第13話 君が隠していた、小さな宝物
水曜日の朝、午前七時。
俺――黒瀬陽真は、大学の正門前でスマートフォンを確認していた。
『もう着いた?』
美雪からのメッセージだった。
『着いた。どこにいる?』
『図書館の裏』
……図書館の裏?
いったい、何があるんだろう。
少し首をかしげながら、俺はキャンパスの中を歩き始めた。
朝の大学は、まだ人が少ない。
普段なら学生たちでにぎわう道も、今は静かだった。朝の澄んだ空気の中、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。
図書館の裏へ回ると、春馬の身体をした美雪が立っていた。
「おはよう」
「おはよう。それで、俺に見せたいものって?」
美雪はすぐには答えなかった。
代わりに、建物の脇に置かれた小さなベンチを指さした。
「少し座らない?」
「……うん」
俺たちは並んでベンチに腰を下ろした。
美雪は鞄を開け、中から一通の古びた封筒を取り出した。
角は少し折れ、表面には細かな傷がついている。長い間、大切に保管されていたものらしい。
「これ、何?」
「高校時代のもの」
「高校?」
「うん。高校二年生のとき。大阪にいた頃の話」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がかすかにざわついた。
高校二年生。
俺が美雪に告白して、振られた頃だ。
「……どうして、今になってそれを?」
美雪は封筒を見つめたまま、静かに答えた。
「昨日、部屋を整理していたら見つけたの。あなたにも関係のあるものだから、見せておこうと思って」
「俺に?」
「ううん。今の私にも、関係があるものだから」
そう言って、美雪は封筒を開いた。
中から出てきたのは、一枚の写真だった。
制服姿の美雪と桜。それから、何人かのクラスメートが笑顔で並んでいる。
写真の端には、少し離れた場所でピースサインをしている俺の姿もあった。
「……あ」
思わず声が漏れた。
忘れるはずがない。
高校時代の文化祭の日に撮った写真だ。
あの日、俺はクラスの出し物の準備に追われていた。写真に入るつもりなんてなかったのに、蓮に無理やり引っ張られ、気づけばみんなと一緒に写っていた。
そのときの俺は、隣に立つ美雪をまともに見ることさえできなかった。
好きだという気持ちを、知られるのが怖かったからだ。
「これ、覚えてる?」
美雪が尋ねた。
「もちろん」
「私も、ずっと持っていたの」
「……どうして?」
美雪は少し困ったように笑った。
「どうしてだろうね」
そう言いながら、彼女は写真の表面をそっと指でなぞった。
「当時の私は、毎日いろんなことに追われていたの。勉強も、家のことも、お父さんの期待も。何か一つでも失敗すると、もっと頑張らなきゃって思っていた」
「……そっか」
「でも、文化祭の日は少し違った」
美雪は写真に写るみんなの顔を、ゆっくりと見つめた。
「クラスのみんなが楽しそうで、桜も笑っていて……あなたも、ずっと走り回っていたでしょう?」
「ああ。人手が足りなかったからな」
「何度も荷物を運んだり、困っている人を手伝ったりしていたよね。誰かに頼まれたわけでもないのに」
「……困っている人がいたら、手伝うだろ。普通」
そう答えると、美雪は俺の顔をじっと見た。
「そういうところが、あなたらしいんだね」
「え?」
「私は、あの頃からあなたのそういうところを知っていたのかもしれない」
不意に、心臓が大きく跳ねた。
美雪は、そんな俺の反応に気づいているのかいないのか、静かに話を続けた。
「でも、ちゃんと見ようとはしていなかった」
彼女の声が、ほんの少しだけ沈んだ。
「あなたが私を好きだったことは知っていた。でも、あなたがどんな人なのか、どんな気持ちで私を見ていたのか……私は、ちゃんと考えたことがなかった」
「美雪……」
「だから、今は知りたいの」
美雪は写真を封筒に戻し、俺のほうを向いた。
「あなたが何を考えて、何を我慢して、どうしていつも平気そうに笑っていられるのか。もっと、あなたのことを知りたい」
俺は返事をしようとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
ずっと欲しかった言葉だった。
美雪に、自分のことを理解してほしかった。
俺がどんな気持ちで彼女を見つめていたのか。何を考え、何に傷つき、それでもどうして彼女の前では笑おうとしていたのか。
本当は、ずっと知ってほしかった。
それなのに。
今、目の前にいる美雪は、俺の身体で俺の生活を送っている。
彼女が俺を理解しようとしてくれているのは、入れ替わりという奇妙な出来事があったからだ。
もし、俺たちが元の身体のままだったら。
もし、こんなことが起きていなかったら。
彼女は今も、俺のことなんて気に留めなかったかもしれない。
そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……俺だって、まだ美雪のことを全部知っているわけじゃないよ」
ようやく、それだけ言えた。
「だからさ。お互いに、少しずつ知っていけばいいんじゃないかな」
美雪は一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そうね」
その笑顔を見て、俺も自然と笑っていた。
以前なら、こんなふうに二人で過去の話をすることなんて考えられなかった。
少なくとも、俺にとって美雪は、ずっと手の届かない存在だったから。
けれど今は、こうして隣に座り、同じ写真を見つめながら話をしている。
不思議なものだ。
望んでいた距離に近づけたはずなのに、今の俺たちは、本当の意味ではまだ向き合えていない。
それでも。
いつか、この時間が終わる日が来たとしても。
今、こうして話したことまで、なかったことにはしたくなかった。
「そろそろ行こうか。講義に遅れたら大変だもの」
美雪が立ち上がった。
「ああ、そうだな」
俺もベンチから腰を上げた。
歩き出す前に、もう一度だけ、彼女の手にある封筒を見た。
高校時代の俺は、今よりずっと不器用だった。
そして、美雪もまた、今よりずっと遠い存在だった。
あの頃には戻れない。
けれど、あの頃にはできなかったことが、今ならできるかもしれない。
そんな気がした。
* * *
午前十時。
講義が終わり、廊下に出たところで、俺は蓮に呼び止められた。
「美雪!」
「……今度は何だよ」
「お前、今日の放課後、時間ある?」
「演劇サークルの練習だろ?」
「その前に、ちょっと相談したいことがあるんだ」
蓮は、いつもの軽い笑顔とは少し違う、真剣な表情をしていた。
「相談?」
「うん。実は、親父から連絡があってさ」
「お父さん?」
「今度、大学の演劇サークルと、ある企業が一緒にイベントをやるらしいんだ。若い人向けの映像企画で、学生の出演者も探しているんだって」
「へえ……」
「それで、俺に出演してみないかって話が来た」
蓮は少し照れくさそうに頭をかいた。
「俺、将来は本格的に俳優を目指したいんだ。だから、こういう機会は大切にしたいと思ってる」
その目には、普段のふざけた様子からは想像できないほど、真剣な熱意が宿っていた。
蓮はいつも明るくて、誰とでも気軽に話せるやつだ。
けれど、演技に関しては誰よりも真剣だった。
稽古中も、自分が納得できるまで何度も台詞を練習している。
そんな蓮だからこそ、この話を聞いたときの気持ちは、きっと俺が想像する以上に大きいのだろう。
「いいじゃん。蓮なら、きっとできるよ」
「……本当に?」
「お前、演技が好きだろ。それに、人を楽しませるのも得意だし」
そう言うと、蓮は少し目を丸くした。
やがて、照れたように笑う。
「……美雪にそう言われると、なんか自信が出るな」
その笑顔を見ていると、俺までうれしくなった。
蓮は、俺にとって大切な仲間だ。
こいつが本気で夢を追いかけるなら、できる限り応援してやりたい。
……たとえ今、俺が美雪の身体に入っていたとしても。
「でもさ」
蓮が、突然こちらに顔を近づけてきた。
「一つ、条件があるんだ」
「条件?」
「お前も一緒に出演してほしい」
「…………は?」
「だって、今のお前の演技、すごくいいんだよ。昨日の稽古を見た代表も、そう言ってたし」
「いや、俺は……」
「頼む!」
蓮は両手を合わせた。
「俺一人じゃ、ちょっと不安なんだ。お前が一緒なら、もっといいものが作れると思う」
俺は思わず言葉に詰まった。
美雪の身体で、勝手に映像企画へ出演するわけにはいかない。
しかも、今回の話は、ただのサークル活動とは違う。将来の仕事につながる可能性だってある。
そんな大事なことを、本人に確認せずに決めるわけにはいかなかった。
「……少し考えさせてくれ」
「おっ、前向きに考えてくれる?」
「まだ何も言ってないだろ!」
蓮は楽しそうに笑いながら、俺の肩を軽くたたいた。
「期待してるぜ、主演女優!」
「だから、勝手に決めるな!」
思わず声が大きくなった。
すれ違った学生が、驚いたようにこちらを振り返る。
俺は慌てて口を閉じた。
……もう、この大学で静かに過ごすのは無理なのかもしれない。
* * *
昼休み。
美雪は、陽真の身体で大学の食堂にいた。
向かいの席には、翔也が座っている。
「なあ、陽真」
「何?」
「お前、最近、女の子に優しくなった?」
「……は?」
美雪は箸を止めた。
「何の話?」
「いや、前から優しかったけどさ。最近、特にそう感じるんだよ」
翔也は味噌汁を一口飲んでから、話を続けた。
「この前も、困ってた一年生を助けてただろ?」
「……そうなの?」
「そうなの、って、お前のことだろ!」
しまった。
美雪は慌てて取り繕った。
「ああ、あれね。別に、大したことじゃないよ」
「そういうところだよ」
翔也は、呆れたように笑った。
「お前って、自分がしたことを大したことじゃないって言うんだよな」
美雪は、何も言えなくなった。
自分のことではないはずなのに、なぜか胸の奥が痛んだ。
陽真は、自分の優しさを当たり前のことだと思っている。
誰かに感謝されても、照れくさそうにごまかす。
困っている人を助けても、それを特別なことだとは思わない。
そんな彼だからこそ、これまで何度も、自分の気持ちを後回しにしてきたのかもしれない。
「……翔也」
「ん?」
「陽真って、昔からあんな感じだったの?」
翔也は少し考えてから、懐かしそうに笑った。
「そうだな。高校の頃から変わらないよ」
その笑顔が、少しだけ曇った。
「ただ、昔はもっと無理して笑ってた気がする」
「……無理して?」
「うん。つらいことがあっても、平気な顔をするんだ。俺が何度聞いても、『大丈夫』って言うだけでさ」
翔也は箸を置いた。
「だから、今でもたまに心配になるんだよ。あいつ、本当に大丈夫なのかなって」
美雪は、箸を握る手にそっと力を込めた。
陽真の笑顔。
それが、いつも本心からのものとは限らない。
彼は、自分が傷ついていることを隠してきた。
誰かに心配をかけたくなかったからだろうか。
それとも、弱い自分を見せるのが怖かったのだろうか。
あるいは、自分の苦しみを言葉にする方法さえ、わからなかったのかもしれない。
美雪には、まだわからない。
陽真がどんな思いで過ごしてきたのか。
何を我慢し、何を諦め、それでも何を守ろうとしてきたのか。
けれど、少しずつ見えてきたものがある。
彼は、ただ優しいだけの人ではない。
誰かのために笑いながら、自分の痛みを胸の奥にしまい込んでしまう人なのだ。
「……そっか」
美雪は、小さくつぶやいた。
翔也が不思議そうに顔を上げる。
「どうした?」
「ううん。何でもない」
美雪は、そっと笑った。
今度は、陽真の笑顔をまねるのではなく、自分の気持ちから生まれた笑顔だった。
「陽真って、いい友達を持ってるんだね」
翔也は一瞬きょとんとした。
それから、照れくさそうに笑った。
「まあな。俺にとっては、大切な親友だから」
その言葉を聞いたとき、美雪の胸に温かなものが広がった。
陽真は、一人ではなかった。
彼を心配し、気にかけてくれる人がいる。
それなのに、陽真自身は、その人たちに頼ることが苦手なのかもしれない。
だったら。
いつか陽真が、自分の弱さを誰かに見せられるようになるまで。
誰かに助けてほしいと、素直に言えるようになるまで。
自分も、彼のそばにいたい。
そう思った。
それが今の自分にできることなら、少しずつでもやってみたい。
* * *
夕方。
演劇サークルの稽古場には、いつもより熱気が満ちていた。
「じゃあ、次は告白のシーンからいこう!」
代表の声が響く。
俺は台本を確認し、蓮の前に立った。
今回の場面は、長年友人だった女性に、青年が自分の気持ちを伝えるシーンだ。
つまり、俺が演じるのは、告白される側の女性。
そして、告白する側は蓮だった。
「準備はいいか?」
蓮が小声で尋ねてきた。
「……うん」
「昨日の続きみたいなもんだ。気楽にやろうぜ」
「気楽にできる内容じゃないだろ……」
「ははっ!」
蓮はいつものように笑った。
その笑顔を見ていると、少しだけ緊張が和らいだ。
やがて、代表が手を上げる。
「それじゃあ、スタート!」
蓮の表情が変わった。
いつもの明るい青年ではない。
何年も自分の気持ちを胸の奥にしまい込み、伝えられないまま過ごしてきた青年の顔だった。
「……ずっと、言えなかったことがある」
俺は、台本どおりに目を伏せた。
「何?」
「お前と一緒にいるのが、当たり前になっていた。でも、ある日、気づいたんだ」
蓮が一歩近づく。
「お前がほかの誰かと笑っているのを見ると、胸が苦しくなる」
その声は、驚くほど真剣だった。
「お前が幸せなら、それでいいと思っていた。でも、本当は……俺の隣で笑ってほしかった」
胸が、どくんと鳴った。
台本の台詞だ。
演技だ。
そんなことは、わかっている。
それなのに、どうしてこんなにも心が揺れるのだろう。
蓮は、俺の目をまっすぐに見つめた。
「好きだ」
短い言葉だった。
けれど、そこには何年分もの思いが詰まっているように感じた。
俺は、次の台詞を思い出そうとした。
しかし、その瞬間、頭の中が真っ白になった。
脳裏によみがえったのは、高校時代の記憶だった。
ずっと好きだった人に、勇気を振り絞って気持ちを伝えた。
そして、断られた。
あの日、胸の奥に残った痛み。
もう忘れたと思っていたのに、今でもこんなに鮮明に思い出せる。
あのときの自分は、どんな顔をしていたのだろう。
どんな気持ちで、相手の言葉を聞いていたのだろう。
考えたくないのに、記憶は勝手によみがえってくる。
「……ごめん」
気づけば、台本にはない言葉が口からこぼれていた。
稽古場が静まり返った。
蓮の表情が、ほんのわずかに揺れた。
俺は、はっとして台本に目を落とした。
違う。
これは演技だ。
今の俺は、美雪の身体で、美雪としてこの役を演じている。
俺の過去と、目の前の場面は別のものだ。
そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を吸った。
そして、もう一度、蓮の顔を見た。
「……でも、あなたの気持ちは、ちゃんと受け取ったから」
台本の台詞に戻る。
「だから、今は……少しだけ、時間をください」
蓮は、静かにうなずいた。
「わかった。待ってる」
その瞬間、代表の声が稽古場に響いた。
「カット! ……今の、すごくよかった!」
部員たちから拍手が起こった。
「二人とも、感情がすごく自然だった!」
「特に最後の間! あれ、台本にあったっけ?」
「……なかったです」
俺が正直に答えると、代表は驚いたように目を見開いた。
それから、うれしそうに笑った。
「そうか。なら、そのまま採用しよう。台本の言葉だけじゃ伝わらない感情が、今の演技にはあった」
「えっ!?」
「次の稽古でも、今の感覚を大切にしてみてくれ」
俺は思わず蓮を見た。
蓮もこちらを見ていた。
そして、いつもの笑顔で言った。
「やったな、美雪」
「……うん」
俺は笑い返した。
けれど、胸の奥には、まだ消えない感情が残っていた。
演技の中で言われた「好きだ」という言葉。
それだけで、こんなにも心が揺れてしまう自分。
俺は、一体何を恐れているのだろう。
もう誰かを好きになることが怖いのか。
それとも、誰かに好きだと言われることを、心のどこかで期待しているのか。
答えは出なかった。
ただ一つ、確かなことがある。
俺はまだ、あの日の気持ちを完全には乗り越えられていない。
* * *
夜。
帰宅した俺は、鞄を置くなりスマートフォンを手に取った。
そして、美雪にメッセージを送った。
『今日、稽古で変なことがあった』
少しして、返信が届いた。
『何があったの?』
『告白のシーンで、台本にない言葉を言っちゃった』
『どんな言葉?』
俺は、しばらく画面を見つめた。
何と答えればいいのだろう。
こんなことを話したら、彼女を困らせてしまうかもしれない。
それでも、今日は誰かに聞いてほしかった。
俺は、正直に打ち込んだ。
『「ごめん」って』
送信したあと、スマートフォンを握りしめた。
返信は、すぐには来なかった。
一分。
二分。
たったそれだけの時間なのに、ひどく長く感じられた。
やがて、画面が光った。
『……つらかった?』
その一言を、俺は何度も読み返した。
どうしてだろう。
たった四文字なのに、胸の奥にしまい込んでいたものに、そっと触れられたような気がした。
『少しだけ』
そう送ると、今度はすぐに返事が届いた。
『そっか』
短い言葉だった。
けれど、そのあとに続いたメッセージを見て、俺は息を止めた。
『陽真。あなたが誰かを好きになったことは、間違いじゃないよ』
目の奥が熱くなった。
『たとえ相手があなたを好きにならなかったとしても、あなたの気持ちまで間違いになるわけじゃない』
俺は、スマートフォンを強く握りしめた。
高校時代、誰にも言えなかったこと。
自分でも認めたくなかったこと。
あのときの自分は、ただ相手に振られたことが悲しかったわけじゃない。
自分の気持ちを伝えたことで、何かが変わってしまうのが怖かった。
好きだと伝えなければ、少なくとも、それまでの関係は続いていたのかもしれない。
そんな後悔を、何度も繰り返してきた。
けれど、美雪は今、俺の気持ちそのものを否定しなくていいのだと言ってくれている。
俺がずっと欲しかった言葉を。
今まで、誰からも聞けなかった言葉を。
美雪が、俺に届けてくれた。
『……ありがとう』
それだけ送るのが精いっぱいだった。
少しして、またメッセージが届いた。
『明日も、ちゃんと大学に来てね』
思わず、小さな笑みがこぼれた。
『当たり前だろ』
『なら、よかった』
そこで会話は終わった。
俺はスマートフォンを置き、窓の外を眺めた。
東京の夜景が、遠くまで広がっている。
明日も大学へ行く。
蓮と稽古をする。
翔也と話す。
そして、美雪と少しずつ、お互いのことを知っていく。
特別なことなんて、何もない。
それでも、そんな毎日が、今は少しだけ楽しみだった。
ただ、俺はまだ知らない。
美雪もまた、俺の身体で過ごす毎日の中で、少しずつ変わり始めていることを。
そして、いつか俺たちが元の身体に戻ったとき。
この奇妙な時間が、二人にとって、かけがえのない思い出になっていることを。
* * *
その頃。
翔也は、自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。
画面には、以前届いた一通のメッセージが表示されている。
送り主の名前を見るたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
「……まさか、今になって」
画面を閉じようとした。
けれど、指が止まった。
陽真には、まだ話していない。
美雪にも、話すべきかどうか分からない。
ただ、このまま何もなかったことにはできない気がしていた。
翔也は、ゆっくりと息を吐いた。
「……どうするべきかな」
もう一度、メッセージを開く。
そこに書かれた言葉を見つめながら、彼は小さくつぶやいた。
「陽真……お前、これを知ったらどうするんだろうな」
スマートフォンの画面には、今もそのメッセージが残っていた。
翔也は、まだ決断できずにいた。
けれど、その秘密がいつまでも隠されたままでいられるとは、思えなかった。
やがて明らかになる真実は、陽真と美雪、そして翔也自身の関係を、大きく変えることになるのかもしれない。
そのとき、三人は何を選ぶのだろう。
まだ、誰にも分からなかった。
* * *
恋人のように振る舞うことは、少しずつ上手になってきた。
けれど、本当の気持ちを伝えることは、まだ難しい。
近づいたと思えば、また分からなくなる。
知りたいと思うほど、知らなかった過去が見えてくる。
それでも、二人は少しずつ歩き始めていた。
互いの知らなかった一面を知りながら。
互いの痛みを、少しずつ理解しながら。
そして、いつか本当の自分として向き合える日を、まだ知らないまま待ち続けていた。
第13話 終




