第24話 君が笑うたび、胸が騒ぐ
「大阪に来たんだから、今日は全員で観光しようぜ!」
朝から元気な声を響かせたのは、黒神蓮だった。
大阪に来て四日目の朝。
ホテルのロビーに集まった一同は、それぞれ違った反応を見せていた。
「蓮、声が大きいよ。まだ朝なんだから」
春馬――美雪の身体に入れ替わった春馬が、呆れたように言った。
「朝だからこそ元気にいくんだろ!」
「その理屈、初めて聞いたんだけど……」
翔也が苦笑する。
隣に立つ桜は、そんな二人のやり取りを見ながら楽しそうに笑っていた。
「まあ、いいじゃない。せっかく大阪に来たんだし、みんなで思い出を作りましょうよ」
「桜がそう言うなら決まりだな!」
蓮は満足げに頷いた。
春馬は小さく息を吐く。
今日もまた、美雪らしく振る舞いながら一日を乗り切らなければならない。
しかも、昨日から頭の中には新たな悩みが増えていた。
霧島彩音。
彼女と話している時間は、不思議なくらい心地よかった。
何気ない会話も、ちょっとした冗談も、自然と笑顔になれる。
だが、彼女が興味を持っているのは、才園寺美雪という少女だ。
自分ではない。
そう考えると、どうしても申し訳ない気持ちになってしまう。
「美雪、どうした?」
蓮に顔をのぞき込まれ、春馬は慌てて首を振った。
「何でもないよ」
「ふうん。昨日から少し考え事が多いな」
「そう?」
「そうだぞ。まあ、悩みがあるなら親友の俺に相談しろよ!」
「……誰が親友だって?」
「おい、そこは否定するところじゃないだろ!」
蓮が大げさに胸を押さえる。
その様子を見て、翔也が吹き出し、桜も楽しそうに笑った。
春馬も、つられるように笑みをこぼす。
この瞬間だけは、身体のことも、過去のことも忘れられる気がした。
そのときだった。
「おはようございます、美雪さん」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、そこには彩音が立っていた。
「……彩音さん?」
「昨日はありがとうございました」
彩音は丁寧に頭を下げた。
「実は、今日皆さんと一緒に観光すると聞いて、私もご一緒できないかと思ったんです。それで、お父さんにお願いしてみたら、許可をもらえました」
昨夜、彩音から蓮たちにも連絡があり、今日の観光に参加したいという話はすでに伝わっていたらしい。
「もちろん大歓迎だ!」
真っ先に答えたのは蓮だった。
「俺は黒神蓮。美雪とは大学で同じ活動をしてるんだ。よろしく!」
「霧島彩音です。よろしくお願いします」
彩音が微笑む。
蓮は一瞬、その笑顔に見とれたようだったが、すぐにいつもの調子に戻った。
「よし! 人数も増えたし、今日は最高の一日にしようぜ!」
「まだ何もしてないのに、もう最高って決めてる……」
春馬が呆れたようにつぶやくと、彩音が小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、春馬の胸の奥がほんの少し温かくなる。
けれど、彼はその感情に気づかないふりをした。
今はただ、みんなとの時間を楽しめばいい。
そう自分に言い聞かせた。
* * *
最初に向かったのは、大阪の街並みを一望できる展望施設だった。
エレベーターを降りた瞬間、大きな窓の向こうに広がる街並みが目に飛び込んでくる。
遠くまで続く建物の数々と、その間を縫うように走る道路。
朝の光を受けた街は、どこか輝いて見えた。
「うわ、すごいな!」
翔也が思わず声を上げ、窓際へと歩いていく。
「写真撮ろうぜ、桜!」
「はいはい、今行くよ」
桜が笑いながら翔也の隣に立つ。
蓮もスマートフォンを取り出し、全員を集めようとした。
「おーい、美雪! 彩音さんもこっち!」
「私はいいよ」
春馬が遠慮がちに断ろうとすると、蓮はすぐに反論した。
「何言ってるんだよ。せっかくの記念写真だぞ!」
彩音も春馬に微笑みかける。
「一緒に撮りましょう、美雪さん」
「……うん」
春馬は少し迷ったあと、二人の間に立った。
「じゃあ、撮るぞー!」
蓮の声に合わせて、全員がカメラに視線を向ける。
シャッター音が響いた。
その直後、蓮が画面を確認して声を上げた。
「よし、いい写真だ!」
「見せて」
桜がスマートフォンをのぞき込む。
画面には、笑顔の翔也と桜、満足げな蓮、そして少し緊張した春馬と、その隣で穏やかに笑う彩音が写っていた。
「美雪、なんだか楽しそうだね」
桜が何気なく言った。
春馬は思わず顔を上げる。
「え?」
「最近、そんなふうに笑うことが増えた気がする」
桜はスマートフォンから目を離し、春馬の顔を見つめた。
「東京にいるときも、前より表情が柔らかくなったよね」
春馬の胸がどきりとした。
「……そうかな」
「うん。いいことだと思うよ」
桜はそれ以上追及しなかった。
けれど、春馬の心には小さな引っかかりが残った。
美雪の身体で笑う自分を見て、家族は喜んでいる。
しかし、それは本当に美雪自身の変化なのだろうか。
それとも、自分が彼女の身体を借りているからなのだろうか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
「美雪さん?」
彩音の声に、春馬は我に返った。
「どうしたの?」
「少し疲れましたか?」
「いや、大丈夫。ちょっと考え事をしてただけ」
「そうですか。無理はしないでくださいね」
彩音は安心したように微笑んだ。
その表情を見て、春馬は小さく頷いた。
今は、目の前にある時間を大切にしよう。
そう思った。
* * *
昼食は、にぎやかな商店街の近くにあるお好み焼き店で取ることになった。
テーブルいっぱいに料理が並ぶと、蓮は早速、焼きたてのお好み焼きに手を伸ばした。
「うまっ! やっぱり大阪は最高だな!」
「蓮、まだ一口しか食べてないだろ」
翔也が呆れたように言う。
「一口で分かるんだよ!」
「すごい才能だね……」
春馬が笑うと、彩音も楽しそうに頷いた。
「蓮さんって、いつもこんな感じなんですか?」
「そうだよ。東京でもだいたいこんな感じ」
「おい、美雪。それは褒めてるのか?」
「さあ?」
「絶対に褒めてないだろ!」
テーブルに笑い声が広がる。
そんな中、彩音が春馬の皿に目を向けた。
「美雪さん、それ、あまり食べていませんね」
「え?」
「さっきから、ほとんど手をつけていないように見えたので」
春馬は自分の皿を見下ろした。
確かに、会話に夢中になっていて、ほとんど食べていなかった。
「ああ、ごめん。ちょっと話に夢中になってた」
「そうだったんですね」
彩音は少し考えてから、自分の皿にあった小さな一切れを春馬の皿に取り分けた。
「これ、おいしかったですよ。よかったら食べてみてください」
「……ありがとう」
春馬は少し驚いた。
本当に何気ない行動だった。
けれど、相手が気づかないほど小さな変化を見つけて、自然に気遣う。
彩音には、そういう優しさがあるのかもしれない。
「美雪さんって、食べることより考え事を優先しちゃうところがありますよね」
「えっ?」
「昨日もそうでした。何かを考え始めると、急に静かになるんです」
春馬は苦笑した。
「そんなに分かりやすい?」
「はい。結構分かりやすいですよ」
彩音は少し楽しそうに笑った。
「でも、そういうところも嫌いじゃないです」
春馬の手が止まった。
「……え?」
「あっ、変な意味じゃないですよ?」
彩音は少し慌てたように付け加えた。
「ただ、何かを真剣に考えている姿って、素敵だなと思ったんです」
「そ、そうなんだ……」
春馬は曖昧に笑い、視線を皿へと落とした。
何気ない言葉のはずなのに、なぜか胸の奥が落ち着かない。
どう受け取ればいいのだろう。
ただの友達としての好意なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
考えようとした瞬間、蓮が二人の間に顔を出した。
「おいおい、何の話だ? 俺も混ぜろよ!」
「蓮さんは、まず食べることに集中してください」
彩音が笑顔で返す。
「なんで俺だけ扱いが雑なんだよ!」
「自覚があるなら、直した方がいいんじゃない?」
春馬がすかさず言う。
「美雪までそんなこと言うのかよ!」
蓮は大げさに天を仰いだ。
「大阪に来ても俺の味方がいない!」
また笑い声が起きた。
賑やかな会話に包まれながら、春馬は自分の皿に目を落とした。
彩音が取り分けてくれた一切れは、まだ温かかった。
その温もりが、なぜかいつまでも胸の奥に残っていた。
* * *
一方、その頃。
美雪はホテルの部屋で、スマートフォンを何度も確認していた。
春馬からの連絡はない。
もちろん、今頃は観光を楽しんでいるのだろう。
そう考えるのが自然だった。
それなのに、彼女は画面を閉じては開き、また閉じていた。
「……何をしているの、私」
自分でも分からなかった。
昨日、春馬は彩音とカフェに行った。
そして今日は、仲間たちと大阪を観光している。
その中には、もちろん彩音もいる。
ただ、それだけのことだ。
春馬には友達を作る自由がある。
自分が彼の気持ちに応えられなかったからといって、彼がいつまでも自分だけを見ていなければならない理由などない。
むしろ、彼には幸せになってほしい。
それは紛れもない本心だった。
けれど――。
「……私の知らないところで、あんなふうに笑ってるんだ」
美雪は、昨日の電話で春馬が口にした言葉を思い出した。
『彩音さんと話していて楽しかったよ』
その声が、頭の中で何度も繰り返される。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……嫌だな」
小さく漏れた言葉に、美雪自身が驚いた。
何が嫌なのだろう。
春馬が楽しそうにしていること?
彩音と仲良くなっていること?
それとも、自分の知らない春馬の表情を、彩音が先に知ってしまうことだろうか。
「……分からない」
美雪は額に手を当てた。
今まで、春馬が自分を好きでいてくれることを、どこか当たり前のように感じていたのかもしれない。
彼が優しくしてくれること。
自分の言葉を大切にしてくれること。
傷ついても、それを表に出さずに笑ってくれること。
そんな日々が、いつまでも変わらずに続くと思っていたのかもしれない。
けれど、人の気持ちは永遠に同じ形ではいられない。
春馬だって変わっていく。
自分の知らない誰かと出会い、新しい思い出を作っていく。
その当たり前のことが、今になって怖くなった。
美雪はスマートフォンを手に取った。
春馬にメッセージを送ろうとして、指を止める。
何と送ればいいのだろう。
『今、何してるの?』
それでは、まるで彼の行動を気にしているみたいだ。
『楽しんでる?』
それなら、普通の質問に聞こえるだろうか。
結局、美雪は何も送らず、スマートフォンを伏せた。
「……私って、こんなに面倒な人だったんだ」
自嘲するように笑ってみても、胸の痛みは消えなかった。
* * *
夕方。
一同は川沿いの遊歩道を歩いていた。
夕日が水面に反射し、街全体が淡いオレンジ色に染まっている。
「そろそろホテルに戻るか?」
翔也が時計を確認しながら尋ねた。
「そうだな。明日も予定があるし」
蓮も頷く。
彩音は少し残念そうに、夕日に染まる景色を見つめていた。
「もう帰るんですね」
「また来ればいいじゃないか」
春馬が何気なく言うと、彩音は彼の方を向いた。
「……そうですね。また来たいです」
ほんの短い沈黙が流れる。
それから彩音は、少しだけ声を小さくした。
「美雪さんとも、またお会いできたら嬉しいです」
春馬は彼女を見つめた。
彩音の瞳は、まっすぐに自分を見ていた。
社交辞令ではない。
本当にそう思ってくれているのだと、伝わってきた。
「……うん。また会おう」
春馬は穏やかに微笑んだ。
彩音も嬉しそうに笑い返す。
その瞬間、少し離れた場所で、桜が二人の様子を見つめていた。
そして、不思議そうに首を傾げる。
「……美雪、変わったな」
隣にいた翔也が尋ねた。
「何が?」
「ううん。何でもない」
桜は小さく微笑んだ。
「ただ、最近は少し楽しそうだなって思ったの」
翔也は春馬と彩音に視線を向けたあと、穏やかに頷いた。
「そうだな」
二人は、それ以上何も言わなかった。
まだ、誰も知らない。
美雪の身体の中にいるのが春馬だということも。
そして、春馬の身体の中にいる美雪が、今この瞬間も、自分の知らない感情に戸惑っていることも。
* * *
ホテルへ戻る途中、春馬のスマートフォンが震えた。
画面には、美雪からのメッセージが表示されていた。
『今日、楽しかった?』
春馬は少しだけ微笑み、返信する。
『うん。みんなと一緒だったし、楽しかったよ』
送信したあと、少し考えてから、もう一通メッセージを送った。
『美雪も、何かあったら話してくれよ』
しばらくして、返事が届いた。
『……ありがとう』
たった一言。
けれど、春馬にはその言葉が、いつもより少しだけ素直に感じられた。
彼はスマートフォンをしまい、夕暮れに染まる街を見上げた。
彩音との出会いは、まだ始まったばかりだ。
美雪との関係も、まだ答えの出ないことばかりだった。
それでも、春馬は少しずつ理解し始めていた。
人の心は、簡単には分からない。
自分の心でさえ、分からないことがある。
だからこそ、急いで答えを出さなくてもいいのかもしれない。
その夜。
美雪もまた、春馬から届いた『ありがとう』の文字を見つめていた。
彼女はゆっくりと目を閉じる。
そして、心の中で小さくつぶやいた。
――春馬。
あなたが誰かと笑っていることを、どうして私は、こんなにも気にしてしまうのだろう。
その問いに、まだ答えは見つからない。
けれど、その気持ちを無視することは、もうできなくなり始めていた。
第24話終了
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