?』
『俺の身体を使ってるんだから、俺の口癖まで取るなよ』
私は声を出して笑った。
こんなふうに、誰かと何気ないやり取りをするのは、いつ以来だろう。
そして、気づいてしまった。
私は今、春馬と話すことを、少しだけ楽しみにしている。
その気持ちが何なのかは、まだわからない。
ただ、彼のことをもっと知りたい。
彼がどんな景色を見て、どんなことで傷つき、どんなときに笑うのか。
いつか、彼自身の口から聞いてみたい。
私は、最後に一通だけ送った。
『明日も、頑張ろうね』
返事は、すぐに届いた。
『おう』
たった一文字。
でも、その文字を見ていると、なぜか安心できた。
私はスマートフォンを胸元に引き寄せ、そっと目を閉じた。
明日、春馬と話そう。
今まで言えなかったことを。
今まで聞けなかったことを。
そして、今まで見ようとしなかった彼の心を。
少しずつでいい。
今度こそ、ちゃんと向き合いたい。
◇
翌朝。
大学の掲示板の前には、いつもより多くの学生が集まっていた。
主演選考の一次結果が発表されたのだ。
俺は人混みの後ろから、そっと掲示板をのぞき込んだ。
『新入生歓迎公演「言えなかった言葉」』
その下に、一次選考を通過した候補者の名前が並んでいる。
そして――。
主演候補。
黒神蓮。
西園寺美雪。
「……あった」
思わず、小さく声が漏れた。
「おい、美雪!」
背後から蓮が走ってきた。
「見たか!? 俺たち、残ったぞ!」
「う、うん」
「よっしゃあ!」
蓮は周囲の目も気にせず、拳を突き上げた。
「絶対に主演を取ろうぜ!」
俺は、掲示板に書かれた自分の名前を見つめた。
西園寺美雪。
その名前の先には、俺の知らない未来が広がっている。
この舞台で、俺は何を演じるのだろう。
少女の恋心か。
言えなかった本音か。
それとも、誰にも見せられなかった自分自身か。
「……うん。やろう、蓮」
俺は、彼の手を握った。
蓮は一瞬驚いたあと、いつもの笑顔を見せた。
「その意気だ!」
けれど、そのときだった。
掲示板の向こう側から、誰かがこちらを見ていることに気づいた。
長い黒髪。
静かな瞳。
そして、見慣れたはずの横顔。
黒瀬春馬の顔をした、西園寺美雪だった。
俺とは違う身体に入った、本物の美雪。
彼女は、少し離れた場所から俺を見つめていた。
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
俺も、彼女に気づいた。
視線が交わる。
言葉はなかった。
けれど、彼女の目が何かを伝えようとしているように見えた。
――春馬。
私は、あなたのことをもっと知りたい。
その想いは、まだ声にならない。
そして俺も、まだ知らない。
この舞台が終わるころには、俺たちの関係が、今とはまったく違うものになっていることを。
好きなのに、好きだと言えない。
その苦しさを知っている二人だからこそ。
いつか、本当の言葉を見つけられるのだろうか。
春の風が吹いた。
掲示板に貼られた紙が、かすかに揺れた。
第9話 完




