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『君の身体で、君に恋をした。』 ――入れ替わった僕たちが、本当の愛を見つけるまで――  作者: 雨宮 怜


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第23話 あなたの知らない私を、知りたいの?

大阪に来て三日目の朝。


昨夜、それぞれの胸に残った小さな違和感は、まだ消えないまま朝を迎えていた。


春馬はホテルのベッドに腰掛け、手元のスマートフォンを見つめていた。


画面には、彩音から届いたメッセージが表示されている。


『おはようございます、美雪さん。今日、少し時間はありますか? よかったら、一緒にカフェに行きませんか?』


「……カフェ?」


春馬は思わず声に出した。


昨日、霧島家で話したばかりだというのに、もう誘ってくれるとは思っていなかった。


別に嫌ではない。


むしろ、彩音と話している時間は心地よかった。


ただ、一つだけ問題がある。


春馬は美雪ではない。


美雪の身体に入れ替わっているだけの、黒瀬春馬なのだ。


彩音が知りたいと思っているのは、才園寺美雪という少女。


けれど、彼女が向き合っている相手は、その身体の中身が違う。


「……これ、どうすればいいんだよ」


断るべきなのだろうか。


それとも、美雪の知り合いとして、普通に付き合えばいいのだろうか。


春馬はしばらく悩んだ末、美雪にメッセージを送った。


『彩音さんからカフェに誘われた。行ってもいいかな?』


すぐに返信が来ることはなかった。


春馬はスマートフォンをベッドに置き、顔を洗いに行った。


部屋に戻ると、画面が光っていた。


『どうして私に聞くの?』


春馬は首を傾げた。


『だって、君の身体だし。君の知り合いでもあるから』


しばらくして、返事が届いた。


『……行けばいいじゃない』


続けて、もう一通。


『ただし、無理に私のことを話さなくていいから』


春馬はその文章をじっと見つめた。


美雪は、自分の知らないところで自分のことを話されるのが嫌なのだろうか。


それとも、単に気を遣ってくれているのだろうか。


考えても答えは出なかった。


『分かった。ありがとう』


春馬はそう返信した。


そして、彩音にも返事を送る。


『おはよう。うん、行こう。何時がいい?』


数秒後、彩音から嬉しそうな返事が届いた。


『ありがとうございます! 十一時に駅前で待ち合わせませんか?』


春馬は画面を見つめ、ふっと口元を緩めた。


「……よし」


こうして、彼の三日目が始まった。


* * *


午前十一時。


待ち合わせ場所に着くと、彩音はすでに駅前の時計台の下に立っていた。


淡い色のブラウスに、落ち着いたデザインのスカート。


肩にかかる髪が、朝の風に揺れている。


春馬の姿を見つけると、彩音は嬉しそうに手を振った。


「美雪さん!」


「お待たせ」


「いえ、私も今来たところです」


そう言って、彩音は自然な笑顔を見せた。


春馬はその笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。


昨日の夕食では、両家の大人たちの視線を意識せずにはいられなかった。


けれど、今日は二人きりだ。


余計なことを考えず、普通に話せるかもしれない。


「どこのカフェに行くの?」


「駅から少し歩いたところです。静かで、本も置いてあるんですよ」


「本も?」


「はい。コーヒーを飲みながら小説を読めるんです。美雪さんも、そういう場所は好きですか?」


春馬は一瞬、答えに迷った。


美雪がどんな場所を好むのか、詳しくは知らない。


けれど、自分なら――。


「うん。好きだよ」


そう答えた。


少なくとも、春馬自身にとっては本当だった。


彩音は嬉しそうに頷いた。


「よかった。きっと気に入ってもらえると思います」


二人は並んで歩き始めた。


その姿を、通りの向こう側から見つめている人物がいることには、まだ気づいていなかった。


* * *


その頃、蓮はホテルの近くで足を止めていた。


用事を済ませるために外出していた彼は、偶然、見覚えのある後ろ姿を見つけたのだ。


――美雪だ。


そう思った直後、蓮は彼女の隣を歩く少女に目を向けた。


見覚えのない相手だった。


二人は何かを話しながら、楽しそうに笑っている。


「美雪が、あんなふうに笑うなんてな……」


蓮は少しだけ目を細めた。


最近の美雪は、以前とはどこか違っている。


演技のときだけではない。


会話の仕方も、笑い方も、ときおり見せる困ったような表情も。


まるで、今まで知らなかった誰かを見ているようだった。


けれど、蓮はそれ以上深く考えなかった。


「まあ、楽しそうならいいか」


そうつぶやくと、彼は二人とは反対の方向へ歩き出した。


今はまだ、疑う理由などなかった。


* * *


カフェは、商店街から少し離れた静かな通りにあった。


木製の扉を開けると、コーヒーの香りと、古い本の紙が持つほのかな匂いが迎えてくれた。


壁一面の本棚には、小説やエッセイが整然と並んでいる。


「わあ……」


春馬は思わず声を漏らした。


「いい場所だね」


「でしょう?」


彩音は少し得意げに笑った。


「初めて来たとき、あまりに居心地がよくて、帰りたくなくなっちゃったんです」


二人は窓際の席に腰を下ろした。


注文を済ませると、彩音はバッグから一冊の小説を取り出した。


表紙には、夕暮れの駅のホームに立つ男女が描かれている。


「これ、最近読んだ作品の中で一番好きなんです」


「どんな話?」


「幼なじみの二人が、ずっと伝えられなかった気持ちを伝えようとする物語です。でも、ただ告白して終わり、という話ではないんです」


彩音は本の表紙を指先でそっとなぞった。


「好きだから一緒にいたい。でも、一緒にいることで相手を苦しめてしまうかもしれない。そんな矛盾に悩むんです」


春馬は静かに耳を傾けていた。


それは、どこか自分の過去と重なるものがあった。


好きだから、そばにいたかった。


けれど、その気持ちが相手の負担になることもある。


高校時代の自分は、そんな当たり前のことさえ分かっていなかった。


「……難しいね」


春馬がつぶやくと、彩音は小さく頷いた。


「はい。でも、だからこそ好きなんです」


「どうして?」


「人の気持ちは、きれいな言葉だけでは説明できないからです」


彩音は春馬を見つめた。


「優しい人だって、誰かを傷つけてしまうことがあります。反対に、冷たく見える人が、誰よりも相手のことを考えていることだってあるんです」


春馬は何も言えなかった。


美雪のことを思い出したからだ。


彼女は、かつて自分の気持ちを拒んだ。


そのときの春馬には、ただ冷たい言葉にしか聞こえなかった。


けれど、今なら分かる。


美雪にも、彼女なりの事情や考えがあったのかもしれない。


もちろん、そう理解したからといって、当時傷ついた自分の気持ちが消えるわけではない。


どちらか一方だけが正しく、もう一方が間違っている。


そんな単純な話ではなかったのだ。


「……彩音さんって、すごいね」


春馬はぽつりと言った。


「え?」


「人の気持ちを、そんなふうに考えられるのって」


彩音は少し驚いたあと、困ったように笑った。


「すごくなんてありませんよ。私だって、分からないことばかりです」


彼女は運ばれてきたカップを両手で包み込んだ。


「本当は、知りたいんです。大切な人が何を考えているのか。どうして笑っているのか。どうして悲しんでいるのか」


その声は、先ほどよりも少しだけ小さくなっていた。


「でも、全部を知ろうとすることが、必ずしも相手のためになるとは限りませんよね」


春馬はゆっくりと頷いた。


「うん。話したくないことだってあるから」


「だから、待つことも大切なんだと思います」


彩音は柔らかく微笑んだ。


「相手が話したくなったときに、ちゃんと耳を傾けられる人になりたいんです」


春馬は、その言葉を心の中で繰り返した。


話したくなったときに、聞いてくれる人。


高校時代の自分に、そんな人がいてくれたらどうだっただろう。


いや、今もそうなのかもしれない。


自分はいつだって、誰かの話を聞く側に回っていた。


自分の苦しさは胸の奥にしまい込み、笑って、何でもないふりをしてきた。


けれど、美雪は少しずつ、自分の話にも耳を傾けようとしてくれている。


そして今、彩音もまた、誰かの心を理解しようとしていた。


「……いい考え方だと思う」


春馬がそう答えると、彩音は嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます」


その笑顔を見て、春馬も自然と笑みを浮かべていた。


今度は、演技ではなかった。


* * *


昼過ぎ。


二人はカフェを出て、近くの小さな公園を歩いていた。


ベンチの周りには木漏れ日が揺れ、穏やかな午後の空気が流れている。


「美雪さんは、どんな物語が好きなんですか?」


彩音が尋ねた。


春馬は少しだけ足を緩めた。


「……私の好きな物語?」


「はい。昨日、本屋でお話ししたとき、何か物語を書いていそうな人だなって思ったんです」


春馬は目を見開いた。


「書いていそう?」


「はい。人の気持ちを考えるのが好きな人って、自分でも物語を書いてみたくなることがあるでしょう?」


彩音は不思議そうに首を傾げた。


「違いましたか?」


春馬はすぐには答えられなかった。


自分の部屋には、昔から書きためているノートがある。


そこには、何度も書き直した物語が眠っていた。


『明日、君が笑えるように』


誰かを笑顔にしたい。


自分の言葉が、いつか誰かの支えになればいい。


そんな願いを込めて書き始めた物語だった。


けれど、それを人に見せたことはほとんどない。


「……昔、少しだけ書いていたことはあるよ」


春馬は慎重に答えた。


「本当ですか?」


彩音の表情がぱっと明るくなった。


「どんなお話なんですか?」


「それは……」


春馬は困ったように笑った。


「まだ、人に見せられるようなものじゃないよ」


「そうなんですね」


彩音は少し残念そうにしたものの、それ以上無理に聞こうとはしなかった。


「いつか読ませてもらえたら嬉しいです」


その言葉に、押しつけがましさはなかった。


ただ、本当にそう思ってくれているようだった。


春馬の胸の奥が、ほんの少し温かくなる。


「……考えておくよ」


「約束ですよ?」


「いや、約束まではしてないだろ」


「ふふっ。じゃあ、いつかの約束ということにしておきます」


彩音は楽しそうに笑った。


春馬も、つられるように笑みをこぼした。


そのときだった。


春馬のスマートフォンが震えた。


画面には、美雪からの着信が表示されている。


「……ごめん。ちょっと出るね」


春馬は彩音に断りを入れ、少し離れた場所へ移動してから電話に出た。


「もしもし?」


『今、何してるの?』


美雪の声は、いつもより少し硬かった。


「彩音さんとカフェに行って、そのあと公園を歩いてる」


『……そう』


「どうした?」


電話の向こうで、短い沈黙が流れた。


『別に。何となく聞いただけ』


春馬は首を傾げた。


「何かあったのか?」


『何もない』


いつもの返事。


けれど、春馬には少し分かり始めていた。


美雪は、本当に何もないときほど、そんな言い方はしない。


「……美雪」


『何?』


「何か気になることがあるなら、ちゃんと言ってくれよ」


電話の向こうが静かになった。


春馬は言葉を続けた。


「俺、君の気持ちを全部分かるわけじゃない。でも、話を聞くことくらいはできるから」


言い終えてから、春馬自身も少し驚いた。


以前の自分なら、こんな言葉を美雪にかけられただろうか。


好きだという気持ちばかりが先走り、彼女が何を考えているのか、きちんと聞こうともしなかったかもしれない。


しばらくして、美雪が小さく息を吐いた。


『……別に、何もないってば』


それでも、その声は先ほどより少しだけ柔らかくなっていた。


『楽しんでいるなら、それでいいの』


「……そっか」


『うん』


「じゃあ、またあとで連絡する」


『分かった』


通話が切れた。


春馬はしばらくスマートフォンを見つめていた。


「……何だったんだろう」


どれだけ考えても、今の彼には答えが見つからなかった。


* * *


その頃、ホテルの部屋では、美雪がベッドの端に腰掛けていた。


通話を終えたスマートフォンを、両手で握りしめている。


本当は、聞きたいことがあった。


彩音と何を話したのか。


どんな顔で笑ったのか。


どうして、あんなに楽しそうにしているのか。


けれど、そんなことを尋ねる資格が自分にあるとは思えなかった。


春馬が自分を好きだった頃。


自分は彼の気持ちを受け入れられなかった。


彼がどんな思いで告白したのか、深く考えようともしなかった。


そして今、彼は自分の知らない誰かと出会い、新しい関係を築こうとしている。


それは、ごく自然なことだ。


春馬にだって、自分以外の誰かと笑い合う自由がある。


「……分かってる」


美雪は小さくつぶやいた。


分かっているはずなのに、胸の奥が落ち着かない。


彼が誰かに笑いかける姿を想像するだけで、心がざわついてしまう。


それが何なのか、まだ認めたくなかった。


「私は、春馬のことを……」


言葉が途切れる。


好きなのだろうか。


それとも、今まで自分を大切に思ってくれていた人が、遠くへ行ってしまうのが怖いだけなのだろうか。


どちらとも言い切れない。


けれど、どちらも少しずつ当てはまるような気がした。


美雪はそっと顔を伏せた。


「……分からないよ」


誰もいない部屋に、その声だけが静かに響いた。


* * *


夕方。


春馬と彩音は駅前で別れることになった。


「今日はありがとうございました」


彩音が丁寧に頭を下げた。


「こちらこそ。楽しかったよ」


春馬が答えると、彩音は少し照れたように笑った。


「また、お話ししてもいいですか?」


春馬は一瞬だけ迷った。


自分は美雪ではない。


この出会いが、美雪の人生にどんな影響を与えるのかも分からない。


それでも、彩音の言葉を無下にはしたくなかった。


「うん。また機会があれば」


「本当ですか?」


「うん」


彩音は嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、また会いましょう、美雪さん」


「……またね、彩音さん」


二人は手を振って別れた。


春馬はしばらくその場に立ち、彩音の後ろ姿を見送っていた。


やがて、ゆっくりと歩き出す。


今日の会話を思い返す。


彩音は、相手の心を知りたいと思っている。


けれど、無理に知ろうとはしない。


相手が話したくなるまで待とうとしている。


それは、春馬が誰かにしてほしかったことなのかもしれない。


「……俺も、いつか」


誰かに、自分の物語を読んでもらえる日が来るだろうか。


そんな小さな希望が、胸の中に芽生えていた。


その一方で、彼の知らないところでは、美雪の心もまた、少しずつ変わり始めていた。


まだ、それが恋なのかは分からない。


ただ、一つだけ確かなことがある。


昨日まで知らなかった少女の名前が、二人の心に残り始めているということだった。


そして、その小さな変化は、やがて三人の関係を大きく揺さぶることになる。


         第23話終了


最後までお読みいただき、ありがとうございます!


皆様の感想やご意見は、今後の執筆の励みになります。


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これからも楽しんでいただける物語をお届けできるよう頑張ります!

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