第11話 恋人役の距離は、近すぎる
月曜日、四月。
演劇部の本格的な稽古が始まった。
第二次オーディションを通過した俺――黒瀬陽真は、今、西園寺美雪の身体で舞台に立っている。
そして、目の前にいるのは、黒神蓮。
今回の劇で、俺と恋人役を演じる相手だ。
「じゃあ、雨のシーンから始めようか」
顧問の先生の声が響く。
舞台には、雨に打たれる恋人たちの場面が用意されていた。
もちろん、本物の雨が降っているわけではない。照明と音響によって、雨の中にいるような雰囲気を作り出している。
それでも、蓮の演技が始まった瞬間、空気が変わった。
「……どうして、何も言わずに行こうとするんだ?」
蓮は、台本にはない動きで、そっと俺の手を取った。
突然のことに、心臓が跳ねる。
「俺は……君のことを、まだ何も知らない」
蓮の声は、驚くほど優しかった。
「だから、もう少しだけ、ここにいてほしい」
台本に書かれていた台詞とは少し違う。
けれど、その言葉は不思議なくらい自然だった。
まるで、本当に俺に向かって話しているみたいに。
――やめてくれ。
今の俺は、美雪の身体にいる。
分かっている。これは演技だ。
蓮が向き合っているのは、劇の中の恋人役であって、俺自身じゃない。
それなのに、手を握られただけで、どうしてこんなにも落ち着かなくなるんだ。
昔、美雪に伝えたかった言葉。
あのとき、最後まで言えなかった気持ち。
それらが、胸の奥から少しずつ浮かび上がってくる。
「……カット!」
先生の声で、俺はようやく我に返った。
「いいね、今の二人。特に蓮、自然な感情が出ていたぞ」
「ありがとうございます」
蓮は笑顔で答えたあと、俺のほうを向いた。
「美雪、大丈夫? ちょっと緊張してた?」
「えっ? あ、ああ……うん。少しだけ」
危なかった。
今の俺は美雪として振る舞わなければならない。
不用意な言葉や仕草で、周囲に違和感を与えるわけにはいかない。
「そっか。でも、今の反応、すごくよかったよ」
「そ、そう?」
「うん。相手の言葉を受け止めようとしている感じがした。ああいう演技、俺は好きだな」
蓮はそう言って、楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ戸惑った。
こいつは、ただ演技が上手いだけじゃない。
相手の表情や声の変化を、細かいところまで見ている。
もし俺が気を抜けば、何かを見抜かれてしまうかもしれない。
そう思うと、自然と背筋が伸びた。
◇
休憩時間。
俺が舞台の端で台本を確認していると、蓮が隣に腰を下ろした。
「なあ、美雪」
「何?」
「ひとつ聞いてもいい?」
「……内容によるけど」
「ははっ、警戒しすぎだろ」
蓮は苦笑しながら、手に持っていた台本を閉じた。
「俺さ、もっと人の気持ちを理解したいんだ」
「人の気持ち?」
「うん。演技って、台詞を覚えて、それっぽく動けばいいってものじゃないだろ?」
蓮は舞台の中央を見つめた。
「その人物が何を考えて、どうしてその言葉を口にするのか。そこまで理解できたら、もっと自然に演じられると思うんだ」
「……確かに、そうかもしれないな」
「だから、いろんな人の話を聞きたい。普段どんなことを考えているのかとか、何に悩んでいるのかとか」
そこで蓮は、俺の顔をのぞき込んだ。
「美雪のことも、もっと知りたいんだよ」
「……俺のこと?」
「ああ。もちろん、話したくないことまで無理に聞くつもりはないけどさ」
蓮はいつもの調子で笑った。
「これから恋人役を演じるんだし、お互いのことを知っていたほうが、いい演技ができると思わない?」
返事に困った。
俺は美雪の身体に入っている。
けれど、美雪が何を考え、何を大切にしているのか、俺はまだ十分に知らない。
彼女の身体を借りているからといって、彼女の心まで理解できるわけじゃない。
「……そうだな。俺も、もっとお前のことを知りたいよ」
そう答えると、蓮は少し驚いたように目を見開いた。
「本当か? じゃあ、これからいろいろ話そうぜ」
「うん」
俺は曖昧に笑った。
その言葉は、嘘ではなかった。
ただ、ひとつだけ気になっていた。
美雪のことを知ろうとするなら、俺は彼女に何を尋ねればいいのだろう。
そして、彼女は俺のことを、どこまで知っているのだろう。
考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
◇
同じ頃、図書室。
美雪は、俺の身体で机に向かっていた。
目の前に広げられているのは、俺が普段使っているノートだった。
「……こんなに、書いていたんだ」
ページをめくるたび、細かな文字が並んでいる。
授業の内容だけじゃない。
分からなかった部分のまとめや、後で調べること、覚えておきたいことまで、丁寧に書き込まれていた。
美雪は、しばらく黙ってノートを見つめていた。
「陽真って、思っていたより真面目なんだね……」
「今さら気づいたのか?」
突然声をかけられ、美雪は顔を上げた。
そこに立っていたのは、高瀬翔也だった。
「翔也くん……」
「そのノート、陽真のだろ?」
「うん。少し見せてもらっていたの」
翔也は向かいの椅子を引き、腰を下ろした。
「まあ、陽真らしいよな。あいつ、昔からそういうところがあるんだ」
「昔から?」
「ああ。自分が苦労してでも、分からないことをそのままにしない。誰かに頼まれたことも、できるだけ最後までやろうとする」
翔也は少しだけ笑った。
「演劇だってそうだ。蓮が役者を目指すって決めたときも、陽真はずっと応援していたからな」
「……そうなんだ」
「蓮が自信をなくしていたときも、陽真が話を聞いていた。あいつ、自分のことはあまり話さないくせに、他人のことになると放っておけないんだよ」
美雪は、ノートに視線を落とした。
自分が知らなかった陽真の姿が、少しずつ見えてくる。
高校時代、陽真が自分に告白してきたとき。
自分は、彼がどんな気持ちでその言葉を口にしたのか、深く考えなかった。
ただ、恋愛感情に応えられないからと、断った。
それが間違いだったとは思わない。
好きではない相手の気持ちに、無理に応える必要なんてないからだ。
けれど――。
彼がその後、どんな気持ちで過ごしていたのか。
どんな思いを抱えながら、いつもどおりに振る舞っていたのか。
自分は、何も知らなかった。
「……私、陽真のことを全然知らなかったんだね」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
翔也はすぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「知ろうとしなきゃ、分からないこともあるからな」
「……うん」
「でも、今からでも遅くないと思うぞ」
翔也の言葉に、美雪は小さくうなずいた。
もっと知りたい。
陽真が何を考えているのか。
何を我慢して、何を大切にしてきたのか。
そして、あの日、自分に伝えたかったことは何だったのか。
今度こそ、ちゃんと向き合いたい。
そう思った。
◇
放課後。
演劇部の稽古が再開された。
「じゃあ、次は告白の場面からいこう」
先生の指示に、俺は台本を握り直した。
次の場面は、主人公が恋人に自分の気持ちを伝えようとするシーンだった。
何度も読んだ台詞だ。
それなのに、今は一文字一文字が胸に引っかかる。
蓮が、俺の前に立った。
「……もう少しだけ、そばにいて」
その言葉を聞いた瞬間、息が止まりそうになった。
台本の中の台詞。
ただ、それだけのはずだった。
けれど、俺の頭には、あの日の光景が浮かんでいた。
高校時代。
美雪に告白した日。
本当は、もっと伝えたいことがあった。
どうして好きになったのか。
彼女のどんなところに惹かれたのか。
どれだけ長い間、その気持ちを抱えてきたのか。
けれど、返ってきたのは、断りの言葉だった。
それ以上、何も言えなかった。
言えるはずもなかった。
だから俺は、最後まで伝えられなかった気持ちを、ずっと心の奥にしまい込んできた。
「……黒瀬?」
先生に呼ばれ、俺ははっと顔を上げた。
「今のところ、もう一度やってみよう。台詞の意味を考えて、相手に届けるつもりで」
「……はい」
俺は深く息を吸った。
今は演技に集中しなければならない。
これは俺の過去じゃない。
劇の中の主人公の物語だ。
そう自分に言い聞かせ、蓮の目を見つめた。
「……もう少しだけ、そばにいて」
今度は、台詞を最後まで言えた。
それでも、胸の奥に残る痛みは消えなかった。
稽古が終わると、蓮が俺のそばにやってきた。
「なあ、美雪」
「……何?」
「さっきの台詞、何か思い出していた?」
心臓が跳ねた。
「どうして、そう思うんだ?」
「いや、なんとなく。台詞を言う前と後で、雰囲気が変わったから」
蓮は少し考えてから、続けた。
「演技って不思議だよな。自分では隠しているつもりでも、ふとした瞬間に本当の気持ちが出ることがある」
「……そうかもしれないな」
「だから、もっと知りたいんだよ。役のことも、相手のことも。それに、自分自身のことも」
蓮は台本を閉じた。
「明日もよろしくな、美雪」
「ああ。こちらこそ」
蓮が去っていくのを見送りながら、俺は自分の手を見つめた。
美雪の手。
今の俺が使っている、彼女の身体。
この身体で、俺はどこまで自分の気持ちを隠し通せるのだろう。
そして、いつまで美雪のふりを続けられるのだろう。
答えは、まだ見つからなかった。
◇
その夜。
自分の部屋で、俺はスマートフォンを手に取った。
画面には、美雪からのメッセージが届いていた。
『今日の稽古、どうだった?』
俺は少し考えてから、返信した。
『疲れた。でも、なんとかやれたよ』
すぐに既読がついた。
『そっか。お疲れさま』
そこで会話が終わるかと思った。
けれど、少しして、もう一通メッセージが届いた。
『ねえ、陽真』
『何?』
『高校のとき、私に告白してくれたとき……本当は、ほかにも伝えたいことがあった?』
指が止まった。
どうして今、そんなことを聞くんだ。
翔也から何か聞いたのだろうか。
それとも、俺が何も話さないことを気にしているのだろうか。
画面を見つめたまま、しばらく返事ができなかった。
あの日のことを思い出すのは、今でも簡単じゃない。
美雪を責めたいわけじゃない。
彼女が俺の気持ちに応えられなかったことも、今なら理解できる。
それでも、あのとき伝えられなかった言葉は、まだ心の奥に残っている。
俺は、ゆっくりと文字を打った。
『……いつか、話すよ』
送信したあと、スマートフォンを伏せた。
すぐに返事は来なかった。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、夜の街がいつもどおりの明かりを灯している。
何も変わっていないように見える世界で、俺たちの関係だけが、少しずつ変わり始めていた。
美雪は、俺を知ろうとしている。
俺もまた、美雪のことを知ろうとしている。
けれど、知れば知るほど、今まで見えていなかったものが見えてくる。
それが、俺たちを近づけるのか。
それとも、さらに遠ざけるのか。
今はまだ、分からない1
恋人役を演じるには、俺たちの距離は近すぎる。
そして――。
心の距離は、まだ遠すぎた。
第11話 完




