↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君の身体で、君に恋をした。』 ――入れ替わった僕たちが、本当の愛を見つけるまで――  作者: 綾小路如月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/20

第13話 君が隠していた、小さな宝物

 水曜日の朝、午前七時。


 俺――黒瀬陽真は、大学の正門前でスマートフォンを確認していた。


『もう着いた?』


 美雪からのメッセージだった。


『着いた。どこにいる?』


『図書館の裏』


 ……図書館の裏?


 いったい、何があるんだろう。


 少し首をかしげながら、俺はキャンパスの中を歩き始めた。


 朝の大学は、まだ人が少ない。


 普段なら学生たちでにぎわう道も、今は静かだった。朝の澄んだ空気の中、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。


 図書館の裏へ回ると、春馬の身体をした美雪が立っていた。


「おはよう」


「おはよう。それで、俺に見せたいものって?」


 美雪はすぐには答えなかった。


 代わりに、建物の脇に置かれた小さなベンチを指さした。


「少し座らない?」


「……うん」


 俺たちは並んでベンチに腰を下ろした。


 美雪は鞄を開け、中から一通の古びた封筒を取り出した。


 角は少し折れ、表面には細かな傷がついている。長い間、大切に保管されていたものらしい。


「これ、何?」


「高校時代のもの」


「高校?」


「うん。高校二年生のとき。大阪にいた頃の話」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がかすかにざわついた。


 高校二年生。


 俺が美雪に告白して、振られた頃だ。


「……どうして、今になってそれを?」


 美雪は封筒を見つめたまま、静かに答えた。


「昨日、部屋を整理していたら見つけたの。あなたにも関係のあるものだから、見せておこうと思って」


「俺に?」


「ううん。今の私にも、関係があるものだから」


 そう言って、美雪は封筒を開いた。


 中から出てきたのは、一枚の写真だった。


 制服姿の美雪と桜。それから、何人かのクラスメートが笑顔で並んでいる。


 写真の端には、少し離れた場所でピースサインをしている俺の姿もあった。


「……あ」


 思わず声が漏れた。


 忘れるはずがない。


 高校時代の文化祭の日に撮った写真だ。


 あの日、俺はクラスの出し物の準備に追われていた。写真に入るつもりなんてなかったのに、蓮に無理やり引っ張られ、気づけばみんなと一緒に写っていた。


 そのときの俺は、隣に立つ美雪をまともに見ることさえできなかった。


 好きだという気持ちを、知られるのが怖かったからだ。


「これ、覚えてる?」


 美雪が尋ねた。


「もちろん」


「私も、ずっと持っていたの」


「……どうして?」


 美雪は少し困ったように笑った。


「どうしてだろうね」


 そう言いながら、彼女は写真の表面をそっと指でなぞった。


「当時の私は、毎日いろんなことに追われていたの。勉強も、家のことも、お父さんの期待も。何か一つでも失敗すると、もっと頑張らなきゃって思っていた」


「……そっか」


「でも、文化祭の日は少し違った」


 美雪は写真に写るみんなの顔を、ゆっくりと見つめた。


「クラスのみんなが楽しそうで、桜も笑っていて……あなたも、ずっと走り回っていたでしょう?」


「ああ。人手が足りなかったからな」


「何度も荷物を運んだり、困っている人を手伝ったりしていたよね。誰かに頼まれたわけでもないのに」


「……困っている人がいたら、手伝うだろ。普通」


 そう答えると、美雪は俺の顔をじっと見た。


「そういうところが、あなたらしいんだね」


「え?」


「私は、あの頃からあなたのそういうところを知っていたのかもしれない」


 不意に、心臓が大きく跳ねた。


 美雪は、そんな俺の反応に気づいているのかいないのか、静かに話を続けた。


「でも、ちゃんと見ようとはしていなかった」


 彼女の声が、ほんの少しだけ沈んだ。


「あなたが私を好きだったことは知っていた。でも、あなたがどんな人なのか、どんな気持ちで私を見ていたのか……私は、ちゃんと考えたことがなかった」


「美雪……」


「だから、今は知りたいの」


 美雪は写真を封筒に戻し、俺のほうを向いた。


「あなたが何を考えて、何を我慢して、どうしていつも平気そうに笑っていられるのか。もっと、あなたのことを知りたい」


 俺は返事をしようとした。


 けれど、言葉が出てこなかった。


 ずっと欲しかった言葉だった。


 美雪に、自分のことを理解してほしかった。


 俺がどんな気持ちで彼女を見つめていたのか。何を考え、何に傷つき、それでもどうして彼女の前では笑おうとしていたのか。


 本当は、ずっと知ってほしかった。


 それなのに。


 今、目の前にいる美雪は、俺の身体で俺の生活を送っている。


 彼女が俺を理解しようとしてくれているのは、入れ替わりという奇妙な出来事があったからだ。


 もし、俺たちが元の身体のままだったら。


 もし、こんなことが起きていなかったら。


 彼女は今も、俺のことなんて気に留めなかったかもしれない。


 そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。


「……俺だって、まだ美雪のことを全部知っているわけじゃないよ」


 ようやく、それだけ言えた。


「だからさ。お互いに、少しずつ知っていけばいいんじゃないかな」


 美雪は一瞬、驚いたように目を見開いた。


 それから、ゆっくりと笑った。


「……そうね」


 その笑顔を見て、俺も自然と笑っていた。


 以前なら、こんなふうに二人で過去の話をすることなんて考えられなかった。


 少なくとも、俺にとって美雪は、ずっと手の届かない存在だったから。


 けれど今は、こうして隣に座り、同じ写真を見つめながら話をしている。


 不思議なものだ。


 望んでいた距離に近づけたはずなのに、今の俺たちは、本当の意味ではまだ向き合えていない。


 それでも。


 いつか、この時間が終わる日が来たとしても。


 今、こうして話したことまで、なかったことにはしたくなかった。


「そろそろ行こうか。講義に遅れたら大変だもの」


 美雪が立ち上がった。


「ああ、そうだな」


 俺もベンチから腰を上げた。


 歩き出す前に、もう一度だけ、彼女の手にある封筒を見た。


 高校時代の俺は、今よりずっと不器用だった。


 そして、美雪もまた、今よりずっと遠い存在だった。


 あの頃には戻れない。


 けれど、あの頃にはできなかったことが、今ならできるかもしれない。


 そんな気がした。


     * * *


 午前十時。


 講義が終わり、廊下に出たところで、俺は蓮に呼び止められた。


「美雪!」


「……今度は何だよ」


「お前、今日の放課後、時間ある?」


「演劇サークルの練習だろ?」


「その前に、ちょっと相談したいことがあるんだ」


 蓮は、いつもの軽い笑顔とは少し違う、真剣な表情をしていた。


「相談?」


「うん。実は、親父から連絡があってさ」


「お父さん?」


「今度、大学の演劇サークルと、ある企業が一緒にイベントをやるらしいんだ。若い人向けの映像企画で、学生の出演者も探しているんだって」


「へえ……」


「それで、俺に出演してみないかって話が来た」


 蓮は少し照れくさそうに頭をかいた。


「俺、将来は本格的に俳優を目指したいんだ。だから、こういう機会は大切にしたいと思ってる」


 その目には、普段のふざけた様子からは想像できないほど、真剣な熱意が宿っていた。


 蓮はいつも明るくて、誰とでも気軽に話せるやつだ。


 けれど、演技に関しては誰よりも真剣だった。


 稽古中も、自分が納得できるまで何度も台詞を練習している。


 そんな蓮だからこそ、この話を聞いたときの気持ちは、きっと俺が想像する以上に大きいのだろう。


「いいじゃん。蓮なら、きっとできるよ」


「……本当に?」


「お前、演技が好きだろ。それに、人を楽しませるのも得意だし」


 そう言うと、蓮は少し目を丸くした。


 やがて、照れたように笑う。


「……美雪にそう言われると、なんか自信が出るな」


 その笑顔を見ていると、俺までうれしくなった。


 蓮は、俺にとって大切な仲間だ。


 こいつが本気で夢を追いかけるなら、できる限り応援してやりたい。


 ……たとえ今、俺が美雪の身体に入っていたとしても。


「でもさ」


 蓮が、突然こちらに顔を近づけてきた。


「一つ、条件があるんだ」


「条件?」


「お前も一緒に出演してほしい」


「…………は?」


「だって、今のお前の演技、すごくいいんだよ。昨日の稽古を見た代表も、そう言ってたし」


「いや、俺は……」


「頼む!」


 蓮は両手を合わせた。


「俺一人じゃ、ちょっと不安なんだ。お前が一緒なら、もっといいものが作れると思う」


 俺は思わず言葉に詰まった。


 美雪の身体で、勝手に映像企画へ出演するわけにはいかない。


 しかも、今回の話は、ただのサークル活動とは違う。将来の仕事につながる可能性だってある。


 そんな大事なことを、本人に確認せずに決めるわけにはいかなかった。


「……少し考えさせてくれ」


「おっ、前向きに考えてくれる?」


「まだ何も言ってないだろ!」


 蓮は楽しそうに笑いながら、俺の肩を軽くたたいた。


「期待してるぜ、主演女優!」


「だから、勝手に決めるな!」


 思わず声が大きくなった。


 すれ違った学生が、驚いたようにこちらを振り返る。


 俺は慌てて口を閉じた。


 ……もう、この大学で静かに過ごすのは無理なのかもしれない。


     * * *


 昼休み。


 美雪は、陽真の身体で大学の食堂にいた。


 向かいの席には、翔也が座っている。


「なあ、陽真」


「何?」


「お前、最近、女の子に優しくなった?」


「……は?」


 美雪は箸を止めた。


「何の話?」


「いや、前から優しかったけどさ。最近、特にそう感じるんだよ」


 翔也は味噌汁を一口飲んでから、話を続けた。


「この前も、困ってた一年生を助けてただろ?」


「……そうなの?」


「そうなの、って、お前のことだろ!」


 しまった。


 美雪は慌てて取り繕った。


「ああ、あれね。別に、大したことじゃないよ」


「そういうところだよ」


 翔也は、呆れたように笑った。


「お前って、自分がしたことを大したことじゃないって言うんだよな」


 美雪は、何も言えなくなった。


 自分のことではないはずなのに、なぜか胸の奥が痛んだ。


 陽真は、自分の優しさを当たり前のことだと思っている。


 誰かに感謝されても、照れくさそうにごまかす。


 困っている人を助けても、それを特別なことだとは思わない。


 そんな彼だからこそ、これまで何度も、自分の気持ちを後回しにしてきたのかもしれない。


「……翔也」


「ん?」


「陽真って、昔からあんな感じだったの?」


 翔也は少し考えてから、懐かしそうに笑った。


「そうだな。高校の頃から変わらないよ」


 その笑顔が、少しだけ曇った。


「ただ、昔はもっと無理して笑ってた気がする」


「……無理して?」


「うん。つらいことがあっても、平気な顔をするんだ。俺が何度聞いても、『大丈夫』って言うだけでさ」


 翔也は箸を置いた。


「だから、今でもたまに心配になるんだよ。あいつ、本当に大丈夫なのかなって」


 美雪は、箸を握る手にそっと力を込めた。


 陽真の笑顔。


 それが、いつも本心からのものとは限らない。


 彼は、自分が傷ついていることを隠してきた。


 誰かに心配をかけたくなかったからだろうか。


 それとも、弱い自分を見せるのが怖かったのだろうか。


 あるいは、自分の苦しみを言葉にする方法さえ、わからなかったのかもしれない。


 美雪には、まだわからない。


 陽真がどんな思いで過ごしてきたのか。


 何を我慢し、何を諦め、それでも何を守ろうとしてきたのか。


 けれど、少しずつ見えてきたものがある。


 彼は、ただ優しいだけの人ではない。


 誰かのために笑いながら、自分の痛みを胸の奥にしまい込んでしまう人なのだ。


「……そっか」


 美雪は、小さくつぶやいた。


 翔也が不思議そうに顔を上げる。


「どうした?」


「ううん。何でもない」


 美雪は、そっと笑った。


 今度は、陽真の笑顔をまねるのではなく、自分の気持ちから生まれた笑顔だった。


「陽真って、いい友達を持ってるんだね」


 翔也は一瞬きょとんとした。


 それから、照れくさそうに笑った。


「まあな。俺にとっては、大切な親友だから」


 その言葉を聞いたとき、美雪の胸に温かなものが広がった。


 陽真は、一人ではなかった。


 彼を心配し、気にかけてくれる人がいる。


 それなのに、陽真自身は、その人たちに頼ることが苦手なのかもしれない。


 だったら。


 いつか陽真が、自分の弱さを誰かに見せられるようになるまで。


 誰かに助けてほしいと、素直に言えるようになるまで。


 自分も、彼のそばにいたい。


 そう思った。


 それが今の自分にできることなら、少しずつでもやってみたい。


     * * *


 夕方。


 演劇サークルの稽古場には、いつもより熱気が満ちていた。


「じゃあ、次は告白のシーンからいこう!」


 代表の声が響く。


 俺は台本を確認し、蓮の前に立った。


 今回の場面は、長年友人だった女性に、青年が自分の気持ちを伝えるシーンだ。


 つまり、俺が演じるのは、告白される側の女性。


 そして、告白する側は蓮だった。


「準備はいいか?」


 蓮が小声で尋ねてきた。


「……うん」


「昨日の続きみたいなもんだ。気楽にやろうぜ」


「気楽にできる内容じゃないだろ……」


「ははっ!」


 蓮はいつものように笑った。


 その笑顔を見ていると、少しだけ緊張が和らいだ。


 やがて、代表が手を上げる。


「それじゃあ、スタート!」


 蓮の表情が変わった。


 いつもの明るい青年ではない。


 何年も自分の気持ちを胸の奥にしまい込み、伝えられないまま過ごしてきた青年の顔だった。


「……ずっと、言えなかったことがある」


 俺は、台本どおりに目を伏せた。


「何?」


「お前と一緒にいるのが、当たり前になっていた。でも、ある日、気づいたんだ」


 蓮が一歩近づく。


「お前がほかの誰かと笑っているのを見ると、胸が苦しくなる」


 その声は、驚くほど真剣だった。


「お前が幸せなら、それでいいと思っていた。でも、本当は……俺の隣で笑ってほしかった」


 胸が、どくんと鳴った。


 台本の台詞だ。


 演技だ。


 そんなことは、わかっている。


 それなのに、どうしてこんなにも心が揺れるのだろう。


 蓮は、俺の目をまっすぐに見つめた。


「好きだ」


 短い言葉だった。


 けれど、そこには何年分もの思いが詰まっているように感じた。


 俺は、次の台詞を思い出そうとした。


 しかし、その瞬間、頭の中が真っ白になった。


 脳裏によみがえったのは、高校時代の記憶だった。


 ずっと好きだった人に、勇気を振り絞って気持ちを伝えた。


 そして、断られた。


 あの日、胸の奥に残った痛み。


 もう忘れたと思っていたのに、今でもこんなに鮮明に思い出せる。


 あのときの自分は、どんな顔をしていたのだろう。


 どんな気持ちで、相手の言葉を聞いていたのだろう。


 考えたくないのに、記憶は勝手によみがえってくる。


「……ごめん」


 気づけば、台本にはない言葉が口からこぼれていた。


 稽古場が静まり返った。


 蓮の表情が、ほんのわずかに揺れた。


 俺は、はっとして台本に目を落とした。


 違う。


 これは演技だ。


 今の俺は、美雪の身体で、美雪としてこの役を演じている。


 俺の過去と、目の前の場面は別のものだ。


 そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を吸った。


 そして、もう一度、蓮の顔を見た。


「……でも、あなたの気持ちは、ちゃんと受け取ったから」


 台本の台詞に戻る。


「だから、今は……少しだけ、時間をください」


 蓮は、静かにうなずいた。


「わかった。待ってる」


 その瞬間、代表の声が稽古場に響いた。


「カット! ……今の、すごくよかった!」


 部員たちから拍手が起こった。


「二人とも、感情がすごく自然だった!」


「特に最後の間! あれ、台本にあったっけ?」


「……なかったです」


 俺が正直に答えると、代表は驚いたように目を見開いた。


 それから、うれしそうに笑った。


「そうか。なら、そのまま採用しよう。台本の言葉だけじゃ伝わらない感情が、今の演技にはあった」


「えっ!?」


「次の稽古でも、今の感覚を大切にしてみてくれ」


 俺は思わず蓮を見た。


 蓮もこちらを見ていた。


 そして、いつもの笑顔で言った。


「やったな、美雪」


「……うん」


 俺は笑い返した。


 けれど、胸の奥には、まだ消えない感情が残っていた。


 演技の中で言われた「好きだ」という言葉。


 それだけで、こんなにも心が揺れてしまう自分。


 俺は、一体何を恐れているのだろう。


 もう誰かを好きになることが怖いのか。


 それとも、誰かに好きだと言われることを、心のどこかで期待しているのか。


 答えは出なかった。


 ただ一つ、確かなことがある。


 俺はまだ、あの日の気持ちを完全には乗り越えられていない。


     * * *


 夜。


 帰宅した俺は、鞄を置くなりスマートフォンを手に取った。


 そして、美雪にメッセージを送った。


『今日、稽古で変なことがあった』


 少しして、返信が届いた。


『何があったの?』


『告白のシーンで、台本にない言葉を言っちゃった』


『どんな言葉?』


 俺は、しばらく画面を見つめた。


 何と答えればいいのだろう。


 こんなことを話したら、彼女を困らせてしまうかもしれない。


 それでも、今日は誰かに聞いてほしかった。


 俺は、正直に打ち込んだ。


『「ごめん」って』


 送信したあと、スマートフォンを握りしめた。


 返信は、すぐには来なかった。


 一分。


 二分。


 たったそれだけの時間なのに、ひどく長く感じられた。


 やがて、画面が光った。


『……つらかった?』


 その一言を、俺は何度も読み返した。


 どうしてだろう。


 たった四文字なのに、胸の奥にしまい込んでいたものに、そっと触れられたような気がした。


『少しだけ』


 そう送ると、今度はすぐに返事が届いた。


『そっか』


 短い言葉だった。


 けれど、そのあとに続いたメッセージを見て、俺は息を止めた。


『陽真。あなたが誰かを好きになったことは、間違いじゃないよ』


 目の奥が熱くなった。


『たとえ相手があなたを好きにならなかったとしても、あなたの気持ちまで間違いになるわけじゃない』


 俺は、スマートフォンを強く握りしめた。


 高校時代、誰にも言えなかったこと。


 自分でも認めたくなかったこと。


 あのときの自分は、ただ相手に振られたことが悲しかったわけじゃない。


 自分の気持ちを伝えたことで、何かが変わってしまうのが怖かった。


 好きだと伝えなければ、少なくとも、それまでの関係は続いていたのかもしれない。


 そんな後悔を、何度も繰り返してきた。


 けれど、美雪は今、俺の気持ちそのものを否定しなくていいのだと言ってくれている。


 俺がずっと欲しかった言葉を。


 今まで、誰からも聞けなかった言葉を。


 美雪が、俺に届けてくれた。


『……ありがとう』


 それだけ送るのが精いっぱいだった。


 少しして、またメッセージが届いた。


『明日も、ちゃんと大学に来てね』


 思わず、小さな笑みがこぼれた。


『当たり前だろ』


『なら、よかった』


 そこで会話は終わった。


 俺はスマートフォンを置き、窓の外を眺めた。


 東京の夜景が、遠くまで広がっている。


 明日も大学へ行く。


 蓮と稽古をする。


 翔也と話す。


 そして、美雪と少しずつ、お互いのことを知っていく。


 特別なことなんて、何もない。


 それでも、そんな毎日が、今は少しだけ楽しみだった。


 ただ、俺はまだ知らない。


 美雪もまた、俺の身体で過ごす毎日の中で、少しずつ変わり始めていることを。


 そして、いつか俺たちが元の身体に戻ったとき。


 この奇妙な時間が、二人にとって、かけがえのない思い出になっていることを。


     * * *


 その頃。


 翔也は、自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。


 画面には、以前届いた一通のメッセージが表示されている。


 送り主の名前を見るたび、胸の奥が落ち着かなくなる。


「……まさか、今になって」


 画面を閉じようとした。


 けれど、指が止まった。


 陽真には、まだ話していない。


 美雪にも、話すべきかどうか分からない。


 ただ、このまま何もなかったことにはできない気がしていた。


 翔也は、ゆっくりと息を吐いた。


「……どうするべきかな」


 もう一度、メッセージを開く。


 そこに書かれた言葉を見つめながら、彼は小さくつぶやいた。


「陽真……お前、これを知ったらどうするんだろうな」


 スマートフォンの画面には、今もそのメッセージが残っていた。


 翔也は、まだ決断できずにいた。


 けれど、その秘密がいつまでも隠されたままでいられるとは、思えなかった。


 やがて明らかになる真実は、陽真と美雪、そして翔也自身の関係を、大きく変えることになるのかもしれない。


 そのとき、三人は何を選ぶのだろう。


 まだ、誰にも分からなかった。


     * * *


 恋人のように振る舞うことは、少しずつ上手になってきた。


 けれど、本当の気持ちを伝えることは、まだ難しい。


 近づいたと思えば、また分からなくなる。


 知りたいと思うほど、知らなかった過去が見えてくる。


 それでも、二人は少しずつ歩き始めていた。


 互いの知らなかった一面を知りながら。


 互いの痛みを、少しずつ理解しながら。


 そして、いつか本当の自分として向き合える日を、まだ知らないまま待ち続けていた。


第13話 終

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。