第14話 君の夢を、僕が選んでもいいの?
四月、木曜日。
朝の講義が始まるまで、まだ少し時間があった。
俺――黒瀬春馬は、大学の掲示板の前で足を止めた。
昨日、蓮から聞いた話が、頭の片隅に残っていたからだ。
掲示板には、見覚えのあるタイトルが大きく掲げられていた。
『若者の青春を描くショートドラマ制作プロジェクト』
大学と映像制作会社が共同で進める企画らしい。
募集要項には、学生キャストをオーディションで選び、プロのスタッフとともに作品を制作すると書かれていた。完成した作品は、オンラインで公開される予定だという。
「……思っていたより、本格的なんだな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「だろ?」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、蓮がいつもの調子で笑っていた。
「昨日、親父から聞いた話が、もう少し詳しくわかったんだ。大学の演劇サークルにも、正式に出演の話が来てるらしいぜ」
「お前のお父さん、こういう仕事にも関わってるのか?」
「まあな。いろんな会社と仕事をしてるんだよ。今回の企画にも、少し関係してるらしい」
蓮は掲示板の募集要項に目を向けた。
「今回の企画は、将来、俳優を目指している学生にもチャンスを与えたいんだってさ。プロのスタッフも参加するらしいし、俺にとっては絶対に逃したくない機会なんだ」
その声には、いつもの軽さがなかった。
俺は、隣に立つ蓮を見た。
普段は誰よりも明るくて、冗談ばかり言っているこいつが、演技の話になると真剣な顔をすることを知っている。
稽古中も、納得できるまで何度も台詞を繰り返す。
自分の演技に迷いがあれば、周りが帰ったあとも残って練習を続ける。
そんな蓮が、どれほど本気で俳優を目指しているのか。
俺は、知っているつもりだった。
「……頑張れよ。俺も応援してる」
「ありがとう」
蓮は、少し照れくさそうに笑った。
それから、何かを思い出したようにこちらを向く。
「それでさ、美雪にも一緒に出てほしいんだ」
「……また、その話かよ」
思わず、いつもの口調が出そうになった。
危ない。
今の俺は、美雪の身体で生活しているのだ。
言葉遣いまで間違えたら、余計な疑いを招きかねない。
俺は小さく咳払いをした。
「……私は、まだ出演するって決めてないよ」
「わかってる。だから、ちゃんと考えてほしいんだ」
蓮はふざけることなく、まっすぐに俺を見つめた。
「昨日の稽古を見ていて思ったんだ。今のお前の演技には、人の心を動かすものがあるって」
「……」
「もちろん、俺だってまだまだだけどさ。それでも、お前と一緒なら、きっといい作品が作れると思う」
その言葉に、返事が詰まった。
昨日の稽古で、俺は台本にない言葉を口にした。
高校時代の記憶がよみがえり、思わず感情を抑えられなくなったのだ。
あれは、演技と呼べるものだったのだろうか。
それとも、ただ過去の痛みを思い出していただけなのか。
自分でも、よくわからない。
それでも、蓮はあの場面を評価してくれた。
そのことが、うれしくないわけではなかった。
「……少し、考えさせて」
「ああ。もちろん!」
蓮は、いつもの明るい笑顔に戻った。
「返事は急がなくていいからな。俺だって、いきなり決めろなんて言うつもりはないし」
「そうしてくれると助かるよ」
「おう!」
蓮は満足そうにうなずいた。
けれど、俺の胸の奥には、まだ迷いが残っていた。
この企画は、ただのサークル活動ではない。
美雪にとって、将来につながる大切な機会になるかもしれない。
そんなものを、俺が勝手に決めていいはずがなかった。
たとえ今、俺が彼女の身体で生活していたとしても。
彼女の人生は、彼女自身のものだ。
だからこそ、まずは本人と話さなければならない。
美雪が何を望んでいるのか。
この機会をどう受け止めるのか。
俺の考えだけで、答えを出すわけにはいかなかった。
――美雪。
君は、どうしたい?
心の中で問いかけても、答えが返ってくるはずはなかった。
俺はもう一度、掲示板を見上げた。
そこに書かれた募集要項は、さっきよりもずっと重いものに感じられた。
* * *
昼休み。
大学の図書館は、静かな空気に包まれていた。
窓際の席には、何人かの学生が座り、それぞれの勉強に集中している。
その一角で、美雪は一冊のノートを前に、じっと考え込んでいた。
黒い表紙の、使い込まれたノート。
ページの端には小さな折り目がつき、ところどころに書き直した跡が残っている。
それは、春馬の鞄の奥に入っていたものだった。
最初は、大学の講義で使うノートだと思っていた。
けれど、開いてみると、そこには授業とは関係のない文章が並んでいた。
『人は、誰かに必要とされることで、少しだけ強くなれる』
『どんなに小さな一歩でも、昨日の自分より前に進めたなら、それは失敗じゃない』
『いつか、自分の言葉で、誰かを救える人間になりたい』
美雪は、ページをめくる手を止めた。
「……何、これ」
思わず、小さな声が漏れた。
ノートの後半には、物語の構想が書かれていた。
登場人物の名前。
簡単なあらすじ。
途切れ途切れの会話。
そして、何度も書き直されたタイトル。
『明日、君が笑えるように』
美雪は、その文字をじっと見つめた。
春馬は、小説を書いていた。
しかも、最近始めたばかりというわけではないらしい。
最初のページには、高校一年生の秋の日付が記されていた。
「……知らなかった」
彼が、こんな夢を持っていたなんて。
いつも自分のことを後回しにして、困っている人を見つければ、当たり前のように手を差し伸べる。
つらいことがあっても、平気な顔をして笑う。
そんな彼が、誰かのために物語を書いていた。
自分の言葉で、誰かを救いたいと願っていた。
美雪は、もう一度、ノートに目を落とした。
昨日、翔也から聞いた言葉が、ふと頭をよぎる。
春馬は、昔から自分の気持ちを隠してきた。
苦しいときでさえ、周りには心配をかけまいとしていた。
もしかすると、このノートに書かれた夢も、誰にも話せずにいたものなのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が少し痛んだ。
どうして、話してくれなかったのだろう。
いや。
そもそも、自分は彼の話を聞こうとしたことがあっただろうか。
高校時代、春馬が自分を好きだったことは知っていた。
けれど、彼がどんなことを考え、何を大切にして生きていたのか。
そんなことを、真剣に知ろうとしたことはなかった。
自分のことで精いっぱいだったから。
周りの期待に応えることばかり考えていたから。
そう言い訳することはできる。
けれど、それで彼の気持ちを知らずにいたことが、なかったことになるわけではない。
「……ごめんね、春馬」
誰にも聞こえないほど小さな声で、そうつぶやいた。
もちろん、彼がここにいるわけではない。
それでも、謝らずにはいられなかった。
美雪はスマートフォンを取り出し、メッセージを打ち込んだ。
『春馬、あなたは小説を書いているの?』
そこまで入力して、指が止まった。
送信ボタンを押せなかった。
このノートを見つけたこと自体、彼に断りなく鞄の中を調べてしまった結果だ。
もしかすると、彼にとって誰にも知られたくない、大切なものなのかもしれない。
自分が勝手に踏み込んでいい場所ではない。
美雪は、入力した文章をそっと消した。
そして、ノートを閉じる。
いつか、春馬自身の口から聞きたい。
どうして物語を書き始めたのか。
どんな人に読んでほしいのか。
その物語を通して、何を伝えたいのか。
今度こそ、ちゃんと向き合いたかった。
彼の過去だけではなく、彼がこれから何を目指しているのかも知りたい。
そう思った。
* * *
午後四時。
演劇サークルの部室には、いつもより多くの学生が集まっていた。
前方には、大学の担当者と映像制作会社のスタッフが立っている。
机の上には、企画の説明資料が人数分並べられていた。
「それでは、今回のショートドラマ制作プロジェクトについて説明します」
大学の担当者が、穏やかな声で話し始めた。
「今回の作品では、若者の友情や恋愛、そして将来に対する不安を描きたいと考えています。出演者の皆さんには、台本を読むだけでなく、それぞれの経験や考えを演技に生かしていただければと思っています」
配布された資料には、制作スケジュールや選考方法が記されていた。
出演者はオーディションで決定される。
撮影は数日間にわたって行われ、完成した作品はオンラインで公開される予定だという。
蓮は、資料を真剣な表情で読み込んでいた。
「……すごいな」
その声には、期待と緊張が入り混じっていた。
説明が終わると、映像制作会社のスタッフが質問を受け付けた。
一人の学生が手を挙げる。
「演技経験が少なくても、応募できますか?」
「もちろんです。経験の長さだけで判断することはありません。役にどう向き合うか、その姿勢も大切にしたいと考えています」
別の学生が続けて尋ねた。
「自分で考えた台詞を入れることはできますか?」
「場面によりますが、監督と相談したうえで変更することは可能です」
俺は、その説明を聞きながら資料を見つめていた。
経験が少なくてもいい。
自分の考えや経験を演技に生かしてもいい。
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
昨日の稽古で、俺は自分の過去を思い出した。
台本にない言葉を口にしてしまったのも、そのせいだった。
けれど、もし俺がこの身体で演技を続けたら、どうなるのだろう。
周りの人たちは、今の俺を美雪だと思っている。
俺の感情を込めた演技が評価されたとしても、それは美雪自身の実力として受け取られることになる。
彼女が本来持っているはずの可能性を、俺が先に使ってしまうことになるのではないか。
そう考えると、簡単には決められなかった。
「美雪」
隣に座る蓮が、小声で呼んだ。
「どうした? さっきから難しい顔してるぞ」
「……ちょっと考え事」
「出演するかどうか、迷ってるのか?」
俺は小さくうなずいた。
蓮は資料を机に置き、少し考えてから口を開いた。
「無理に出る必要はないと思う」
「……え?」
「やりたくないなら、断ったっていい。でも、もし少しでもやってみたいと思ってるなら、挑戦してみてもいいんじゃないか?」
その言葉には、押しつけがましさがなかった。
「最初から、うまくいくかどうかなんてわからないだろ? 俺だって、オーディションに受かる保証なんてないし」
蓮は、照れくさそうに笑った。
「それでも、やらなかったら何も始まらないからさ」
俺は、彼の顔を見つめた。
いつも冗談ばかり言っている蓮。
けれど、その胸の奥には、誰にも譲れない夢がある。
失敗するかもしれない。
思いどおりにならないかもしれない。
それでも、夢に向かって一歩を踏み出そうとしている。
そんな蓮の言葉だからこそ、まっすぐ心に届いたのかもしれない。
「……ありがとう、蓮」
「おう!」
蓮は、いつもの笑顔を見せた。
「まあ、俺としては一緒に出てくれたら最高だけどな!」
「結局、それが本音かよ……」
「あははっ! バレたか!」
思わず、俺も笑ってしまった。
その瞬間、胸の奥にあった緊張が、ほんの少しだけ和らいだ。
それでも、答えはまだ出せなかった。
まずは、美雪と話そう。
彼女が何を望んでいるのか。
この機会をどう考えているのか。
そして、俺自身はどうしたいのか。
どちらか一人の気持ちだけで決めてはいけない。
俺は資料を丁寧に折り、鞄にしまった。
いつか元の身体に戻ったとき、二人とも後悔しない選択をしたい。
今の俺にできることは、そのために考え続けることだった。
* * *
その日の夜。
春馬の小さな家には、静かな時間が流れていた。
美雪は、机の上に置いたノートを見つめていた。
春馬の身体で暮らすようになってから、彼の日常が少しずつわかってきた。
食費を抑えるために、安い食材を選ぶこと。
電気を無駄に使わないこと。
古い服も、簡単には捨てないこと。
疲れて帰ってきても、翌日の授業の準備だけは欠かさないこと。
春馬の生活は、決して華やかではなかった。
誰かに自慢できるようなものが、たくさんあるわけでもない。
それでも彼は、毎日を投げ出すことなく、自分なりに生きていた。
自分のことを後回しにしてまで、誰かのために動こうとする。
その理由が、少しだけわかった気がした。
美雪は、もう一度ノートを開いた。
『明日、君が笑えるように』
タイトルの下には、主人公の台詞が書かれていた。
『俺には、君の苦しみを全部なくすことはできない。でも、君が一人で苦しんでいるとき、隣に座ることならできる』
美雪は、息をのんだ。
その言葉は、春馬そのもののように感じられた。
彼は、誰かの問題をすべて解決できるほど強い人間ではない。
自分のことでさえ、うまくいかないことがある。
それでも、誰かが困っていれば手を差し伸べる。
相手の苦しみをすべて理解できなくても、そばにいようとする。
きっと春馬は、そういう人なのだ。
「……あなたらしいね」
美雪は、そっと笑った。
その笑顔には、以前とは違う温かさがあった。
春馬のことを、もっと知りたい。
そう思う気持ちが、少しずつ大きくなっていた。
そのとき、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面には、春馬の名前が表示されていた。
『美雪。明日、少し話せる?』
美雪は、すぐに返信した。
『うん。どうしたの?』
ほどなくして、返事が届く。
『大学で、映像企画の話があったんだ』
『映像企画?』
『蓮と一緒に出演しないかって言われた』
美雪は、画面をじっと見つめた。
自分の身体で、春馬が演技をしている。
その演技が評価され、さらに大きな企画への出演を勧められている。
うれしいことのはずだった。
自分の身体で何かに挑戦してくれていることを、喜んでもいいはずだった。
けれど、胸の奥には、複雑な思いが生まれていた。
もし、春馬が自分の身体で演技を続け、周囲から高く評価されたら。
元の身体に戻ったあと、自分は同じように演じられるのだろうか。
周りの人たちは、今の自分と、元の自分の違いに気づかないだろうか。
そして何より、春馬はどう思っているのだろう。
彼は、自分の夢を追いかけることができているのだろうか。
それとも、俺の身体だからこそできることを、遠慮しているのだろうか。
考えれば考えるほど、わからなくなった。
美雪は、しばらく画面を見つめたあと、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
『明日、ちゃんと話そう』
すぐに返事が届いた。
『ありがとう』
たったそれだけのやり取りだった。
けれど、美雪はスマートフォンを置いたあとも、しばらく机の前から動けなかった。
自分の将来。
春馬の将来。
今の二人は、身体が入れ替わったことで、お互いの人生に深く関わっている。
だからこそ、どちらか一人の気持ちだけで決めてはいけない。
相手を思いやることと、相手の代わりに決めることは違う。
そのことを、美雪は忘れたくなかった。
彼女は、ノートをそっと閉じた。
「春馬……」
誰もいない部屋で、その名前を呼ぶ。
「あなたの夢も、いつかちゃんと聞かせてね」
その言葉は、静かな部屋に溶けていった。
窓の外には、東京の夜景が広がっていた。
同じ夜空の下で、春馬もまた、美雪との明日の会話を考えているのだろう。
自分の夢を話すこと。
相手の夢を聞くこと。
言葉にしてしまえば、簡単なことなのかもしれない。
けれど、自分の心の奥にしまってきたものを誰かに見せるのは、思っている以上に勇気がいる。
それでも、二人は少しずつ変わり始めていた。
相手の過去を知りたいと思うようになった。
相手の気持ちを理解したいと思うようになった。
そして今度は、相手がどんな未来を望んでいるのか、知りたいと思い始めていた。
まだ、お互いに知らないことばかりだ。
それでも、いつか本当の自分として向き合える日が来るのなら。
そのときは、隠してきた夢も、言えなかった気持ちも、少しずつ伝え合えるようになりたい。
美雪は、そんな未来を思い描いていた。
* * *
その頃。
翔也は、自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。
画面には、以前届いた一通のメッセージが表示されている。
送り主の名前を見るたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
「……まさか、今になって」
小さくつぶやき、画面を閉じようとした。
けれど、指が止まった。
陽真には、まだ話していない。
美雪にも、話すべきかどうか決められずにいた。
このメッセージを伝えれば、何かが変わってしまうかもしれない。
今まで保たれていた関係が、元には戻らなくなる可能性だってある。
それでも、このまま何もなかったことにはできない気がしていた。
翔也は、ゆっくりと息を吐いた。
「……いつ話すべきなんだろうな」
もう一度、メッセージを開く。
そこに書かれた言葉を見つめながら、彼は小さくつぶやいた。
「陽真……お前、これを知ったらどうするんだろうな」
画面には、今もそのメッセージが残っていた。
翔也は、まだ決断できずにいた。
けれど、その秘密がいつまでも隠されたままでいられるとは思えなかった。
やがて明らかになる真実は、陽真と美雪、そして翔也自身の関係を大きく変えることになるのかもしれない。
そのとき、三人は何を選ぶのだろう。
まだ、誰にもわからなかった。
* * *
夢を知ることは、その人の心に触れることなのかもしれない。
過去の痛みを知ること。
誰にも話せなかった願いを知ること。
そして、その人がこれから歩いていきたい道を知ること。
春馬と美雪は、まだお互いのすべてを理解できているわけではない。
それでも、少しずつ知ろうとしていた。
相手の気持ちを、自分の考えだけで決めつけないために。
相手の夢を、自分の都合で奪わないために。
そして、いつか元の身体に戻ったとき、今よりも少しだけ素直に向き合えるように。
明日、二人は何を話すのだろう。
その答えは、まだ誰にもわからない。
ただ一つ、確かなことがあった。
相手の夢を大切にするということは、その夢を代わりに選ぶことではない。
その人自身が選べるように、隣で考え、支えることなのだ。
そして二人は、まだそのことを学び始めたばかりだった。
第14話 終




