↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君の身体で、君に恋をした。』 ――入れ替わった僕たちが、本当の愛を見つけるまで――  作者: 綾小路如月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/20

第3話 その声で、俺の名前を呼ばないで

朝七時十二分。


黒瀬春馬は、鏡の前で立ち尽くしていた。


鏡に映っているのは、見慣れた自分の顔ではない。


柔らかな黒髪。少し大きな瞳。整った顔立ち。そして、寝起きだというのに、どこか人を惹きつける雰囲気。


西園寺美雪の顔だった。


「……マジかよ」


何度目になるか分からない言葉が、彼女の声でこぼれた。


昨日までなら、こんな状況を想像することさえなかっただろう。


大学の講義を受け、友人とくだらない話をして、帰りに安い弁当を買う。そんな、特別なことなど何もない毎日。


春馬にとって、それが当たり前の日常だった。


けれど今朝、目を覚ました瞬間、その当たり前は音もなく崩れ去った。


自分の身体ではない。


自分の部屋でもない。


そして、鏡の中にいるのは、自分がずっと気にかけていた女の子だった。


西園寺美雪。


高校時代、春馬が密かに恋をしていた相手。


ずっと好きだった。


けれど、その気持ちを伝えることはできなかった。


伝えたところで、何かが変わるとは思えなかったからだ。


それに、美雪には自分とは違う世界がある。


春馬には、そう思えていた。


「……なんで、こんなことになったんだよ」


鏡の中の美雪が、困ったように眉を寄せる。


もちろん、困っているのは春馬自身だった。


昨日の夜から今朝にかけて起きた出来事を思い出す。


美雪と偶然再会したこと。


彼女が恋人と一緒にいるところを目撃したこと。


その後、酒の勢いもあって、胸の奥にしまい込んでいた感情が溢れそうになったこと。


そして、目を覚ましたら――身体が入れ替わっていた。


「夢なら、そろそろ覚めてくれよ……」


頬をつねってみる。


痛い。


もう一度つねってみる。


やっぱり痛い。


「……現実かよ」


春馬は深いため息をついた。


とりあえず、今日を乗り切らなければならない。


そう考えたとき、彼の視線が洗面台の横に置かれたヘアブラシへと向いた。


その隣には、髪をまとめるためのヘアゴムがある。


「……髪、どうすんだ、これ」


昨夜――いや、今朝の電話で、美雪から簡単に説明を受けたことを思い出す。


髪を結ぶときは、強く引っ張りすぎないこと。


前髪は無理に整えようとしないこと。


そして、慣れないうちは、できるだけ触りすぎないこと。


電話越しの美雪は、春馬が想像していた以上に冷静だった。


いや、冷静でいようとしていたのかもしれない。


彼女だって、突然男の身体になってしまったのだ。


不安がないはずがない。


「……あいつも、今ごろ大変なんだろうな」


そうつぶやいて、春馬はヘアブラシを手に取った。


ぎこちない手つきで髪をとかし、どうにか身支度を整える。


鏡の中の美雪は、少し不自然ではあるものの、外を歩けないほどひどい姿ではなかった。


「よし……これでいいだろ」


そう言ってから、春馬はふと気づいた。


「いや、よくねえよ。そもそも、俺が美雪になってる時点でよくねえだろ」


誰もいない部屋に、自分のツッコミだけが響いた。


いつもなら、こんなときに笑ってくれる友人がいる。


けれど、今はその友人たちに事情を説明することすらできない。


春馬は鞄を肩にかけ、玄関へ向かった。


今日一日、何事もなく過ごせることを祈りながら。


     ◇     


大学へ向かう道は、いつもと変わらなかった。


通学する学生たち。


駅前の店から漂う朝食の匂い。


信号待ちをする人々。


世界は何も変わっていない。


変わってしまったのは、春馬だけだった。


「西園寺さん、おはよう!」


大学の門をくぐったところで、女子学生が声をかけてきた。


春馬は反射的に立ち止まった。


「えっ……あ、ああ。おはよう」


危うく、いつもの調子で返事をするところだった。


相手の女子学生は、少し不思議そうに首を傾げた。


「どうしたの? なんか今日、雰囲気違わない?」


「そ、そうか?」


「うん。いつもより眠そう」


「……昨日、ちょっと寝るのが遅くて」


「珍しいね。西園寺さんって、ちゃんとしてるイメージなのに」


「はは……まあ、いろいろあって」


なんとか会話を切り上げ、春馬はその場を離れた。


心臓がうるさい。


たった数十秒の会話なのに、妙に疲れた。


美雪は、こんなやり取りを毎日のようにしているのだろうか。


周囲から名前を呼ばれ、話しかけられ、何気ない言葉を返す。


そんな当たり前のことさえ、今の春馬には難しかった。


「……あいつ、すげえな」


誰にも聞こえない声でつぶやく。


今まで、春馬は美雪のことを知っているつもりだった。


けれど、本当は何も知らなかったのかもしれない。


彼女がどんな一日を過ごし、誰と話し、どんな気持ちで笑っているのか。


自分が見ていたのは、彼女のほんの一部分にすぎなかった。


そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。


     ◇     


昼休み。


春馬は大学構内のベンチに座り、スマートフォンの画面を見つめていた。


通知が一件届いている。


送り主は、黒神蓮。


高校時代からの友人で、今も何かと縁が続いている男だ。


『今日のサークル、忘れんなよ。大事な発表があるらしいぞ』


春馬は眉を寄せた。


「……サークル?」


そういえば、今朝から慌ただしくて、大学での予定をほとんど確認していなかった。


美雪のスマートフォンには、予定表や連絡がいくつも入っている。


画面を操作して確認すると、午後には演劇サークルの活動が予定されていた。


そして、その下に表示された文字を見て、春馬は固まった。


『次回公演 配役発表』


「……いや、待て待て待て」


嫌な予感がした。


しかも、その予感は驚くほど正確だった。


     ◇     


午後。


演劇サークルの部室には、普段より多くの学生が集まっていた。


次回公演の配役発表があるため、部員たちの表情には緊張と期待が入り混じっている。


春馬は部屋の隅に座り、できるだけ目立たないようにしていた。


頼むから、今日は何も起きないでくれ。


それだけを願っていた。


しかし、現実はいつだって春馬に優しくない。


「それじゃあ、次回公演の配役を発表します!」


サークルの代表が、手元の紙を見ながら声を張り上げた。


部屋が静かになる。


「主人公役、黒神蓮!」


「おっ、やった!」


蓮が軽く手を挙げ、周囲から拍手が起きる。


「そして、ヒロイン役は――西園寺美雪!」


「えっ?」


思わず声が出た。


部屋中の視線が、一斉に春馬へと向けられる。


「西園寺さん、おめでとう!」


「蓮との組み合わせ、絶対いいじゃん!」


「二人とも雰囲気あるし、楽しみ!」


次々と飛んでくる言葉に、春馬は笑顔を作ることしかできなかった。


いや、待ってくれ。


俺がヒロイン役?


しかも、相手役は蓮?


「……冗談だろ」


小さくつぶやいた声は、周囲の歓声にかき消された。


蓮がこちらへ歩いてくる。


「美雪、よろしくな!」


いつもと変わらない、気さくな笑顔。


春馬にとっては見慣れた友人の顔だった。


けれど今は、その笑顔が妙に遠く感じられた。


「……うん。よろしく」


どうにか返事をする。


蓮は少しだけ目を細めた。


「なんだよ。そんなに緊張してんのか?」


「べ、別に……」


「大丈夫だって。俺も本格的な舞台は久しぶりだし、一緒に頑張ろうぜ」


「……ああ」


春馬は曖昧にうなずいた。


蓮は何も知らない。


目の前にいるのが、普段の西園寺美雪ではなく、彼女の身体に入った黒瀬春馬だということを。


そして、春馬自身もまだ理解できていなかった。


なぜ、自分がこんな状況に巻き込まれたのか。


どうして、よりによって美雪の身体なのか。


何より――。


「……俺、どうやってヒロインを演じればいいんだよ」


その小さな嘆きは、誰にも届かなかった。


     ◇     


一方、その頃。


黒瀬春馬の身体に入った西園寺美雪は、大学の講義室で頭を抱えていた。


「……分からない」


目の前には、数式が並んだノート。


教授の説明。


周囲の学生たちがペンを走らせる音。


そして、黒瀬春馬という人間の大学生活。


美雪は工学系の講義を受けていた。


もちろん、自分が普段学んでいる内容とは大きく違う。


講義が始まってから、すでに何度も置いていかれていた。


「黒瀬くん、ここの計算、どうなった?」


隣の学生が何気なく尋ねてくる。


美雪の肩が跳ねた。


「えっ……あ、えっと……」


どう答えればいいのか分からない。


春馬なら、分かるのだろうか。


いや、普段の彼がどれほど勉強できるのかさえ、美雪は知らなかった。


高校時代、彼はいつも穏やかに笑っていた。


誰かが困っていれば、自然に手を差し伸べる。


自分がつらいときでさえ、周囲の人間を気遣っていた。


だからこそ、美雪は彼のことを、どこか余裕のある人間だと思っていた。


けれど、彼の生活は決して楽ではなかった。


家計に余裕がないこと。


自分のために使える時間が少ないこと。


それでも、周囲の人間には優しくあろうとしていること。


そうした事情を、美雪はまだ十分に知らない。


今、彼の身体で生活してみて、初めて分かることが少しずつ増えていた。


講義の合間に確認したスマートフォンには、大学の連絡や課題の通知がいくつも届いている。


アルバイトの予定も入っていた。


「……こんなに忙しかったんだ」


美雪は画面を見つめた。


春馬は、自分の生活を送るだけでも精いっぱいだったのかもしれない。


それなのに、誰かのために笑っていた。


誰かの悩みを聞き、誰かを励まし、自分の苦しさは後回しにして。


「……黒瀬くん」


思わず、彼の名前を口にする。


今、彼は自分の身体で何をしているのだろう。


ちゃんと大学へ行けているだろうか。


自分の友人たちに、不自然な態度を取っていないだろうか。


そして――。


「私のこと、変に思われてないかな……」


美雪は小さく息を吐いた。


自分の身体を他人に任せる。


それがどれほど不安なことなのか、今になってようやく理解できた。


     ◇     


夕方。


講義とサークルの活動を終えた春馬は、大学から少し離れた公園へ向かった。


二人が朝の電話で決めた待ち合わせ場所だった。


ベンチのそばに立っていると、見慣れた男性が歩いてくる。


黒瀬春馬の身体。


けれど、その歩き方も、表情も、どこか普段とは違っていた。


「……西園寺さん」


美雪の声で、自分の名前を呼ばれる。


春馬は思わず顔をしかめた。


「その声で、俺の名前を呼ばないでくれ……」


口にしてから、しまったと思った。


美雪が目を丸くする。


「えっ?」


「いや、違う。そういう意味じゃなくて……」


春馬は頭を抱えた。


「自分の声で、自分の名前を呼ばれるのが、なんか変なんだよ」


「……それは、私も同じだよ」


美雪は苦笑した。


彼女の身体をした春馬と、春馬の身体をした美雪。


二人はしばらく見つめ合い、それから同時にため息をついた。


「……疲れた」


二人の声が重なった。


そして、ほんの少しだけ笑った。


笑うしかなかった。


こんな状況を前に、泣いたところで何も解決しない。


「大学、どうだった?」


美雪が尋ねる。


春馬は遠い目をした。


「……聞かないでくれ」


「そんなに大変だったの?」


「演劇サークルで、ヒロイン役に決まった」


「……え?」


今度は美雪が固まった。


「ちょっと待って。どういうこと?」


「そのまんまだよ。配役発表で、俺……いや、お前がヒロイン役に選ばれた」


「相手は?」


「蓮」


「黒神くん?」


「ああ」


美雪は口元を押さえた。


驚いているのか、困っているのか、それとも笑いをこらえているのか。


その表情を見て、春馬は恨めしそうに言った。


「笑うなよ」


「笑ってないよ……っ」


「今、絶対笑いそうになっただろ」


「だって……黒瀬くんがヒロイン役って……」


「俺だって好きでやってるわけじゃねえよ!」


公園に春馬の叫びが響いた。


近くを歩いていた人が、ちらりと二人を見た。


美雪は慌てて春馬の袖を引く。


「声、大きいよ!」


「誰のせいだと思ってるんだ……」


春馬は肩を落とした。


美雪も、ようやく笑うのをやめた。


「……ごめん。でも、私も大変だったんだから」


「講義?」


「うん。何を言っているのか、途中から全然分からなくなっちゃって」


「……悪い」


春馬は思わず謝った。


「どうして黒瀬くんが謝るの?」


「いや、その……俺の生活に巻き込んじまってるから」


美雪は首を横に振った。


「それは、黒瀬くんのせいじゃないよ。私たち、二人とも同じ状況なんだから」


その言葉に、春馬は黙り込んだ。


美雪は少しだけ視線を落とした。


「それに……黒瀬くんが、いつもどんな生活をしているのか、少し分かった気がする」


「……何が?」


「忙しいんだね。大学のことも、アルバイトのことも。それなのに、周りの人にはいつも優しくしてる」


春馬は困ったように笑った。


「別に、普通だろ」


「普通じゃないよ」


美雪は、はっきりと言った。


「自分が大変なときに、誰かのことまで気にかけられる人って、そんなに多くないと思う」


春馬は返す言葉を見つけられなかった。


昔から、誰かに褒められることには慣れていない。


自分が何かをしても、たいしたことではないと思っていた。


それでも、美雪の口からそんな言葉を聞くと、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。


「……お前だって、そうだろ」


「え?」


「今日、俺の身体で一日過ごしてみて、分かったことがあるんだろ?」


美雪は少し考えてから、うなずいた。


「うん。私も、今まで知らなかったことがたくさんあった」


「……そっか」


二人の間に、短い沈黙が落ちた。


夕暮れの公園を、穏やかな風が吹き抜けていく。


入れ替わりが起きてから、まだ一日も経っていない。


それなのに、二人の世界は大きく変わってしまった。


けれど、もしかすると。


この奇妙な出来事がなければ、二人は一生、相手の本当の姿を知らないままだったのかもしれない。


春馬は、そんなことを考えた。


     ◇     


その夜。


春馬は、美雪の部屋でベッドに腰掛けていた。


慣れない部屋。


慣れない身体。


慣れない声。


何もかもが落ち着かない。


スマートフォンが震えた。


美雪からのメッセージだった。


『今日は本当にお疲れさま。明日もよろしくね』


春馬は画面を見つめ、少しだけ笑った。


『こっちこそ。明日は講義で寝るなよ』


すぐに返信が届く。


『黒瀬くんこそ、演劇サークルで変なことしないでね』


『努力はする』


『努力じゃなくて、ちゃんとして』


『はいはい』


何気ないやり取り。


けれど、それだけで少し気持ちが軽くなった。


春馬はスマートフォンを胸元に置き、天井を見上げた。


美雪の身体になってから、何度も彼女のことを考えていた。


高校時代のこと。


伝えられなかった気持ち。


そして、今の彼女がどんな毎日を過ごしているのかということ。


近くにいるようで、ずっと遠かった人。


その人の身体で、その人の生活を送ることになるなんて。


「……神様って、本当に何考えてるんだろうな」


小さくつぶやく。


答えは返ってこない。


もちろん、返ってくるはずもなかった。


一方、美雪もまた、春馬の部屋で天井を見つめていた。


今日一日で、彼のことを少しだけ知ることができた。


けれど、知れば知るほど、分からないことも増えていく。


どうして彼は、あんなに優しいのだろう。


どうして自分のことを、いつも後回しにするのだろう。


そして――。


どうして、あのとき何も言ってくれなかったのだろう。


美雪は目を閉じた。


まだ、聞きたいことがたくさんある。


話したいことも、きっとたくさんある。


けれど、それを口にするには、二人の間には知らないことが多すぎた。


スマートフォンの画面には、春馬とのメッセージが残っている。


美雪はそれを見つめ、そっと微笑んだ。


「……明日、ちゃんと話そう」


その言葉は、静かな部屋に溶けていった。


入れ替わりが元に戻る方法は、まだ分からない。


いつまでこの生活が続くのかも分からない。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


明日も二人は、相手の身体で生きていかなければならない。


そして、その一日は今日よりも少しだけ難しくなるかもしれない。


入れ替わり生活の二日目が、静かに近づいていた。



第3話終了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。