第3話 その声で、俺の名前を呼ばないで
朝七時十二分。
黒瀬春馬は、鏡の前で立ち尽くしていた。
鏡に映っているのは、見慣れた自分の顔ではない。
柔らかな黒髪。少し大きな瞳。整った顔立ち。そして、寝起きだというのに、どこか人を惹きつける雰囲気。
西園寺美雪の顔だった。
「……マジかよ」
何度目になるか分からない言葉が、彼女の声でこぼれた。
昨日までなら、こんな状況を想像することさえなかっただろう。
大学の講義を受け、友人とくだらない話をして、帰りに安い弁当を買う。そんな、特別なことなど何もない毎日。
春馬にとって、それが当たり前の日常だった。
けれど今朝、目を覚ました瞬間、その当たり前は音もなく崩れ去った。
自分の身体ではない。
自分の部屋でもない。
そして、鏡の中にいるのは、自分がずっと気にかけていた女の子だった。
西園寺美雪。
高校時代、春馬が密かに恋をしていた相手。
ずっと好きだった。
けれど、その気持ちを伝えることはできなかった。
伝えたところで、何かが変わるとは思えなかったからだ。
それに、美雪には自分とは違う世界がある。
春馬には、そう思えていた。
「……なんで、こんなことになったんだよ」
鏡の中の美雪が、困ったように眉を寄せる。
もちろん、困っているのは春馬自身だった。
昨日の夜から今朝にかけて起きた出来事を思い出す。
美雪と偶然再会したこと。
彼女が恋人と一緒にいるところを目撃したこと。
その後、酒の勢いもあって、胸の奥にしまい込んでいた感情が溢れそうになったこと。
そして、目を覚ましたら――身体が入れ替わっていた。
「夢なら、そろそろ覚めてくれよ……」
頬をつねってみる。
痛い。
もう一度つねってみる。
やっぱり痛い。
「……現実かよ」
春馬は深いため息をついた。
とりあえず、今日を乗り切らなければならない。
そう考えたとき、彼の視線が洗面台の横に置かれたヘアブラシへと向いた。
その隣には、髪をまとめるためのヘアゴムがある。
「……髪、どうすんだ、これ」
昨夜――いや、今朝の電話で、美雪から簡単に説明を受けたことを思い出す。
髪を結ぶときは、強く引っ張りすぎないこと。
前髪は無理に整えようとしないこと。
そして、慣れないうちは、できるだけ触りすぎないこと。
電話越しの美雪は、春馬が想像していた以上に冷静だった。
いや、冷静でいようとしていたのかもしれない。
彼女だって、突然男の身体になってしまったのだ。
不安がないはずがない。
「……あいつも、今ごろ大変なんだろうな」
そうつぶやいて、春馬はヘアブラシを手に取った。
ぎこちない手つきで髪をとかし、どうにか身支度を整える。
鏡の中の美雪は、少し不自然ではあるものの、外を歩けないほどひどい姿ではなかった。
「よし……これでいいだろ」
そう言ってから、春馬はふと気づいた。
「いや、よくねえよ。そもそも、俺が美雪になってる時点でよくねえだろ」
誰もいない部屋に、自分のツッコミだけが響いた。
いつもなら、こんなときに笑ってくれる友人がいる。
けれど、今はその友人たちに事情を説明することすらできない。
春馬は鞄を肩にかけ、玄関へ向かった。
今日一日、何事もなく過ごせることを祈りながら。
◇
大学へ向かう道は、いつもと変わらなかった。
通学する学生たち。
駅前の店から漂う朝食の匂い。
信号待ちをする人々。
世界は何も変わっていない。
変わってしまったのは、春馬だけだった。
「西園寺さん、おはよう!」
大学の門をくぐったところで、女子学生が声をかけてきた。
春馬は反射的に立ち止まった。
「えっ……あ、ああ。おはよう」
危うく、いつもの調子で返事をするところだった。
相手の女子学生は、少し不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? なんか今日、雰囲気違わない?」
「そ、そうか?」
「うん。いつもより眠そう」
「……昨日、ちょっと寝るのが遅くて」
「珍しいね。西園寺さんって、ちゃんとしてるイメージなのに」
「はは……まあ、いろいろあって」
なんとか会話を切り上げ、春馬はその場を離れた。
心臓がうるさい。
たった数十秒の会話なのに、妙に疲れた。
美雪は、こんなやり取りを毎日のようにしているのだろうか。
周囲から名前を呼ばれ、話しかけられ、何気ない言葉を返す。
そんな当たり前のことさえ、今の春馬には難しかった。
「……あいつ、すげえな」
誰にも聞こえない声でつぶやく。
今まで、春馬は美雪のことを知っているつもりだった。
けれど、本当は何も知らなかったのかもしれない。
彼女がどんな一日を過ごし、誰と話し、どんな気持ちで笑っているのか。
自分が見ていたのは、彼女のほんの一部分にすぎなかった。
そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
◇
昼休み。
春馬は大学構内のベンチに座り、スマートフォンの画面を見つめていた。
通知が一件届いている。
送り主は、黒神蓮。
高校時代からの友人で、今も何かと縁が続いている男だ。
『今日のサークル、忘れんなよ。大事な発表があるらしいぞ』
春馬は眉を寄せた。
「……サークル?」
そういえば、今朝から慌ただしくて、大学での予定をほとんど確認していなかった。
美雪のスマートフォンには、予定表や連絡がいくつも入っている。
画面を操作して確認すると、午後には演劇サークルの活動が予定されていた。
そして、その下に表示された文字を見て、春馬は固まった。
『次回公演 配役発表』
「……いや、待て待て待て」
嫌な予感がした。
しかも、その予感は驚くほど正確だった。
◇
午後。
演劇サークルの部室には、普段より多くの学生が集まっていた。
次回公演の配役発表があるため、部員たちの表情には緊張と期待が入り混じっている。
春馬は部屋の隅に座り、できるだけ目立たないようにしていた。
頼むから、今日は何も起きないでくれ。
それだけを願っていた。
しかし、現実はいつだって春馬に優しくない。
「それじゃあ、次回公演の配役を発表します!」
サークルの代表が、手元の紙を見ながら声を張り上げた。
部屋が静かになる。
「主人公役、黒神蓮!」
「おっ、やった!」
蓮が軽く手を挙げ、周囲から拍手が起きる。
「そして、ヒロイン役は――西園寺美雪!」
「えっ?」
思わず声が出た。
部屋中の視線が、一斉に春馬へと向けられる。
「西園寺さん、おめでとう!」
「蓮との組み合わせ、絶対いいじゃん!」
「二人とも雰囲気あるし、楽しみ!」
次々と飛んでくる言葉に、春馬は笑顔を作ることしかできなかった。
いや、待ってくれ。
俺がヒロイン役?
しかも、相手役は蓮?
「……冗談だろ」
小さくつぶやいた声は、周囲の歓声にかき消された。
蓮がこちらへ歩いてくる。
「美雪、よろしくな!」
いつもと変わらない、気さくな笑顔。
春馬にとっては見慣れた友人の顔だった。
けれど今は、その笑顔が妙に遠く感じられた。
「……うん。よろしく」
どうにか返事をする。
蓮は少しだけ目を細めた。
「なんだよ。そんなに緊張してんのか?」
「べ、別に……」
「大丈夫だって。俺も本格的な舞台は久しぶりだし、一緒に頑張ろうぜ」
「……ああ」
春馬は曖昧にうなずいた。
蓮は何も知らない。
目の前にいるのが、普段の西園寺美雪ではなく、彼女の身体に入った黒瀬春馬だということを。
そして、春馬自身もまだ理解できていなかった。
なぜ、自分がこんな状況に巻き込まれたのか。
どうして、よりによって美雪の身体なのか。
何より――。
「……俺、どうやってヒロインを演じればいいんだよ」
その小さな嘆きは、誰にも届かなかった。
◇
一方、その頃。
黒瀬春馬の身体に入った西園寺美雪は、大学の講義室で頭を抱えていた。
「……分からない」
目の前には、数式が並んだノート。
教授の説明。
周囲の学生たちがペンを走らせる音。
そして、黒瀬春馬という人間の大学生活。
美雪は工学系の講義を受けていた。
もちろん、自分が普段学んでいる内容とは大きく違う。
講義が始まってから、すでに何度も置いていかれていた。
「黒瀬くん、ここの計算、どうなった?」
隣の学生が何気なく尋ねてくる。
美雪の肩が跳ねた。
「えっ……あ、えっと……」
どう答えればいいのか分からない。
春馬なら、分かるのだろうか。
いや、普段の彼がどれほど勉強できるのかさえ、美雪は知らなかった。
高校時代、彼はいつも穏やかに笑っていた。
誰かが困っていれば、自然に手を差し伸べる。
自分がつらいときでさえ、周囲の人間を気遣っていた。
だからこそ、美雪は彼のことを、どこか余裕のある人間だと思っていた。
けれど、彼の生活は決して楽ではなかった。
家計に余裕がないこと。
自分のために使える時間が少ないこと。
それでも、周囲の人間には優しくあろうとしていること。
そうした事情を、美雪はまだ十分に知らない。
今、彼の身体で生活してみて、初めて分かることが少しずつ増えていた。
講義の合間に確認したスマートフォンには、大学の連絡や課題の通知がいくつも届いている。
アルバイトの予定も入っていた。
「……こんなに忙しかったんだ」
美雪は画面を見つめた。
春馬は、自分の生活を送るだけでも精いっぱいだったのかもしれない。
それなのに、誰かのために笑っていた。
誰かの悩みを聞き、誰かを励まし、自分の苦しさは後回しにして。
「……黒瀬くん」
思わず、彼の名前を口にする。
今、彼は自分の身体で何をしているのだろう。
ちゃんと大学へ行けているだろうか。
自分の友人たちに、不自然な態度を取っていないだろうか。
そして――。
「私のこと、変に思われてないかな……」
美雪は小さく息を吐いた。
自分の身体を他人に任せる。
それがどれほど不安なことなのか、今になってようやく理解できた。
◇
夕方。
講義とサークルの活動を終えた春馬は、大学から少し離れた公園へ向かった。
二人が朝の電話で決めた待ち合わせ場所だった。
ベンチのそばに立っていると、見慣れた男性が歩いてくる。
黒瀬春馬の身体。
けれど、その歩き方も、表情も、どこか普段とは違っていた。
「……西園寺さん」
美雪の声で、自分の名前を呼ばれる。
春馬は思わず顔をしかめた。
「その声で、俺の名前を呼ばないでくれ……」
口にしてから、しまったと思った。
美雪が目を丸くする。
「えっ?」
「いや、違う。そういう意味じゃなくて……」
春馬は頭を抱えた。
「自分の声で、自分の名前を呼ばれるのが、なんか変なんだよ」
「……それは、私も同じだよ」
美雪は苦笑した。
彼女の身体をした春馬と、春馬の身体をした美雪。
二人はしばらく見つめ合い、それから同時にため息をついた。
「……疲れた」
二人の声が重なった。
そして、ほんの少しだけ笑った。
笑うしかなかった。
こんな状況を前に、泣いたところで何も解決しない。
「大学、どうだった?」
美雪が尋ねる。
春馬は遠い目をした。
「……聞かないでくれ」
「そんなに大変だったの?」
「演劇サークルで、ヒロイン役に決まった」
「……え?」
今度は美雪が固まった。
「ちょっと待って。どういうこと?」
「そのまんまだよ。配役発表で、俺……いや、お前がヒロイン役に選ばれた」
「相手は?」
「蓮」
「黒神くん?」
「ああ」
美雪は口元を押さえた。
驚いているのか、困っているのか、それとも笑いをこらえているのか。
その表情を見て、春馬は恨めしそうに言った。
「笑うなよ」
「笑ってないよ……っ」
「今、絶対笑いそうになっただろ」
「だって……黒瀬くんがヒロイン役って……」
「俺だって好きでやってるわけじゃねえよ!」
公園に春馬の叫びが響いた。
近くを歩いていた人が、ちらりと二人を見た。
美雪は慌てて春馬の袖を引く。
「声、大きいよ!」
「誰のせいだと思ってるんだ……」
春馬は肩を落とした。
美雪も、ようやく笑うのをやめた。
「……ごめん。でも、私も大変だったんだから」
「講義?」
「うん。何を言っているのか、途中から全然分からなくなっちゃって」
「……悪い」
春馬は思わず謝った。
「どうして黒瀬くんが謝るの?」
「いや、その……俺の生活に巻き込んじまってるから」
美雪は首を横に振った。
「それは、黒瀬くんのせいじゃないよ。私たち、二人とも同じ状況なんだから」
その言葉に、春馬は黙り込んだ。
美雪は少しだけ視線を落とした。
「それに……黒瀬くんが、いつもどんな生活をしているのか、少し分かった気がする」
「……何が?」
「忙しいんだね。大学のことも、アルバイトのことも。それなのに、周りの人にはいつも優しくしてる」
春馬は困ったように笑った。
「別に、普通だろ」
「普通じゃないよ」
美雪は、はっきりと言った。
「自分が大変なときに、誰かのことまで気にかけられる人って、そんなに多くないと思う」
春馬は返す言葉を見つけられなかった。
昔から、誰かに褒められることには慣れていない。
自分が何かをしても、たいしたことではないと思っていた。
それでも、美雪の口からそんな言葉を聞くと、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
「……お前だって、そうだろ」
「え?」
「今日、俺の身体で一日過ごしてみて、分かったことがあるんだろ?」
美雪は少し考えてから、うなずいた。
「うん。私も、今まで知らなかったことがたくさんあった」
「……そっか」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
夕暮れの公園を、穏やかな風が吹き抜けていく。
入れ替わりが起きてから、まだ一日も経っていない。
それなのに、二人の世界は大きく変わってしまった。
けれど、もしかすると。
この奇妙な出来事がなければ、二人は一生、相手の本当の姿を知らないままだったのかもしれない。
春馬は、そんなことを考えた。
◇
その夜。
春馬は、美雪の部屋でベッドに腰掛けていた。
慣れない部屋。
慣れない身体。
慣れない声。
何もかもが落ち着かない。
スマートフォンが震えた。
美雪からのメッセージだった。
『今日は本当にお疲れさま。明日もよろしくね』
春馬は画面を見つめ、少しだけ笑った。
『こっちこそ。明日は講義で寝るなよ』
すぐに返信が届く。
『黒瀬くんこそ、演劇サークルで変なことしないでね』
『努力はする』
『努力じゃなくて、ちゃんとして』
『はいはい』
何気ないやり取り。
けれど、それだけで少し気持ちが軽くなった。
春馬はスマートフォンを胸元に置き、天井を見上げた。
美雪の身体になってから、何度も彼女のことを考えていた。
高校時代のこと。
伝えられなかった気持ち。
そして、今の彼女がどんな毎日を過ごしているのかということ。
近くにいるようで、ずっと遠かった人。
その人の身体で、その人の生活を送ることになるなんて。
「……神様って、本当に何考えてるんだろうな」
小さくつぶやく。
答えは返ってこない。
もちろん、返ってくるはずもなかった。
一方、美雪もまた、春馬の部屋で天井を見つめていた。
今日一日で、彼のことを少しだけ知ることができた。
けれど、知れば知るほど、分からないことも増えていく。
どうして彼は、あんなに優しいのだろう。
どうして自分のことを、いつも後回しにするのだろう。
そして――。
どうして、あのとき何も言ってくれなかったのだろう。
美雪は目を閉じた。
まだ、聞きたいことがたくさんある。
話したいことも、きっとたくさんある。
けれど、それを口にするには、二人の間には知らないことが多すぎた。
スマートフォンの画面には、春馬とのメッセージが残っている。
美雪はそれを見つめ、そっと微笑んだ。
「……明日、ちゃんと話そう」
その言葉は、静かな部屋に溶けていった。
入れ替わりが元に戻る方法は、まだ分からない。
いつまでこの生活が続くのかも分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
明日も二人は、相手の身体で生きていかなければならない。
そして、その一日は今日よりも少しだけ難しくなるかもしれない。
入れ替わり生活の二日目が、静かに近づいていた。
第3話終了




