第8話 君は、そんなふうに笑う人だったか?
四月の東京の空は、少しだけ意地悪だ。
朝はあんなに晴れていたのに、昼休みになると、いつの間にか灰色の雲が広がっている。天気予報によれば、午後からは雨らしい。
「……傘、忘れた」
大学の中庭で空を見上げながら、俺――黒瀬春馬は、小さくつぶやいた。
いや、正確に言えば、俺の意識は黒瀬春馬のまま、身体だけが西園寺美雪のものになっている。
そして、周囲から見れば、俺は美雪本人だった。
「美雪、何してるの?」
背後から声をかけられ、俺は振り返った。
そこに立っていたのは、友人の久保由里香だった。片手には紙パックのカフェオレを持っている。
「空を見てた」
「それは見ればわかるけど……どうしたの? なんか、人生に絶望してる人みたいな顔してるよ?」
「人生に絶望してるわけじゃない」
「じゃあ、恋に絶望してる人?」
「……なんでそうなるんだよ」
危なかった。
いつもの調子で返事をしたせいで、危うく男のような口調が飛び出すところだった。
俺は慌てて口元を押さえた。
由里香が、じっと俺の顔をのぞき込む。
「今、何か言った?」
「な、何も?」
「ふーん?」
疑わしそうに目を細めた彼女だったが、すぐに何かを思い出したように表情を明るくした。
「そうだ、美雪。昨日の演技、すごかったよ!」
「……え?」
「演劇サークルの短い公演! 蓮くんと一緒に出てたでしょ? あれ、もう大学の掲示板でも話題になってるんだから!」
「話題……?」
「そう! 『西園寺さんって、あんなに表情豊かな人だったんだ』って。普段はクールでちょっと近寄りがたいのに、演技になると別人みたいだって!」
その言葉に、胸の奥がかすかにざわついた。
褒められるのは、悪い気分じゃない。
むしろ、素直にうれしい。
けれど、褒められているのは俺自身なのだろうか。
美雪の顔で、美雪の声で、美雪の身体を使って舞台に立った俺。
あのとき、台詞に込めた気持ちは、確かに俺自身のものだった。
それでも、客席の人たちが見ていたのは、西園寺美雪という人間の姿だった。
「……そうなんだ」
「何、その反応。もっと喜びなよ!」
「いや、別に……」
「別に、じゃない!」
由里香は、少しむっとした顔で俺の肩を軽くたたいた。
「美雪が自分の気持ちを表現できるようになったなら、私はうれしいよ」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
由里香は知らない。
今、彼女の目の前にいるのは、美雪ではない。
俺はただ、美雪の身体を借りているだけだ。
それなのに。
どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。
彼女たちが知っている美雪と、俺が知っている美雪。
その二つは、きっと同じようでいて、違う。
そして俺は、彼女たちが知っている美雪の姿さえ、まだ十分には理解できていないのだった。
◇
昼休みが終わる少し前、俺は演劇サークルの部室に呼び出された。
部屋の中には、昨日の公演に参加した学生たちが集まっていた。壁には次の公演のポスターが貼られ、机の上には台本や飲みかけのペットボトルが散乱している。
「おっ、美雪!」
真っ先に声をかけてきたのは、黒神蓮だった。
相変わらず、太陽みたいな笑顔を浮かべている。
「昨日はお疲れ! いやあ、本当によかった!」
「……ありがとう」
「それだけ?」
「え?」
「もっとこう、『蓮くんのおかげです』とか、『蓮くんが相手だったから演技できました』とか、そういう言葉があってもいいんじゃないか?」
「調子に乗るな」
思わず、いつもの調子で返してしまった。
しまった、と思ったときには、もう遅い。
蓮は一瞬きょとんとしたあと、腹を抱えて笑い始めた。
「ははっ! やっぱり美雪って面白いな!」
……危なかった。
いや、今のは危なかったのか?
美雪がどんな口調で話すのか、俺自身もまだよくわかっていない。
彼女は普段、何を考え、どんな冗談を言い、どんなときに笑うのだろう。
俺は、ずっと彼女のことが好きだった。
だけど、好きだったからこそ、遠くから見ているだけで満足していたのかもしれない。
彼女の本当の姿を知ろうとするより、俺の目に映る彼女を好きでいることを選んでいた。
そんな気がした。
「それで、今日集まってもらったのは、次の公演についてだ」
サークルの代表が手をたたき、部屋の空気を切り替えた。
「昨日の短編が、思っていた以上に好評だった。そこで、来月の新入生歓迎公演に向けて、もう少し長い作品を作ろうと思う」
部屋の空気が、一気に活気づいた。
「恋愛もの?」
「青春ドラマとか?」
「コメディーも入れようぜ!」
学生たちが口々に意見を出す。
代表はホワイトボードに向かい、そこへ大きくタイトルを書いた。
『言えなかった言葉』
その文字を目にした瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
言えなかった言葉。
もし、あの日。
高校時代の俺が、もう少しだけ勇気を出せていたら。
もし、あの日。
美雪が俺の気持ちを知ったあとも、今までどおりに話しかけてくれていたら。
……いや。
そんなことを考えても、何も変わらない。
過去は、どれだけ願っても戻ってこない。
「主役は二人。男女の役を一人ずつ募集する。演技経験は問わない。ただし、台本を読んで、自分が演じる役についてしっかり考えてきてほしい」
「はい! 俺、やりたいです!」
代表が説明を終えるより早く、蓮が勢いよく手を挙げた。
「お前は言わなくても立候補すると思っていたよ」
代表が苦笑すると、部室に笑いが広がった。
蓮はそんな周囲の反応など気にする様子もなく、今度は俺のほうを向いた。
「美雪もやろうぜ!」
「……私も?」
「もちろん! 昨日の演技を見て、絶対に合うと思ったんだ」
「でも……」
「やりたくない?」
その問いに、俺はすぐには答えられなかった。
本当の俺なら、絶対に自分から立候補したりしない。
人前に立つのは苦手だし、自分に自信もない。
ましてや、恋愛ドラマの主役なんて、俺の人生には縁のないものだと思っていた。
けれど、昨日の舞台で、俺は初めて知った。
自分の言葉が、誰かの心に届くことがある。
自分の経験が、誰かを支える力になることもある。
それは、今まで想像したこともなかった感覚だった。
そして今、俺は美雪の身体にいる。
彼女の人生を、少しずつ知り始めている。
彼女が何を我慢してきたのか。
何を言えずにいたのか。
どんな思いを胸の奥にしまい込んできたのか。
もしかしたら、この役を演じることで、彼女の気持ちをもっと理解できるかもしれない。
そう思った。
「……やってみる」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
蓮は満面の笑みを浮かべた。
「よし! 決まりだな!」
その笑顔を見ていると、不思議な気持ちになった。
この男は、いつだって迷わず前へ進む。
失敗を恐れず、誰にでも話しかけ、夢を口にすることを恥ずかしがらない。
俺には、なかなかできなかったことだ。
だからこそ、蓮は俺の親友なのかもしれない。
そして、そんな親友のことさえ、俺はまだ知らない一面ばかりなのだ。
◇
一方、そのころ。
黒瀬春馬の身体に入った美雪は、大学の図書館で頭を抱えていた。
「……何なの、これ」
机の上には、分厚い専門書と講義ノートが積み重なっている。
美雪は一冊の本を開き、数行読んだところで、静かに閉じた。
「意味がわからない……」
春馬の講義は、想像していた以上に難しかった。
しかも、ノートには文字だけでなく、理解しようとした跡なのか、細かな図や矢印がびっしりと書き込まれている。
ところどころ、余白には小さな文字もあった。
『ここは試験に出るかもしれない』
『わからなかったら先生に質問する』
『今日こそ復習する!』
そして、その最後には。
『……明日から本気出す』
「……何なのよ、これ」
思わず吹き出してしまった。
笑いながら、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
春馬は、普段から不器用で、損ばかりしている。
要領もよくないし、何をするにも少し遠回りだ。
でも、彼は投げ出していなかった。
何度わからなくなっても、何度失敗しても、ノートを開き、考え、少しずつ前へ進もうとしている。
その努力が、何冊ものノートに残っていた。
美雪は、ふと考えた。
自分は春馬のことを、どれだけ知っていたのだろう。
高校時代、彼に告白されたとき。
自分は、彼の気持ちにきちんと向き合っただろうか。
彼を傷つけないように断ったつもりだった。
曖昧な期待を持たせないことが、彼のためだと思っていた。
けれど、そのあと彼がどんな顔で家に帰ったのか。
どんな気持ちで、次の日を迎えたのか。
自分は一度でも、真剣に考えただろうか。
彼がいつもどおりに話しかけてくれるから。
彼が自分の前で、悲しそうな顔を見せなかったから。
だから、もう大丈夫なのだと。
勝手にそう思い込んでいたのではないだろうか。
「……ごめんね、春馬」
誰もいない図書館の隅で、美雪は小さくつぶやいた。
そのとき、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面には、春馬からのメッセージが表示されている。
『今日、演劇サークルで次の公演の話が出た。俺……じゃなくて、お前の身体で、もう一度舞台に立つことになりそう』
美雪は、思わず眉を寄せた。
『勝手に変なことしないでよ』
送信してから、少し考える。
春馬は、自分の身体で何をしているのだろう。
授業はちゃんと受けられているのか。
友人たちに不審がられていないか。
それに、演劇サークルの活動まで引き受けて、本当に大丈夫なのだろうか。
心配する理由なら、いくらでもあった。
美雪はもう一度、メッセージを打ち込んだ。
『でも、無理はしないで。あなたが困ると、私も困るから』
数秒後、返信が届いた。
『わかってる。そっちこそ、俺の身体で変なことするなよ』
美雪は、思わず口元を緩めた。
『誰がするか!』
送信してから、彼女は自分の指先を見つめた。
春馬の手。
自分のものより少し大きく、指先には小さな傷がある。
この手で、彼は何をしてきたのだろう。
誰かを助けたこともあるのだろうか。
悔しくて、何もできなかったこともあるのだろうか。
そして――。
自分を好きになってくれた、この手で。
彼は、どれほどの勇気を振り絞って告白したのだろう。
美雪は、スマートフォンをそっと握りしめた。
「……ちゃんと、知りたい」
それは、春馬のことを知りたいという気持ちだった。
彼が何を考え、何に悩み、どんな思いを抱えて生きてきたのか。
今まで見ようとしなかった彼の姿を、今度こそ知りたい。
けれど、美雪はまだ気づいていなかった。
その気持ちが、やがて自分自身の心を大きく揺さぶることになるのを。
◇
夕方。
大学の正門を出たところで、俺は蓮と並んで歩いていた。
「なあ、美雪」
「何?」
「お前、最近変わったよな」
心臓が跳ねた。
「……そう?」
「うん。前より、よく笑うようになった」
俺は返事に困った。
蓮は空を見上げながら、何気ない調子で続けた。
「前のお前は、何を考えてるのか全然わからなかったんだよ。話しかけても、いつも少し距離がある感じでさ」
「……」
「でも、昨日の演技を見て思ったんだ。お前、本当はいろんなことを考えてるんじゃないかって」
その言葉を聞いたとき、空からぽつりと雨粒が落ちてきた。
続いて、もう一粒。
気づけば、雨は少しずつ強くなっていた。
「あ、やば。降ってきたな」
蓮は鞄から折り畳み傘を取り出し、ぱっと広げた。
そして、当然のように俺のほうへ傘を傾ける。
「ほら、入れよ」
「……ありがとう」
俺たちは一本の傘に入って歩き始めた。
肩が触れそうな距離だった。
俺は美雪の身体で、蓮の隣を歩いている。
蓮は俺の親友だ。
けれど、今の彼にとって、俺は美雪なのだ。
当たり前のことなのに、その事実が妙に胸に引っかかった。
「なあ、美雪」
「今度は何?」
「お前ってさ、好きな人いるの?」
「――っ!」
思わず足が止まった。
蓮も立ち止まり、不思議そうに俺を見た。
「どうした?」
「な、何でもない!」
「いや、今、明らかに変だっただろ!」
「変じゃない!」
「じゃあ、いるんだ?」
「いない!」
「即答かよ!」
蓮は声を上げて笑った。
俺も、つられて笑いそうになった。
だけど、笑えなかった。
だって。
俺には、好きな人がいる。
ずっと前から。
そして今、その好きな人の身体で、彼女の友人たちと過ごしている。
彼女の生活を知り、彼女の悩みを知り、彼女の知らなかった一面に触れようとしている。
好きな人に近づけたはずなのに。
その距離が縮まるたび、自分が本当に望んでいたものが何だったのか、わからなくなっていく。
「……蓮は?」
気づけば、俺はそう尋ねていた。
「え?」
「蓮には、好きな人がいるの?」
蓮は一瞬だけ黙った。
いつもの明るい笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。
雨音が、傘の上で静かに響いていた。
「……さあな」
「何それ」
「秘密ってこと!」
彼は、いつもの調子で笑った。
けれど、その笑顔の奥に、ほんのわずかな寂しさが見えた気がした。
俺は、それ以上聞かなかった。
誰にだって、言えない気持ちがある。
俺自身が、誰よりもそれを知っているから。
それに、蓮が何かを隠しているのなら、無理に聞き出すべきではないのかもしれない。
親友だからといって、すべてを知っているわけじゃない。
そして、すべてを知ろうとすることが、必ずしも相手のためになるわけでもない。
雨の中、俺たちは再び歩き始めた。
傘の下に並ぶ二人の影は、どこかぎこちなく揺れていた。
◇
その夜。
自宅に戻った俺は、鏡の前に立っていた。
鏡に映っているのは、西園寺美雪の顔。
長い黒髪。
整った目元。
どこか冷たく見える表情。
けれど、今の鏡の中の彼女は、少し困ったように笑っていた。
「……俺、ちゃんと美雪を演じられてるのかな」
返事はない。
当然だ。
ここにいるのは、俺一人なのだから。
鏡の中の美雪が、じっと俺を見つめている。
その顔を見ていると、時々、不思議な感覚に襲われる。
自分の知らない誰かの人生を、勝手に生きているような感覚。
そして、その人生を知れば知るほど、自分が今まで彼女をどれほど理解していなかったのかを思い知らされる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美雪からのメッセージだった。
『今日、あなたのノートを見た』
『勝手に見るなよ……』
『ごめん。でも、あなたって思っていたより努力家なんだね』
俺は画面を見つめた。
『思っていたよりって何だよ』
『不器用で、運が悪くて、すぐに損をする人だと思ってた』
「……ひどいな」
思わず声が漏れた。
けれど、怒る気にはなれなかった。
実際、否定できない部分もある。
しばらくすると、またメッセージが届いた。
『でも、何度失敗しても諦めない人なんだね』
『私は、あなたのことを何も知らなかった』
その文章を見た瞬間、指先が止まった。
俺は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
高校時代。
俺は、美雪に振られた。
彼女が悪いわけじゃない。
好きになったのは俺だ。
勝手に期待して、勝手に傷ついたのも俺だ。
それでも、ずっと心のどこかで願っていた。
少しでもいいから、自分のことを知ってほしかった。
格好悪いところも。
情けないところも。
失敗ばかりで、何をやってもうまくいかないところも。
それでも、毎日をどうにか生きようとしているところも。
美雪に、自分という人間を見てほしかった。
けれど、彼女が俺のことをどこまで知っていたのか、確かめる勇気はなかった。
知ろうとしてくれなかったのだとしたら、きっと傷つく。
だから俺は、何も聞かないまま、彼女の隣にいることを選んだ。
今思えば、それは優しさなんかじゃなかったのかもしれない。
ただ、もう一度傷つくのが怖かっただけだ。
『……今さらだよ』
そう打ち込んで、俺は送信する直前に指を止めた。
画面に表示された言葉を見つめる。
たった一言で、これまでの時間を突き放すことはできる。
美雪に、何も知らなかったことを後悔させることだってできるかもしれない。
でも、それで何が変わるのだろう。
過去に戻れるわけでもない。
彼女が俺を好きになってくれるわけでもない。
俺は、ゆっくりとその文章を消した。
そして、代わりにこう送った。
『これから知ってくれればいい』
送信。
数秒後、美雪から返信が届いた。
『うん』
たった一文字。
それなのに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
俺はスマートフォンを置き、窓の外を見た。
雨に濡れた東京の夜景は、ぼんやりと滲んでいた。
街の明かりが水滴ににじみ、まるで遠い世界の景色のように見える。
神様。
もし、本当にあなたがいるのなら。
どうして俺の願いを、こんな形で叶えたんですか。
彼女と話したかった。
彼女のことを知りたかった。
彼女に、もう一度だけ自分を見てほしかった。
でも、こんなふうにしてまで近づきたかったわけじゃない。
……いや。
本当は、少しだけ望んでいたのかもしれない。
美雪が見ている世界を知ることができたら。
彼女が抱えているものを理解できたら。
俺は、彼女をもっと大切にできるのだろうか。
彼女の気持ちを、今度こそ理解できるのだろうか。
その答えは、まだわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
この入れ替わりは、俺たちの人生を少しずつ変え始めている。
そして、その変化に最初に気づいたのは――。
俺たち自身ではなかった。
◇
同じ夜。
黒神蓮は、自分の部屋で昨日の演劇の動画を見返していた。
スマートフォンの画面には、舞台の上で相手役を見つめる美雪の姿が映っている。
彼女は、涙をこらえるような表情を浮かべながら、静かに台詞を口にしていた。
その表情は、普段の彼女からは想像できないほど素直で、どこか痛々しかった。
「……やっぱり、変だよな」
蓮は動画を一時停止した。
彼が知っている美雪は、感情を表に出すことが少ない人だった。
いつも落ち着いていて、誰かに必要以上に踏み込もうとはしない。
親しくなっても、どこか一線を引いているようなところがあった。
けれど、舞台の上の美雪は違った。
言葉の選び方。
視線の動かし方。
相手の言葉を受け止める、わずかな間。
それらすべてが、台本をなぞっているだけとは思えなかった。
まるで、誰かの人生を実際に生きてきたかのような演技だった。
特に、最後の台詞。
あのときの美雪の声には、台本に書かれた言葉以上の何かが込められていた。
悲しみ。
後悔。
それでも前に進もうとする、かすかな希望。
蓮は、画面に映る美雪の顔をじっと見つめた。
「お前……本当は、誰なんだ?」
口にしてから、蓮は小さく笑った。
もちろん、冗談だ。
ただの、何気ない独り言。
美雪が少し変わったからといって、そんなことを考えるのはおかしい。
人は変わる。
何かをきっかけに、今まで見せなかった一面を見せることだってある。
昨日の舞台が、彼女にとってそういうきっかけだったのかもしれない。
蓮はそう考え、再び動画を再生しようとした。
けれど、指は画面に触れる直前で止まった。
胸の奥に、小さな違和感が残っていた。
その正体を、蓮はまだ知らない。
◇
翌日。
演劇サークルの掲示板には、新しい募集告知が貼り出されていた。
『新入生歓迎公演・主演選考開始』
その下には、向かい合う男女二人のイラストが描かれている。
タイトルは――。
『言えなかった言葉』
春馬は、まだ知らない。
この舞台が、自分の隠してきた恋心だけでなく、蓮の胸の奥に秘められた思いまでも明らかにするきっかけになることを。
そして美雪も、まだ知らない。
春馬の身体で過ごす日々が、やがて自分の人生で最も大切な選択へとつながっていくことを。
二人はまだ、自分たちの気持ちに名前をつけられずにいる。
好きという感情。
知りたいという願い。
そして、相手を理解できなかったことへの後悔。
それらが少しずつ重なり合い、二人の関係を変えようとしていた。
誰かの身体で生きることは、その人の人生を理解することなのだろうか。
それとも、同じ景色を見て、同じ言葉を交わして、初めて気づけることがあるのだろうか。
答えは、まだ誰にもわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
二人の青春は、まだ始まったばかりだった。
第8話 完




