第4話 彼氏からの電話、親友が知る秘密
午前六時四十分。
静かな朝の空気を切り裂くように、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。
「……ん、もう朝かよ……」
ベッドの中で寝返りを打った黒瀬春馬は、眠そうに目をこすった。
いや、正確には――春馬の意識が宿っているのは、西園寺美雪の身体だった。
昨日まで当たり前だった自分の生活は、突然、見知らぬ誰かのものになってしまった。
鏡を見るたびに、自分ではない顔が映る。
声を出すたびに、聞き慣れない声が耳に届く。
それでも、大学へ行き、授業を受け、人と話し、まるで西園寺美雪本人であるかのように振る舞わなければならない。
考えれば考えるほど、頭が痛くなった。
「……頼むから、せめて朝くらい静かにさせてくれ」
春馬は枕元に手を伸ばし、スマートフォンをつかんだ。
画面に表示されていた名前を見た瞬間、眠気が吹き飛んだ。
――山本正志。
「……誰だ、こいつ」
思わず声に出してから、春馬は慌てて口を押さえた。
違う。自分が知らないのは当然だ。
これは美雪のスマートフォンで、美雪の人間関係なのだから。
しかし、昨日の出来事が頭をよぎる。
学校で見かけた美雪の姿。
そして、彼女が男とキスをしていた光景。
あのときの胸の痛みは、今でも完全には消えていなかった。
春馬は、美雪のことが好きだった。
その気持ちを伝えられないまま、時間だけが過ぎていった。
自分には、彼女の隣に立つ資格なんてない。そう思い込んでいたからだ。
だからこそ、あの光景を見たとき、何も言えなかった。
ただ、自分の気持ちに蓋をするしかなかった。
「……今さら、何を考えてるんだよ」
春馬は小さく笑った。
笑うしかなかった。
そして、鳴り続けるスマートフォンを見つめる。
電話に出なければ、不自然に思われるかもしれない。
春馬は意を決して、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『おはよう、美雪。今、起きたところ?』
電話の向こうから、男の声が聞こえた。
親しげな声だった。
まるで、毎朝こうして連絡を取り合っているかのように。
「あ、ああ……おはよう」
春馬は一瞬、返事に詰まった。
美雪のふりをしなければならない。
それは分かっている。
だが、自分が誰かの大切な人間関係に入り込んでいるという事実が、どうにも落ち着かなかった。
『今日、時間ある? 少し会えないかな』
「今日……?」
『うん。最近、ちゃんと話せてないだろ?』
春馬は唇を結んだ。
どう答えればいいのか分からない。
会う約束をしてしまえば、あとで美雪を困らせるかもしれない。
かといって、理由もなく断れば、彼女の立場を悪くしてしまう可能性もある。
「ごめん。今日は演劇サークルの練習があるんだ。終わったら、こっちから連絡するよ」
春馬は慎重に言葉を選んだ。
『そっか。分かった。無理しないでね』
「ああ……ありがとう」
『じゃあ、またあとで』
通話が切れた。
春馬はスマートフォンを下ろし、深いため息をついた。
「……朝から疲れた」
けれど、疲れの原因は電話だけではなかった。
山本正志という男。
美雪の恋人だと思っていた人物。
彼の声には、少なくとも表面上は、彼女を気遣うような優しさがあった。
昨日見たキスの光景が、再び脳裏をよぎる。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
だが、春馬は首を横に振った。
「俺には関係ない。……今の俺は、美雪なんだから」
そう言い聞かせると、彼はベッドから起き上がった。
今日もまた、自分ではない誰かの人生を生きなければならない。
そして、その人生には、まだ自分の知らない秘密が隠されている。
◇
午前九時二十分。
大学の演劇サークルの部室には、いつもより少し緊張した空気が流れていた。
「じゃあ、今日は昨日の続きから始めようか」
部員たちをまとめていた先輩の声に、何人かが返事をする。
春馬は台本を握り直した。
慣れない場所。
慣れない人間関係。
そして、自分とは違う身体。
何もかもが落ち着かない。
それでも、ここで失敗するわけにはいかなかった。
美雪が築いてきた居場所を、自分のせいで壊したくなかったからだ。
「美雪、準備できた?」
声をかけてきたのは、黒神蓮だった。
春馬の友人であり、今回の舞台では相手役を務める人物だ。
「ああ。大丈夫」
「……なんか今日、いつもより緊張してない?」
「えっ?」
「いや、昨日からちょっと様子が違うっていうか。なんか考え事してる感じがする」
春馬の心臓が跳ねた。
蓮は普段からよく周囲を見ている。
親しい友人だからこそ、わずかな変化にも気づいてしまうのだろう。
「そ、そうかな。ちょっと寝不足なだけだよ」
「ならいいけど。無理すんなよ」
蓮はそれ以上追及せず、台本を開いた。
その何気ない気遣いに、春馬は少しだけ胸が温かくなった。
美雪の身体で過ごすようになってから、彼女の周囲には、自分の知らない人間関係がいくつもあることを知った。
そして、その一つ一つを理解するたびに、彼女がどんな生活を送ってきたのか、少しずつ見えてくる気がした。
「じゃあ、始めようか」
蓮が舞台の中央へ移動する。
春馬も台本を手に、指定された位置へ立った。
今回の場面は、主人公が何度失敗しても夢を諦めず、大切な人に自分の気持ちを伝えるシーンだった。
相手役の蓮が、台本に書かれた台詞を口にする。
「お前がどれだけ頑張ってきたか、俺は知ってる。だから、自分のことまで否定するなよ」
その言葉を聞いた瞬間、春馬の指先がわずかに震えた。
台本の中の台詞にすぎない。
自分に向けられた言葉ではない。
それなのに、胸の奥にしまい込んでいた感情が、ゆっくりと揺さぶられた。
頑張れば、いつか報われる。
努力を続ければ、いつか誰かが認めてくれる。
春馬は、ずっとそう信じて生きてきた。
貧しい生活の中でも、誰かに迷惑をかけないように働き、勉強し、できることを一つずつ積み重ねてきた。
苦しくても、誰かの前では笑っていた。
自分が我慢すればいい。
自分が耐えればいい。
そう考えることが、いつの間にか当たり前になっていた。
けれど――。
努力したからといって、必ず報われるわけではない。
優しくしたからといって、必ず想いが届くわけでもない。
好きな人ができても、その気持ちを伝える勇気がなければ、何も始まらない。
そして、気づいたときには、もう遅いことだってある。
「……っ」
春馬は、無意識に台本を強く握りしめていた。
「美雪?」
蓮の声で、我に返る。
「……ごめん。続けて」
「本当に大丈夫か?」
「うん。大丈夫だから」
春馬は笑顔を作った。
だが、その笑顔は自分でも分かるほどぎこちなかった。
蓮は少しだけ春馬を見つめたあと、静かに言った。
「じゃあ、もう一回やろう。今度は、焦らなくていいから」
「……ありがとう」
春馬は台本に視線を落とした。
そして、ゆっくりと息を吸い込んだ。
演技だからこそ、口にできる言葉がある。
自分の気持ちではないふりをすれば、伝えられる想いがある。
もしかしたら、自分はずっと、それを求めていたのかもしれない。
誰かに気づいてほしかった。
自分も、本当は苦しかったのだと。
自分だって、誰かに頼りたかったのだと。
けれど、それを口にすることはできなかった。
だから今だけは、台本の中の人物に自分の気持ちを重ねる。
春馬は顔を上げた。
そして、台詞を口にした。
「……それでも、俺は諦めたくないんだ」
声が、わずかに震えた。
「頑張ってきた時間が、全部無駄だったなんて思いたくない。たとえ、今は何も手に入らなくても……自分が信じてきたものまで、失いたくないんだ」
部室が静かになった。
春馬自身も、言葉を口にしたあとで驚いていた。
これは演技だ。
そう分かっているのに、胸の奥から溢れ出した感情は、演技だけでは説明できなかった。
蓮はしばらく黙っていた。
やがて、台本を下ろし、穏やかに笑った。
「……今の、よかった」
「え?」
「なんていうか、すごく伝わってきた。台詞を読んでるっていうより、本当にそう思ってるみたいだった」
春馬は返事ができなかった。
褒められたことが、嬉しかった。
それ以上に、自分の中にある気持ちが、ほんの少しでも誰かに届いたことが嬉しかった。
けれど、同時に、切なかった。
自分の本当の姿を知らない相手からの言葉だからこそ、素直に受け取れない気がしたのだ。
「……ありがとう、蓮」
春馬は小さく笑った。
今度の笑顔は、さっきよりも少しだけ自然だった。
◇
同じ頃。
大学の食堂では、宮崎翔也が向かいの席に座る友人を不思議そうに見つめていた。
「なあ、春馬。お前、今日なんか変じゃないか?」
「えっ?」
宮崎翔也。
黒瀬春馬の友人であり、普段から彼の様子をよく知っている人物だった。
もちろん、今その身体の中にいるのは、西園寺美雪だ。
美雪は箸を持つ手を止めた。
「そ、そうかな?」
「そうだよ。なんか、いつもより静かだし。いつもなら、俺が話しかける前に『腹減った』とか言い出すだろ」
「……そんなに?」
「そんなに」
翔也は即答した。
美雪は困ったように笑った。
春馬の身体で過ごすようになってから、何度も同じような場面に遭遇している。
周囲の人間は、彼女を春馬だと思って接してくる。
当たり前だ。
見た目も、声も、すべて春馬のものなのだから。
しかし、彼らが話す春馬の姿は、美雪が知っていたものとは少し違っていた。
「……翔也って、春馬と長い付き合いなの?」
「まあな。大学に入ってからずっと一緒ってわけじゃないけど、あいつとはいろいろあったから」
翔也は水を一口飲んだ。
「春馬ってさ、昔からあんまり自分のこと話さないんだよ」
「自分のこと?」
「うん。困ってることがあっても、平気な顔するし。金がなくても、なんとかなるって言うし。無理してるくせに、誰かが困ってたらそっちを優先するんだ」
美雪は、思わず視線を落とした。
昨夜、春馬の部屋で過ごした時間が頭に浮かんだ。
必要最低限の家具。
使い込まれた机。
きちんと整理されているのに、どこか寂しさを感じさせる部屋。
そこには、彼がこれまで生きてきた時間が、静かに積み重なっているようだった。
美雪は、それまで春馬のことをどこまで知っていただろう。
同じ学校にいたこと。
時折、こちらを見ている気がしたこと。
優しそうな人だと思ったこと。
それくらいだった。
彼がどんな生活をしているのか。
何を我慢してきたのか。
どんな気持ちで毎日を過ごしているのか。
美雪は、何も知らなかった。
「……どうして、そこまで無理するんだろうね」
思わず口にすると、翔也は少しだけ表情を曇らせた。
「さあな。でも、あいつにはあいつなりの理由があるんだと思う」
「理由……」
「昔からそうなんだよ。自分がつらくても、周りには笑っててほしいみたいなところがある。誰かが落ち込んでたら、真っ先に声をかけるくせに、自分のことになると何も言わない」
翔也は、苦笑した。
「正直、たまには頼れよって思うけどな」
その言葉に、美雪の胸が締めつけられた。
春馬は、いつも笑っていた。
少なくとも、美雪が見てきた彼はそうだった。
けれど、その笑顔の裏側に、どれだけの苦しさが隠されていたのだろう。
誰かを励ます言葉を口にするとき、彼自身は誰に励ましてもらっていたのだろう。
誰かを笑顔にするとき、自分の寂しさをどうやって紛らわせていたのだろう。
美雪は、箸を握る手に力を込めた。
「……私、あいつのこと、全然知らなかったんだね」
「ん? 何か言ったか?」
「ううん。何でもない」
美雪は顔を上げ、笑った。
しかし、心の中では、先ほどまでとは違う感情が芽生えていた。
春馬をもっと知りたい。
どうして、あんなふうに笑うのか。
どうして、自分のことを後回しにするのか。
そして――。
どうして、あのとき、何も言わずに自分の前からいなくなってしまったのか。
高校時代の記憶が、ふと蘇る。
転校していった春馬の姿。
何かを伝えようとしているように見えた、あの表情。
当時の美雪には、その意味が分からなかった。
今でも、分からないままだ。
「……春馬」
美雪は、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
彼の名前を口にしただけなのに、なぜか胸の奥が少しだけ苦しくなった。
◇
午後五時三十分。
演劇サークルの練習を終えた春馬は、大学の建物を出た。
夕方の風が頬を撫でる。
ようやく一日が終わった。
そう思った瞬間、肩の力が抜けた。
「……疲れた」
思わず本音が漏れる。
身体が違うだけで、こんなにも気を遣うものなのか。
言葉の一つ一つに気を配り、周囲の反応を確かめ、知らない人間関係を壊さないように振る舞う。
たった一日で、すっかり疲れ切ってしまった。
それでも、蓮が最後にかけてくれた言葉を思い出すと、少しだけ気持ちが軽くなった。
演技を褒められたこと。
自分の気持ちが、誰かに伝わったこと。
あの瞬間だけは、春馬は自分がここにいてもいいのだと思えた。
けれど、そんな感情に浸っている余裕はなかった。
ポケットの中でスマートフォンが震えたからだ。
画面には、美雪の名前が表示されていた。
いや、正確には、美雪のスマートフォンに届いたメッセージではなく、春馬自身のスマートフォンからの連絡だった。
春馬はすぐに通話をかけた。
『もしもし?』
「美雪、今ちょっといいか?」
『うん。どうしたの?』
「朝、山本正志って人から電話があった」
電話の向こうで、わずかな沈黙が流れた。
『……正志さんから?』
「ああ。今日、会えないかって聞かれた。演劇サークルの練習があるって言って、あとで連絡するって答えたけど……まずかったか?」
春馬は、返事を待った。
相手の顔は見えない。
それでも、電話の向こうの空気が変わったような気がした。
『……ううん。春馬くんが悪いわけじゃないよ』
美雪の声は、いつもより少し小さかった。
『ちゃんと話しておかなきゃいけないことがあるの』
「話しておかなきゃいけないこと?」
『うん。正志さんのこと』
春馬は歩みを止めた。
夕暮れの街を、学生たちが楽しそうに通り過ぎていく。
その中で、春馬だけが、時間から取り残されたような気がした。
「……あの人、お前の彼氏なんだろ?」
口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
聞きたくなかった。
本当は、何も知らないままでいたかった。
けれど、美雪の身体を借りて生きている以上、彼女の人間関係から逃げるわけにはいかない。
電話の向こうで、美雪が静かに息を吸った。
『……違うよ』
「……え?」
『正志さんは、私の本当の恋人じゃない』
春馬は言葉を失った。
「……どういうことだ?」
『周りには付き合っているって話してるけど、本当は違うの。私たちは……そういう関係じゃない』
「じゃあ、どうして……」
昨日見た光景が、脳裏をよぎる。
美雪と男が、唇を重ねていた。
あれは、見間違いではなかったはずだ。
春馬は、思わず声を低くした。
「……昨日、男とキスしてただろ」
言ってから、しまったと思った。
自分が見たことを口にするつもりはなかった。
けれど、一度出てしまった言葉は、取り消せない。
電話の向こうが静まり返った。
『……見てたの?』
「あ……いや、偶然だ。別に、責めてるわけじゃない」
『……そっか』
美雪の声が、少しだけ沈んだ。
『あれにも、理由があるの。でも、今はまだ全部話せない』
「……理由?」
『うん。ごめんね。春馬くんを巻き込みたくないんだけど……今は、あなたに頼るしかないの』
その言葉に、春馬の胸がざわついた。
頼るしかない。
美雪が、自分を頼っている。
その事実は嬉しいはずだった。
ずっと遠くから見つめることしかできなかった相手が、自分に助けを求めているのだから。
けれど、同時に、不安もあった。
彼女が抱えている問題は何なのか。
なぜ、恋人でもない男と恋人のふりをしているのか。
そして、昨日のキスには、どんな意味があったのか。
「……分かった。でも、一つだけ聞かせてくれ」
『何?』
「その山本って人……お前に何かしてくるのか?」
春馬の声は、自分でも驚くほど真剣だった。
電話の向こうで、美雪が息をのむ気配がした。
「もし、困ってるなら……一人で何とかしようとするなよ」
言い終えてから、春馬は目を伏せた。
まるで、自分自身に言い聞かせているような言葉だった。
いつもそうだ。
誰かが困っていたら、放っておけない。
自分がどれだけ大変でも、誰かの苦しみを見過ごすことができない。
それが自分の長所なのか、弱さなのか、春馬には分からなかった。
しばらくして、美雪が答えた。
『……ありがとう』
その声は、かすかに震えていた。
『でも、今は大丈夫。正志さんのことは、私がちゃんと考えるから』
「……本当に?」
『うん。ただ、一つお願いしてもいい?』
「何だ?」
『正志さんから、また連絡が来ても……一人で会う約束はしないでほしいの』
春馬の表情が変わった。
「……分かった。勝手に約束したりしない」
『ありがとう。詳しいことは、また会ったときに話すね』
「ああ」
通話が終わった。
春馬はしばらく、その場から動けなかった。
西園寺美雪は、何かを隠している。
それは確かだった。
しかし、声を聞いている限り、彼女が何かを楽しんでいるようには思えなかった。
むしろ、誰にも話せない事情を、一人で抱え込んでいるように感じた。
春馬は空を見上げた。
夕焼けの色が、少しずつ薄くなっていく。
「……お前も、一人で抱え込むタイプなのかよ」
そのつぶやきは、風に溶けて消えた。
自分のことを話さない春馬。
事情を隠している美雪。
二人は正反対のようでいて、どこか似ているのかもしれなかった。
◇
午後九時十五分。
それぞれの部屋で、二人はスマートフォンを手にしていた。
身体が入れ替わってから、まだ二日目。
たった二日しか経っていないはずなのに、二人にとっては、ずいぶん長い時間が流れたように感じられた。
先にメッセージを送ったのは、美雪だった。
『今日はありがとう。正志さんのこと、話を聞いてくれて』
春馬は画面を見つめた。
何と返せばいいのか、少し迷った。
いつもの自分なら、もっと簡単に返事をしていただろう。
けれど、今は違う。
相手は、自分がずっと想い続けてきた人だ。
たとえ身体が入れ替わっていても、その事実だけは変わらなかった。
『気にするなよ。困ったときは、お互い様だろ』
送信してから、春馬はスマートフォンを握り直した。
しばらくして、返事が届いた。
『……春馬くんって、昔からそうだったの?』
「……昔から?」
春馬は眉をひそめた。
『自分のことより、他の人のことを先に考えるところ』
そのメッセージを見た瞬間、春馬の指が止まった。
美雪は、自分のことをそんなふうに思っていたのだろうか。
いや、そもそも、彼女は自分のことをどこまで知っているのだろう。
高校時代、春馬は何度も美雪に話しかけようとした。
何度も、気持ちを伝えようとした。
けれど、そのたびに勇気が出なかった。
彼女が笑っているのを見るだけで、十分だと思おうとした。
自分が隣にいなくても、彼女が幸せならそれでいい。
そうやって、何度も自分の気持ちを押し込めてきた。
しかし、本当は――。
自分だって、彼女に気づいてほしかった。
自分のことを見てほしかった。
たった一度でいいから、自分の気持ちを知ってほしかった。
春馬は、ゆっくりと文字を打った。
『……さあな。自分では、よく分からない』
送信する。
少しして、美雪から返事が届いた。
『そっか』
たった三文字。
それだけなのに、春馬は不思議と、その向こうにある美雪の表情を想像してしまった。
そして、もう一通、メッセージが届いた。
『でも、これからは少しずつ知っていきたいな。春馬くんのこと』
春馬は息を止めた。
スマートフォンの画面を、何度も見つめ直す。
見間違いではない。
確かに、そう書かれていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
嬉しかった。
どうしようもなく、嬉しかった。
けれど、その気持ちを素直に喜ぶことはできなかった。
今の自分は、彼女の身体の中にいる。
彼女が自分に向けている関心が、恋愛感情から来るものなのか、それとも、入れ替わりによって生まれた好奇心なのか、春馬には分からない。
期待してはいけない。
そう思うのに、心は勝手に期待してしまう。
春馬は、苦笑しながら返事を打った。
『……変なやつだな、お前』
送信した直後、また返事が届いた。
『春馬くんにだけは言われたくないよ』
「……ははっ」
思わず笑い声が漏れた。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
不思議なものだった。
昨日までは、遠くから見つめることしかできなかった相手と、今はこうして何気ないやり取りをしている。
しかも、二人だけの秘密を共有している。
この入れ替わりがなければ、こんな時間は訪れなかったかもしれない。
そう考えると、少しだけ複雑な気持ちになった。
できることなら、元の身体に戻りたい。
けれど、元に戻ったあとも、今のように美雪と話せるのだろうか。
また、何も言えない自分に戻ってしまうのではないだろうか。
春馬はスマートフォンを胸元に置き、天井を見上げた。
「……何やってんだよ、俺」
小さくつぶやく。
期待するな。
勘違いするな。
これは、ただの入れ替わりだ。
そう自分に言い聞かせるほど、胸の奥にある感情は、はっきりと形を持ち始めていた。
◇
一方、美雪もまた、ベッドの上でスマートフォンを見つめていた。
春馬から届いた最後のメッセージを読み返す。
たった一言の、何気ない返事。
それなのに、自然と頬が緩んでしまう。
「……変なの」
美雪はスマートフォンを伏せた。
春馬の身体で過ごした、この二日間。
彼の友人たちと話し、彼の生活に触れ、彼が普段どんなふうに生きているのかを少しずつ知った。
そして、気づいてしまった。
自分は、彼のことを何も知らなかったのだと。
優しい人だと思っていた。
真面目な人だとも思っていた。
けれど、その優しさがどこから来るのかまでは、考えたことがなかった。
誰かに優しくすることで、自分の苦しさを隠していたのかもしれない。
誰かを笑顔にすることで、自分の寂しさを忘れようとしていたのかもしれない。
そう思うと、胸が痛んだ。
「……春馬くん」
美雪は、彼の名前を小さく呼んだ。
彼が何を考え、何を抱えて生きてきたのか。
そして、自分に対してどんな気持ちを持っていたのか。
まだ、分からないことばかりだ。
それでも、今まで知らなかった彼の一面を知るたびに、もっと知りたいという気持ちが強くなっていく。
ただの好奇心なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
美雪には、まだ答えが出せなかった。
だが、一つだけ確かなことがある。
この入れ替わりが終わるまでに、彼のことをもっと理解したい。
そう思っていた。
そのとき、スマートフォンの画面に、もう一度通知が表示された。
正志からのメッセージだった。
『美雪、明日少し話せる? 大事な話があるんだ』
美雪の表情から、笑みが消えた。
画面を見つめる指先が、わずかに強張る。
彼女には、まだ春馬に話せない事情があった。
どうして正志と恋人のふりをしているのか。
どうして周囲に本当のことを隠しているのか。
そして、なぜ、あの日――あの場所で、あんなことをしなければならなかったのか。
その理由は、すべて、彼女の家族とつながっていた。
美雪はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。
「……ごめんね、春馬くん」
誰にも届かない声で、そうつぶやく。
「もう少しだけ……待ってて」
窓の外では、夜の街が静かに光っていた。
同じ夜の下で、春馬もまた、美雪の知らない過去と向き合おうとしていた。
二人はまだ知らない。
互いの身体で過ごす時間が、単なる奇妙な出来事では終わらないことを。
そして、二人が抱えている秘密が、やがて互いの心を大きく揺さぶることを。
――こうして、入れ替わり生活二日目の夜は、静かに更けていった。
第4話 完




