第22話 あなたは、本当に才園寺美雪なの?
「美雪、久しぶりね。元気にしていた?」
霧島家のリビングに入ると、彩音の母親が優しい笑顔で声をかけてきた。
「はい。お久しぶりです」
春馬は、できる限り美雪らしい落ち着いた笑顔を浮かべて答えた。
――危なかった。
目の前にいる大人たちは、才園寺家と霧島家が長年親しく付き合ってきたことを、ごく当たり前のように話している。
しかし、春馬には分からないことが多すぎた。
美雪の父親が霧島家とどれほど親しいのか。
彩音がどのような家庭で育ってきたのか。
そして、美雪自身がこの家族について、どんな記憶を持っているのか。
何気ない会話の中にも、春馬の知らない思い出が隠れているかもしれない。
一つでも受け答えを間違えれば、不自然に思われてしまう。
今の春馬にとって、この場は思っていた以上に気の抜けない場所だった。
「美雪、こちらに座りなさい」
父親に促され、春馬はソファに腰を下ろした。
隣には桜が座り、その向かい側には彩音がいる。
彩音は時折、春馬の顔をじっと見つめていた。
目が合うと、彼女は小さく微笑む。
春馬も笑顔を返したものの、内心では落ち着かなかった。
(昨日、本屋で会ったときと同じ顔をしているはずなのに……なんだか、ずっと見られている気がする)
そんなことを考えていると、桜が彩音に話しかけた。
「彩音さん、大学生活はどう?」
「楽しいですよ。最近は授業の合間に本屋へ立ち寄ることが多いんです」
「本が好きなの?」
「はい。特に、人の気持ちが丁寧に描かれている物語が好きなんです」
彩音の表情が、ほんの少し明るくなった。
「登場人物が間違いを犯したり、誰かを傷つけてしまったりしても、その人なりの理由があるじゃないですか。そういう部分を考えるのが好きなんです」
その言葉に、春馬は思わず反応した。
「分かります」
その瞬間、リビングにいた全員の視線が春馬へと集まった。
(しまった……)
少し早く反応しすぎたかもしれない。
美雪なら、こんなふうに会話へ飛び込んだだろうか。
春馬はわずかに姿勢を正し、言葉を続けた。
「……人の気持ちって、表面だけを見ても分からないことが多いから」
彩音は、興味深そうに春馬を見つめた。
「美雪さんも、そう思うんですね」
「え?」
「昨日、本屋でお話ししたときも思ったんです。美雪さんは、人の気持ちについてよく考えている人なんだなって」
春馬の心臓が小さく跳ねた。
「昨日、本屋で?」
桜が意外そうに尋ねる。
「はい。偶然お会いしたんです。少しだけお話ししました」
彩音が答えると、桜は春馬のほうへ顔を向けた。
「へえ。美雪が本屋で知り合いを作るなんて珍しいね」
「お姉ちゃん……」
春馬は困ったように眉を下げた。
「私だって、誰かと話すことくらいあるよ」
「ふふっ、ごめんごめん」
桜は楽しそうに笑った。
その様子を、少し離れた席から美雪の父親が静かに眺めていた。
「彩音さん、美雪とは話が合うようだね」
「はい。もっとお話ししてみたいと思いました」
彩音は迷うことなく答えた。
その言葉に、春馬は少し戸惑った。
初めて会った相手から、そんなふうに言ってもらえることは、あまりなかったからだ。
「……私も、彩音さんとは話しやすいと思います」
春馬がそう答えると、彩音は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、春馬の胸の奥がほんのりと温かくなる。
けれど、彼はその感情について深く考えようとはしなかった。
今の自分には、他人の気持ちを考えるだけでも精いっぱいだったから。
* * *
やがて食事が始まると、大人たちの会話は自然と仕事の話へ移っていった。
どうやら才園寺家と霧島家は、以前からいくつかの事業を通じて関係を築いているらしい。
春馬には詳しい事情までは分からなかったが、大学で進めている映像プロジェクトの話題が出た瞬間、自然と耳を傾けた。
「例の学生映像プロジェクトですが、若い人たちに自由な表現の場を与えるという点では、非常にいい企画だと思っています」
霧島家の父親がそう口にした。
美雪の父親は、手にしていたグラスを静かに置いた。
「ええ。ただ、才能を伸ばすだけでは不十分です。将来につながる成果も必要でしょう」
「もちろんです。しかし、若い人間の可能性は、数字だけで測れるものではありませんからね」
二人の意見は似ているようで、どこか違っていた。
春馬は箸を持つ手を止めた。
(美雪のお父さんは、どうしてそこまで成果にこだわるんだろう……)
ふと、美雪が自分の人生を選ぼうとしたときに見せた、あの苦しそうな表情が脳裏をよぎった。
彼女はずっと、父親の期待に応えようとして、自分の気持ちを押し殺してきたのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が少し重くなった。
「美雪」
不意に名前を呼ばれ、春馬は顔を上げた。
「はい」
「今回のプロジェクトについて、お前はどう考えている?」
春馬は背筋を伸ばした。
「……参加する価値はあると思います」
「価値、か」
父親は続きを促すように、春馬を見つめた。
「はい。学生が自分の考えを形にできる貴重な機会ですから。もちろん結果も大切ですが、そこに至るまでに何を考え、何を学んだのかも同じくらい大切だと思います」
言い終えた瞬間、春馬は内心で後悔した。
これは、美雪の考えというより、自分自身の考えだった。
少し踏み込みすぎただろうか。
そんな不安が胸をよぎる。
しかし、父親はすぐには何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「以前のお前なら、そんな答え方はしなかったな」
春馬の背中に、冷たい汗が伝った。
「……そうですか?」
「以前のお前は、私が望む答えを探していた。だが、今は違う。自分の考えを持ち、それを口にしている」
父親の視線は、まっすぐ春馬を捉えていた。
「何か心境の変化でもあったのか?」
春馬は答えに詰まった。
本当のことを話すわけにはいかない。
けれど、何もかもを偽るのも違う気がした。
しばらく考えたあと、春馬はゆっくりと口を開いた。
「……自分で考えることの大切さが、少しだけ分かったんです」
それは、決して嘘ではなかった。
美雪と身体が入れ替わってから、春馬は何度も彼女の立場に立って物事を考えてきた。
彼女が抱えていた苦しみも、誰にも言えなかった思いも、少しずつ理解し始めている。
だからこそ、以前の自分とは違う答えを口にできたのだと思う。
父親は春馬をしばらく見つめたあと、短く息を吐いた。
「そうか」
それ以上、追及してくることはなかった。
ただ、春馬は気づいていなかった。
そのやり取りを、彩音が静かに見つめていたことに。
* * *
食事を終えたあと、彩音が春馬のそばへやってきた。
「美雪さん。よかったら、少し庭を歩きませんか?」
春馬は一瞬だけ迷った。
けれど、断る理由もない。
それに、彼女と話すこと自体は嫌ではなかった。
「うん。いいよ」
二人は縁側から庭へ出た。
夕暮れの風が、木々の葉を優しく揺らしている。
遠くから聞こえる車の音も、家の中から漏れてくる話し声も、ここではどこか遠くに感じられた。
しばらくの間、二人は並んで歩いていた。
先に口を開いたのは彩音だった。
「美雪さんって、昨日と少し雰囲気が違いますね」
春馬の足が、わずかに止まりかけた。
「……そう?」
「はい。昨日はもっと自然体だった気がします。今日は、周りの人の反応をずっと気にしているように見えました」
春馬はすぐには答えられなかった。
彩音の声に責めるような響きはない。
ただ、彼女が感じたことを素直に伝えているだけだった。
「気のせいだったら、ごめんなさい」
「いや……」
春馬は困ったように笑った。
「最近、少し考えることが多くて」
「そうなんですね」
彩音は、それ以上深く尋ねてこなかった。
その距離感が、春馬にはありがたかった。
誰にだって、話したくないことはある。
無理に聞き出そうとせず、相手が自分から話してくれるまで待つ。
そんな優しさを、彩音はごく自然に持っているようだった。
「彩音さんは、どうしてそんなに人の気持ちに興味があるの?」
春馬が尋ねると、彩音は少しだけ視線を上げ、夕焼けに染まる空を見つめた。
「昔、うまく気持ちを伝えられなかったことがあるんです」
「……誰かに?」
「はい。大切な人に」
彩音は、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「その人が何を考えていたのか、今でも全部は分かりません。だから、物語を読むときは、登場人物の気持ちをできるだけ理解したいんです」
その言葉に、春馬は胸の奥をそっとつかまれたような気がした。
自分も、同じだった。
美雪はなぜ、自分の気持ちを受け入れてくれなかったのか。
あのとき、彼女は何を考え、何を感じていたのか。
当時の春馬には、何一つ理解できなかった。
けれど、身体が入れ替わってからは、少しずつ彼女の気持ちを知ろうとしている。
今なら、以前とは違う視点で彼女のことを考えられる気がした。
「……分かる気がする」
春馬は静かに答えた。
彩音は、そっと彼の顔を見つめた。
「美雪さんにも、そういう経験があるんですか?」
「……誰にでも、一度くらいはあるんじゃないかな」
春馬はそう答えることしかできなかった。
彩音はそれ以上追及せず、少し考えてから微笑んだ。
「やっぱり、美雪さんとはもっとお話ししてみたいです」
「どうして?」
春馬が尋ねると、彩音は少しだけ首を傾けた。
「話していると、まだ知らない物語が隠れているような気がするからです」
春馬は思わず小さく笑った。
「私、そんなに面白い人じゃないよ」
そう言いながら、危うくいつもの一人称が出そうになったことに気づく。
今の自分は美雪なのだ。
何気ない一言でさえ、気をつけなければならない。
彩音は小さく首を横に振った。
「面白いかどうかは、まだ分かりません。でも、もっと知りたいとは思います」
その言葉は、夕暮れの庭に静かに響いた。
春馬は返事を探したが、うまく見つからなかった。
ただ、彼女の言葉が不思議と心に残った。
* * *
その夜、ホテルに戻った春馬は、ベッドに身体を投げ出した。
「疲れた……」
大人たちとの食事。
美雪の父親との会話。
そして、彩音と過ごした時間。
たった一日なのに、頭の中はもういっぱいだった。
春馬は枕元に置いていたスマートフォンを手に取った。
画面を見ると、美雪からメッセージが届いている。
『今日、何か変わったことはあった?』
春馬は少し考えてから返信した。
『彩音さんの家族と美雪のお父さんは、かなり親しいみたいだ』
送信すると、すぐに既読がついた。
『それは知ってる』
『あと、彩音さんと少し話したよ。いい人だと思う』
メッセージを送ったあと、春馬は天井を見上げた。
特に深い意味はなかった。
ただ、今日あったことを伝えただけだ。
数秒後、返信が届く。
『……そう』
また、その短い返事だった。
春馬は思わず苦笑した。
『美雪、今日なんか変だぞ』
『何が?』
『いや、何でもない』
そう返信すると、今度は美雪からすぐにメッセージが届いた。
『春馬』
自分の名前を呼ばれ、春馬は画面を見つめた。
『あなたは、彩音さんと仲良くなりたいの?』
春馬の指が止まった。
仲良くなりたいか。
改めて聞かれると、すぐには答えられなかった。
彩音と話していると、自分の考えを無理に飾らずに済む気がする。
彼女は人の言葉をよく聞き、相手の気持ちを大切にしようとしてくれる。
一緒にいて、居心地が悪いとは思わなかった。
けれど、それが仲良くなりたいという気持ちなのかは、まだ分からない。
春馬は少し迷ったあと、正直に返信した。
『まだ分からない。でも、話していて楽しかったよ』
送信すると、すぐに既読がついた。
しかし、返信はなかった。
春馬はしばらく画面を見つめていたが、やがてスマートフォンを枕元に置いた。
「……何なんだよ」
小さくつぶやき、目を閉じる。
一方、その頃。
別の部屋では、美雪がスマートフォンを握りしめていた。
春馬から届いたメッセージを、何度も読み返している。
『話していて楽しかったよ』
ただ、それだけの言葉だった。
それなのに、胸の奥がざわついて仕方がない。
「……別に、いいじゃない」
美雪はスマートフォンを伏せた。
春馬が誰と仲良くなろうと、それは彼の自由だ。
自分には関係ない。
そう分かっているはずなのに。
彩音という名前が、頭から離れなかった。
昨日まで知らなかった少女。
春馬が偶然出会い、言葉を交わし、楽しい時間を過ごした相手。
そのことを考えるたびに、胸の奥に小さな違和感が広がっていく。
美雪は暗い天井を見つめた。
「……私、何を期待しているんだろう」
その問いに、答えを見つけることはできなかった。
* * *
大阪の夜は、静かに更けていく。
同じ街で過ごしているはずなのに、三人の心は、それぞれ違う場所を向いていた。
春馬は、彩音と過ごした時間を思い返していた。
彩音は、昨日よりも少しだけ美雪との距離が縮まったことを嬉しく感じていた。
そして美雪は、自分でも理解できない感情を胸の奥に抱えたまま、眠れない夜を過ごしていた。
まだ、誰もこの気持ちを恋だとは呼ばない。
けれど、昨日までなら生まれなかった感情が、少しずつ形を持ち始めている。
その小さな変化が、やがて三人の関係を大きく変えていくことになるのだった。
第22話終了
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