第17話 自分の未来は、自分で選ぶ
大学の朝は、いつもより少しだけ騒がしかった。
映像制作プロジェクトの参加者募集が、正式に発表されたからだ。
校舎の掲示板には、オーディションの日程や応募条件が記されたポスターが大きく貼り出されている。
その前には多くの学生が集まり、期待に胸を膨らませる者もいれば、不安そうに応募要項を読み込んでいる者もいた。
「ついに本格始動って感じだな」
黒神蓮は、掲示板を見上げながら楽しそうに笑った。
その隣に立つ才園寺美雪――その身体に入った黒瀬春馬は、小さく息を吐いた。
「……そうね」
「なんだよ、緊張してるのか?」
「別に」
「へえ。じゃあ、なんでさっきから応募要項を三回も読み直してるんだ?」
「確認しているだけよ」
「はいはい。美雪様は慎重ですからね」
蓮はからかうように笑った。
春馬は心の中で反論する。
(違う。俺はただ、失敗したときに美雪へ迷惑をかけないか心配しているだけだ……)
自分の身体なら、どんな失敗をしても自分で責任を取ればいい。
しかし、今の自分は美雪の身体で生活している。
何気ない行動一つで、彼女の将来を左右してしまうかもしれない。
それが、何よりも怖かった。
「なあ、美雪」
「何?」
蓮の声が、少しだけ真剣なものに変わった。
「お前、本当にこのプロジェクトに参加したいと思ってる?」
春馬は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……どうして、そんなことを聞くの?」
「いや。最近のお前、何かを決めるときに、いつも誰かの顔色をうかがってるように見えるからさ」
「……」
「演技をしているときは違うんだけどな。舞台に立ってるお前は、誰にも遠慮していないように見える」
蓮は掲示板から目を離し、春馬の顔をまっすぐに見つめた。
「だから、知りたいんだ。お前自身は、どうしたいのか」
春馬の胸が、かすかに痛んだ。
蓮は知らない。
目の前にいるのが美雪ではなく、彼女の身体を借りている春馬だということを。
それでも、彼の言葉は、今の美雪が本当に必要としている問いのように思えた。
(美雪……お前は、本当はどうしたいんだ?)
春馬は答えを探した。
けれど、彼女の人生を自分が勝手に決めるわけにはいかない。
それだけは、絶対にしたくなかった。
「……まだ、考えているところよ」
春馬は、できるだけ自然な口調で答えた。
「そっか。なら、ちゃんと考えろよ」
蓮はあっさりとうなずいた。
「誰かに言われたからじゃなくて、自分で決めたことなら、俺は応援する」
その言葉に、春馬は思わず目を伏せた。
(お前、本当にいいやつだな……)
心の中でそうつぶやく。
けれど、それを口にすれば不自然に思われるかもしれない。
だから春馬は、いつものように短く答えた。
「……ありがとう」
「おっ。素直じゃん。明日は雨かな?」
「うるさい」
二人の間に、いつもの笑い声が戻った。
そんな何気ない時間が、春馬には少しまぶしく感じられた。
* * *
一方、その頃。
黒瀬春馬の身体に入った美雪は、大学の図書館で一人、ノートを開いていた。
目の前には、映像制作プロジェクトの応募要項。
そして、その隣には、春馬が以前から使っている古いノートが置かれていた。
美雪は、そっとページをめくった。
そこには、物語の断片や登場人物の設定、思いついた台詞などが、丁寧な文字で書き込まれていた。
決して完璧な文章ばかりではない。
書き直された跡もあれば、途中で途切れている文章もある。
それでも、一つ一つの言葉からは、誰かを思いやる気持ちが伝わってきた。
『誰かが明日を迎えるのが怖いなら、今日だけでも隣にいたい』
美雪は、その一文をじっと見つめた。
(……あなたは、ずっとこんなことを考えていたのね)
春馬は、自分のことを話すのが苦手な人だった。
傷ついても笑い、困っていても「大丈夫」と答える。
誰かのためなら、自分の時間さえ惜しまない。
以前の美雪は、それをただの優しさだと思っていた。
けれど、今なら少しだけ分かる気がした。
優しいからこそ、誰かを傷つけたくない。
誰かを大切に思うからこそ、自分の痛みを後回しにしてしまう。
そして、その積み重ねが、いつか本人を苦しめることもある。
「……ばか」
美雪は、小さくつぶやいた。
もちろん、春馬を責めているわけではない。
むしろ、その言葉は自分自身に向けたものだった。
彼がどれほど苦しんでいたのか。
もっと早く気づいてあげられたらよかった。
彼が一人で抱えていた気持ちに、もっと早く向き合えていたら。
そう思うと、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
あのとき、春馬が自分に告白してくれたことを、後悔しているわけではない。
好きという気持ちは、誰かに強制されるものではないから。
ただ、彼の気持ちを十分に理解しようとしなかった自分が、少しだけ悲しかった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には、春馬からのメッセージが表示されている。
『今日、少し時間あるか? 話したいことがある』
美雪は、すぐに返信した。
『あるわ。いつもの場所で』
送信してから、彼女はノートをそっと閉じた。
(今度は、ちゃんと聞こう)
春馬が何を望んでいるのか。
そして、自分が何を望んでいるのか。
誰かの期待に合わせるのではなく、自分の言葉で伝えるために。
* * *
その日の午後。
映像制作プロジェクトの練習室では、蓮が台本を手にしていた。
「今回のオーディションでは、演技だけじゃなくて、簡単な面談もあるらしい」
「面談?」
春馬は、台本から顔を上げた。
「ああ。どうして参加したいのか、どんな作品を作りたいのか。そういうことを聞かれるんだってさ」
「……なるほど」
「俺は、もう決めてるけどな」
蓮は窓の外に目を向けた。
夕方の光が、練習室の床に長い影を落としている。
「俺、演技で誰かの人生を変えたいんだ」
「人生を?」
「大げさに聞こえるだろ?」
蓮は少し照れくさそうに笑った。
「でもさ、昔、どうしようもなく落ち込んでたときに、ある映画を見たんだ。主人公が最後に笑うだけの、ほんの短い場面だったんだけど……なぜか、俺ももう少し頑張ってみようって思えた」
春馬は、黙って耳を傾けていた。
「たった二時間の物語でも、人の気持ちを動かせるんだよ。だったら、俺もそんな作品を作ってみたい」
蓮は、手に持った台本を軽く胸に当てた。
「誰かが明日を迎えるのを怖がっているときに、『もう一日だけ頑張ってみよう』って思えるような作品をさ」
春馬の心臓が、小さく跳ねた。
それは、どこかで見た言葉だった。
自分のノートに書き残した言葉。
もちろん、蓮がそのノートを見たことはない。
それなのに、二人の願いは、不思議なほど似ていた。
「……いい夢ね」
春馬は、静かに答えた。
「夢だけで終わらせるつもりはないけどな」
蓮は自信ありげに笑った。
「お前は? 美雪は、どんな作品を作りたい?」
突然の質問に、春馬は言葉を失った。
(俺に聞かれても……!)
美雪の夢を、自分が勝手に語るわけにはいかない。
しかし、何も答えなければ不自然だ。
春馬は少し考え、慎重に言葉を選んだ。
「……誰かが、本当の気持ちを言えるようになる物語」
蓮は、意外そうに目を瞬かせた。
「本当の気持ち?」
「ええ。言いたいことがあるのに、言えない人はいるでしょう。誰かを傷つけるのが怖かったり、自分の弱さを見せるのが怖かったりして」
春馬は、台本の端をそっと指でなぞった。
「でも、言えなかった言葉が、必ずしも消えてしまうわけじゃないと思うの」
自分が言えなかった言葉。
美雪に告白した、あの日。
そして、今も伝えられずにいる気持ち。
春馬は、自分の胸の奥にあるものを、少しだけ言葉にした。
「誰かがその言葉を受け止めてくれたら、きっと……その人は、少しだけ前に進めるから」
練習室が静かになった。
蓮は、しばらく春馬を見つめていた。
やがて、ふっと笑みを浮かべる。
「……やっぱり、お前と組めてよかった」
「え?」
「俺たちなら、いい作品を作れそうだ」
春馬は、返事に困った。
本当のことを言えば、蓮と一緒に演技をするのは、いまだに緊張する。
距離が近い。
目を見つめられると落ち着かない。
恋人役として手を握られるたびに、胸の奥が騒がしくなる。
それでも。
「……私も、そう思うわ」
春馬は、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、蓮も満足そうにうなずいた。
「よし。じゃあ、明日から本気で練習するぞ!」
「……今日からじゃないの?」
「えっ? 今のは明日からっていう気合いの宣言で……」
「意味が分からないわ」
「厳しいな、美雪!」
練習室に、二人の笑い声が響いた。
けれど、その様子を廊下の向こうから見つめている人物がいた。
才園寺美雪の父親だった。
彼はドアの隙間から二人の姿を見つめ、わずかに眉をひそめた。
(あの子が……あんな顔で笑うとは)
父親の記憶にある美雪は、いつも冷静で、感情を表に出さず、何を考えているのか分からない娘だった。
しかし、今の彼女は違う。
誰かと夢を語り、自然に笑っている。
その姿は、彼が思い描いていた「才園寺家の娘」とは、どこか違っていた。
それでも――。
彼は懐から、一枚の古い写真を取り出した。
そこには、若い頃の自分と、もう一人の女性が写っていた。
女性は美雪によく似た長い黒髪を持ち、穏やかな笑顔を浮かべている。
父親は、その写真を見つめながら、苦しそうに目を閉じた。
「……今度こそ、間違えるわけにはいかない」
その声は、誰にも届かなかった。
* * *
夕方。
大学から少し離れた、小さな公園。
いつもの待ち合わせ場所には、春馬の身体に入った美雪が先に来ていた。
ベンチに腰掛け、膝の上で両手を重ねている。
しばらくして、長い黒髪を揺らしながら、春馬がやって来た。
「待たせたか?」
「いいえ。今来たところよ」
二人は、少しだけ距離を空けてベンチに座った。
入れ替わってから、何度も顔を合わせている。
それなのに、今日はいつもより緊張していた。
「それで、話って?」
美雪が尋ねると、春馬は少し迷ってから口を開いた。
「……プロジェクトのことだ」
「映像制作の?」
「ああ。お前の父親から電話があっただろ」
美雪の表情が、わずかに曇った。
「ええ」
「俺は、お前が無理やり参加させられるのは嫌なんだ」
「……」
「でも、お前自身がやりたいと思っているなら、俺はちゃんと応援したい」
春馬は、美雪の目をまっすぐに見つめた。
「だから、もう一度聞かせてほしい。お前は、本当はどうしたいんだ?」
美雪は、すぐには答えなかった。
風が吹き、公園の木々が静かに揺れる。
彼女は、自分の父親を思い出していた。
何を選ぶべきなのか。
誰と付き合うべきなのか。
どんな未来を歩むべきなのか。
いつだって、父親の言葉が先にあった。
自分の意見を口にすれば、家族を困らせる。
逆らえば、誰かに迷惑をかける。
いつの間にか、そんなふうに思い込んでいた。
けれど、今は違う。
春馬の身体で過ごす日々の中で、彼女は初めて知った。
自由に見える人にも、誰にも見せられない苦しみがあること。
優しい人ほど、自分の望みを後回しにしてしまうこと。
そして、自分の人生を他人に委ねることが、必ずしも誰かを幸せにするわけではないということ。
美雪は、ゆっくりと息を吸った。
「……私は、参加したい」
春馬は、目を見開いた。
「本当に?」
「ええ。演技をしているときは、誰かの娘でも、誰かの期待を背負った人間でもなくなれる気がするの」
美雪は、自分の手を見つめた。
「ただの私として、何かを表現できる。そんな時間が、好きなの」
その言葉には、もう迷いがなかった。
「だから、参加したい。お父様に言われたからじゃない。私自身が選んだことだから」
春馬は、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、安心したように笑った。
「……そっか」
「何よ、その顔」
「いや。よかったと思ってさ」
春馬は、少し照れくさそうに頭をかいた。
「お前が自分で決めたことなら、俺は全力で手伝うよ」
美雪の胸が、かすかに熱くなった。
以前、彼女は春馬の気持ちに応えられなかった。
それは、今も変わらない。
けれど、彼の優しさに触れるたびに、彼がどれほど人の気持ちを大切にしているのかが分かってくる。
「……ありがとう、春馬」
「え?」
「あなたが私の代わりに決めようとしないでいてくれて、よかった」
春馬は、少し驚いたような顔をした。
そして、照れ隠しのように笑った。
「そりゃそうだろ。お前の人生なんだから」
美雪は、そっと目を伏せた。
その言葉が、今の彼女には何よりも嬉しかった。
しばらく二人は、夕暮れの公園で黙っていた。
やがて、美雪が静かに口を開く。
「……私、明日、お父様と話してみる」
「分かった」
「怖いけれど……逃げたくないの」
「うん」
春馬は、彼女の言葉を遮らず、ただ静かに聞いていた。
「今までずっと、お父様が望む私になろうとしてきた。でも、それだけじゃ駄目なんだと思う」
美雪は顔を上げた。
「私が何を望んでいるのか、ちゃんと伝えたい」
春馬は、まっすぐにうなずいた。
「きっと、大丈夫だ」
「……どうして、そう思うの?」
「だって、お前はもう、自分の気持ちを言葉にできてるから」
美雪は、思わず笑った。
その笑顔を見て、春馬も自然と笑みを浮かべた。
二人の間には、まだ埋められない距離がある。
過去の告白も、そのときに交わした言葉も、すべてが消えたわけではない。
それでも、少しずつ変わり始めていた。
互いの人生を知り、互いの痛みを理解し、少しずつ自分の気持ちを伝えられるようになっていく。
それは、恋人になることよりも、ずっと難しいことなのかもしれない。
けれど、今の二人なら、その一歩を踏み出せる気がした。
* * *
その夜。
才園寺家の広い屋敷では、父親が書斎に一人で座っていた。
机の上には、映像制作プロジェクトの資料。
そして、その隣には、先ほどと同じ古い写真が置かれていた。
父親は、写真に写る女性をじっと見つめていた。
「美雪……お前まで、あの子と同じ道を歩むのか」
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。
父親は写真を手に取り、深く目を伏せる。
彼が恐れているのは、娘の失敗ではなかった。
かつて、自分が守ろうとして、結果的に傷つけてしまった大切な人。
その過ちを、もう一度繰り返してしまうことだった。
しかし、過去を恐れるあまり、今を生きる娘の自由まで奪ってしまっている。
その矛盾に、彼はまだ気づいていなかった。
そして翌日。
美雪は、父親と向き合うことになる。
自分自身の未来を、自分の言葉で選ぶために。
* * *
自分の未来を選ぶということは、決して簡単なことではない。
誰かの期待を裏切るかもしれない。
大切な人と意見が食い違うかもしれない。
それでも、自分の人生を歩むためには、自分の気持ちと向き合わなければならない。
春馬は、少しずつ自分の気持ちを言葉にできるようになっていた。
美雪は、自分の未来を自分で選ぼうとしている。
そして蓮もまた、誰かに用意された結果ではなく、自分の力で夢をつかもうとしていた。
三人が進もうとしている道は、まだ平坦ではない。
映像制作プロジェクトに隠された思惑。
美雪の父親が抱えている過去。
そして、翔也が誰にも打ち明けられずにいる秘密。
どれも、まだ答えの出ていない問題だった。
それでも、少しずつ何かが変わり始めている。
自分の気持ちを伝えること。
相手の言葉に耳を傾けること。
そして、誰かを思いやるあまり、自分自身の願いまで諦めないこと。
それは簡単なようでいて、とても難しい。
けれど、だからこそ、自分で選ぶことに意味があるのだろう。
来週、春馬たちはオーディションに臨む。
そこで何が起こるのか。
誰が選ばれ、誰が悔しさを味わうのか。
そして、この企画に隠された本当の目的とは何なのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、誰かに決められた未来ではなく、自分で選んだ未来へ進もうとしている者たちが、ここにいるということだった。
その選択が、どんな結末につながるのか。
春馬も、美雪も、蓮も、まだ知らない。
けれど、選択のときは、確実に近づいていた。
* * *
その頃。
翔也は、自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。
画面には、以前届いた一通のメッセージが表示されている。
送り主の名前を見るたび、胸の奥が落ち着かなくなった。
「……どうして、今になって」
小さくつぶやき、画面を閉じようとする。
けれど、指が止まった。
春馬には、まだ何も話していない。
美雪に伝えるべきかどうかも、決められずにいた。
このメッセージを見せれば、何かが変わってしまうかもしれない。
今まで保たれていた関係が、元には戻らなくなる可能性だってある。
それでも、このまま何もなかったことにはできない気がしていた。
翔也は、もう一度メッセージを読み返した。
何度読み返しても、そこに書かれた言葉は変わらない。
変わらないのは、画面の中の文字だけだった。
それを知った自分の気持ちは、もう以前と同じではいられなかった。
「……いつ話すべきなんだろうな」
誰に向けるでもなく、そうつぶやく。
そして、画面を見つめたまま、もう一度だけ名前を口にした。
「春馬……お前、これを知ったらどうするんだろうな」
返事をする人はいない。
ただ、静かな部屋の中で、スマートフォンの光だけが彼の顔を照らしていた。
この秘密が、いつまでも隠されたままでいられるとは思えなかった。
いつか明らかになる真実は、春馬と美雪、そして翔也自身の関係を大きく変えることになるのかもしれない。
それでも、今はまだ決められなかった。
話すべきなのか。
もう少し待つべきなのか。
翔也は答えを出せないまま、スマートフォンを伏せた。
誰にも知られないまま、秘密だけが静かに時間を重ねていく。
けれど、いつか必ず、その扉を開かなければならない日が来る。
翔也は、まだその覚悟を決められずにいた。
第17話 完
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