第12話 恋人じゃないのに、恋人みたい
四月、火曜日。
昨夜、美雪と交わしたメッセージが、まだ頭から離れなかった。
高校時代、彼女に告白したあの日。
本当は、伝えたいことがほかにもあった。
けれど、あのときの俺には、それ以上の言葉を口にする勇気がなかった。
いつか話す。
そう約束したものの、実際にそのときが来たら、俺はちゃんと自分の気持ちを伝えられるのだろうか。
そんなことを考えながら大学の正門をくぐった、そのときだった。
「……なあ、美雪」
突然、黒神蓮が俺の肩をつかんだ。
「お前、昨日の夜、何か変なことした?」
「は?」
俺――黒瀬陽真は、西園寺美雪の身体で、思わず足を止めた。
「何の話?」
「いや、俺もよくわからないんだけどさ……」
蓮は周囲を見回し、少し声を落とした。
「俺たち、付き合ってることになってるらしい」
「…………は?」
頭が真っ白になった。
「ちょっと待て。何でそうなるんだよ!」
「俺に聞くなって!」
蓮も困った顔をしている。
「朝、サークルのグループチャットを見たら、『黒神くんと西園寺さんって付き合ってるの?』って質問が来ててさ。昨日の稽古を見てた人が、二人の距離が近すぎるって……」
「いやいやいや!」
俺は思わず頭を抱えた。
確かに、昨日の稽古では手を握った。
「もう少しだけ、そばにいて」と言われ、俺も役の台詞を返した。
でも、あれは演技だ。
舞台の練習だ。
どう考えても、恋人になったわけではない。
「……誰がそんなこと言い出したんだ?」
「さあ。でも、けっこう広まってるっぽい」
「最悪だ……」
「まあ、別に悪い噂じゃないだろ?」
「そういう問題じゃない!」
声が大きくなり、近くを歩いていた学生が振り返った。
俺は慌てて口を閉じた。
蓮は、そんな俺を見て笑った。
「ははっ! 美雪、今日はいつも以上に反応がいいな!」
「笑い事じゃないんだよ……」
「でもさ、俺たちが仲良く見えるってことは、演技がうまくいってるってことじゃないか?」
「……それは、そうかもしれないけど」
「だったら、いいじゃん!」
蓮は、いつもの調子で俺の背中を軽くたたいた。
「本番まで、この調子で頑張ろうぜ!」
そう言って、彼は講義棟へ向かっていった。
俺は、その場に取り残された。
付き合っているという噂。
美雪の身体にいる俺と、蓮。
もし、この噂が本物の美雪の耳に入ったら、どう思うだろう。
……いや。
すでに本人も知っているかもしれない。
俺は急いでスマートフォンを取り出した。
画面には、美雪からのメッセージが届いていた。
『陽真。今、大学で何が起きてるの?』
「……ですよね」
俺は深いため息をついた。
* * *
昼休み。
俺は大学の中庭で、美雪からのメッセージを読んでいた。
『蓮くんと付き合ってるって、本当?』
『嘘に決まってるだろ!』
『でも、みんなそう言ってるよ』
『演技の練習を見て勘違いしたんだよ』
『……ふーん』
最後の一言が、妙に気になった。
『何だよ、その「ふーん」は』
しばらくして、返信が届いた。
『別に』
「……何なんだよ!」
思わず声が出た。
近くのベンチに座っていた学生が、驚いてこちらを見た。
「す、すみません!」
俺は頭を下げ、スマートフォンを握りしめた。
美雪のやつ……。
いや、待て。
美雪は、なぜそんなに気にしているのだろう。
俺と蓮が付き合っているという噂が広まったところで、彼女には関係ないはずだ。
……いや、関係がないわけでもないか。
俺が美雪の身体を使っている以上、彼女の評判にも影響する。
それに、蓮は俺の親友というわけではないが、これから舞台を一緒に作り上げていく大切な仲間だ。
変な誤解を広げるわけにはいかない。
『とにかく、今日の練習のあと、誤解を解くよ』
そう送ると、美雪から短い返事が届いた。
『わかった』
俺はスマートフォンをしまった。
そのとき、目の前に影が落ちた。
「美雪、ここにいたんだ」
顔を上げると、久保由里香が立っていた。
彼女はにこにこしながら、俺の隣に座った。
「ねえねえ、聞いてもいい?」
「……何を?」
「蓮くんとは、いつから付き合ってるの?」
「付き合ってない!」
即答だった。
由里香は目を丸くした。
「えっ、そうなの?」
「そうだよ!」
「でも、昨日の練習、すごくいい雰囲気だったよ?」
「だから、演技だって!」
「ふーん……」
また、その反応か。
俺は頭を抱えた。
「由里香まで、そんなこと言うのかよ……」
「え?」
「……いや、何でもない」
危なかった。
今のは、完全に男の口調だった。
由里香は俺の顔をじっと見た。
「美雪、最近、本当に変わったね」
心臓が跳ねた。
「……そう?」
「うん。前より感情が顔に出るようになったし、言いたいことをはっきり言うようになった」
由里香は少しうれしそうに笑った。
「私は、今の美雪のほうが好きだな」
その言葉に、胸が痛んだ。
彼女が好きなのは、美雪だ。
俺ではない。
それなのに、俺が美雪の身体で振る舞うほど、周りの人たちは「美雪が変わった」と言う。
いつか本当の美雪が戻ってきたとき、彼女はどうなるのだろう。
俺が作り出した変化を、彼女は自分のものとして受け入れられるだろうか。
「……ありがとう、由里香」
俺は、できるだけ優しく笑った。
由里香は満足そうにうなずいた。
「ところで、蓮くんとのことだけど……」
「まだ続くの!?」
「だって、気になるじゃん!」
彼女の笑顔を見て、俺は思わず笑ってしまった。
噂を消すのは、思った以上に大変そうだった。
* * *
そのころ、美雪は陽真の身体で、大学の講義を受けていた。
講義が終わり、ノートを閉じようとしたとき、隣の席の学生が声をかけてきた。
「黒瀬くん、今日の課題、もう終わった?」
「……え?」
「課題だよ。先生が最後に出したやつ」
美雪は慌ててノートを開いた。
そこには、課題の内容がきちんと書かれている。
だが、解き方は途中までしか記されていなかった。
「……まだ、終わってない」
「そっか。よかったら一緒にやらない?」
「いいの?」
「もちろん。俺も一人じゃ不安だし」
その学生は笑った。
美雪は少し驚いた。
陽真は、大学でも一人でいることが多いと思っていた。
けれど、こうして声をかけてくれる人もいる。
彼女はノートを開き、課題に取り組み始めた。
わからないところは、隣の学生に質問した。
自分でも考えた。
そして、少しずつ答えに近づいていった。
「……あ、できた」
思わず声が出た。
「おお! やったじゃん、黒瀬くん!」
学生が笑顔で言った。
美雪は、陽真の顔で笑った。
「ありがとう。助かったよ」
その瞬間、胸の奥が温かくなった。
陽真が毎日こうして勉強しているのだとしたら。
わからないことを一つずつ理解して、できなかったことができるようになる喜びを、何度も味わっているのだとしたら。
彼がノートに書き残していた言葉の意味が、少しわかった気がした。
『わからないことを恥ずかしがるより、わからないままでいるほうが怖い』
陽真は、自分にできないことを諦めていない。
それが、今の美雪には少し眩しかった。
そして、ふと思った。
陽真は、いつもこんなふうに一人で努力してきたのだろうか。
困ったとき、誰かに助けを求めることはあるのだろうか。
彼のことを知りたいと思っていたはずなのに、実際に彼の生活を経験するまで、気づけなかったことがたくさんあった。
もっと知りたい。
そう思う気持ちは、昨日よりも少し強くなっていた。
* * *
夕方。
美雪が大学を出ると、スマートフォンが鳴った。
画面には、姉の桜からのメッセージが表示されていた。
『美雪、今日少し時間ある?』
『あるけど、どうしたの?』
『翔也くんと会うんだけど、ちょっと相談したいことがあって』
美雪は足を止めた。
翔也と桜。
二人が付き合っていることは、先日、翔也から聞いたばかりだった。
『相談って何?』
『会ってから話すね。駅前のカフェに来てくれる?』
『わかった』
美雪は返信し、指定された場所へ向かった。
カフェに着くと、窓際の席に桜と翔也が座っていた。
桜は美雪を見つけると、手を振った。
「美雪、こっち!」
「お待たせ」
美雪は二人の向かいに座った。
翔也は、いつもより少し落ち着かない様子だった。
桜はそんな彼をちらりと見てから、口を開いた。
「実はね、翔也くんが相談したいことがあるんだって」
「俺が?」
翔也が驚いた顔をした。
「そうでしょ?」
桜は笑顔で彼を見た。
「さっき、そう言ってたじゃない」
「……ああ、そうだった」
翔也は頭をかいた。
美雪は二人の様子を不思議に思った。
「何の相談?」
翔也は少し考えたあと、真剣な顔になった。
「春馬……いや、陽真。お前、最近、無理してないか?」
「……え?」
美雪は思わず固まった。
翔也が呼びかけたのは、今ここにいる自分ではない。
彼が心配しているのは、陽真のことだった。
「最近、ちょっと様子が違うからさ。何かあったんじゃないかと思って」
翔也は心配そうに続けた。
「俺たちに言えないことがあるなら、無理に聞くつもりはない。でも、もし困ってるなら、頼ってほしいんだ」
美雪は、すぐに返事ができなかった。
翔也は、本当に陽真のことを心配している。
彼の変化に気づき、何かあったのではないかと考えている。
けれど、今の陽真の身体の中にいるのは、美雪だ。
彼女が何かを話せば、陽真の秘密を守れなくなるかもしれない。
「……ありがとう、翔也」
美雪は慎重に言葉を選んだ。
「でも、大丈夫。少し、考えたいことがあるだけだから」
翔也は、しばらく彼女を見つめていた。
そして、静かにうなずいた。
「そっか。なら、いいんだ」
桜が優しく微笑んだ。
「でも、無理はしないでね。陽真くん」
その言葉に、美雪の胸が少し痛んだ。
陽真は、こんなにも心配されている。
それなのに、彼は自分の苦しみを誰にも話さない。
もしかしたら、誰かに頼ることが苦手なのかもしれない。
もしかしたら、迷惑をかけたくないと思っているのかもしれない。
美雪は、そっと拳を握った。
いつか、陽真が本当の自分に戻ったとき。
彼が自分の気持ちを話せるように。
そして、誰かに頼ることを恐れなくていいように。
自分にできることがあるなら、やってみたい。
そう思った。
* * *
夜。
演劇サークルの稽古が始まった。
「それじゃあ、今日は第二幕を通してやってみよう」
代表の声に、部員たちが動き始める。
俺は台本を持ち、蓮の隣に立った。
「なあ、美雪」
「何?」
「今日、噂のこと、気にしてる?」
「……少し」
「そっか」
蓮は、いつもの笑顔を浮かべた。
「じゃあ、はっきりさせようぜ」
「え?」
「俺たちは付き合ってない。そう言えばいいんだろ?」
「……うん」
「よし。じゃあ、明日から聞かれたら、ちゃんと説明する!」
蓮は胸を張った。
俺は、ほっと息を吐いた。
これで、噂も少しは落ち着くだろう。
……そう思っていた。
「ただし!」
蓮が突然、指を立てた。
「舞台の上では、最高の恋人同士になるぞ!」
「……は?」
「だって、俺たちは主演なんだから!」
周囲の部員たちが笑った。
「黒神くん、かっこいい!」
「西園寺さん、うらやましい!」
「本当に付き合ってないの?」
「だから、付き合ってないって!」
俺は叫んだ。
部室に笑い声が響いた。
代表が苦笑しながら、手をたたいた。
「はいはい、そこまで。稽古を始めるぞ!」
俺は深呼吸した。
舞台の上では、恋人同士。
舞台を降りれば、ただの共演者。
そう割り切ればいい。
それだけのことだ。
「……よし」
俺は台本を開いた。
そのとき、蓮が小さな声で言った。
「なあ、美雪」
「何?」
「さっきの話だけどさ」
「うん?」
「俺たち、本当に付き合ってないんだよな?」
「…………は?」
一瞬、時間が止まった。
蓮は真剣な顔で俺を見ていた。
そして、次の瞬間。
「……なんてな! 冗談だよ!」
彼は大声で笑った。
「お前、今の顔、最高だったぞ!」
「お前なああああっ!」
俺の叫び声が、部室中に響き渡った。
その日、演劇サークルでは、稽古が始まる前から大きな笑い声が絶えなかった。
そして俺は、改めて思った。
この男と恋人役を演じるのは、演技の難しさよりも、心臓に悪い。
* * *
帰宅後。
俺はスマートフォンを手に取り、美雪にメッセージを送った。
『今日、蓮にからかわれた』
すぐに返信が届いた。
『いつものことでしょ』
『いつものことだけど、今日は特にひどかった』
『ふふっ』
短い返信。
けれど、その文字を見ていると、彼女が笑っている姿が想像できた。
少し前まで、俺は美雪の笑顔を遠くから見ているだけだった。
今は、彼女と何気ないメッセージを交わしている。
それが、入れ替わりのおかげなのだとしたら。
この奇妙な出来事にも、意味があるのかもしれない。
そう考えかけたとき、もう一通メッセージが届いた。
『陽真』
『何?』
『明日、少し早く大学に来られる?』
『どうして?』
『あなたに見せたいものがあるの』
俺は画面を見つめた。
『……わかった』
送信して、スマートフォンを置く。
美雪は、何を見せようとしているのだろう。
その答えは、まだわからない。
ただ、明日が少しだけ気になった。
昨夜のメッセージ。
今日の噂。
そして、美雪が俺に見せたいもの。
それぞれは別の出来事のようでいて、どこかでつながっている気がした。
美雪は、俺を知ろうとしている。
俺もまた、美雪のことを知ろうとしている。
けれど、知れば知るほど、今まで見えていなかったものが見えてくる。
それが、俺たちを近づけるのか。
それとも、さらに遠ざけるのか。
今はまだ、わからない。
恋人役を演じるには、俺たちの距離は近すぎる。
そして――。
心の距離は、まだ遠すぎた。
* * *
その夜。
翔也は、自分の部屋でスマートフォンを手に取っていた。
画面には、以前届いた一通のメッセージが残っていた。
送り主の名前を見て、翔也は小さく息を吐いた。
「……まさか、今になって」
画面を閉じようとして、指が止まった。
陽真には、まだ話していない。
美雪にも、話すべきかどうか分からない。
けれど、このまま何もなかったことにはできない気がした。
「……どうするべきかな」
翔也はもう一度、メッセージを開いた。
そして、静かに呟いた。
「陽真……お前、これを知ったらどうするんだろうな」
そのメッセージが、三人の関係をどう変えていくのか。
まだ、誰にも分からなかった。
第12話 完




