第6話 君の知らない親友の顔
朝七時十五分。
黒瀬春馬は、鏡の前で真剣な顔をしていた。
「……よし。今日は完璧だ」
長い黒髪は、昨日よりもきれいにまとまっている。服装にも問題はない。鞄の中には財布とスマートフォン、それから台本。そして、美雪から渡された小さなメモが入っていた。
メモには、今日一日の予定が細かく書き込まれている。
講義の時間。
昼休みに会う友人。
演劇サークルの練習。
帰宅する時間。
そして、最後には太い文字でこう書かれていた。
『絶対に正志と二人きりで会わないこと』
「……何回言うんだよ」
春馬は苦笑した。
もっとも、これを単なる忠告として受け流すつもりはない。
昨日、美雪から聞いた話を思い出せば、彼女がどれほど追い詰められているのか、少しは理解できた気がする。
美雪には、美雪の事情がある。
そして今、自分は彼女の人生を預かっている。
身体が入れ替わったからといって、彼女の大切な人間関係や、これまで築いてきた生活を壊していいはずがない。
春馬はメモを鞄にしまい、玄関を出た。
春の朝の空気は、まだ少し冷たい。
見上げた空には、薄い雲がゆっくりと流れていた。
「今日は雨、降らないよな……?」
念のため、鞄の中に入れた折り畳み傘を確認する。
これまでの人生を考えれば、出かけた途端に雨が降り出しても不思議ではない。
けれど、今日は準備してある。
どんなに運が悪くても、備えておけば何とかなる。
そう自分に言い聞かせ、春馬は駅へと向かった。
いつもと変わらない朝。
それなのに、鏡に映る自分の顔だけが、どうしても自分のものとは思えなかった。
元に戻る方法は、まだ見つかっていない。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
◇
午前十時。
大学の講義室では、春馬の身体になった美雪が、ノートにペンを走らせていた。
昨夜、美雪は春馬の部屋にあったノートを何冊も確認した。
講義の内容だけでなく、課題の締め切りや、教授が強調した部分まで細かく記録されている。
春馬は、想像していた以上に真面目な学生だった。
しかも、意外なことに字まできれいだった。
「……こんなに細かく書いていたのね」
感心したように、ぽつりとつぶやく。
「何を?」
隣の席から翔也の声がした。
「えっ?」
「さっきからノートを見て驚いてるだろ。何か変なことでも書いてあるのか?」
「そ、そういうわけじゃなくて……」
美雪は慌ててノートに視線を戻した。
「自分の字が、思っていたよりきれいだなと思って」
「は?」
翔也は目を丸くした。
「お前、自分の字を知らないのか?」
「そういう意味じゃないわよ」
口にしてから、美雪はしまったと思った。
普段の自分なら、こんな言い方をしても不自然ではない。
けれど、今の自分は春馬なのだ。
少しでも気を抜けば、いつもの癖が出てしまう。
翔也は不思議そうに首をかしげたものの、すぐに気を取り直した。
「まあ、いいや。それより、今日の課題は終わったか?」
「……課題?」
「おい。まさか忘れてるのか?」
美雪の表情が固まった。
昨夜、春馬のノートを確認したとき、課題の締め切りも目にしていたはずだ。
しかし、提出用のファイルがどこに保存されているのかまでは、把握していなかった。
「……少し確認したいことがあるの」
「昨日もそんなこと言ってなかったか?」
「昨日は昨日よ」
「なんだ、その理屈!」
翔也が吹き出した。
美雪も、何とか笑顔を作る。
けれど、内心では焦っていた。
春馬の生活を引き継ぐというのは、想像していた以上に大変だった。
人間関係だけではない。
大学の勉強、課題、予定、アルバイト。
彼が当たり前のようにこなしてきたことを、自分は一つずつ確認しなければならない。
普段、何気なく過ごしている日常の裏側には、本人にしかわからない習慣がある。
それを失敗せずに再現することが、こんなにも難しいとは思わなかった。
そのとき、翔也がふと真面目な顔になった。
「なあ、春馬」
「何?」
「もし何か悩んでるなら、俺に言えよ」
美雪は顔を上げた。
「……どうして?」
「最近のお前、ちょっと変だからさ。何かあったんじゃないかと思って」
胸の奥が、かすかに揺れた。
翔也は、ちゃんと気づいていたのだ。
春馬の様子がいつもと違うことに。
それでも、彼は無理に問い詰めようとはしなかった。
ただ、友人として心配してくれている。
そのことが、美雪には少しだけうれしかった。
「……ありがとう。でも、大丈夫よ」
「またそれか」
翔也は呆れたようにため息をついた。
「お前の『大丈夫』は、どうにも信用できないんだよな」
「ひどい言い方ね」
「ほら、また女の子みたいな言い方!」
「……っ!」
美雪は思わず口を押さえた。
翔也は一瞬きょとんとしたあと、こらえきれずに笑い出した。
「ははっ! 今日のお前、本当にどうしたんだよ!」
「笑わないで!」
「いや、だって!」
近くの学生たちが、何事かとこちらを振り返る。
二人は慌てて声を潜めた。
美雪は心の中で深いため息をつく。
(春馬……あなた、普段どうやってこの人と会話しているの?)
もっとも、その答えは本人に聞いても簡単にはわからないのかもしれない。
長い時間をかけて築かれた友情は、言葉だけで説明できるものではないのだから。
◇
昼休み。
演劇サークルの部室には、いつも以上に賑やかな声が響いていた。
「よし! 今日こそ完璧な演技を見せてやる!」
台本を片手に、蓮が堂々と宣言する。
「昨日も同じことを言っていたぞ」
代表が冷静に指摘した。
「昨日の俺と今日の俺は違います!」
「どこが?」
「気持ちの問題です!」
「……そうか」
代表は、それ以上何も言わなかった。
部室に笑いが広がる。
春馬も、思わず吹き出した。
蓮はいつもこんな調子だ。
大きな夢を語り、失敗しても長く落ち込むことはない。
それでいて、練習が始まれば誰よりも真剣になる。
その切り替えの早さは、昔から変わらない。
「美雪、ちょっといいか?」
蓮が台本を持って近づいてきた。
「今日、この場面を重点的に練習したいんだ」
「どの場面?」
「主人公が、ヒロインに自分の過去を打ち明けるところ」
春馬は台本を受け取った。
ページを開くと、主人公が夢を追い続ける理由を語る場面が記されていた。
家庭の事情。
周囲からの期待。
失敗することへの恐怖。
それでも、夢を諦めたくないという気持ち。
台詞を目で追っていた春馬は、ふと顔を上げた。
「……蓮は、どうして俳優になりたいんだ?」
台本とは関係のない質問だった。
蓮は目を瞬かせた。
「え? 急にどうした?」
「いや、前から少し気になってたんだ。どうして、そこまで俳優になりたいのかなって」
春馬は、美雪の声で尋ねた。
蓮はすぐには答えなかった。
いつものように冗談を返してくると思っていたが、彼は手にしていた台本を閉じ、窓の外へ視線を向けた。
「……子どものころ、ある映画を見たんだ」
「映画?」
「うん。主人公が何もかもうまくいかなくてさ。周りからも見放されて、もう夢を諦めようとしていたんだ」
蓮は、懐かしそうに目を細めた。
「でも、最後に一人だけ、その主人公を信じてくれる人がいた。たった一言だったんだけど、それで主人公はもう一度立ち上がったんだ」
春馬は黙って耳を傾けた。
「そのとき、思ったんだよ。俺も、誰かの心に残る人間になりたいって」
蓮がこちらを向いた。
その瞳には、いつものふざけた様子はなかった。
「映画を見た人が、明日も頑張ろうって思えるような。そんな演技ができたら、最高だろ?」
春馬は言葉を失った。
蓮の夢は、ただ有名になりたいというものではなかった。
誰かの心を動かしたい。
誰かがもう一度立ち上がるための、きっかけになりたい。
自分の演技を通して、誰かの人生に小さな光を届けたい。
そんな願いが、彼の中にはあった。
「……すごいね」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「そうか?」
「うん。私は、すてきな夢だと思う」
蓮は照れくさそうに頬をかいた。
「まあ、まだ夢の途中だけどな」
「途中だからこそ、いいんじゃない?」
春馬は微笑んだ。
「これから先、何が起きるかなんて、誰にもわからないんだから」
その言葉に、蓮は一瞬だけ目を見開いた。
やがて、ゆっくりと笑う。
「……そうだな。ありがとう、美雪」
春馬の胸の奥が、じんわりと温かくなった。
蓮の夢を応援したい。
心から、そう思った。
それは、美雪の身体に入っているからではない。
蓮が、自分にとって大切な親友だからだ。
たとえ今、蓮が目の前にいる自分を美雪だと思っていたとしても。
自分たちが積み重ねてきた時間まで、入れ替わってしまったわけではないのだから。
◇
午後二時半。
練習が始まると、部室の空気は一変した。
蓮は主人公として、春馬はヒロインとして、台本の場面を演じる。
「……俺は、失敗するのが怖いんだ」
蓮の声は、静かだった。
「夢を追いかけて、何も手に入らなかったらどうしようって。自分が何者にもなれなかったら、どうしようって……そんなことばかり考えてしまうんだ」
春馬は、次の台詞を待った。
ヒロインは、主人公の弱さを受け止める。
そして、彼がもう一度前へ進めるように言葉をかける。
「……失敗したって、あなたの価値がなくなるわけじゃない」
春馬は、ゆっくりと口を開いた。
「誰かと比べなくてもいい。あなたには、あなたの歩き方があるんだから」
蓮が顔を上げた。
まっすぐに、春馬の目を見つめる。
その視線に、春馬は一瞬だけ戸惑った。
けれど、目を逸らさずに台詞を続けた。
「だから、自分の夢を嫌いにならないで」
静けさが流れた。
蓮は一歩近づき、春馬の手を取った。
台本に書かれた動作だった。
それでも、指先が触れた瞬間、春馬の心臓は大きく跳ねた。
温かい。
昨日も触れたはずなのに、今日はなぜか、相手の体温がいつも以上にはっきりと伝わってくる。
「……君がそう言ってくれるなら、もう一度頑張れる気がする」
蓮は、まっすぐに春馬を見つめていた。
春馬は次の台詞を言おうとした。
けれど、その前に蓮がほんの少しだけ表情を変えた。
ほんの一瞬。
そこにいたのは、台本の中の主人公ではなく、親友の黒神蓮自身であるように見えた。
「……ありがとう」
その言葉は、台本に書かれた台詞だったのだろうか。
それとも、蓮自身の気持ちだったのだろうか。
春馬には、わからなかった。
「カット!」
代表の声が響いた。
「いいね。二人とも、かなり自然になってきた。特に今の間はよかった。相手の言葉を受け止めてから返しているのが伝わってくる」
周囲から拍手が起こる。
蓮は春馬の手を離し、いつもの笑顔に戻った。
「やっぱり、お前と演じるとやりやすいな」
「……そう?」
「ああ。なんていうか、ちゃんと俺の話を聞いてくれてる感じがするんだ」
春馬は、少し驚いた。
「台本の中の話だよ?」
「もちろん、それもあるけどさ」
蓮は笑った。
「演技って、台詞を言うだけじゃないだろ。相手が何を伝えようとしているのか、ちゃんと受け取ることも大切なんだと思う」
春馬は、静かにうなずいた。
蓮の言葉は、きっと正しい。
相手の気持ちを理解しようとすること。
その人が何を考え、何を恐れ、何を望んでいるのかを知ろうとすること。
それは、演技だけに必要なものではない。
普段の生活でも、人と向き合うために欠かせないことなのだ。
春馬は、ふと美雪のことを思い出した。
自分は、彼女のことをどれほど理解していただろう。
高校時代から知っている。
ずっと好きだった。
だから、彼女のことなら何でもわかっているつもりだった。
けれど、実際には違った。
彼女が家族との関係に悩んでいることも、正志との関係に苦しんでいることも、自分は知らなかった。
好きだという気持ちだけで、相手を理解したつもりになっていたのだ。
(……もっと、ちゃんと知りたいな)
美雪のことを。
彼女が見ている景色も、誰にも言えずに抱えている思いも。
今なら、少しずつ理解できる気がした。
◇
午後五時。
練習が終わり、春馬が部室を出ようとしたときだった。
「美雪!」
背後から声がした。
振り返ると、同じ学部の女子学生が立っていた。
肩までの茶色い髪に、柔らかな笑顔。
春馬は彼女の顔を見たものの、名前がすぐには思い出せなかった。
「……えっと」
「どうしたの? 私の顔、忘れちゃった?」
女子学生は、少しだけ頬を膨らませた。
「私、由里香だよ。久保由里香!」
「あ、由里香! ごめん、ちょっと考え事をしていて」
春馬は慌てて笑顔を作った。
由里香は、まだ少し不満そうだったが、すぐに表情を和らげた。
「もう、しっかりしてよ。昨日も少し変だったし」
そう言って、心配そうに春馬の顔をのぞき込む。
「本当に大丈夫? 最近、何かあった?」
春馬は答えに迷った。
由里香は、美雪の親友だ。
彼女に不自然な態度を見せ続ければ、いつか疑われるかもしれない。
「……少し疲れているだけだよ」
「そう?」
由里香は、まだ納得していない様子だった。
「無理しないでね。何かあったら、いつでも相談していいんだから」
「……ありがとう」
その言葉に、春馬の胸が少しだけ温かくなった。
美雪の周りには、彼女を心配してくれる人がいる。
自分が知らないところで、彼女を支えてくれる人がいるのだ。
そのとき、由里香の視線が春馬の手元に落ちた。
「そういえば、今日の練習はどうだった?」
「え?」
「蓮くんと一緒にヒロインを演じてるんでしょ? すごいよね。二人とも、最近評判になってるみたいだよ」
春馬は驚いた。
「もう、そんなに広まってるの?」
「うん。サークルの人たちが話していたよ。昨日の練習を見た人も、二人の演技が自然だったって言ってた」
由里香は楽しそうに笑った。
「美雪があんなに感情を込めて演技するなんて、ちょっと意外だったな」
春馬は、わずかに視線を落とした。
「……そうかな」
「うん。でも、いいことだと思う」
由里香は、春馬の肩を軽くたたいた。
「美雪って、いつも自分の気持ちを隠すところがあるから。演技を通して、少しずつ自分を表現できるようになったらいいね」
その言葉に、春馬は何も返せなかった。
由里香は、美雪のことをよく知っている。
自分の知らない美雪の一面を、たくさん知っているのだろう。
しっかりしていて、何でも一人でこなせるように見える彼女。
けれど、その内側には、自分にさえ見せていない弱さがあるのかもしれない。
「……由里香」
「何?」
「美雪って、普段どんな人なの?」
尋ねた瞬間、春馬は自分の失敗に気づいた。
由里香が、不思議そうに目を瞬かせる。
「……え?」
「いや、その……自分のことって、意外とわからないものだなって」
苦しい言い訳だった。
由里香はしばらく春馬を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「そうだね。美雪は、しっかりしていて、きれいで、何でも一人でできるように見えるけど……本当は、誰かに頼るのが苦手なんだと思う」
春馬は黙って耳を傾けた。
「昔からそうだったよ。困っていても、つらくても、平気な顔をするの。だから、私は美雪がもっと人に頼れるようになってほしいなって思ってる」
「……そうなんだ」
「うん。もちろん、私だって美雪のことを何でもわかっているわけじゃないけどね」
由里香は、少し照れたように笑った。
「それでも、美雪が本当に困っているときは、力になりたいと思ってるよ」
春馬は、その言葉を胸に刻んだ。
美雪には、彼女を大切に思う人がいる。
彼女の弱さを知り、それでもそばにいたいと思ってくれる友人がいる。
自分がずっと遠くから見つめているだけだった頃、そんな当たり前のことさえ、深く考えたことはなかった。
美雪は、自分の知らない場所で、自分とは違う人生を生きてきた。
そこには、彼女だけの思い出があり、大切な人たちがいて、誰にも見せていない弱さがある。
それを少しずつ知っていくことが、今の自分にできることなのかもしれない。
「……ありがとう、由里香」
「どういたしまして。じゃあ、また明日ね!」
由里香は手を振り、廊下の向こうへ歩いていった。
春馬は、その背中をしばらく見送った。
「……美雪も、いろいろ大変なんだな」
誰に聞かせるでもなく、そっとつぶやく。
その声は、いつもより少しだけ優しかった。
◇
午後七時。
大学からの帰り道、春馬はふと足を止めた。
スマートフォンの画面には、正志からのメッセージが表示されていた。
『今夜、少し会えないか?』
短い文章だった。
それなのに、昨日、美雪が話してくれたことが頭の中によみがえる。
父親の期待。
家同士の付き合い。
自分の気持ちとは関係なく、恋人のふりを続けなければならない苦しさ。
そして、彼女から念を押された忠告。
『絶対に正志と二人きりで会わないこと』
「……これは、慎重に対応しないとな」
春馬は、すぐには返信しなかった。
美雪に相談せず、勝手に返事をするわけにはいかない。
彼は画面を閉じ、まず美雪に連絡を入れることにした。
たとえ自分が彼女の身体で生活していても、彼女の人生に関わる大切なことまで、一人で決めていいはずがない。
春馬は、改めてそう思った。
◇
午後九時。
美雪の部屋で、春馬はベッドに腰を下ろしていた。
今日一日を振り返ると、いくつもの出来事が頭に浮かぶ。
蓮が俳優を目指す理由。
演技を通して知った、親友のまっすぐな夢。
由里香が語ってくれた、美雪の知られざる一面。
そして、正志から届いたメッセージ。
誰かと向き合うということは、その人の表面だけを見ることではない。
その人がどんな思いを抱えて生きてきたのか。
何を恐れ、何を大切にし、どんな未来を望んでいるのか。
それを知ろうとすることなのだろう。
身体が入れ替わる前の自分は、美雪のことを好きだった。
けれど、好きだからといって、彼女のことを理解していたわけではなかった。
今になって、ようやくそのことに気づき始めている。
スマートフォンが震えた。
美雪からのメッセージだった。
『今日、翔也と話したわ。あなたのことを、少しだけ理解できた気がする』
春馬は画面を見つめた。
そして、ゆっくりと返信を打った。
『俺も由里香と話したよ。美雪のことを少し聞けた』
ほどなくして、返事が届く。
『……そう。由里香は、私の大切な友達だから』
『うん。わかってる』
春馬は、少し考えてから、もう一通送った。
『美雪。俺たち、今まで相手のことを知っているつもりで、本当は何も知らなかったんだな』
送信してから、春馬はスマートフォンを見つめた。
すぐには返事が来なかった。
一分。
二分。
静かな部屋の中で、時計の針が進む音だけが聞こえる気がした。
やがて、画面が光った。
『……そうかもしれない』
短い返事だった。
けれど、春馬には、その一言が妙に心に残った。
美雪は今、どんな顔をしているのだろう。
少し寂しそうにしているのか。
それとも、自分と同じように、これまでのことを振り返っているのか。
考えても、答えはわからない。
ただ、以前のように遠くから彼女を見つめているだけでは、気づけなかったことがある。
美雪もまた、自分の知らない場所で、自分のことを考えている。
それだけで、ほんの少し救われた気がした。
春馬はスマートフォンを置き、ベッドに横になった。
明日も大学がある。
演劇サークルの練習もある。
そして、いつか必ず、元に戻る方法を見つけなければならない。
目を閉じる直前、春馬はふと思った。
もし、あの日、身体が入れ替わらなかったら。
もし、神様に願いを口にしなかったら。
自分は今も、美雪のことを遠くから見つめているだけだったのだろうか。
答えはわからない。
けれど、少なくとも今は、以前とは違う。
彼女の世界に触れたことで、自分の世界も少しずつ変わり始めている。
その変化が、いつか二人をどこへ導くのか。
まだ、誰にもわからない。
ただ一つ、確かなことがあった。
相手の人生を知ることは、相手の気持ちを理解するための、最初の一歩なのだ。
春馬はそのことを胸に刻み、静かに目を閉じた。
――入れ替わりの四日目。
二人の距離は、ほんの少しだけ近づいていた。
第6話 完




