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『君の身体で、君に恋をした。』 ――入れ替わった僕たちが、本当の愛を見つけるまで――  作者: 綾小路如月


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第10話 あの日、君が流した涙を知らない

 四月、金曜日。


 放課後の廊下は、いつもより少し騒がしかった。


 第二次オーディションの結果が、今日発表されるからだ。


 掲示板の前には、結果を確認しようとする生徒たちが集まっていた。


 俺――黒瀬陽真も、その中にいた。


 数日前、第一次オーディションの結果を見たとき、俺は自分の名前を見つけて、思わず息を呑んだ。


 そして今日。


 ここで結果を見れば、次に進めるかどうかが分かる。


 緊張で、手のひらが少し汗ばんでいた。


「陽真、あった?」


 隣から声がした。


 振り向くと、幼なじみの高瀬翔也が立っていた。


「いや……まだ」


「じゃあ、一緒に確認しようぜ」


 翔也はそう言って、掲示板へ視線を向けた。


 俺も、もう一度名前を探し始める。


 上から順番に確認していく。


 一人、また一人。


 そして――。


「あ……」


 思わず声が漏れた。


 そこには、確かに書かれていた。


 黒瀬陽真。


 第二次オーディション通過者の一覧に、俺の名前があった。


「……通った」


「おおっ! やったじゃん、陽真!」


 翔也が俺の肩を軽く叩いた。


「よかったな。ここまで頑張ってきたもんな」


「……ああ。ありがとう」


 嬉しかった。


 自分の努力が、少しだけ報われた気がした。


 けれど、胸の奥には、まだ消えない不安が残っていた。


 次の審査は、もっと厳しくなる。


 それでも――。


 もう、逃げたくなかった。


 俺は掲示板から目を離し、静かに息を吐いた。


 そのときだった。


「……陽真くん?」


 聞き覚えのある声が、背後から響いた。


 振り返る。


 そこに立っていたのは、西園寺美雪だった。


 彼女は掲示板を見つめ、それから俺へと視線を移した。


「通過……したんだね」


「ああ。なんとか」


「そっか……。おめでとう」


 美雪は、少しだけ微笑んだ。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が不思議と温かくなった。


「美雪も、通ったのか?」


「うん。私も、なんとか」


「そっか。おめでとう」


「ありがとう」


 短い会話。


 それだけなのに、以前よりも彼女との距離が近くなった気がした。


 けれど、俺たちの間には、まだ言葉にできないものが残っていた。


 あの日のこと。


 俺が美雪に告白して、断られた日のことだ。


 あの出来事を、俺はまだ完全には忘れられずにいた。


 それでも、彼女と普通に話せるようになったことが、少しだけ嬉しかった。


     * * *


 放課後。


 俺は翔也と一緒に校門へ向かっていた。


「なあ、陽真」


「ん?」


「お前、最近ちょっと変わったよな」


「……何が?」


「前より、自分から動くようになったっていうか。オーディションだって、昔のお前なら迷ってたんじゃないか?」


 俺は少し考えた。


「……そうかもしれない」


「何かあった?」


 翔也の問いに、俺はすぐには答えられなかった。


 何かあったのか。


 そう聞かれれば、答えは一つしかない。


 美雪のことだ。


 彼女に告白して、断られた。


 あのときは、何もかも終わったような気がした。


 けれど、時間が経つにつれて、少しずつ考え方が変わってきた。


 自分の気持ちを伝えたことまで、後悔したくない。


 だからこそ、これからは自分自身のためにも、前へ進みたいと思った。


「……まあ、いろいろな」


「なんだよ、それ。気になるだろ」


「別にいいだろ」


「はいはい。秘密ってわけね」


 翔也は笑った。


 俺も、少しだけ笑った。


 そのとき、翔也のスマートフォンが震えた。


「あ、ちょっとごめん」


 翔也は画面を確認すると、表情をわずかに変えた。


「……どうした?」


「いや。ちょっとした連絡」


 そう言って、翔也はスマートフォンをポケットにしまった。


 けれど、その表情が気になった。


「何かあったのか?」


「大丈夫。気にすんな」


 翔也はいつもの調子で笑った。


 それ以上、俺は何も聞かなかった。


 ただ、そのときの翔也の表情が、なぜか頭から離れなかった。


     * * *


 その日の帰り道。


 私は、一人で歩いていた。


 第二次オーディションを通過できたことは、素直に嬉しかった。


 けれど、それ以上に、今日の陽真くんの表情が気になっていた。


 彼は笑っていた。


 以前よりも、自然に。


 それなのに、ときどき、どこか寂しそうな顔をする。


 その理由を、私は知っている。


 ――私が、彼の告白を断ったから。


 あの日から、私は何度も考えてきた。


 どうして、あんな言い方をしてしまったんだろう。


 どうして、彼の気持ちをもっと大切に受け止められなかったんだろう。


 もちろん、あのときの自分にも、理由はあった。


 けれど、理由があったからといって、彼を傷つけたことが消えるわけではない。


「……陽真くん」


 小さく名前を呼んでみる。


 返事があるはずもなかった。


 それでも、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 私は、彼のことをもっと知りたいと思っていた。


 彼が何を考えているのか。


 何に悩んでいるのか。


 そして、どうしてあんなにも優しいのか。


 でも、今さらそんなことを思う資格が、自分にあるのだろうか。


 考えても、答えは出なかった。


 それでも――。


 もう一度、彼と向き合いたかった。


     * * *


 翌日。


 私は、翔也くんを見つけた。


「翔也くん、少し話せる?」


「ん? 美雪? どうした?」


 翔也くんは不思議そうに私を見た。


 私は一度、深呼吸をした。


「……陽真くんのことで、聞きたいことがあるの」


 その名前を口にした瞬間、翔也くんの表情が少しだけ変わった。


「陽真の?」


「うん」


 私は、迷いながらも言葉を続けた。


「私……あの日のこと、ずっと気になっていて」


「……あの日って、告白のことか?」


 私は小さく頷いた。


 翔也くんはしばらく黙っていた。


 そして、静かに口を開いた。


「美雪。お前、陽真があの日どんな気持ちだったか、知ってるか?」


「……分からない」


「だよな」


 翔也くんは、困ったように笑った。


「陽真はさ、あの日、平気なふりをしてたんだよ」


 胸が、きゅっと締めつけられた。


「俺の前でも、いつもどおりに振る舞ってた。お前に断られたことを、誰かのせいにすることもなかった」


「……」


「でも、本当は……かなりつらかったんだと思う」


 私は、何も言えなかった。


「俺が知ってる陽真は、簡単に自分の気持ちを口にするやつじゃない。だからこそ、あの告白には、それだけの覚悟があったんだと思う」


 翔也くんは、少しだけ視線を落とした。


「……あいつ、泣いてたんだ」


「……え?」


 思わず、声が漏れた。


「お前と別れたあと、一人でな。俺が見たときには、もう泣きやんでたけど……無理して笑ってた」


 頭の中が、真っ白になった。


 陽真くんが、泣いていた。


 私の知らないところで。


 私が傷つけた彼が、誰にも見せないように、一人で苦しんでいた。


「……そんな」


 声が震えた。


 知らなかった。


 私は、本当に何も知らなかった。


 彼がどんな思いで告白してくれたのか。


 断られたあと、どんな気持ちで帰ったのか。


 そして、どれほど傷ついていたのか。


 私は、何も知らなかった。


「……ごめんなさい」


 気づけば、そう呟いていた。


「美雪?」


「私……陽真くんの気持ちを、ちゃんと考えられてなかった」


 目の奥が熱くなった。


 けれど、私は涙をこらえた。


 今、泣くべきなのは私じゃない。


 傷ついたのは、陽真くんのほうなのだから。


「翔也くん、教えてくれてありがとう」


「ああ。でもさ、美雪」


 翔也くんは、真剣な表情で私を見た。


「今からでも、ちゃんと向き合えばいいんじゃないか。陽真がどう思ってるかは、俺にも分からない。でも、お前が本当にあいつのことを知りたいなら、自分の言葉で話してみろよ」


 私は、ゆっくりと頷いた。


 そうだ。


 過去を変えることはできない。


 あの日、陽真くんを傷つけてしまった事実も、なかったことにはできない。


 それでも、これからのことなら――。


 自分で選ぶことができる。


     * * *


 月曜日。


 放課後の教室には、夕日が差し込んでいた。


 私は、窓際に立っている陽真くんを見つけた。


「あの……陽真くん」


「……美雪?」


 彼は少し驚いたように振り返った。


 私は、緊張で冷たくなった手を、ぎゅっと握りしめた。


「少しだけ、話してもいい?」


「……ああ。いいけど」


 陽真くんは、静かに頷いた。


 私は、彼の目を見た。


 逃げたくなかった。


 もう、曖昧なままにしたくなかった。


「……あの日のこと、ごめんなさい」


 陽真くんの表情が、わずかに変わった。


「私、自分の気持ちばかり考えていて……陽真くんがどんな思いで告白してくれたのか、ちゃんと考えられてなかった」


「美雪……」


「もちろん、今さら謝ったからって、あの日のことがなくなるわけじゃないって分かってる。それでも……ちゃんと謝りたかったの」


 言葉が、少しずつ震えていく。


「本当に、ごめんなさい」


 私は、深く頭を下げた。


 しばらく、何も聞こえなかった。


 やがて、陽真くんが静かに口を開いた。


「……もう、気にしてないよ」


 その言葉に、私は顔を上げた。


 彼は、少し困ったように笑っていた。


「もちろん、あのときはつらかった。でも……美雪を責めたいわけじゃないんだ」


「……陽真くん」


「俺が好きになったのは、美雪だから。美雪がどんな答えを出したとしても、それを無理に変えさせたいとは思わない」


 胸が、苦しくなった。


 どうして、彼はこんなにも優しいのだろう。


 自分が傷ついたはずなのに。


 それでも、私の気持ちまで大切にしようとしてくれる。


 私は、ゆっくりと息を吸った。


「……私ね」


「うん?」


「陽真くんのこと、もっと知りたい」


 彼の目が、少しだけ大きくなった。


「今まで、私は陽真くんの優しいところばかり見ていた気がする。でも……それだけじゃなくて、何を考えているのかとか、何に悩んでいるのかとか、そういうことも知りたいの」


 自分でも、何を言っているのか分からなくなりそうだった。


 それでも、伝えたかった。


「だから……これからも、あなたのことをもっと知っていきたい」


 教室に、静かな時間が流れた。


 陽真くんは、すぐには答えなかった。


 その沈黙が少し怖かった。


 けれど、やがて彼は、小さく息を吐いた。


「……ありがとう、美雪」


 その声は、驚くほど穏やかだった。


「でも、焦らなくていいよ。俺たち、まだお互いに知らないことがたくさんあるだろ?」


「……うん」


「だから、少しずつでいいんじゃないかな」


 私は、思わず微笑んだ。


「……そうだね」


 彼も、ほんの少しだけ笑った。


 それは、恋人同士のような特別な笑顔ではなかった。


 けれど、以前よりも確かに、私たちの距離は近づいていた。


 窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。


 私は、その光を見つめながら思った。


 あの日、彼が流した涙を、私は知らなかった。


 でも、これからは――。


 知らないままでいたくない。


 彼の悲しみも、喜びも。


 強さも、弱さも。


 少しずつでいいから、知っていきたい。


 そして、いつか。


 彼が心から笑えるように。


 今度こそ、彼の気持ちから目をそらさずにいたい。


 そう、思った。


     * * *


 その夜。


 翔也は、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。


 そこには、昼間に届いた一通のメッセージが残っていた。


 送り主の名前を見て、翔也は小さく息を吐く。


「……まさか、今になって」


 画面を閉じようとして、指が止まった。


 陽真には、まだ話していない。


 美雪にも、話すべきかどうか分からない。


 けれど、このまま何もなかったことにはできない気がした。


「……どうするべきかな」


 窓の外には、夜の街が広がっていた。


 翔也はもう一度、メッセージを開いた。


 そして、静かに呟いた。


「陽真……お前、これを知ったらどうするんだろうな」


 そのメッセージが、三人の関係をどう変えていくのか。


 まだ、誰にも分からなかった。




第10話 完

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