第16話 その電話は、君の未来を決める
午後六時十二分。
大学からの帰り道、俺――黒瀬春馬は、スマートフォンの画面を見つめていた。
表示されているのは、一件の着信。
相手は、才園寺美雪の父親だった。
昨日、俺は美雪と話し合い、映像制作プロジェクトのオーディションに挑戦することを決めた。
自分の気持ちを隠さないこと。
そして、彼女の人生を勝手に決めないこと。
ようやく見つけた、自分なりの答えだった。
けれど、画面に表示された名前を見た途端、胸の奥に小さな不安が広がった。
俺は、美雪の父親とまともに話したことがない。
彼女が父親にどんな口調で接するのかも、どこまで本音を話すのかも知らなかった。
そもそも、俺は彼女の父親から見れば、娘本人のはずなのだ。
変な受け答えをすれば、すぐに違和感を持たれるかもしれない。
「……どうすればいいんだよ」
ぼやいている間にも、着信音は鳴り続けていた。
このまま出なければ、かえって不自然になる。
俺は一度深呼吸をしてから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『美雪か』
電話の向こうから、低く落ち着いた男性の声が聞こえた。
「はい」
『今、話せるか?』
「大丈夫です」
できるだけ自然に答えたつもりだった。
しかし、電話の向こうから返事はなかった。
ほんの数秒の沈黙。
それだけなのに、俺は妙に落ち着かなかった。
『最近、大学ではどうしている?』
「普通に授業を受けています」
『そうか。演劇サークルにも参加しているそうだな』
「……はい」
心臓が跳ねた。
どうして、そのことまで知っているのだろう。
昨日、蓮に誘われたばかりの映像制作プロジェクト。
その話が、すでに美雪の父親の耳に入っている。
偶然にしては、タイミングがよすぎた。
『以前は、あまり興味を示さなかったはずだが』
「……少し、やってみたいと思ったんです」
答えながら、俺は美雪のことを考えていた。
彼女は、演技に興味がなかったのだろうか。
それとも、興味があっても父親に言い出せなかったのだろうか。
今の俺には、わからないことばかりだった。
『そうか』
父親は短く答えた。
そして、間を置かずに続けた。
『来週、大学の映像制作プロジェクトで選考が行われるそうだな』
「……はい」
『必ず参加しなさい』
「え?」
思わず声が漏れた。
昨日、俺が応募用紙を提出したことを、もう知っているのか。
いや、それよりも。
どうして、命令するような口調なのだろう。
『君にとって、いい機会になるはずだ。関係者にも話は通してある』
「ちょっと待ってください。どうして、そんなことを……」
『美雪』
名前を呼ばれた瞬間、俺は口を閉じた。
その声には、こちらの言葉を遮るような強さがあった。
『君の将来を考えて言っている。余計なことは考えなくていい』
余計なこと。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
娘の将来を心配すること自体は、間違っていないのかもしれない。
けれど、本人の意思を聞きもしないまま、進む道を決めようとするのは、本当に正しいことなのだろうか。
昨日、美雪は俺に言ってくれた。
自分の人生を、俺の都合で決めないでほしいと。
だからこそ、俺も彼女の気持ちを大切にしたいと思った。
それなのに、彼女自身は、自分の未来をどこまで自由に選べているのだろう。
「……でも、私にも自分で考えて決めたいことがあります」
口にしてから、しまったと思った。
いつもの美雪なら、こんな言い方をするだろうか。
電話の向こうが静まり返った。
やがて、父親がゆっくりと口を開いた。
『最近、ずいぶんと自分の意見を言うようになったな』
「……」
『いい傾向だ。自分の考えを持つことは大切だからな』
意外な言葉だった。
しかし、次の一言で、そのわずかな安堵は消えた。
『だが、世の中には、自分の希望だけでは決められないこともある』
穏やかな声だった。
それなのに、反論を許さない響きがあった。
『選考については、こちらでも話を進めておく。君は結果を出すことだけを考えなさい』
「……わかりました」
結局、俺はそう答えることしかできなかった。
通話が切れたあとも、しばらくスマートフォンを耳に当てたまま立ち尽くしていた。
夕暮れの街を、人々がそれぞれの帰り道へと向かっていく。
誰もが、自分の行き先を知っているように見えた。
けれど、俺にはわからなかった。
美雪の父親は、本当に彼女のためを思っているのだろう。
少なくとも、本人はそう信じているはずだ。
それでも、娘の意思を聞かずに未来を決めようとすることが、本当に彼女のためになるのだろうか。
俺には、答えが出せなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
今回の映像制作プロジェクトには、俺たちが知らない事情がある。
そして、その事情は、美雪の将来と深く結びついているのかもしれない。
* * *
同じ頃。
大学近くのカフェでは、黒神蓮が父親と向かい合っていた。
窓際の席には、夕暮れの光が差し込んでいる。
テーブルの上には、二人分の飲み物と、何枚かの資料が置かれていた。
「……それで、話って何?」
蓮が尋ねると、父親は手元の資料を開いた。
「来週の映像制作プロジェクトについてだ」
「それなら、昨日も聞いたよ。俺、オーディションを受けるつもりだから」
「そのことだ」
父親は資料の一枚を取り出し、蓮の前に差し出した。
そこには、企画に関わる企業や協力者の名前が並んでいた。
蓮は何気なく目を走らせた。
そして、ある名前のところで視線を止めた。
「……才園寺?」
「そうだ。才園寺家は、今回の企画に協力している」
「美雪の家が?」
「ああ。以前から付き合いがある」
蓮は、もう一度資料に目を落とした。
「でも、どうして大学の学生向け企画に?」
「将来性のある若者を支援するためだ。才能のある人間には、早いうちから機会を与えたほうがいい」
父親は淡々と答えた。
「特に、才園寺家の娘には期待がかかっている」
「……美雪に?」
「ああ。彼女が選考に参加することも、すでに話に出ている」
蓮の表情から笑みが消えた。
「ちょっと待ってよ。選考って、オーディションだろ? 実力で決めるんじゃないの?」
父親は、静かに蓮を見た。
「もちろん、最終的には作品にふさわしい人間を選ぶ」
「最終的には、って……」
「蓮。お前はまだ、世の中の仕組みを知らない」
声を荒らげたわけではない。
むしろ、父親の口調は落ち着いていた。
だからこそ、その言葉には妙な重みがあった。
「才能だけで、すべてが決まるわけではない。人脈も、環境も、機会も必要だ」
「……」
「お前にも、その機会をつかんでほしいと思っている」
蓮は黙り込んだ。
父親が自分の将来を心配していることは、理解していた。
俳優になりたいという夢も、頭ごなしに否定されているわけではない。
むしろ、父親はその夢を応援してくれているのだと思っていた。
それなのに、今回の企画には、何か引っかかるものがあった。
美雪の家が協力している。
父親も、その事情を知っている。
しかも、美雪の参加は、すでに関係者の間で話題になっているという。
それでは、オーディションとは何なのだろう。
最初から誰かのために用意された席があるのだとしたら、自分たちが努力する意味はあるのだろうか。
「親父」
「何だ?」
「俺は、自分の演技で選ばれたい」
蓮は、父親の目をまっすぐに見つめた。
「誰かが話を通してくれたからじゃなくて、俺の演技を見た人が、俺と一緒に作品を作りたいと思ってくれるようになりたいんだ」
父親は、しばらく蓮を見つめていた。
「……そうか」
「だから、俺のために余計なことはしないでほしい」
蓮は資料を閉じた。
「俺は、自分の力で挑戦するよ」
それは、父親に反抗したいからではなかった。
自分がどこまで通用するのか、確かめたかったのだ。
たとえ結果がどうなろうと、自分の力でつかんだものなら、胸を張れる。
逆に、誰かに用意された結果では、きっといつまでも納得できない。
父親はすぐには答えなかった。
カップの中で、冷めかけたコーヒーが静かに揺れていた。
その沈黙の意味を、蓮はまだ理解できていなかった。
* * *
午後八時。
自宅に戻った俺は、机の前に座り、美雪にメッセージを送っていた。
『今日、お父さんから電話があった』
送信して間もなく、返信が届いた。
『何を言われたの?』
『映像制作プロジェクトの選考に必ず参加しろって。関係者にも話を通してあるって言ってた』
そこで、返信が途切れた。
俺はスマートフォンを見つめた。
何か、まずいことを言ってしまったのだろうか。
そう考え始めた頃、着信音が鳴った。
美雪からの電話だった。
「……もしもし」
『春馬、本当にそう言ったの?』
美雪の声は、いつもより低かった。
「うん。俺も驚いたよ。どうしてお父さんが企画のことを知っているのか、よくわからないんだ」
『……そう』
「美雪?」
呼びかけても、すぐには返事がなかった。
『ごめん。少し、考えさせて』
その声には、明らかな動揺があった。
「何か知ってるのか?」
問いかけたあと、俺は少し後悔した。
彼女が話したくないのなら、無理に聞き出すべきではない。
そう思った矢先、美雪が小さく息を吐いた。
『……お父さんは、昔から私の進路に口を出す人なの』
俺は黙って耳を傾けた。
『何を勉強するのか。どんな人と付き合うのか。どんな仕事に就くのか。私が自分で決める前に、いつも答えを用意しているの』
美雪の声は、静かだった。
けれど、その静けさの奥には、長い間押し込めてきた感情があるように思えた。
『お父さんは、私のためだと言う。でも……自分の人生なのに、自分で選んでいる気がしないときがある』
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
俺は、美雪のことを何もわかっていなかったのかもしれない。
美しい容姿。
裕福な家庭。
周囲から寄せられる期待。
俺とは違う世界に生きている人。
そんなふうに考えていた。
けれど、その世界には、俺からは見えない苦しみがあった。
誰かに期待されることが、必ずしも幸せとは限らない。
大切にされているはずなのに、自分の気持ちを置き去りにされてしまうこともある。
「……美雪」
『何?』
「君がどうしたいのか、ちゃんと聞きたい」
電話の向こうが静かになった。
「お父さんがどう言うかじゃなくて、周りが何を期待しているかでもなくて。美雪自身が、どうしたいのか」
『……』
「俺は、君の代わりに人生を決めたくない。でも、君が自分で決めたいと思っているなら、その気持ちは大切にしたい」
口にしてから、俺は昨日のことを思い出していた。
美雪が、俺の本当の気持ちを聞かせてほしいと言ってくれたこと。
自分の望みを隠してばかりいる俺を、彼女が真剣に見つめてくれたこと。
あのとき、俺はようやく、自分の気持ちを言葉にすることができた。
だから今度は、俺が彼女の言葉を聞きたかった。
「……俺にできることがあるなら、言ってほしい」
長い沈黙のあと、美雪が小さく答えた。
『ありがとう』
その声は、かすかに震えていた。
『私、ずっと……自分が何をしたいのか、考えないようにしていたのかもしれない』
俺は何も言わず、彼女の言葉を待った。
『お父さんに反対されるのが嫌だった。期待を裏切るのも怖かった。だから、最初から自分の希望を言わなければいいって思っていたの』
美雪は、一度言葉を切った。
『そうすれば、少なくとも誰かを失望させずに済むでしょう?』
その言葉が、胸に刺さった。
誰かを失望させないために、自分の気持ちを諦める。
俺も、同じことを繰り返してきた。
誰かに迷惑をかけたくない。
嫌われたくない。
傷つきたくない。
そうやって、自分の気持ちを後回しにしてきた。
けれど、それでは何も変わらない。
『でも、今は少しだけ、自分で選んでみたい』
美雪の声に、かすかな力が戻った。
『映像制作プロジェクトには参加する。お父さんに言われたからじゃなくて、自分で決めるために』
その言葉を聞いて、俺は自然と笑みを浮かべていた。
「……うん。それがいいと思う」
『でも、もし失敗したら……』
「そのときは、また考えればいいだろ」
俺は、なるべく明るい声で答えた。
「一度失敗したくらいで、人生が終わるわけじゃないんだから」
『……春馬って、ときどき不思議なことを言うね』
「そうか?」
『うん。でも、今の言葉は好き』
「……っ」
心臓が跳ねた。
好き。
たった二文字の言葉なのに、どうしてこんなにも意識してしまうのだろう。
今の言葉に、特別な意味なんてない。
きっと、美雪は俺の考え方を好きだと言ってくれただけだ。
わかっている。
わかっているのに、胸の奥が落ち着かなかった。
「と、とにかく! 明日も大学で話そう!」
『……ふふっ。そうね』
美雪の笑い声が聞こえた。
それだけで、さっきまで胸の中にあった不安が、ほんの少しだけ和らいだ。
電話を切ったあと、俺はしばらくスマートフォンを見つめていた。
彼女の本当の気持ちを、少しだけ知ることができた。
それが、うれしかった。
そして、これからも彼女の気持ちを知っていきたいと思った。
彼女が何を望み、何に悩み、どんな未来を選びたいのか。
今度こそ、目をそらさずに。
* * *
翌日、午前九時。
大学の講義棟前で、蓮が俺を待っていた。
「美雪、ちょっといいか?」
「どうしたの?」
蓮は周囲を見回し、人通りが途切れたところで口を開いた。
「今回の映像制作プロジェクト、少し気になることがあるんだ」
俺は表情を引き締めた。
「気になること?」
「うちの親父が、才園寺家とつながっているらしい」
「……!」
昨日の電話が、頭をよぎった。
「美雪のお父さんも、今回の企画に関わっているみたいなんだ」
「どうして、それを?」
「親父から直接聞いた。才園寺家が企画に協力しているらしい」
やはり、偶然ではなかった。
俺が昨日感じた違和感は、間違っていなかったのだ。
「蓮。お前のお父さんは、どこまで知ってるんだ?」
「詳しいことはわからない。でも、一つだけ決めてることがある」
蓮は、まっすぐに俺を見た。
「俺は、自分の演技で選ばれたい。誰かに話を通してもらうんじゃなくて、自分の力で挑戦したいんだ」
「……うん」
俺は静かにうなずいた。
「私も、自分の力で挑戦したい」
そう答えながら、美雪の言葉を思い出していた。
彼女もまた、誰かに決められた未来ではなく、自分で選んだ未来を歩きたいと願っている。
ならば、俺にできることは一つだ。
彼女の気持ちを無視せず、二人で考えながら進んでいくこと。
「じゃあ、決まりだな」
蓮が笑った。
「何が?」
「俺たち、絶対にいい演技をしようぜ。誰かの期待に応えるためだけじゃなくて、自分たちが納得できる演技をするんだ」
その言葉に、俺も自然と笑顔になった。
「そうだね」
蓮は、いつもまっすぐだ。
自分が信じたことを、迷いながらでも言葉にする。
その姿を見ていると、俺も少しだけ前向きになれる気がした。
二人で並んで、講義棟へと歩き出す。
けれど、胸の奥には、まだ一つの疑問が残っていた。
なぜ、美雪の父親はそこまで彼女を企画に参加させたがるのか。
なぜ、蓮の父親まで関わっているのか。
そして、あの黒い車の男は、本当に美雪の父親だったのだろうか。
考えれば考えるほど、疑問は増えていく。
それでも、今はまだ、答えを急ぐべきではない。
まずはオーディションに向けて、自分にできることをする。
その先に何が待っているのかは、まだわからない。
けれど、何も知らないまま誰かに未来を決められるのだけは、もう嫌だった。
* * *
その夜。
才園寺家の邸宅では、美雪の父親が書斎に座っていた。
重厚な机の上には、映像制作プロジェクトの資料が広げられている。
出演者の募集要項。
選考の日程。
協力企業の一覧。
その一つ一つに目を通したあと、父親は資料の隣に置かれた一枚の写真を手に取った。
幼い頃の美雪と桜。
二人は並んで笑っていた。
その後ろには、今よりもずっと若い父親の姿がある。
写真の中の自分は、今よりも穏やかな顔をしていた。
父親は、しばらく写真を見つめていた。
「……今度こそ、間違えるわけにはいかない」
低くつぶやいた声が、静かな書斎に落ちた。
そのとき、扉がノックされた。
「お父さん、まだ起きているの?」
桜の声だった。
父親は一瞬だけ表情を変え、写真を机の引き出しにしまった。
「ああ。少し仕事をしていただけだ」
「美雪のこと?」
父親の手が止まった。
桜は、静かに部屋へ入ってきた。
「最近、美雪が変わった気がするの」
「……そうか」
「前よりも、自分の気持ちを話すようになった。昔は、何か聞いても『大丈夫』って答えることが多かったのに」
桜は、父親の向かい側に立った。
「私は、今の美雪のほうが好き」
父親は何も答えなかった。
「でも、お父さんはどう思ってる?」
その問いに、父親は視線を落とした。
娘の変化に気づいていないわけではなかった。
むしろ、最近の美雪の言動には、以前とは違うものを感じていた。
自分の意見を口にするようになったこと。
何かを決める前に、立ち止まって考えるようになったこと。
そして、自分の思いどおりには動かなくなり始めたこと。
それらを、彼はどう受け止めればいいのかわからなかった。
「……私は、あの子の将来を考えているだけだ」
ようやく口にした言葉は、ひどく頼りないものだった。
「うん。お父さんが美雪のことを大切に思っているのは、私も知っているよ」
桜は、静かにうなずいた。
「でもね、美雪の人生は、美雪のものだよ」
その言葉が、書斎に落ちた。
「どれだけ心配でも、どれだけ大切に思っていても、本人が何を望んでいるのかを聞かなかったら……それは、本当に美雪のためなのかな」
父親は目を閉じた。
反論することはできなかった。
娘の将来を守りたい。
その思いは、嘘ではない。
けれど、守ることと、すべてを決めてしまうことは同じではない。
そんなことは、彼自身もわかっているはずだった。
「……わかっている」
父親は、小さな声で答えた。
しかし、その表情には、まだ何かを恐れているような影が残っていた。
桜はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、父親の顔を静かに見つめていた。
やがて、彼女は扉のほうへと向かった。
「お父さん」
「何だ?」
「今度は、美雪の話をちゃんと聞いてあげてね」
そう言い残し、桜は書斎を出ていった。
扉が閉まる。
再び、部屋に静寂が戻った。
父親は引き出しを開け、先ほどの写真を取り出した。
幼い美雪と桜。
何も知らず、ただ笑っていた頃の二人。
彼は写真の端を指でなぞった。
「……私は、どうすればよかったんだ」
その問いに答える者は、誰もいなかった。
窓の外では、春の夜が静かに更けていく。
そして、彼の知らないところで、美雪は少しずつ、自分の人生を自分の手に取り戻そうとしていた。
* * *
誰かの未来を守りたいと願うことは、決して悪いことではない。
けれど、その人のためだと言いながら、本人の声に耳を傾けなければ、いつの間にか大切なものを見失ってしまうのかもしれない。
春馬は、自分の気持ちを言葉にすることを覚え始めた。
美雪は、自分の未来を自分で選ぶことを考え始めた。
蓮もまた、誰かに用意された結果ではなく、自分の力で夢をつかもうとしている。
三人が進もうとしている道は、まだ決して平坦ではない。
映像制作プロジェクトに隠された思惑。
美雪の父親が抱えている過去。
そして、翔也が誰にも打ち明けられずにいる秘密。
どれも、まだ答えの出ていない問題だった。
それでも、少しずつ何かが変わり始めている。
自分の気持ちを伝えること。
相手の言葉に耳を傾けること。
そして、誰かを思いやるあまり、自分自身の願いまで諦めないこと。
それは、簡単なようでいて、とても難しい。
けれど、だからこそ、選ぶ意味があるのだろう。
来週、春馬たちはオーディションに臨む。
そこで何が起こるのか。
誰が選ばれ、誰が涙をのむのか。
そして、この企画に隠された本当の目的とは何なのか。
まだ、誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは、誰かに決められた未来ではなく、自分で選んだ未来へ進もうとする者たちが、ここにいるということだった。
その選択が、どんな結末につながるのか。
春馬も、美雪も、蓮も、まだ知らない。
けれど、選択のときは、確実に近づいていた。
* * *
その頃。
翔也は、自分の部屋でスマートフォンを見つめていた。
画面には、以前届いた一通のメッセージが表示されている。
送り主の名前を見るたび、胸の奥が落ち着かなくなった。
「……どうして、今になって」
小さくつぶやき、画面を閉じようとする。
けれど、指が止まった。
陽真には、まだ話していない。
美雪に伝えるべきかどうかも、決められずにいた。
このメッセージを見せれば、何かが変わってしまうかもしれない。
今まで保たれていた関係が、元には戻らなくなる可能性だってある。
それでも、このまま何もなかったことにはできない気がしていた。
翔也は、もう一度メッセージを読み返した。
何度読んでも、そこに書かれた言葉は変わらない。
変わらないのは、画面の中の文字だけだった。
それを知った自分の気持ちは、もう以前と同じではいられなかった。
「……いつ話すべきなんだろうな」
誰に向けるでもなく、そうつぶやく。
そして、画面を見つめたまま、もう一度だけ名前を口にした。
「陽真……お前、これを知ったらどうするんだろうな」
返事をする人はいない。
ただ、静かな部屋の中で、スマートフォンの光だけが彼の顔を照らしていた。
この秘密が、いつまでも隠されたままでいられるとは思えなかった。
いつか明らかになる真実は、陽真と美雪、そして翔也自身の関係を大きく変えることになるのかもしれない。
それでも、今はまだ決められなかった。
話すべきなのか。
もう少し待つべきなのか。
翔也は答えを出せないまま、スマートフォンを伏せた。
誰にも知られないまま、秘密だけが静かに時間を重ねていく。
けれど、いつか必ず、その扉を開かなければならない日が来る。
翔也は、まだその覚悟を決められずにいた。
第16話 終




