第20話 大阪で出会った、もう一人の少女
五月の終わり。
東京駅は、朝から多くの人で賑わっていた。
「おーい! 春馬、早くしろって!」
改札の向こうから、翔也の声が響く。
才園寺美雪の身体に入った春馬は、大きなスーツケースを引きながら、慌てて改札へと向かった。
「ちょっと待って! こっちは荷物が多いんだよ!」
「いや、お前、さっきから何回も忘れ物を確認してるだろ!」
「必要なものがちゃんと入っているか確認しているだけよ!」
思わず美雪らしい口調になってしまい、春馬は心の中で頭を抱えた。
(危ない、危ない……。最近、どっちの話し方が自然なのか分からなくなってきた)
身体が入れ替わってから、もうすぐ一か月。
最初は歩き方や声の出し方さえ分からず、何をするにも戸惑っていた。
それなのに、今では美雪の身体で生活することにも、ある程度慣れてしまっている。
もちろん、慣れたからといって、すべての問題が解決したわけではない。
むしろ、彼女の人生を知れば知るほど、自分がどれほど大きなものを背負っているのかを実感するようになっていた。
「お待たせ」
春馬が改札を通ると、蓮が手を振った。
「おっ、来た来た! これで全員……あれ?」
蓮は春馬の後ろを見回した。
「美雪は?」
「……え?」
春馬の心臓が跳ねた。
「いや、お前が美雪だろ?」
「あっ……そうだった。じゃなくて!」
翔也が不思議そうに首を傾げる。
「何を一人で慌ててんだ?」
「な、何でもないわ!」
春馬は慌てて取り繕った。
蓮はそんな春馬を見て、楽しそうに笑った。
「それにしても、そのスーツケース、ずいぶん大きいな。大阪に何日いるつもりだ?」
「必要なものを入れたら、こうなっただけよ」
「美雪って、意外と心配性なんだな」
(それ、俺の性格だよ……!)
春馬は心の中で叫んだ。
しかし、もちろん口に出すことはできない。
そのとき、駅構内に新幹線の出発を知らせるアナウンスが流れた。
「ほら、そろそろ行こうぜ!」
蓮が先頭に立ち、翔也がその後に続く。
春馬もスーツケースを引きながら、二人の後を追った。
今回の大阪行きは、両家の話し合いに合わせて決まったものだった。
黒神家と才園寺家。
二つの家族が集まる理由について、春馬はまだ詳しいことを知らない。
ただ、今回の帰省が単なる旅行では終わらないことだけは、何となく感じていた。
東京から大阪へ。
それぞれの思いを胸に、一行は新幹線へと乗り込んだ。
* * *
新幹線の車内。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、春馬はスマートフォンを取り出した。
画面には、美雪からのメッセージが表示されている。
『今、どこにいるの?』
春馬はすぐに返信した。
『もう新幹線に乗ったところ。そっちは?』
ほどなくして、返信が届く。
『私も乗ったわ。桜と一緒よ』
春馬は、少し離れた座席に座っている桜と翔也に目を向けた。
桜は翔也と楽しそうに話している。
翔也も、普段より柔らかな表情を浮かべていた。
(……いいなあ)
春馬は、思わず小さく笑った。
好きな人と一緒にいて、何気ない話をして、安心して笑い合える。
そんな時間は、きっと何よりも幸せなものなのだろう。
自分にも、いつかそんな日が訪れるのだろうか。
そんなことを考えていると、隣の席から蓮が顔を覗き込んできた。
「何ニヤニヤしてんだ?」
「別に」
「またそれかよ」
蓮は呆れたように笑った。
「そういえば、今回の大阪行きって、親父たちの仕事も関係してるらしいんだよな」
春馬の指が止まった。
「……仕事?」
「ああ。才園寺家と黒神家は、昔から付き合いがあるらしくてさ。今回も何か話し合いがあるんだって」
蓮は窓の外へ視線を戻した。
「俺は詳しく聞いてないけど、親父は結構気合いが入ってるみたいだった」
春馬は、慎重に尋ねた。
「それって、映像制作プロジェクトとも関係があるの?」
「さあな。直接関係があるのかは分からない。ただ、両家が協力している企業が、今回のプロジェクトを支援しているらしい」
蓮は軽く肩をすくめた。
「まあ、俺たちは演技に集中すればいいんじゃないか?」
「……そうね」
春馬は小さくうなずいた。
しかし、胸の奥では疑問が膨らんでいた。
美雪の父親は、なぜあれほどプロジェクトへの参加を気にかけていたのだろう。
なぜ、あの古い写真を見て、あんなにも苦しそうな表情を浮かべていたのか。
そして、今回の大阪行きにも何か関係があるのだろうか。
(……美雪が知りたがっていること、俺も一緒に調べてみよう)
そう決意したとき、手元のスマートフォンが震えた。
美雪からのメッセージだった。
『大阪に着いたら、少し話したいことがあるの』
春馬は、すぐに返信した。
『分かった。何でも話してくれ』
送信ボタンを押したあと、春馬は再び窓の外を見つめた。
流れていく景色の向こうには、まだ知らない何かが待っている。
そんな予感がしていた。
* * *
数時間後。
新幹線は、新大阪駅に到着した。
「着いたー!」
翔也が大きく伸びをした。
「やっぱり大阪はいいな! 何か、帰ってきたって感じがする!」
「まだ駅に着いただけでしょう?」
桜が楽しそうに笑った。
「細かいことはいいんだよ!」
蓮も、そんな二人を見て笑っていた。
一方、春馬は駅の構内を見回していた。
大阪に来るのは久しぶりだった。
この街には、美雪と過ごした高校時代の記憶が残っている。
告白した日。
想いを伝えたのに、拒絶された日。
そして、誰にも知られないように、一人で涙を流した日。
思い出したくない記憶もある。
それでも、今は少しだけ違っていた。
あの頃の自分は、美雪をただ遠くから見つめることしかできなかった。
けれど今は、その美雪の人生を自分が生きている。
何とも不思議な巡り合わせだった。
「……春馬?」
桜の声で、春馬は我に返った。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
春馬は小さく笑った。
「ちょっと昔のことを思い出してただけ」
桜は一瞬だけ彼の顔を見つめたが、それ以上は尋ねなかった。
「そっか。じゃあ、行こう!」
一行は駅を出て、それぞれの家族と合流するために移動を始めた。
東京とは違う空気。
懐かしい街並み。
そして、これから始まる数日間。
春馬は、まだ知らなかった。
この大阪で、自分の人生を大きく変えることになる少女と出会うことを。
* * *
翌日の午後。
春馬は、一人で街を歩いていた。
美雪の家族は父親の仕事の都合で忙しく、蓮も父親に呼ばれて出かけている。
翔也と桜は二人で買い物に出かけたため、春馬には少しだけ自由な時間ができた。
「……せっかくだし、昔よく行った場所でも歩いてみるか」
春馬は駅前の商店街へと向かった。
懐かしい店。
昔から変わらない喫茶店。
高校時代、友人と寄り道した小さな書店。
街並みは少しずつ変わっていたが、どこか懐かしい雰囲気は、あの頃のままだった。
春馬は、書店の前で足を止めた。
店先には、新刊の小説が並んでいる。
その中の一冊に、ふと目が留まった。
恋愛小説だった。
表紙には、夕暮れの駅で向かい合う男女の姿が描かれている。
(……俺も、こんな物語を書けたらな)
春馬は、自分のノートに書きためてきた物語を思い出した。
『明日、君が笑えるように』
誰かが苦しんでいるとき、ほんの少しでも前を向けるような物語。
自分の書いた言葉が、誰かの心に届く。
いつか、そんな作品を形にしたいと思っていた。
「それ、気になるんですか?」
突然、背後から声がした。
春馬は驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
長い髪に、整った顔立ち。
落ち着いた雰囲気をまとっているのに、どこか人を惹きつける不思議な瞳をしていた。
少女は、春馬が見ていた小説に視線を向けた。
「その作家さん、心理描写がとても上手なんですよ。登場人物が何を言えなかったのかまで、ちゃんと伝わってくるんです」
春馬は、少し驚いた。
「……詳しいのね」
「小説が好きなので」
少女は、照れくさそうに微笑んだ。
「特に、登場人物が少しずつ変わっていく物語が好きなんです。最初から完璧な人より、失敗しながら成長していく人のほうが、応援したくなりませんか?」
その言葉に、春馬の胸がかすかに揺れた。
まるで、自分が書こうとしている物語を知っているかのようだった。
「……分かる気がする」
「本当ですか?」
少女の表情が、ぱっと明るくなった。
「よかった。周りには、恋愛小説なんてどれも同じだって言う人もいるので」
「そんなことないよ。誰かを好きになる気持ちって、人によって違うだろ?」
口にしてから、春馬は少し慌てた。
(しまった。ちょっと熱くなりすぎた……)
しかし、少女は笑わなかった。
むしろ、嬉しそうに目を細めていた。
「……あなた、面白いことを言いますね」
「そ、そうかな?」
「はい。何だか、物語を書く人みたいです」
春馬は、思わず言葉を失った。
「……どうして、そう思うの?」
少女は少し考えてから、穏やかな声で答えた。
「登場人物の気持ちを、ちゃんと考えながら話しているように感じたからです」
春馬は、何も言えなかった。
自分のことを、そんなふうに見てくれた人はほとんどいなかった。
いつも不器用で、運が悪くて、何をやってもうまくいかない。
自分には何もない。
そんなふうに思っていたことさえある。
それなのに、目の前の少女は、自分の中にある何かを見つけてくれたような気がした。
少女は、そんな春馬の心の内を知るはずもなく、手にしていた本を棚へ戻した。
「あっ、すみません。急に話しかけてしまって」
「いや、別に……」
「それでは、失礼しますね」
少女は軽く頭を下げ、店の外へ出ようとした。
その背中を見た瞬間、春馬は思わず声をかけていた。
「待って!」
少女が振り返る。
春馬は、自分でも驚くほど自然に言葉を続けていた。
「……名前、聞いてもいい?」
少女は一瞬、目を丸くした。
そして、柔らかく微笑んだ。
「霧島彩音です」
きりしま・あやね。
その名前を、春馬は心の中で繰り返した。
「あなたは?」
春馬は、一瞬だけ迷った。
今の自分は美雪の身体だ。
本当の名前を名乗るわけにはいかない。
「……美雪よ。才園寺美雪」
彩音は、その名前を聞いた途端、わずかに目を見開いた。
「才園寺……?」
「知っているの?」
「いえ……。名字をどこかで聞いたことがあるような気がしただけです」
彩音は、すぐに穏やかな表情に戻った。
「また、どこかで会えたらいいですね。美雪さん」
「……ええ。私も」
彩音は小さく手を振り、商店街の人混みの中へと消えていった。
春馬は、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
なぜだろう。
初めて会ったばかりなのに、彼女の言葉が心に残っている。
――登場人物の気持ちを、ちゃんと考えながら話している。
その言葉は、自分がこれまで大切にしてきたものを、初めて誰かに認めてもらえたような気がした。
「……不思議な子だな」
春馬は、小さくつぶやいた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美雪からだった。
『今、どこにいるの? 少し話したいことがあるの』
春馬は、彩音が消えていった方向をもう一度見つめた。
そして、返信した。
『商店街にいる。すぐ戻るよ』
彼はスマートフォンをしまい、歩き始めた。
この出会いが、やがて自分と美雪の関係を大きく変えることになるとは、まだ知る由もなかった。
* * *
同じ頃。
大阪の静かな住宅街。
霧島彩音は、自宅へ向かって歩いていた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
画面には、母親からのメッセージが表示されている。
『彩音、明日の夕食には大切なお客様がいらっしゃいます。きちんと挨拶するのよ』
彩音は短く返信した。
『分かりました』
スマートフォンをしまい、彼女は空を見上げた。
夕暮れの空は、淡いオレンジ色に染まっていた。
今日、書店で出会った少女。
才園寺美雪。
その名前には、どこか聞き覚えがあった。
(……まさか、あの才園寺家の娘?)
彩音は、少しだけ眉をひそめた。
父親の仕事を通じて、才園寺家の名前を耳にしたことがある。
しかし、詳しい関係までは知らなかった。
「……まあ、今考えても仕方ないか」
彼女は小さくつぶやき、再び歩き始めた。
明日の夕食には、家族が大切にしている客が訪れる。
その客が誰なのか。
そして、その出会いが自分の人生にどんな意味をもたらすのか。
彩音は、まだ何も知らなかった。
ただ一つ確かなのは――。
今日、書店で出会った少女のことが、なぜか頭から離れないということだった。
* * *
東京から大阪へ。
それぞれの思いを胸に集まった人々の間で、少しずつ何かが動き始めていた。
母が残した約束。
父親が隠し続けている過去。
そして、まだ誰にも明かされていない秘密。
それらが交わる場所に、新たな出会いが待っている。
翌日の夕食。
そこで明かされるものが何なのか。
春馬も、美雪も、そして彩音も、まだ知らない。
第20話 完
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