↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君の身体で、君に恋をした。』 ――入れ替わった僕たちが、本当の愛を見つけるまで――  作者: 綾小路如月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/19

第6話 君の知らない親友の顔

 朝七時十五分。


 黒瀬春馬は、鏡の前で真剣な顔をしていた。


「……よし。今日は完璧だ」


 長い黒髪は、昨日よりもきれいにまとまっている。服装にも問題はない。鞄の中には財布とスマートフォン、それから台本。そして、美雪から渡された小さなメモが入っていた。


 メモには、今日一日の予定が細かく書き込まれている。


 講義の時間。

 昼休みに会う友人。

 演劇サークルの練習。

 帰宅する時間。


 そして、最後には太い文字でこう書かれていた。


『絶対に正志と二人きりで会わないこと』


「……何回言うんだよ」


 春馬は苦笑した。


 もっとも、これを単なる忠告として受け流すつもりはない。


 昨日、美雪から聞いた話を思い出せば、彼女がどれほど追い詰められているのか、少しは理解できた気がする。


 美雪には、美雪の事情がある。


 そして今、自分は彼女の人生を預かっている。


 身体が入れ替わったからといって、彼女の大切な人間関係や、これまで築いてきた生活を壊していいはずがない。


 春馬はメモを鞄にしまい、玄関を出た。


 春の朝の空気は、まだ少し冷たい。


 見上げた空には、薄い雲がゆっくりと流れていた。


「今日は雨、降らないよな……?」


 念のため、鞄の中に入れた折り畳み傘を確認する。


 これまでの人生を考えれば、出かけた途端に雨が降り出しても不思議ではない。


 けれど、今日は準備してある。


 どんなに運が悪くても、備えておけば何とかなる。


 そう自分に言い聞かせ、春馬は駅へと向かった。


 いつもと変わらない朝。


 それなのに、鏡に映る自分の顔だけが、どうしても自分のものとは思えなかった。


 元に戻る方法は、まだ見つかっていない。


 それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。


◇


 午前十時。


 大学の講義室では、春馬の身体になった美雪が、ノートにペンを走らせていた。


 昨夜、美雪は春馬の部屋にあったノートを何冊も確認した。


 講義の内容だけでなく、課題の締め切りや、教授が強調した部分まで細かく記録されている。


 春馬は、想像していた以上に真面目な学生だった。


 しかも、意外なことに字まできれいだった。


「……こんなに細かく書いていたのね」


 感心したように、ぽつりとつぶやく。


「何を?」


 隣の席から翔也の声がした。


「えっ?」


「さっきからノートを見て驚いてるだろ。何か変なことでも書いてあるのか?」


「そ、そういうわけじゃなくて……」


 美雪は慌ててノートに視線を戻した。


「自分の字が、思っていたよりきれいだなと思って」


「は?」


 翔也は目を丸くした。


「お前、自分の字を知らないのか?」


「そういう意味じゃないわよ」


 口にしてから、美雪はしまったと思った。


 普段の自分なら、こんな言い方をしても不自然ではない。


 けれど、今の自分は春馬なのだ。


 少しでも気を抜けば、いつもの癖が出てしまう。


 翔也は不思議そうに首をかしげたものの、すぐに気を取り直した。


「まあ、いいや。それより、今日の課題は終わったか?」


「……課題?」


「おい。まさか忘れてるのか?」


 美雪の表情が固まった。


 昨夜、春馬のノートを確認したとき、課題の締め切りも目にしていたはずだ。


 しかし、提出用のファイルがどこに保存されているのかまでは、把握していなかった。


「……少し確認したいことがあるの」


「昨日もそんなこと言ってなかったか?」


「昨日は昨日よ」


「なんだ、その理屈!」


 翔也が吹き出した。


 美雪も、何とか笑顔を作る。


 けれど、内心では焦っていた。


 春馬の生活を引き継ぐというのは、想像していた以上に大変だった。


 人間関係だけではない。


 大学の勉強、課題、予定、アルバイト。


 彼が当たり前のようにこなしてきたことを、自分は一つずつ確認しなければならない。


 普段、何気なく過ごしている日常の裏側には、本人にしかわからない習慣がある。


 それを失敗せずに再現することが、こんなにも難しいとは思わなかった。


 そのとき、翔也がふと真面目な顔になった。


「なあ、春馬」


「何?」


「もし何か悩んでるなら、俺に言えよ」


 美雪は顔を上げた。


「……どうして?」


「最近のお前、ちょっと変だからさ。何かあったんじゃないかと思って」


 胸の奥が、かすかに揺れた。


 翔也は、ちゃんと気づいていたのだ。


 春馬の様子がいつもと違うことに。


 それでも、彼は無理に問い詰めようとはしなかった。


 ただ、友人として心配してくれている。


 そのことが、美雪には少しだけうれしかった。


「……ありがとう。でも、大丈夫よ」


「またそれか」


 翔也は呆れたようにため息をついた。


「お前の『大丈夫』は、どうにも信用できないんだよな」


「ひどい言い方ね」


「ほら、また女の子みたいな言い方!」


「……っ!」


 美雪は思わず口を押さえた。


 翔也は一瞬きょとんとしたあと、こらえきれずに笑い出した。


「ははっ! 今日のお前、本当にどうしたんだよ!」


「笑わないで!」


「いや、だって!」


 近くの学生たちが、何事かとこちらを振り返る。


 二人は慌てて声を潜めた。


 美雪は心の中で深いため息をつく。


(春馬……あなた、普段どうやってこの人と会話しているの?)


 もっとも、その答えは本人に聞いても簡単にはわからないのかもしれない。


 長い時間をかけて築かれた友情は、言葉だけで説明できるものではないのだから。


◇


 昼休み。


 演劇サークルの部室には、いつも以上に賑やかな声が響いていた。


「よし! 今日こそ完璧な演技を見せてやる!」


 台本を片手に、蓮が堂々と宣言する。


「昨日も同じことを言っていたぞ」


 代表が冷静に指摘した。


「昨日の俺と今日の俺は違います!」


「どこが?」


「気持ちの問題です!」


「……そうか」


 代表は、それ以上何も言わなかった。


 部室に笑いが広がる。


 春馬も、思わず吹き出した。


 蓮はいつもこんな調子だ。


 大きな夢を語り、失敗しても長く落ち込むことはない。


 それでいて、練習が始まれば誰よりも真剣になる。


 その切り替えの早さは、昔から変わらない。


「美雪、ちょっといいか?」


 蓮が台本を持って近づいてきた。


「今日、この場面を重点的に練習したいんだ」


「どの場面?」


「主人公が、ヒロインに自分の過去を打ち明けるところ」


 春馬は台本を受け取った。


 ページを開くと、主人公が夢を追い続ける理由を語る場面が記されていた。


 家庭の事情。


 周囲からの期待。


 失敗することへの恐怖。


 それでも、夢を諦めたくないという気持ち。


 台詞を目で追っていた春馬は、ふと顔を上げた。


「……蓮は、どうして俳優になりたいんだ?」


 台本とは関係のない質問だった。


 蓮は目を瞬かせた。


「え? 急にどうした?」


「いや、前から少し気になってたんだ。どうして、そこまで俳優になりたいのかなって」


 春馬は、美雪の声で尋ねた。


 蓮はすぐには答えなかった。


 いつものように冗談を返してくると思っていたが、彼は手にしていた台本を閉じ、窓の外へ視線を向けた。


「……子どものころ、ある映画を見たんだ」


「映画?」


「うん。主人公が何もかもうまくいかなくてさ。周りからも見放されて、もう夢を諦めようとしていたんだ」


 蓮は、懐かしそうに目を細めた。


「でも、最後に一人だけ、その主人公を信じてくれる人がいた。たった一言だったんだけど、それで主人公はもう一度立ち上がったんだ」


 春馬は黙って耳を傾けた。


「そのとき、思ったんだよ。俺も、誰かの心に残る人間になりたいって」


 蓮がこちらを向いた。


 その瞳には、いつものふざけた様子はなかった。


「映画を見た人が、明日も頑張ろうって思えるような。そんな演技ができたら、最高だろ?」


 春馬は言葉を失った。


 蓮の夢は、ただ有名になりたいというものではなかった。


 誰かの心を動かしたい。


 誰かがもう一度立ち上がるための、きっかけになりたい。


 自分の演技を通して、誰かの人生に小さな光を届けたい。


 そんな願いが、彼の中にはあった。


「……すごいね」


 気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。


「そうか?」


「うん。私は、すてきな夢だと思う」


 蓮は照れくさそうに頬をかいた。


「まあ、まだ夢の途中だけどな」


「途中だからこそ、いいんじゃない?」


 春馬は微笑んだ。


「これから先、何が起きるかなんて、誰にもわからないんだから」


 その言葉に、蓮は一瞬だけ目を見開いた。


 やがて、ゆっくりと笑う。


「……そうだな。ありがとう、美雪」


 春馬の胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 蓮の夢を応援したい。


 心から、そう思った。


 それは、美雪の身体に入っているからではない。


 蓮が、自分にとって大切な親友だからだ。


 たとえ今、蓮が目の前にいる自分を美雪だと思っていたとしても。


 自分たちが積み重ねてきた時間まで、入れ替わってしまったわけではないのだから。


◇


 午後二時半。


 練習が始まると、部室の空気は一変した。


 蓮は主人公として、春馬はヒロインとして、台本の場面を演じる。


「……俺は、失敗するのが怖いんだ」


 蓮の声は、静かだった。


「夢を追いかけて、何も手に入らなかったらどうしようって。自分が何者にもなれなかったら、どうしようって……そんなことばかり考えてしまうんだ」


 春馬は、次の台詞を待った。


 ヒロインは、主人公の弱さを受け止める。


 そして、彼がもう一度前へ進めるように言葉をかける。


「……失敗したって、あなたの価値がなくなるわけじゃない」


 春馬は、ゆっくりと口を開いた。


「誰かと比べなくてもいい。あなたには、あなたの歩き方があるんだから」


 蓮が顔を上げた。


 まっすぐに、春馬の目を見つめる。


 その視線に、春馬は一瞬だけ戸惑った。


 けれど、目を逸らさずに台詞を続けた。


「だから、自分の夢を嫌いにならないで」


 静けさが流れた。


 蓮は一歩近づき、春馬の手を取った。


 台本に書かれた動作だった。


 それでも、指先が触れた瞬間、春馬の心臓は大きく跳ねた。


 温かい。


 昨日も触れたはずなのに、今日はなぜか、相手の体温がいつも以上にはっきりと伝わってくる。


「……君がそう言ってくれるなら、もう一度頑張れる気がする」


 蓮は、まっすぐに春馬を見つめていた。


 春馬は次の台詞を言おうとした。


 けれど、その前に蓮がほんの少しだけ表情を変えた。


 ほんの一瞬。


 そこにいたのは、台本の中の主人公ではなく、親友の黒神蓮自身であるように見えた。


「……ありがとう」


 その言葉は、台本に書かれた台詞だったのだろうか。


 それとも、蓮自身の気持ちだったのだろうか。


 春馬には、わからなかった。


「カット!」


 代表の声が響いた。


「いいね。二人とも、かなり自然になってきた。特に今の間はよかった。相手の言葉を受け止めてから返しているのが伝わってくる」


 周囲から拍手が起こる。


 蓮は春馬の手を離し、いつもの笑顔に戻った。


「やっぱり、お前と演じるとやりやすいな」


「……そう?」


「ああ。なんていうか、ちゃんと俺の話を聞いてくれてる感じがするんだ」


 春馬は、少し驚いた。


「台本の中の話だよ?」


「もちろん、それもあるけどさ」


 蓮は笑った。


「演技って、台詞を言うだけじゃないだろ。相手が何を伝えようとしているのか、ちゃんと受け取ることも大切なんだと思う」


 春馬は、静かにうなずいた。


 蓮の言葉は、きっと正しい。


 相手の気持ちを理解しようとすること。


 その人が何を考え、何を恐れ、何を望んでいるのかを知ろうとすること。


 それは、演技だけに必要なものではない。


 普段の生活でも、人と向き合うために欠かせないことなのだ。


 春馬は、ふと美雪のことを思い出した。


 自分は、彼女のことをどれほど理解していただろう。


 高校時代から知っている。


 ずっと好きだった。


 だから、彼女のことなら何でもわかっているつもりだった。


 けれど、実際には違った。


 彼女が家族との関係に悩んでいることも、正志との関係に苦しんでいることも、自分は知らなかった。


 好きだという気持ちだけで、相手を理解したつもりになっていたのだ。


(……もっと、ちゃんと知りたいな)


 美雪のことを。


 彼女が見ている景色も、誰にも言えずに抱えている思いも。


 今なら、少しずつ理解できる気がした。


◇


 午後五時。


 練習が終わり、春馬が部室を出ようとしたときだった。


「美雪!」


 背後から声がした。


 振り返ると、同じ学部の女子学生が立っていた。


 肩までの茶色い髪に、柔らかな笑顔。


 春馬は彼女の顔を見たものの、名前がすぐには思い出せなかった。


「……えっと」


「どうしたの? 私の顔、忘れちゃった?」


 女子学生は、少しだけ頬を膨らませた。


「私、由里香だよ。久保由里香!」


「あ、由里香! ごめん、ちょっと考え事をしていて」


 春馬は慌てて笑顔を作った。


 由里香は、まだ少し不満そうだったが、すぐに表情を和らげた。


「もう、しっかりしてよ。昨日も少し変だったし」


 そう言って、心配そうに春馬の顔をのぞき込む。


「本当に大丈夫? 最近、何かあった?」


 春馬は答えに迷った。


 由里香は、美雪の親友だ。


 彼女に不自然な態度を見せ続ければ、いつか疑われるかもしれない。


「……少し疲れているだけだよ」


「そう?」


 由里香は、まだ納得していない様子だった。


「無理しないでね。何かあったら、いつでも相談していいんだから」


「……ありがとう」


 その言葉に、春馬の胸が少しだけ温かくなった。


 美雪の周りには、彼女を心配してくれる人がいる。


 自分が知らないところで、彼女を支えてくれる人がいるのだ。


 そのとき、由里香の視線が春馬の手元に落ちた。


「そういえば、今日の練習はどうだった?」


「え?」


「蓮くんと一緒にヒロインを演じてるんでしょ? すごいよね。二人とも、最近評判になってるみたいだよ」


 春馬は驚いた。


「もう、そんなに広まってるの?」


「うん。サークルの人たちが話していたよ。昨日の練習を見た人も、二人の演技が自然だったって言ってた」


 由里香は楽しそうに笑った。


「美雪があんなに感情を込めて演技するなんて、ちょっと意外だったな」


 春馬は、わずかに視線を落とした。


「……そうかな」


「うん。でも、いいことだと思う」


 由里香は、春馬の肩を軽くたたいた。


「美雪って、いつも自分の気持ちを隠すところがあるから。演技を通して、少しずつ自分を表現できるようになったらいいね」


 その言葉に、春馬は何も返せなかった。


 由里香は、美雪のことをよく知っている。


 自分の知らない美雪の一面を、たくさん知っているのだろう。


 しっかりしていて、何でも一人でこなせるように見える彼女。


 けれど、その内側には、自分にさえ見せていない弱さがあるのかもしれない。


「……由里香」


「何?」


「美雪って、普段どんな人なの?」


 尋ねた瞬間、春馬は自分の失敗に気づいた。


 由里香が、不思議そうに目を瞬かせる。


「……え?」


「いや、その……自分のことって、意外とわからないものだなって」


 苦しい言い訳だった。


 由里香はしばらく春馬を見つめていたが、やがて小さく笑った。


「そうだね。美雪は、しっかりしていて、きれいで、何でも一人でできるように見えるけど……本当は、誰かに頼るのが苦手なんだと思う」


 春馬は黙って耳を傾けた。


「昔からそうだったよ。困っていても、つらくても、平気な顔をするの。だから、私は美雪がもっと人に頼れるようになってほしいなって思ってる」


「……そうなんだ」


「うん。もちろん、私だって美雪のことを何でもわかっているわけじゃないけどね」


 由里香は、少し照れたように笑った。


「それでも、美雪が本当に困っているときは、力になりたいと思ってるよ」


 春馬は、その言葉を胸に刻んだ。


 美雪には、彼女を大切に思う人がいる。


 彼女の弱さを知り、それでもそばにいたいと思ってくれる友人がいる。


 自分がずっと遠くから見つめているだけだった頃、そんな当たり前のことさえ、深く考えたことはなかった。


 美雪は、自分の知らない場所で、自分とは違う人生を生きてきた。


 そこには、彼女だけの思い出があり、大切な人たちがいて、誰にも見せていない弱さがある。


 それを少しずつ知っていくことが、今の自分にできることなのかもしれない。


「……ありがとう、由里香」


「どういたしまして。じゃあ、また明日ね!」


 由里香は手を振り、廊下の向こうへ歩いていった。


 春馬は、その背中をしばらく見送った。


「……美雪も、いろいろ大変なんだな」


 誰に聞かせるでもなく、そっとつぶやく。


 その声は、いつもより少しだけ優しかった。


◇


 午後七時。


 大学からの帰り道、春馬はふと足を止めた。


 スマートフォンの画面には、正志からのメッセージが表示されていた。


『今夜、少し会えないか?』


 短い文章だった。


 それなのに、昨日、美雪が話してくれたことが頭の中によみがえる。


 父親の期待。


 家同士の付き合い。


 自分の気持ちとは関係なく、恋人のふりを続けなければならない苦しさ。


 そして、彼女から念を押された忠告。


『絶対に正志と二人きりで会わないこと』


「……これは、慎重に対応しないとな」


 春馬は、すぐには返信しなかった。


 美雪に相談せず、勝手に返事をするわけにはいかない。


 彼は画面を閉じ、まず美雪に連絡を入れることにした。


 たとえ自分が彼女の身体で生活していても、彼女の人生に関わる大切なことまで、一人で決めていいはずがない。


 春馬は、改めてそう思った。


◇


 午後九時。


 美雪の部屋で、春馬はベッドに腰を下ろしていた。


 今日一日を振り返ると、いくつもの出来事が頭に浮かぶ。


 蓮が俳優を目指す理由。


 演技を通して知った、親友のまっすぐな夢。


 由里香が語ってくれた、美雪の知られざる一面。


 そして、正志から届いたメッセージ。


 誰かと向き合うということは、その人の表面だけを見ることではない。


 その人がどんな思いを抱えて生きてきたのか。


 何を恐れ、何を大切にし、どんな未来を望んでいるのか。


 それを知ろうとすることなのだろう。


 身体が入れ替わる前の自分は、美雪のことを好きだった。


 けれど、好きだからといって、彼女のことを理解していたわけではなかった。


 今になって、ようやくそのことに気づき始めている。


 スマートフォンが震えた。


 美雪からのメッセージだった。


『今日、翔也と話したわ。あなたのことを、少しだけ理解できた気がする』


 春馬は画面を見つめた。


 そして、ゆっくりと返信を打った。


『俺も由里香と話したよ。美雪のことを少し聞けた』


 ほどなくして、返事が届く。


『……そう。由里香は、私の大切な友達だから』


『うん。わかってる』


 春馬は、少し考えてから、もう一通送った。


『美雪。俺たち、今まで相手のことを知っているつもりで、本当は何も知らなかったんだな』


 送信してから、春馬はスマートフォンを見つめた。


 すぐには返事が来なかった。


 一分。


 二分。


 静かな部屋の中で、時計の針が進む音だけが聞こえる気がした。


 やがて、画面が光った。


『……そうかもしれない』


 短い返事だった。


 けれど、春馬には、その一言が妙に心に残った。


 美雪は今、どんな顔をしているのだろう。


 少し寂しそうにしているのか。


 それとも、自分と同じように、これまでのことを振り返っているのか。


 考えても、答えはわからない。


 ただ、以前のように遠くから彼女を見つめているだけでは、気づけなかったことがある。


 美雪もまた、自分の知らない場所で、自分のことを考えている。


 それだけで、ほんの少し救われた気がした。


 春馬はスマートフォンを置き、ベッドに横になった。


 明日も大学がある。


 演劇サークルの練習もある。


 そして、いつか必ず、元に戻る方法を見つけなければならない。


 目を閉じる直前、春馬はふと思った。


 もし、あの日、身体が入れ替わらなかったら。


 もし、神様に願いを口にしなかったら。


 自分は今も、美雪のことを遠くから見つめているだけだったのだろうか。


 答えはわからない。


 けれど、少なくとも今は、以前とは違う。


 彼女の世界に触れたことで、自分の世界も少しずつ変わり始めている。


 その変化が、いつか二人をどこへ導くのか。


 まだ、誰にもわからない。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 相手の人生を知ることは、相手の気持ちを理解するための、最初の一歩なのだ。


 春馬はそのことを胸に刻み、静かに目を閉じた。


 ――入れ替わりの四日目。


 二人の距離は、ほんの少しだけ近づいていた。


第6話 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。