第7話 拍手の向こうに隠した本音
朝八時十分。
黒瀬春馬は、大学へ向かう電車の中で、スマートフォンの画面を見つめていた。
画面には、演劇サークルのグループチャットが表示されている。
『代表:今日の昼休み、講堂で新入生向けの活動紹介を行います。出演できる人は協力してください』
『蓮:もちろん参加します! 未来の大スターの実力を見せる絶好のチャンスですね!』
『代表:黒神、まずは時間を守るところから始めようか』
『蓮:代表、そこは見逃してください!』
春馬は、思わず小さく笑った。
朝から相変わらず騒がしい男だ。
けれど、その明るさに何度救われてきたのだろう。
そんなことを考えていると、グループチャットにもう一件、メッセージが届いた。
『代表:西園寺さんも、できれば一緒に短い場面を演じてもらいたいです』
「……なんで俺まで」
思わず声が漏れた。
隣に立っていた女性が不思議そうにこちらを見る。
「あっ、すみません」
春馬は慌てて頭を下げた。
電車の窓に映る自分の顔を見つめ、深いため息をつく。
西園寺美雪の姿で、見知らぬ学生たちの前に立つ。
しかも、蓮と一緒に演技をすることになるらしい。
断る理由を考えてみたものの、どれも不自然だった。
美雪は演劇サークルの一員だ。ここで突然、人前に出ることを嫌がれば、周囲に不審に思われるかもしれない。
何より、昨日までの自分なら、こんな経験をすることさえ想像していなかった。
人前で演技をすることが、どんな感覚なのか。
誰かの心に、自分の言葉が届くというのは、どんな気持ちなのか。
少しだけ、知ってみたいと思った。
「……やるしかないか」
春馬はスマートフォンをしまった。
そのころ、別の電車に乗っていた美雪もまた、スマートフォンを見つめながら頭を抱えていた。
春馬の身体になった彼女の画面には、翔也からのメッセージが表示されている。
『今日、講義のあとで蓮と一緒に買い物に行くけど、お前も来るか?』
美雪は、しばらく画面を見つめた。
買い物。
つまり、春馬の普段の生活を知る機会だ。
断る理由はない。
しかし、翔也や蓮と長時間一緒に過ごせば、春馬ではないことが露見する危険もある。
昨日も、翔也との会話で何度か失敗しかけた。
春馬の普段の話し方も、何気ない習慣も、まだ十分にはわかっていない。
それなのに、親友と一緒に買い物へ行くなんて、難易度が高すぎる。
『少し考えてから返事する』
そう返信した直後、今度は蓮からメッセージが届いた。
『春馬! 今日の昼、講堂で俺の演技を見せてやるからな!』
美雪は、ゆっくりと目を閉じた。
「……どうして、みんな私の予定を勝手に決めるの」
もちろん、誰も答えてはくれなかった。
そもそも、彼らにとって目の前の自分は、いつもの春馬なのだ。
まさか中身が入れ替わっているなど、想像すらしていないだろう。
美雪は小さく息を吐き、窓の外へ視線を向けた。
春馬の人生を知ることは、思っていた以上に難しい。
それでも、少しずつ知っていきたいと思っていた。
彼がどんな毎日を送り、どんな人たちと笑い、どんな思いを抱えて生きてきたのか。
自分の知らなかった春馬を、もっと知りたかった。
◇
午前十時半。
講堂の舞台裏は、学生たちの声でにぎわっていた。
演劇サークルだけでなく、音楽サークルやダンスサークルも参加している。新入生にそれぞれの活動を知ってもらうため、あちこちで準備が進められていた。
春馬は壁際に立ち、台本を読み返していた。
何度読んでも、台詞が頭に入ってこない。
いや、正確に言えば、台詞そのものは覚えられる。
問題は、それを人前で演じなければならないことだった。
「美雪、緊張してる?」
隣から声をかけられ、春馬は顔を上げた。
蓮が、いつもの自信満々な笑顔で立っていた。
「……少しね」
「大丈夫だって。今日は本番じゃないし、短い場面を見せるだけだから」
「そうだけど……」
「それに、俺がいるだろ?」
蓮は胸を張った。
「何かあったら、未来の大スターが助けてやる!」
「……その未来、いつ来るの?」
「今日かもしれない!」
「便利な未来だね」
「だろ?」
蓮は満足そうにうなずいた。
春馬は、つられて笑った。
この男は、本当に不思議だ。
どれだけ自信満々なことを言っても、不思議と嫌味に聞こえない。
それどころか、そばにいる人間まで明るい気持ちにさせてしまう。
けれど、昨日、蓮が俳優を目指す理由を語ってくれたとき、春馬はその明るさの奥にある真剣な思いを知った。
夢を追いかけること。
誰かの心を動かすこと。
そのために努力し続けること。
蓮は、冗談ばかり言っているようで、誰よりも自分の夢に真剣なのかもしれない。
「……蓮って、昔からそんな感じなの?」
ふと思いつき、春馬は尋ねた。
「そんな感じって?」
「いつも自信があって、失敗してもすぐに立ち直るところ」
蓮は、少し考えるように視線を上げた。
「いや、昔からってわけじゃないよ」
「そうなの?」
「ああ。小さいころは、結構失敗を気にしてたんだ」
蓮は舞台のほうへ目を向けた。
「親父が何でもできる人でさ。勉強も仕事も、いつも結果を出してる。周りからも頼りにされていて、俺も自然と、親父みたいにならなきゃいけないって思ってた」
春馬は黙って耳を傾けた。
「でも、頑張れば頑張るほど、自分が親父とは違う人間だって思い知らされるんだよな」
蓮は苦笑した。
「何かに失敗するたびに、俺には才能がないんじゃないかって考えてた。周りと比べて、勝手に落ち込んでさ」
いつもの蓮からは、想像できない言葉だった。
彼はいつも笑っている。
失敗しても、冗談に変えてしまう。
だから、何も気にしていないのだと思っていた。
「……それで、どうやって変わったの?」
春馬が尋ねると、蓮はしばらく黙った。
やがて、穏やかな声で答えた。
「あるとき、ふと思ったんだ。親父と同じことをしても、俺は親父にはなれないんだって」
蓮は、自分の手を見つめた。
「だったら、俺は俺のやりたいことをやればいい。失敗したって、思いどおりにならなかったって、俺の人生なんだからさ」
その言葉には、軽さなどなかった。
何度も悩み、迷い、それでも自分なりに答えを見つけてきた人間の言葉だった。
「……いい考え方だね」
「だろ? 俺、たまにはいいことを言うんだよ」
「たまに、なんだ」
「そこは否定しないでくれ!」
蓮が大げさに肩を落とす。
春馬は笑った。
けれど、胸の奥には、先ほどの言葉が残っていた。
自分は、自分の人生をどうしたいのだろう。
美雪のことが好きだった。
その気持ちを胸に抱えたまま、何年も過ごしてきた。
いつか振り向いてもらえたら。
いつか自分の思いが届いたら。
そんな願いばかりを考えて、自分自身が何を望んでいるのか、真剣に考えたことがあっただろうか。
答えは、まだ出なかった。
「そろそろ出番だ。二人とも、準備してくれ」
代表の声が響いた。
「はい!」
蓮は元気よく返事をした。
春馬は、もう一度だけ台本に目を落とした。
短い場面だ。
失敗しても、すぐに終わる。
そう自分に言い聞かせながら、舞台袖へ向かった。
◇
正午。
講堂の照明が落ち、舞台にスポットライトが当たった。
蓮と春馬は、ゆっくりと舞台の中央へ歩いていく。
客席には、百人近い学生が座っていた。
春馬は、その光景を目にした瞬間、足が止まりそうになった。
(……こんなにいるのかよ)
人前で話すことには慣れているつもりだった。
けれど、今の自分は美雪だ。
客席にいる人たちは、みんな美雪の顔を見ている。
もし失敗すれば、彼女の評判に傷がつくかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった途端、呼吸が浅くなった。
指先が冷たい。
台本を持つ手にも、わずかに力が入っていた。
(落ち着け。台詞は覚えてる。大丈夫だ)
何度も自分に言い聞かせる。
それでも、緊張は簡単には消えてくれなかった。
そのとき、隣から小さな声が聞こえた。
「美雪」
蓮だった。
「俺を見て」
春馬は顔を向けた。
蓮は、いつもの笑顔を浮かべていた。
「客席のことなんて気にしなくていい。今は、俺とお前だけでいいんだ」
その言葉を聞いて、春馬はゆっくりと息を吸った。
そうだ。
目の前にいるのは、蓮だ。
いつも自分の隣で笑っていた、親友だ。
今は、彼と一緒に物語を演じればいい。
「……うん」
「よし。じゃあ、行こう」
蓮が小さくうなずいた。
舞台が始まった。
蓮は主人公として、夢を追う若者の苦悩を演じた。
最初は明るかった声が、少しずつ弱くなっていく。
笑顔が消え、視線が落ちる。
その変化は自然で、客席の学生たちも静かに見入っていた。
春馬は、台本どおりに言葉を紡いだ。
「……あなたは、何のために頑張っているの?」
「わからない。何のために頑張っているのか、わからなくなったんだ」
蓮は、苦しそうに笑った。
「頑張れば報われると思っていた。でも、現実はそんなに甘くない」
その言葉を聞いた瞬間、春馬の胸に、忘れたはずの記憶がよみがえった。
高校時代。
美雪に告白した日。
自分の気持ちを伝えれば、何かが変わると思っていた。
好きだと伝えれば、少しでも自分を見てくれるかもしれない。
今までとは違う関係になれるかもしれない。
そんな期待を抱いていた。
けれど、現実は違った。
願いが叶わなくても、世界は何事もなかったかのように続いていく。
胸が痛くても、朝になれば学校へ行かなければならない。
誰かを好きになったからといって、その人が同じ気持ちになってくれるわけではない。
それでも、自分が抱いてきた思いまで、なかったことになるわけではないのだ。
春馬は、ゆっくりと顔を上げた。
「……それでも、あなたが歩いてきた道は消えないよ」
自分でも驚くほど、自然に声が出た。
客席が静まり返る。
「誰かに認められなかったからって、あなたが頑張ってきたことまで、なかったことにはならない」
春馬は、蓮の目をまっすぐに見つめた。
「私は、あなたが何度も立ち上がってきたことを知っている。だから……もう、自分を責めないで」
台詞を口にしながら、春馬は思った。
これは、主人公に向けた言葉だ。
けれど、同時に、過去の自分自身にも聞かせてやりたい言葉だった。
叶わなかった願いがある。
届かなかった思いもある。
それでも、自分が歩いてきた時間まで、否定する必要はない。
そう思えた瞬間、胸の奥にあった重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
蓮が、ゆっくりと手を差し出した。
春馬は、その手を取る。
「……ありがとう」
蓮の声が響いた。
「君が信じてくれるなら、俺はもう一度、夢を追いかけられる」
短い場面が終わった。
一瞬の静寂。
春馬は、息をすることさえ忘れていた。
そして――。
客席から拍手が起こった。
思っていたよりも大きな拍手だった。
一人、また一人と手を叩く音が重なり、やがて講堂全体に広がっていく。
春馬は驚き、客席を見渡した。
何人もの学生が笑顔で拍手をしている。
中には、真剣な表情のまま、こちらを見つめている人もいた。
蓮は、隣で満足そうに笑っていた。
「やったな、美雪」
「……うん」
春馬は、まだ信じられない気持ちだった。
自分の言葉が、誰かの心に届いたのだろうか。
自分の経験が、誰かの気持ちを動かしたのだろうか。
今まで、そんなことを考えたことはなかった。
自分は、誰かの人生を変えられるような人間ではないと思っていた。
けれど、もしほんの少しでも、誰かの心を動かせたのなら。
それは、思っていた以上にうれしいことだった。
舞台を降りる直前、春馬は客席の端に座っている一人の女子学生に気づいた。
彼女は拍手をしながら、真剣な表情でこちらを見つめていた。
目が合ったのは、ほんの一瞬だった。
それなのに、その視線は不思議なほど心に残った。
◇
舞台裏に戻ると、代表が二人を迎えた。
「よかったぞ。短い場面だったが、二人の気持ちがしっかり伝わってきた」
「ありがとうございます!」
蓮が元気よく答える。
春馬も、ほっとした気持ちで頭を下げた。
「特に西園寺さん。最後の台詞は、聞いている側の心に残るものがあった」
「……ありがとうございます」
「本公演に向けて、この調子で頑張ってくれ」
代表が別の参加者のもとへ向かうと、蓮が春馬の肩を軽くたたいた。
「ほら、言っただろ? 大丈夫だって!」
「……蓮のおかげだよ」
「いや、お前の演技がよかったんだって」
蓮は照れくさそうに笑った。
「俺も、もっと頑張らないとな」
「蓮も十分すごかったよ」
「本当か?」
「うん」
春馬は、素直にうなずいた。
「蓮が本気で演じているのを見て、私も頑張ろうって思えたから」
蓮は一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、わずかに視線をそらした。
「……そういうことを真顔で言うなよ」
「どうして?」
「いや、なんか……恥ずかしいだろ」
春馬は思わず目を丸くした。
いつも人をからかっている蓮が、照れている。
「……蓮でも、恥ずかしいことがあるんだね」
「当たり前だろ! 俺を何だと思ってるんだ!」
「未来の大スター?」
「そう! ……いや、そうだけど!」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
その瞬間、春馬は胸の奥が温かくなるのを感じた。
美雪の身体にいることも、入れ替わりの秘密を抱えていることも、今だけは忘れられた。
ただ、親友と一緒に笑っている。
それだけのことが、どうしようもなくうれしかった。
そして、ふと思う。
自分は今まで、蓮のことをどれほど理解していたのだろう。
いつも明るいから、悩みなんてないと思っていた。
冗談ばかり言うから、何も気にしていないのだと思っていた。
けれど、それは自分の勝手な思い込みだった。
人は、見えている部分だけでできているわけではない。
笑顔の裏に、誰にも言えない不安を抱えていることだってある。
それを知ろうとすることが、誰かを理解するための第一歩なのかもしれない。
◇
午後一時。
春馬の身体になった美雪は、大学の図書館にいた。
机の上には、春馬のノートと参考書が広げられている。
講義の課題を終わらせるためだった。
しかし、数式をいくら見つめても、なかなか頭に入ってこない。
「……どうして、こんなに難しいの」
美雪は、鉛筆を置いた。
春馬のノートには、わからない部分を自分で調べた跡がいくつも残っている。
教科書のページ番号。
参考資料の名前。
間違えた問題の解き直し。
それらを見ていると、彼が一人で勉強してきた時間が想像できた。
すぐに理解できる問題ばかりではなかったはずだ。
何度もつまずき、考え、わからないところを調べながら、少しずつ答えにたどり着いてきたのだろう。
その積み重ねが、ノートの一冊一冊に残っている。
(春馬って、こんなに努力していたんだ……)
高校時代から知っている。
ずっと近くにいた。
それなのに、自分は彼のことを、どれほど知っていたのだろう。
そんなことを考えていると、図書館の入口から聞き慣れた声がした。
「春馬!」
顔を上げると、蓮がこちらへ歩いてくるところだった。
「……蓮?」
「何してるんだ? こんなところで」
「課題をやっているの」
「おお、珍しい。いつもなら、俺と翔也に『一緒にやろう』って言ってくるのに」
「……そうなの?」
「そうだよ」
蓮は笑いながら、隣の椅子を引いた。
「俺も課題をやろうと思ってさ。まあ、一人だとすぐに別のことを始めちゃうから、お前がいてくれると助かる」
美雪は少し驚いた。
蓮は、勉強が得意なタイプには見えない。
「……あなたも、課題が苦手なの?」
「苦手っていうか、集中力が続かないんだよ」
蓮は苦笑した。
「俳優の練習なら何時間でもできるんだけどな」
「好きなことと、そうじゃないことは違うものね」
「そうそう! わかってくれるか!」
蓮は嬉しそうにうなずいた。
美雪は、彼の顔をそっと見つめた。
蓮は、春馬と話しているとき、まったく気取らない。
誰とでも仲良くなれる人気者でありながら、親友の前では自分の弱さを隠そうとしていないように見えた。
それは、きっと簡単なことではない。
弱いところを見せても大丈夫だと信じられる相手がいる。
それは、当たり前のようでいて、とても大切なことなのかもしれない。
「……蓮は、春馬のことをどう思っているの?」
美雪は、慎重に尋ねた。
「春馬?」
「うん」
蓮は不思議そうに眉を上げた。
「どうって……大切な親友だよ」
答えは、驚くほどあっさりと返ってきた。
「俺が調子に乗ってるときは止めてくれるし、落ち込んでるときは話を聞いてくれる。あいつ、普段は自分のことをあまり話さないけど、誰よりも周りを見てるんだよ」
美雪は、静かに耳を傾けた。
「それに、春馬は簡単に人を見捨てない。俺が失敗したときだって、いつも『次がある』って言ってくれた」
蓮は、懐かしむように目を細めた。
「俺が自分には向いてないんじゃないかって悩んでたときも、あいつは無理に励ましたりしなかった。ただ、最後まで話を聞いてくれたんだ」
美雪の胸が、かすかに揺れた。
「だから、俺もあいつが困ってるときは助けたいんだよ。あいつが何も言わなくても、できるだけ気づいてやりたい」
蓮は照れくさそうに笑った。
「まあ、俺だって完璧じゃないから、気づけないこともあるけどさ」
美雪は、言葉を失っていた。
春馬は、こんなにも信頼されている。
自分が知らないところで、誰かを支えていた。
そして、彼自身も誰かに支えられていた。
春馬は、自分のことをあまり話さない。
だから、何を考えているのか、わからないことも多かった。
いつも静かに話を聞いてくれる。
困ったときには、さりげなく助けてくれる。
それが彼の優しさなのだと、今になってようやく気づいた気がした。
「……そうなんだ」
美雪は、小さくうなずいた。
蓮は彼女の顔を見て、首をかしげた。
「どうした? 急にそんなことを聞いて」
「……少し、知りたくなったの」
「何を?」
「春馬が、どんな人なのか」
口にした瞬間、美雪は胸の奥が痛くなるのを感じた。
目の前にいる蓮は、春馬の親友だ。
彼は春馬のことを、誰よりもよく知っているのかもしれない。
けれど、自分は今、春馬の身体を借りているだけだ。
本当の春馬ではない。
もし、ここで秘密を打ち明けられたら。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
しかし、すぐに打ち消す。
話せるはずがない。
誰かを巻き込めば、もっと大きな問題になるかもしれない。
美雪は、胸の中に生まれた小さな罪悪感を、そっと押し込めた。
「……なんでもない。ありがとう、蓮」
「ん? おう」
蓮は深く追及せず、参考書を開いた。
「さて、課題をやるか。……って、これ、どこから手をつければいいんだ?」
「……最初からじゃない?」
「正論すぎる!」
美雪は、思わず笑ってしまった。
その笑い声は、いつもより少しだけ自然だった。
◇
午後五時半。
春馬は大学を出て、駅へ向かっていた。
講堂での演技は、思っていた以上に好評だった。
代表からも褒められ、蓮とも少しだけ距離が縮まった気がする。
それでも、慣れないことを続けたせいか、身体は疲れ切っていた。
「……今日は甘いものでも買って帰るか」
そうつぶやいたとき、背後から声がした。
「西園寺さん!」
春馬は振り返った。
そこに立っていたのは、先ほど講堂の客席でこちらを見ていた女子学生だった。
肩までの髪。
落ち着いた雰囲気。
そして、まっすぐな目。
彼女は少し緊張した様子で、春馬の前に立った。
「……私に何か?」
春馬が尋ねると、彼女は慌てて頭を下げた。
「突然すみません。さっきの演技を見て、どうしても伝えたくて」
「演技?」
「はい。最後の台詞……すごく心に残りました」
春馬は目を瞬かせた。
「……ありがとう」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「私、最近ちょっと落ち込んでいたんです。何をやってもうまくいかなくて、頑張る意味がわからなくなっていて」
その声は、思っていたよりも小さかった。
「周りの人はみんな前に進んでいるのに、自分だけが取り残されている気がして……何をしても、自分には何もできないんじゃないかって」
春馬は、何も言わずに聞いていた。
彼女の表情には、隠しきれない疲れがにじんでいた。
「でも、あなたの言葉を聞いて、もう少しだけ頑張ってみようと思えたんです」
彼女は顔を上げた。
「自分が頑張ってきたことまで、無駄になるわけじゃないんだって……そう思えました」
春馬は、すぐには返事ができなかった。
自分が演じた台詞が、誰かの心に届いた。
それだけではない。
その言葉が、彼女の抱えていた苦しさを、ほんの少しでも軽くしたのだ。
春馬は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分は、ただ台本に書かれた言葉を口にしただけだと思っていた。
けれど、その言葉には、自分自身の経験や気持ちも、知らないうちに重なっていたのかもしれない。
「……それなら、よかった」
ようやく、それだけを口にした。
彼女は、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます。私、あなたのこと、応援しています」
そう言って、彼女は小さく頭を下げ、駅のほうへ歩いていった。
「……あ」
春馬は、何か言おうとして口を開いた。
けれど、彼女はもう人混みの向こうへ消えかけていた。
名前も聞けなかった。
それでも、彼女の言葉は心に残った。
自分の演技が、誰かの力になった。
それは、蓮が俳優を目指す理由と、少し似ている気がした。
誰かの心を動かすこと。
誰かがもう一度立ち上がるための、小さなきっかけになること。
それは、思っていた以上に大きな意味を持つのかもしれない。
「……演技って、すごいんだな」
春馬は、空を見上げた。
夕焼けが、街を淡い橙色に染めている。
その景色を見ながら、彼は初めて思った。
もしかしたら、自分にも、誰かの心を動かせる何かがあるのかもしれない。
それが何なのかは、まだわからない。
けれど、ほんの少しだけ、自分の未来を楽しみにしている自分がいた。
◇
午後七時。
美雪の部屋へ戻る途中、春馬はスマートフォンを取り出した。
画面には、正志から届いたメッセージが残っている。
『今夜、少し会えないか?』
昨日から、まだ返信できずにいた。
美雪の話を聞く限り、正志との関係は簡単なものではない。
家族の期待。
家同士の付き合い。
そして、自分の気持ちとは関係なく、恋人のふりを続けなければならない苦しさ。
春馬は、画面を見つめながら小さく息を吐いた。
「……そろそろ、ちゃんと相談しないとな」
自分の判断だけで返事をするわけにはいかない。
美雪の人生に関わることなのだから。
身体が入れ替わったからといって、彼女の事情まで勝手に決めていいはずがない。
春馬は、美雪に連絡を入れるため、スマートフォンを操作した。
今日の出来事を伝えたあと、正志からのメッセージについても話そう。
そう決めて、彼は歩き出した。
◇
夜九時。
春馬は、美雪の部屋でスマートフォンを見つめていた。
美雪からメッセージが届いている。
『今日、蓮と話したわ。あなたのことを、いろいろ教えてくれた』
春馬は、すぐに返信した。
『何を言ってた?』
ほどなくして、返事が届いた。
『あなたは、周りの人をよく見ていて、簡単に人を見捨てない人だって』
春馬は、画面を見つめたまま動かなかった。
そんなふうに思われていたとは、知らなかった。
自分はただ、できることをしていただけだ。
誰かが困っていたら手伝う。
友達が落ち込んでいたら、話を聞く。
特別なことをしているつもりはなかった。
それなのに、誰かにとって大切なことだったのなら。
少しだけ、うれしかった。
『……そうか。蓮らしいな』
そう返信すると、すぐにメッセージが届いた。
『あなたは、自分が思っているよりも、周りの人に大切にされているのね』
春馬は、その文章を何度も読み返した。
自分が思っているよりも。
周りの人に大切にされている。
その言葉は、胸の奥に静かに染み込んでいった。
春馬は、ゆっくりと返信した。
『美雪もだよ。由里香は、君のことを本当に大切に思ってる』
今度は、返事が届くまで少し時間がかかった。
やがて、短い文章が表示された。
『……ありがとう』
春馬は、スマートフォンを見つめた。
ほんの短いやり取りだった。
それでも、以前の二人なら、こんな会話をすることはなかったかもしれない。
春馬は、美雪のことを好きだった。
けれど、好きだからこそ、彼女のことを理解しているつもりになっていた。
美雪もまた、春馬の優しさを当たり前のものとして受け取っていたのかもしれない。
今は違う。
相手の生活を送り、相手の友人と話し、相手が見ている世界に触れたからこそ、少しずつわかることがある。
それは、身体が入れ替わる前には気づけなかったことだった。
ふと、春馬は別のメッセージを思い出した。
正志からの、あの短い誘い。
まだ、何も解決していない。
美雪が抱えている問題も、二人が元に戻る方法も、わからないことばかりだ。
それでも、少なくとも一つだけ、以前とは違うことがある。
もう、美雪のことを遠くから見つめているだけではない。
彼女の隣に立ち、彼女が見ている景色を知ろうとしている。
それだけでも、何かが変わり始めている気がした。
春馬は、スマートフォンを置き、窓の外を見つめた。
入れ替わりが始まってから、五日目。
まだ、元に戻る方法は見つかっていない。
明日も、きっと簡単な一日にはならないだろう。
それでも、今日という一日には、確かな意味があった。
舞台の上で浴びた拍手。
自分の言葉に救われたと話してくれた、名前も知らない女子学生。
そして、親友が語ってくれた、自分自身も知らなかった自分の姿。
それらはすべて、春馬の胸に小さな灯をともしていた。
自分にも、誰かの心に残る何かを生み出せるのかもしれない。
そう思えたことが、何よりもうれしかった。
春馬は、ゆっくりと目を閉じた。
明日、何が起きるのかはわからない。
それでも、もう少しだけ前に進んでみたい。
自分のために。
大切な人たちのために。
そして、いつか本当の意味で美雪と向き合うために。
――入れ替わりの五日目。
拍手の向こう側で、春馬の中に、小さな夢が芽生え始めていた。
第7話 完




