第18話 お父様、私は私の人生を生きたい
翌朝。
才園寺家の屋敷には、いつもと変わらない静けさが広がっていた。
大きな窓から差し込む朝日が、長い廊下を柔らかく照らしている。庭の木々は風に揺れ、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてきた。
穏やかで、何も変わらない朝。
けれど、美雪にとっては違った。
黒瀬春馬の身体に入った美雪は、鏡の前に立ち、何度も深呼吸を繰り返していた。
「……大丈夫。今日は逃げない」
自分に言い聞かせるように、小さくつぶやく。
昨日、春馬と話したとき、彼女は初めて自分の本当の気持ちを口にした。
映像制作プロジェクトに参加したい。
それは、父親に言われたからではない。
誰かの期待に応えるためでもない。
自分自身が、そうしたいと願っているからだ。
今までの自分なら、父親の機嫌を損ねることを恐れ、言いたいことを飲み込んでいたかもしれない。
けれど、もう同じことを繰り返したくなかった。
美雪はスマートフォンを手に取り、春馬にメッセージを送った。
『今日、お父様と話すわ』
それほど待たずに返信が届いた。
『分かった。無理はするなよ。でも、自分の気持ちはちゃんと伝えてこい』
美雪は、その短い文章をじっと見つめた。
彼らしい言葉だった。
無理に背中を押すわけでも、代わりに答えを出そうとするわけでもない。
ただ、自分の決断を信じてくれている。
それだけで、少しだけ勇気が湧いてきた。
『ありがとう』
短く返信し、スマートフォンをポケットにしまう。
美雪は鏡の中の自分を見つめた。
「よし……行こう」
もう、誰かの決めた未来を歩くだけの自分ではいたくない。
今日は、自分の言葉で伝える。
自分が本当に望んでいることを。
* * *
朝食の時間。
才園寺家の食卓には、父親と姉の桜が座っていた。
父親は新聞に目を通しながらコーヒーを飲み、桜はスマートフォンを操作している。
いつもと変わらない、才園寺家の朝の風景だった。
「お父様」
美雪が声をかけると、父親は新聞から目を上げた。
「何だ、美雪」
「少し、お話があります」
「プロジェクトのことか?」
父親はカップをテーブルに置いた。
「参加するつもりなのだろう?」
「……はい」
「なら、問題はない。関係者にはすでに話を通してある。あとは、お前が期待に応えればいい」
その言葉を聞いた瞬間、美雪の胸がわずかに締めつけられた。
まただ。
父親は、いつも自分の気持ちを聞く前に、すべてを決めてしまう。
参加することも、期待に応えることも。
まるで、自分の意思など最初から必要ないかのように。
けれど、今日の彼女は違った。
「……違います」
父親の手が止まった。
桜もスマートフォンから顔を上げる。
「何が違う?」
父親の声が、わずかに低くなる。
美雪は震えそうになる手を、テーブルの下で握りしめた。
「私は、誰かの期待に応えるためだけに参加するんじゃありません」
「美雪」
「私は、自分がやりたいから参加するんです」
食卓に静寂が落ちた。
父親は、目の前の娘をじっと見つめていた。
「誰にそんなことを吹き込まれた?」
「誰にも」
美雪は、はっきりと答えた。
「私が考えて、私が決めました」
「お前はまだ、自分が何を背負っているのか分かっていない」
「分かっています」
「何?」
「才園寺家の娘として期待されていることも、失敗が許されないと思われていることも……全部、分かっています」
美雪は一度、息を吸った。
ここで目を逸らしてはいけない。
怖くても、最後まで伝えなければならない。
「でも……私にも、私の人生があります」
父親の表情が、わずかに変わった。
その言葉は、彼が予想していたものではなかったのだろう。
「今まで私は、お父様が望むことを選んできました。反対すれば、お父様を困らせてしまうと思ったからです」
「それは、お前のために――」
「本当に、私のためですか?」
美雪の声が、かすかに震えた。
父親は言葉を止めた。
「お父様は、私が何を好きなのか、何をしたいのか……聞いてくださったことがありますか?」
返事はなかった。
美雪の瞳に、少しずつ涙が浮かんでいく。
「私は、お父様に認めてもらいたかったんです」
声が震える。
「だから、嫌なことも我慢してきました。自分の気持ちを隠して、何でもないふりをして……本当は嫌だと思っていても、笑っていました」
彼女は唇をかみしめた。
「でも、もう……自分の気持ちまで、なかったことにしたくないんです」
その言葉には、これまで胸の奥に押し込めてきた思いが込められていた。
認めてほしかった。
分かってほしかった。
ただ、一人の娘として、自分の気持ちを聞いてほしかった。
それだけなのに。
父親は何も答えなかった。
桜は、そんな妹の姿を黙って見つめていた。
普段の美雪は、感情を表に出すことが少ない。
弱音を吐くことも、自分の不満を口にすることもほとんどなかった。
そんな妹が、今は涙をこらえながら、自分の意志を伝えようとしている。
桜は静かに手を伸ばし、美雪の肩に触れた。
「……美雪は、ずっと頑張ってきたよ」
父親が桜に視線を向ける。
「桜、お前まで何を言っている」
「だって、本当のことでしょう?」
桜は、いつもの明るい表情を少しだけ引き締めた。
「私たちは、お父様の所有物じゃない。家族でしょう?」
父親の顔がこわばった。
その言葉が、彼の中に眠っていた古い記憶を呼び起こしたかのようだった。
――家族。
――守るべき人。
――二度と、同じ過ちを繰り返してはいけない。
父親はゆっくりと目を閉じた。
しばらくの沈黙のあと、彼は低い声で言った。
「……好きにしなさい」
美雪は顔を上げた。
「え……?」
「参加したいのだろう。なら、参加すればいい」
それは、彼なりの譲歩だったのかもしれない。
けれど、美雪はすぐに笑うことができなかった。
父親は、まだ彼女の気持ちを完全に理解したわけではない。
それでも、以前のように一方的に否定されなかったことは確かだった。
「……ありがとうございます」
美雪は静かに頭を下げた。
父親は再び新聞に目を落とした。
それ以上、何かを話そうとはしなかった。
美雪は食卓を離れ、廊下へと出た。
そして、誰もいないことを確かめるように周囲を見回してから、壁にそっと手をついた。
「……はぁ」
張り詰めていた緊張が、一気に解けていく。
怖かった。
本当に、怖かった。
それでも、自分の言葉で伝えられた。
そのことが、何よりも嬉しかった。
「美雪!」
背後から、桜の声が聞こえた。
「お姉ちゃん……」
振り返った美雪を、桜はそっと抱きしめた。
「よく頑張ったね」
その言葉を聞いた瞬間、美雪の目から涙がこぼれた。
「……うん」
「もう少し、自分のことを大切にしてもいいんだからね」
「……分かってる」
「本当に?」
「本当よ」
美雪は、桜の肩に顔を寄せた。
今まで、こんなふうに誰かに甘えることさえ、どこか苦手だった。
けれど、今だけは違った。
桜は何も聞かなかった。
ただ、妹が落ち着くまで、優しく抱きしめ続けていた。
* * *
同じ頃。
大学の練習室では、黒瀬春馬が台本とにらめっこしていた。
「……駄目だ。全然集中できない」
才園寺美雪の身体で、春馬は深いため息をついた。
今日は、映像制作プロジェクトのオーディションに向けた重要な練習日だった。
演技の準備をしなければならない。
そんなことは分かっている。
分かっているのだが――。
(美雪、大丈夫かな……)
頭の中は、彼女のことでいっぱいだった。
父親との話し合いはうまくいっただろうか。
無理をしていないだろうか。
傷ついてはいないだろうか。
考え始めると、心配が止まらなかった。
「おーい、美雪?」
目の前で手を振られ、春馬は我に返った。
「……何?」
蓮が不思議そうに顔をのぞき込んでいる。
「何じゃないって。さっきから台本を開いたまま、五分くらい固まってるぞ」
「そんなに?」
「そんなに」
蓮は向かいの椅子に腰を下ろした。
「何かあったのか?」
「……別に」
「その『別に』、最近よく聞くな」
春馬は、思わず身体をこわばらせた。
「どういう意味よ」
「何かを抱え込んでるときのお前、すぐ『別に』って言うんだよ」
蓮は頬杖をつき、少しだけ表情を和らげた。
「まあ、話したくないなら無理には聞かないけどさ」
春馬は黙っていた。
本当のことを話すわけにはいかない。
けれど、心配してくれる蓮の気持ちを無視するのも嫌だった。
「……少し、気になることがあるだけ」
「家のこと?」
「……まあ、そんなところ」
蓮は、それ以上追及しなかった。
「そっか。じゃあ、気分転換に一回、台本を置こうぜ」
「え?」
「演技の練習ばっかりしてても、いい表情は作れないだろ?」
蓮は立ち上がり、練習室の窓を開けた。
秋の風が吹き込み、カーテンを静かに揺らす。
「ちょっと外を歩こう。頭を冷やしたほうがいい」
春馬は一瞬迷った。
しかし、今の自分には、その提案がありがたかった。
「……分かった」
二人は練習室を出て、大学の中庭へ向かった。
* * *
中庭には、学生たちの楽しそうな声が響いていた。
ベンチに腰掛けると、蓮は自動販売機で買ってきた飲み物を春馬に差し出した。
「ほら」
「……ありがとう」
春馬は受け取り、缶のプルタブを開けた。
しばらく二人で、何も言わずに空を眺める。
やがて、蓮が口を開いた。
「なあ、美雪。演技ってさ、難しいよな」
「急にどうしたの?」
「いや。自分の感情を表現しているつもりでも、相手にちゃんと伝わっているとは限らないだろ?」
蓮は缶を両手で包んだ。
「本当に悲しいときほど、笑ってしまう人もいる。助けてほしいのに、平気なふりをする人もいる」
春馬は、思わず蓮の顔を見た。
「……そうね」
「だから俺、演技をするときは、台詞だけじゃなくて、その人が何を言えなかったのかも考えるようにしてるんだ」
蓮は少し照れくさそうに笑った。
「まあ、まだ全然できてないけどな」
春馬は手元の缶を見つめた。
(言えなかったこと……か)
自分が美雪に伝えられなかった言葉。
美雪が父親に伝えられなかった気持ち。
人は誰でも、口に出せない思いを抱えているのかもしれない。
そして、その思いを知るためには、ただ相手が話してくれるのを待つだけでは足りない。
表情を見て、言葉の裏にある気持ちを考えて、理解しようとすることが必要なのだろう。
「……蓮」
「ん?」
「あなたって、意外と真面目なのね」
「意外とは余計だろ!」
蓮が大げさに抗議する。
「俺はいつだって真面目だぞ。特に演技と、食事と、睡眠に関しては!」
「最後の二つは関係ないでしょう」
「いや、俳優にとって健康管理は大事なんだって!」
春馬は思わず笑った。
蓮もつられて笑う。
ほんの短い時間だったが、春馬の胸にあった重さは少しだけ軽くなっていた。
「よし、そろそろ戻るか!」
蓮が立ち上がる。
「次の練習では、感情表現を徹底的にやるぞ!」
「……お手柔らかにお願いするわ」
「それは無理!」
春馬は苦笑しながら、彼の後を追った。
まだまだ課題は多い。
それでも、この仲間となら、少しずつ前に進める気がした。
* * *
夕方。
大学の講義を終えた美雪は、春馬の身体のまま駅へ向かっていた。
父親と話したことを、早く春馬に伝えたかった。
彼が自分のことを心配してくれているのは分かっていたからだ。
スマートフォンを取り出し、メッセージを打つ。
『話せたわ。プロジェクトにも参加できることになった』
送信すると、すぐに返信が届いた。
『本当か! よかったな!』
その文章を見た瞬間、美雪の口元に笑みが浮かんだ。
『ええ。ありがとう』
少し考えてから、もう一通送る。
『あなたが背中を押してくれたおかげよ』
今度は、返信が届くまで少し時間がかかった。
そして――。
『俺は何もしてないよ。決めたのはお前だろ』
美雪は、その言葉を何度も読み返した。
(……本当に、あなたらしいわね)
春馬はいつも、自分の功績を誇ろうとしない。
誰かが前に進めたなら、それだけで満足してしまう。
そんな彼の優しさを、今は少しずつ理解できるようになっていた。
美雪はスマートフォンをしまい、駅へ向かって歩き始めた。
そのとき、駅前の大型ビジョンに流れていたニュースが目に留まった。
『新進映像プロジェクト、参加学生を近日選考――』
画面には、プロジェクトの主催企業のロゴが大きく映し出されていた。
美雪は足を止めた。
その企業名には、見覚えがあった。
才園寺家だけでなく、黒神家とも関わりのある企業だったからだ。
(……どうして、このプロジェクトにお父様と蓮のお父様が関わっているの?)
これまで、父親の言葉を疑ったことはなかった。
しかし、今回のプロジェクトに関しては、どうしても引っかかるものがあった。
父親は、なぜこれほどまでに参加を急がせたのか。
なぜ、失敗してはいけないと繰り返したのか。
そして、あの古い写真に写っていた女性は、いったい誰なのか。
胸の奥に、小さな疑問が生まれた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には、姉の桜からのメッセージが表示されていた。
『美雪、少し聞きたいことがあるの。今夜、時間ある?』
美雪はすぐに返信した。
『あるわ。どうしたの?』
しばらくして、桜から返事が届いた。
『お父様が持っていた写真のことなんだけど。昔、一度だけ、お母さんから聞いたことがあるの』
美雪の指が止まった。
母親。
姉妹の母親について、父親はほとんど話そうとしなかった。
写真に写っていた女性は、母親なのだろうか。
それとも――。
美雪はスマートフォンを握りしめた。
『今夜、詳しく聞かせて』
送信したあと、彼女は再び歩き始めた。
自分の人生を選ぶこと。
それは、ただ父親に逆らうことではない。
自分が知らなかった過去と向き合うことも、必要なのかもしれない。
そして、その過去には、家族が長い間隠してきた真実が眠っているようだった。
* * *
その夜。
才園寺家の書斎では、父親が一人、古い写真を手にしていた。
写真に写る女性は、穏やかな笑顔を浮かべている。
父親は、その写真の端を指でなぞった。
「……あの子たちに、話すべきなのか」
答える者はいない。
机の上には、映像制作プロジェクトの資料と、一通の古い手紙が置かれていた。
封筒には、長い間開封されていなかったことを思わせる、わずかな傷みがあった。
父親は、その封筒に手を伸ばした。
けれど、開くことはできなかった。
過去を語れば、娘たちは自分を許さないかもしれない。
それでも、何も語らなければ、いつか娘たちは自分の手の届かないところで真実を知ることになる。
彼は深く息を吐いた。
「……もう、隠し続けることはできないのかもしれないな」
窓の外では、夜の街が静かに輝いていた。
父親はもう一度、写真に目を落とす。
そこに写る女性の笑顔は、何年経っても変わらない。
けれど、その笑顔を見るたびに、彼の胸には消えることのない後悔がよみがえるのだった。
* * *
同じ頃。
黒瀬春馬の部屋では、翔也がスマートフォンを見つめていた。
画面には、以前届いた一通のメッセージが表示されている。
送り主の名前を見るたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
「……そろそろ、話さないといけないよな」
小さくつぶやき、スマートフォンを握りしめる。
春馬には、まだ何も話していない。
美雪に伝えるべきかどうかも、決められずにいた。
このメッセージを見せれば、何かが変わってしまうかもしれない。
今まで保たれていた関係が、元には戻らなくなる可能性だってある。
それでも、このまま何もなかったことにはできない気がしていた。
翔也は、もう一度メッセージを読み返した。
何度読み返しても、そこに書かれた言葉は変わらない。
変わってしまったのは、それを知った自分の気持ちだった。
「春馬……お前、これを知ったらどうするんだろうな」
返事をする人はいない。
静かな部屋の中で、スマートフォンの画面だけが彼の顔を照らしていた。
この秘密が、いつまでも隠されたままでいられるとは思えなかった。
いつか明らかになる真実は、春馬と美雪、そして翔也自身の関係を大きく変えることになるのかもしれない。
それでも、今はまだ決められなかった。
話すべきなのか。
もう少し待つべきなのか。
翔也は答えを出せないまま、スマートフォンを伏せた。
誰にも知られないまま、秘密だけが静かに時間を重ねていく。
けれど、いつか必ず、その扉を開かなければならない日が来る。
翔也は、まだその覚悟を決められずにいた。
第18話完
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