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『君の身体で、君に恋をした。』 ――入れ替わった僕たちが、本当の愛を見つけるまで――  作者: 綾小路如月


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第21話 知らない少女の名前が、心に残る

大阪の朝は、東京よりも少しだけ賑やかに感じられた。


ホテルの窓から街並みを眺めながら、春馬は小さくあくびをした。


「……眠い」


昨日、書店で出会った少女――霧島彩音のことが頭から離れず、なかなか寝つけなかったのだ。


もちろん、特別な感情を抱いたというわけではない。


ただ、初めて会った相手なのに、不思議と話しやすかった。


それに、彼女は春馬自身も気づいていなかった何かを、ほんの少しだけ見抜いたような気がした。


「物語を書く人みたい、か……」


春馬は鏡の前に立ち、今の自分の顔を見つめた。


そこに映っているのは、才園寺美雪の顔。


けれど、その瞳の奥にいるのは、紛れもなく黒瀬春馬だった。


「俺って、本当にそんな人間なのかな……」


小さくつぶやいてみても、答えは見つからない。


そのとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。


画面には、美雪からのメッセージが表示されている。


『起きてる?』


春馬はすぐに返信した。


『起きてるよ。どうした?』


ほどなくして、返信が届いた。


『昨日、何かあった?』


「……え?」


春馬は思わず画面を見つめた。


いきなり何を聞いてくるのだろう。


『何もないけど』


そう返信してから、数秒後。


『嘘』


たった二文字のメッセージが届いた。


『あなた、何か隠しているときは、返信するまでに少し時間がかかるのよ』


「いや、そんなところまで分かるのかよ……」


春馬は苦笑した。


自分では美雪のことを少しずつ理解しているつもりだった。


けれど、どうやら彼女もまた、春馬のことを少しずつ理解し始めているらしい。


春馬は少し迷ったあと、正直に打ち込んだ。


『昨日、本屋で女の子と話したんだ』


送信して間もなく、既読がついた。


『女の子?』


『霧島彩音っていう人。小説が好きみたいで、少し話しただけだよ』


それから、しばらく返信はなかった。


春馬はスマートフォンを見つめながら、小さく首を傾げた。


「……何か変なこと言ったかな」


やがて、画面に新しいメッセージが表示された。


『そう』


たった二文字。


それだけなのに、なぜか妙に気になった。


『それだけ?』


『それだけって何よ』


『いや、怒ってるのかなって』


『怒ってないわ』


返事はすぐに届いた。


春馬は思わず小さく笑った。


『ならよかった』


そう返信した直後、もう一通のメッセージが届いた。


『……どんな子だったの?』


春馬の指が止まった。


「……え?」


思わず声が漏れる。


昨日の美雪なら、他人のことをこんなふうに尋ねただろうか。


彼女が他人に興味を持たないわけではない。


ただ、自分から誰かについて詳しく聞くことは、あまりなかったはずだ。


春馬は少し考えてから返信した。


『落ち着いた雰囲気の子だったよ。小説の話になると、すごく楽しそうに話すんだ』


『……そう』


また短い返事。


春馬は、その言葉の裏に何があるのか分からなかった。


しかし、それ以上考える前に、部屋のドアがノックされた。


「美雪、準備できた?」


ドアの向こうから蓮の声が聞こえてきた。


「今日、みんなで大阪の街を回るんだろ?」


「あ、今行く!」


春馬は慌てて返事をした。


スマートフォンをポケットにしまい、身支度を整えて部屋を出る。


そのとき、画面に美雪から最後のメッセージが届いた。


『その子、また会うの?』


春馬は歩きながら画面を確認し、少しだけ困った顔をした。


『分からないよ。偶然会っただけだから』


そう返信して、スマートフォンをしまった。


昨日の出会いが、まさか今日にもつながることになるとは、このときの春馬はまだ想像もしていなかった。


* * *


同じ頃、大阪市内の一軒家では、彩音が鏡の前で髪を整えていた。


「彩音、お客様がいらっしゃるわよ」


階下から母親の声が響く。


「はーい!」


彩音は返事をして、階段を下りた。


リビングには、父親がいつもより丁寧な服装で立っていた。


母親も、普段より少し緊張した様子で玄関のほうを気にしている。


「そんなに大切なお客様なの?」


彩音が尋ねると、父親はネクタイを整えながら答えた。


「昔から付き合いのあるご家族だ。仕事上の関係もあるが、個人的にも長い付き合いでね」


「へえ……」


彩音はあまり興味がなさそうに相づちを打った。


父親はそんな娘を見て、少し困ったように笑う。


「今日は失礼のないようにな。特に、才園寺家のお嬢さんたちには、きちんと挨拶するんだぞ」


その名前を聞いた瞬間、彩音の動きが止まった。


「……才園寺?」


「ああ。今日は才園寺さんのご家族がいらっしゃるんだ」


彩音の脳裏に、昨日出会った少女の顔が浮かんだ。


長い黒髪。


涼しげな目元。


そして、どこか人を寄せつけない雰囲気の中に、ほんの一瞬だけ見せた柔らかな表情。


「……美雪さん?」


思わず、その名前が口をついて出た。


「ん? 知り合いなのか?」


父親の問いかけに、彩音は慌てて首を横に振った。


「ううん。昨日、本屋で会った人が、才園寺美雪さんって名前だったから」


「昨日?」


「少し話しただけよ。小説の話をしたの」


父親は意外そうに眉を上げた。


「そうか。美雪さんとね……」


その口調には、何かを知っているような響きがあった。


彩音は父親の顔をじっと見つめた。


「お父さん、あの人のこと知ってるの?」


「もちろん。才園寺家とは昔からの付き合いだからな」


「……そうなんだ」


彩音はそれ以上、尋ねなかった。


けれど、胸の中では小さな好奇心が膨らんでいた。


昨日、本屋で出会ったあの人。


彼女は普段、どんな生活を送っているのだろう。


何を考え、何に悩み、どんな物語を心に抱えているのだろう。


「……また会えたらいいな」


彩音は誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。


そのとき、玄関のチャイムが鳴った。


父親が表情を引き締める。


「来られたようだな」


母親が玄関へ向かい、父親もその後に続いた。


彩音も少し遅れてリビングを出る。


やがて、玄関の扉が開いた。


「お久しぶりです、霧島さん」


聞き覚えのある男性の声が響いた。


彩音が顔を上げると、そこには見覚えのある男性が立っていた。


才園寺美雪の父親だった。


その隣には、姉の桜もいる。


そして、その後ろから――。


「お邪魔します」


長い黒髪の少女が姿を現した。


彩音は思わず息をのんだ。


「……美雪さん?」


声に出すつもりはなかった。


けれど、驚きのあまり、自然と口からこぼれていた。


少女は彩音の声に気づき、こちらを向いた。


一瞬、視線が交わる。


「……あ」


少女も、わずかに目を見開いた。


昨日、書店で出会った美雪と、今ここにいる美雪。


顔は間違いなく同じなのに、どこか雰囲気が違っていた。


昨日の彼女は、落ち着いていて、どこか大人びた印象だった。


それに比べて、今日は突然の再会に戸惑っているように見える。


けれど、それもまた人間らしい一面なのかもしれない。


「昨日は、どうも」


彩音が小さく頭を下げる。


少女は一瞬だけ戸惑ったあと、柔らかく微笑んだ。


「こちらこそ」


その声を聞きながら、彩音は不思議な感覚を覚えていた。


昨日の出会いは、ただの偶然ではなかったのかもしれない。


そんな気がしたのだ。


もちろん、彼女はまだ知らない。


目の前にいる少女の身体の中には、本来の持ち主とは別の人間がいることを。


そして、その身体の本当の持ち主もまた、今この瞬間、彼女のことを考えていることを。


* * *


一方、その頃。


大阪のホテルの一室では、美雪がスマートフォンを握りしめていた。


もちろん、彼女の身体は春馬のものだ。


「……霧島彩音、か」


春馬から聞いた名前を、もう一度口にする。


理由は自分でも分からない。


ただ、昨日まで知らなかった少女の名前が、妙に心に残っていた。


美雪は窓の外へ視線を向けた。


大阪の街は、今日も多くの人で賑わっている。


その人混みのどこかに、春馬が出会った少女がいる。


そう考えただけで、胸の奥が落ち着かなくなった。


「……私、何を気にしているんだろう」


美雪は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


春馬が誰と話そうと、それは彼の自由だ。


彼が誰かと仲良くなったとしても、自分が口を出す理由はない。


今までだって、そうだった。


春馬が自分を好きだった頃も。


自分が彼の気持ちに応えられなかった頃も。


そして、身体が入れ替わってからも。


彼はいつだって、自分の気持ちを押しつけてくることはなかった。


それなのに、どうしてだろう。


「……どうして、こんなに気になるの?」


答えは、まだ見つからない。


美雪はスマートフォンを置こうとした。


その瞬間、春馬から新しいメッセージが届いた。


『今日、みんなで大阪の街を回ることになったよ。何かあったら連絡する』


美雪は画面をじっと見つめた。


少し迷ったあと、返信する。


『分かった。無理しないでね』


送信してから、彼女は小さく息を吐いた。


そして、誰にも聞こえない声でつぶやいた。


「……楽しんでくればいいじゃない」


その言葉が、春馬に向けたものなのか、それとも自分自身に向けたものなのか。


美雪には、まだ分からなかった。


* * *


大阪の空は、ゆっくりと青さを増していく。


同じ街にいながら、それぞれ別の場所で過ごす三人。


春馬は、偶然出会った少女の言葉を思い返していた。


彩音は、昨日出会った少女との再会に胸を弾ませていた。


そして美雪は、自分でも理解できない感情を胸の奥に抱えていた。


まだ、誰もこの気持ちを恋だとは呼ばない。


けれど、心の奥に生まれた小さな違和感は、確かに昨日までとは違うものだった。


知らない少女の名前が、心に残る。


その小さな変化が、やがて三人の関係を大きく変えていくことになる。



第21話終了



最後までお読みいただき、ありがとうございます!


皆様の感想やご意見は、今後の執筆の励みになります。


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これからも楽しんでいただける物語をお届けできるよう頑張ります!


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